Thursday, July 26, 2007

[Book] 敗北を抱きしめて embracing defeat

[本] ダワー,ジョン. 2004. 『敗北を抱きしめて(増補版)』. 岩波書店.
[Book] Dower, John W. 1999. Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II. The New Press.

しばらく前の『スター☆スタジオ(Inside the Actors Studio)』のゲストがサルマ・ハエック(Salma Hayek)だった。知的な受け答えとチャーミングさに私はすっかりファンになってしまった。瞳の輝きも生き生きとした表情も気さくさも凄く素敵な女性だ。ラティーノであることが格好良いことになる前の米国で、彼女が女優として活動することがどう難しかったか、英語の訛りがどれだけハードルを上げたかについて聴衆から質問が飛んでも、あっけらかーんと笑いながら答えていく。知的で芯の強い女性だなぁと感心してしまった。

ただ一つ、私には頷けない返答が終盤にあった。それは、「正しければ、必ずそれがいつか「ついに(eventually)」認められて生き残る。」というもの。「正義は勝つ」ってわけだ。 私はそうは思わない。

世の中には正しかった者が死に絶えて忘れ去られたような戦いが沢山ある。
ICJをはじめ世界中が正義はニカラグアにあったと認めても、彼らの破壊された国も経済も人の心も見捨てられたままだ。何の償いもされずただ無視されている。正義の鉄槌だった筈のコソボ空爆が大して正義に適ってはいなかったとわかってセルビアの死者は蘇るのか。絶滅した原住アメリカ人の部族は正しくなかったのか。タリバンに破壊された仏像はいつか遠い将来「ついに」その姿を取り戻すのか。

馬鹿を言って貰っては困る。彼らは正義の下に消えたのではないし、彼らにはNemesisすら微笑んだとは思えない。実に「憎まれっ子世にはばか」っているではないか。正しい者が汚泥と屈辱の中で死に絶えることは確かにある。ざらにある。だからこそ人は今この一瞬の自分の判断を大切するのではないだろうか。

「正義はいつか勝つ(だから今を耐え忍べ)」なんて、
メロドラマティックに酔いしれるのも説教たれるのも無責任極まりないと思う。
村女を火あぶりにして、生きていられたら無実だと言う魔女裁判のようなものだ。
正義は約束されていないからこそ追い求める意味がある。

が、困ったことにディベート仲間にこの手の説教を喰らう頻度は非常に高い。
確かに私はイラチだと思うが15年で遅々としか進まなければ苛立って何が悪い。
一体なんだって未来は薔薇色だと信じられるのか。根拠は何なのだ。
(特にT、読んでるか,ちくしょー。)

大の大人が「正義は勝つ」と言う時のあの途方もない単純さは何なのだ。
Hope is not a strategyって誰の台詞でしたっけ?とにかくその通りだ!!

ことによると、何が正義なのか、を一義的に決めることはできないという良心(その良心は大変尊いと思う)が、母なる自然に任せて生き残ったのが正しいものなのだとか、歴史が裁くのだ、とか思わせるのかもしれない。もしそうならすっとこどっこいな話だ。いつから自然淘汰は倫理と関係があるのだ。(Tよ,君の大好きなクジラは倫理的に腐敗していて邪悪だから絶滅の危機にあるのか?)

ダワーのこの本は誠実な本だと思う。特にその冒頭の「日本の読者へ」の文章を読んで、私は上下2巻にわたるこの本を読む気になれたと思う。


ただ,日本の近代化(特に明治維新)の解釈については異論を唱えたい.明治維新が日本の伝統を捨て軍事に傾倒させた,と言われればまあそうかもしれないが,当時の日本を取り巻いていた状況を忘れているようにも思う.幕府が士農工商エタ・ヒミンの身分制度の基に統治していた時代のほうが「美しかった」とか言うのであれば,下らないの極地だ.ラスト・サムライの世界へ行って来いって感じ.(あの映画はそこら辺苛々しますよね.あれじゃモデルにされた西郷隆盛が可哀想)

ところで,近代日本にとって不平等条約の要は『関税自主権』と『治外法権』だった。私は最近、こういう単語が出てこない大学生と過ごしている。数学や国語力の低下が問題となっているが,できれば社会科教育も改善して欲しいと思う(英語力は急激に上がっていますけどね.凄いですよね).コソボ独立,スーダンやソマリアへの武力介入,南太平洋諸国の治安,日本の憲法論議,米イラン外交・・・国家の主権について語らなければならないディベートは広範にわたる.しかし治外法権という言葉に首を捻る人と国家の「主権」について議論するのは骨である。

Tuesday, July 24, 2007

バイバイ,エンジェル Bye-bye, Angel

笠井潔の同タイトルの小説を読んだ時,その青臭さに溜息をついた時,一体私はどんな貌をしていたのだろうと薄ぼんやりと思う.真面目に考えること自体不可避的に青臭いのさ,と言われればそんな気がしてくる.LBとかそういう風に考えているのかな.彼は読みにくいからな,何とも言えないけど.

今日の試合は投票義務化と階級別相撲.
「この道ーはー,いつか来たみーち」
の割りに意外に楽しかった.
とりとめのないくだらなさ7割,真面目3割くらいが丁度良い.
普段の私なら逆の配分好みかな.
そしてそれはまだまだ青臭いかも.

ルムンバの叫びを1/4くらい観た.
1/4で止めたのは作品が気に入らなかったからではない.
すっかりのめりこみ始めたところで外野に負けた.
外野の野次が私の気力をすっかり薙いだ頃,残ったのは
「コミュニケーションとは何か」という学部1年の授業のような問いだったように思う.

コミュニケーションとは何なのか...
教授が板書した『他者』と書かれた円を思い出す.
ああ,どうも抽象化されていけない.
半分酔っ払った頭ではあるけど,書いておきたいような気もする.
酔ってる時の常で他人様の目に触れることをイマイチ考慮しきらないで書いているので申し訳ない.純備忘録的.

何が問題なのかズバッと書くのは難しいけど,
つまりはコミュニケーションの価値とフェアネスの問題だと思う.

まず師弟関係.
Yちゃんの件に関しても思うのだが師弟のパートナーシップというのは
どこまで「パートナーシップ」と呼べるのか.
師弟関係で捉えること自体がBBの言うとおりinsulting!とも言える.
それは・・・・・・うん,私自身そう感じたものなぁ・・・・・・
これまでに具体例として引き合いに出たのはMNだったわけだが,
もっとコミュニティ全体に一般化して議論すべきか.
Yちゃんのような例はどこに位置づけられるのか.
ていうかTはいつになったらこの師弟関係で捉えること自体が本末転倒という話を分かってくれるのか.いい加減苛々するーっつーの.何年同じこと繰り返し議論してんのさ,あたしら.

次,ちくしょう,またか.言語の壁問題.
友情に国境はない・・・ような気がする.
しかし言語の境はあるような気がする.
恋愛に言語の壁はない・・・かどうかLと春先ラブ・アクチュアリィ観てて話になったけど,あたしゃもういっそないような気がします.・・・が,友情にはある気がする.
違いに価値があるとかいう正論ぶちかまされて腹が立つのは地に足がついてないように思うからか.

細かいことを言えば,誰かに代弁/代表してもらうんじゃない,
自分で自分を代表しろ,と言われた時のあの突き上げるような無常感.
何故いまもって共有できないのか理解に苦しむ.矛盾してないか,それ.
理解し合う日はないのだと一方で言い,もう片方で違いを理解することが価値だと言い.
何故それが強者の狡さだと分かって貰えないのだろうか・・・

負担の分配について.
愛は労働を無料で提供させる魔法の呪文だと言ったのはO教授.
あの授業面白かったなぁ.
友情を,大雑把に言って愛情の一種だと考えて,
友情の「ために」コミュニケートする,というのはアリだろうか.
あるいはコミュニケートすること自体が核となる友情というのはアリだろうか.
・・・アリかもしれないな.世間一般での友達関係はそういうものなような気がする.
しかしそれは愛情・友情においては構造的に強者が有利ということか.
フェアネスの議論とはほど遠いな・・・

結局,コミュニケートする・しないことによる損得は両者にあったり一方にあったりしても,
する・しないを選ぶスイッチはいつも弱者の側にある.
弱者は不公平な喧騒と静寂の死(あ,いえ,本当の死じゃなくて比喩的なね.言語の死滅とかね)を選ぶことができる.死は常に弱者にとって魅力的な復讐手段になる.歪んだ愛情でも唯一希望を持つ道になる.私がTに対してこれを切り札として使いたい誘惑に駆られるのはLBやLPにも当てはまるか.…当てはまらないな….何故当てはまらないのか.友情関係の種類と質量のどっちに起因するのか.あ,考えるとやな感じ….幼稚だなぁ,自分.

・・・今読み返して思ったけど,酔いが冷めてから読んだら自分でもわからんわ,おそらく.これ.
まいったな,言語化しにくいからって与太話になっちゃいかんな・・・具体的な話は明日にまわそうっと・・・おやすみなさい・・・

Saturday, July 21, 2007

選挙広報を読んで Reading Election Publicity

特定の支持政党を全く持たない私にとって悩ましい季節がやってきました.
あーーーー選挙まであと一週間くらいかぁ・・・
比例代表もあるということは政党の方も選ばないとですよねぇ.やれやれ.
とりあえず配布された選挙公報を読んで・・・と.

・・・・・・・・・・・・?

・・・いつから選挙公報は笑いをとるものになったのでしょうか?
可笑し過ぎるだろう,これはいくらなんでも.

■地区候補編■

- 鈴木信行(維新政党「新風」公認・41歳・男性)
・・・まず「維新政党」って何?江戸時代なの?これから明治なの,ねぇ.
それって民主主義は何処行っちゃうの,陛下にお出まし願うの,ねえ.
極めつけがデカデカと横書きされたスローガン.
「めざせ核武装!美しい国より強い国!」
・・・・・・・・・すみません,入れられません・・・.

- 和合秀典(新党フリーウェイクラブ・65歳・男性)
誰だろう・・・こんな党あったっけ・・・と思いながら本文へ.
「首都高の無料化の波を全国へ」
・・・あっ!!!あの高速料金を踏み倒す奇妙なテロの犯人!!!!
・・・ていうか法を破って反省の色なし・・・という人が法律作る側に回って良いの??
つうか高速料金をただにすれば皆が大移動を開始,通勤圏内が百キロになるって・・・
それが本当なら大渋滞では・・・?ていうか誰が百キロ毎朝運転したいの・・・?
ごめんなさい,とても入れられません・・・

- 神田敏晶(無所属・45歳・男性)
無所属か.気持ち的には楽だな.で,政策は・・・?
「インターネットによる選挙を今すぐにでも解禁!」
・・・・・・.え,あの,他のことは・・・?
参議院って選挙のやり方を考えるところだったの・・・・・・?
ここはバングラディッシュ?
税制・経済・福祉・教育・憲法など主要トピックをバッサリ切り捨てIT化に特化.
うーーーん・・・・・・
政府のIT化諮問委員会に入っていただくとかならまだしも参議院は違わないですか.
・・・ごめんなさい,やっぱり入れられません.

- 中村慶一郎(国民新党公認・73歳・男性)
私・・・国民新党には入れられません.いや,ホント.
まあでも一応読んでみるか・・・.
「5ない主義: ウソをつかない,威張らない,政治資金をごまかさない,
ポストを追わず求めない,贅沢をしない」
・・・・・・小学校の学級委員長選挙じゃないんですから・・・・・・
「私の好きなこと: 新聞・雑誌・本を読むこと,各地の仏像を拝むこと,テレビで大相撲を見ること」
・・・・・・あの・・・お年寄りのお見合い用自己紹介じゃないのですから・・・・・・
ごめんなさい.やっぱり入れられません.

- すずきかん(民主党・43歳・男性)
うーん・・・標語自体はどれも結構まともなんだけど・・・
・・・民主党かぁ・・・・・・.小沢さんじゃなければなぁ・・・・・・.
(憲法関連ですっかりフリップフロッパーのイメージが着いてしまったし)
あと政策の説明がやけに抽象的なので空約束にならないかと不安.
まあ,しかし今までの中では比較的まとも.
民主党なのがまだひっかかるので保留.

- マタヨシ光雄(世界経済共同体党・?歳・男性)
世界経済共同体党って何・・・?と思いつつ本文へ.
「神とは,宇宙万物そして人類を創造し,天国と地獄も創り・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?
ちょっと目が虚ろになってしまったので後半へ飛んでみる.
「真実・心理・正義の唯一神又吉イエスに,日本の政治を任せよ」
・・・・・・・・・・えっと,又吉さんってばイエスでかつ絶対神なんですか・・・?
あの・・・えっと・・・「父(神)と子(イエス)と精霊って別々では」とか
細かく突っ込むほど動揺しちゃいますよ?
・・・・・・無理です.ゴメンナサイ.ていうか心臓に悪いです.

- ドクター中松(無所属・?歳・男性)
あははははは.まだ出てるんだぁ.
小学生の頃選挙カーが塾の近く走ってたなぁ.
どれどれ・・・
「日本を救うには,改革ではダメで,抜本的にやり直す「政治の発明」が必須です.それは私にしかできません.現在筋トレで五十トン持ち上げる体力を持っています.」
・・・・・・・・・あの,五十トンって・・・・・・?
ていうか政治の発明とどう関係が・・・
ていうかそれ,人間じゃないですよね・・・?
「日本の良さを世界にPR.・・・ハリウッドの『ドクター・中松ストーリー』映画で日本の良さを世界中に知らせます」
・・・・・・・・・それ,日本の良さじゃなくて中松さんの良さですから.
ていうか参議院の審議と全然関係ないですから・・・
政策説明はどれもこれも抽象的過ぎて却下です.
ごめんなさい,入れられません.

- マック赤坂(日本スマイル党・58歳・男性)
・・・・・・スマイル党?なんだか嫌な予感がするなぁ・・・
「スマイルパワーにより美しい日本人を再生しましょう」
・・・・・・・・オノ・ヨーコさんの「念力で世界を平和にしましょう」の仲間?
「プロフィール: ネイルサロン・エステサロンを経営.美容研究家」
・・・・・・美しい日本人って容姿の美しさだったの・・・・・・?
えっと・・・参議院って国民の美容問題も審議すんの・・・?
あの,なんか色々混乱したんで無視してもいいですか・・・ごめんなさい.

・・・なんかそろそろ読むの疲れてきたなぁ.
普通の本を読むときにはないこの疲労感は一体何・・・・・・

- 沢田哲夫(無所属・76歳・男性)
「混迷時代に救世主出現!!
社会科学的頭脳の遺伝子を持った男・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・.
もう突っ込む気力すら残りません.

無理,ホント,無理.
どうしてこういうネタとしか思えない候補者が8割なの?

しっかし,男性の平均寿命が78歳とかの時に
平均寿命に近かったり過ぎてたりする候補って多いんですね.
健康面で大丈夫なのかなぁ.議員さんの仕事って本来凄く忙しいものでは?
あと女性もやっぱり少ないですね・・・18人中5人かぁ・・・

上に挙げていない候補者は他に11人いますが,
突っ込みどころは上ほど凄くないが
(東條さんの「教育:皇室を中心に愛と祈りの中に」は唖然ですが)
政策の具体性はイマイチだったり,
やたら個人の体験に偏っていたりというのも共通.

とりあえず上の「すずきかん」さんを含め保留者3名から選ぶしかなさそうです.
ああ,気が重いなぁ・・・
とりあえず8割の「問題外」候補者がいなければ
もっと実のある比較が出来るような気が・・・します.

Friday, July 20, 2007

임진강,臨津江,イムジン河, Imjin River

久しぶりにドキュメンタリー『38度線』を観ました.企画・製作は韓国国防部というこの作品,私は結構勉強になって好き.このDVDもかなりの回数観ています.SBSで放映された原題は『休戦線を語る』だったとか.ハングルでどう書くのか知りたいです.

観ている途中で母が突然唄を歌い始め,一体何ごとかと思ったら,イムジン河と聞いて同タイトルの昔流行った歌を思い出したのだそう.そのメロディがあまり綺麗なのでちょっと調べてみました.どうやらそもそもは北朝鮮の歌で,日本語版は放送禁止になったもののようです.

放送禁止になった経緯がWikiに割と詳しく載っていました.日本のフォークグループが朝鮮学校の友達から教わった曲を和訳して歌ってレコードまで出してしまったという話に当時の著作権への意識の低さを感じます.

そもそもの原詩と訳詩を対応させて載せているのは下のサイト.
http://protestsongs.michikusa.jp/korean/imjin-river.html

ハングルでの歌声が聴けるのは以下のサイトだが歌詞がどれなのかは私には分かりません.
http://blog.daum.net/jesong21/4161075

DVD『38度線』の中で,日本軍の降伏があと2ヶ月早かったら分断されなかった,あと2ヶ月遅かったら分断されたのは朝鮮ではなく日本だった,というシーンがあり考えさせられます.あちらから見るとそういう風に見えるんですね,なるほど・・・.そういうお互いの視点ってお互いに勉強できると良いですよね.教材ももっとあると良いのに.

同じくドキュメンタリー映画『送還日記』(原題:송환,英題:Repatriation)も凄く観たいのですがまだ観れていません.うぬぬ・・・
http://www.cine.co.jp/soukan/index.html

WSDCでは観光ツアーでDMZにも行ってきたそうで.私は遅れて着いたので行き損ないました.行きたかったなぁ.また折角韓国に友人を持つ機会が与えられているのですから,できるだけ話を聞いておきたいなぁと思いました.今回の豪亜大会では怠け者だった自分を反省です.

Thursday, July 19, 2007

believing in it?

豪亜大会も終盤,Tと「ディベートをまだ信じるか」という話をしました.
同病相哀れむというか,ディベート教に入信したのが正しかったのかという
かなり根本的な疑問を今更語り合ういい歳になった二人・・・良いのかそれで.
(そして気がついたら周りに日本人勢ぞろいしていてビックリしました.全員集合.
何か妙な哀しさの中の嬉しさを感じました.説明しにくいけど.
しっかし皆Tが好きなんだねぇ・・・(ほくそ笑み))

そもそもバンクーバ直後に
「信じていける自信なくなってきた.
だってsilver tongueな奴の殆どは外道だもの」
と涙をポロポロ零して弱音を吐いたのは私です.
その時Tは「そんなことない」と言いました.
(しかも「俺は?」とぬかしました.笑.あんたどんだけ自信家なのよ;笑)
けど今回は流石に少し違ったみたいでした.
「ずっと,『ディベートは知る努力と考える努力と,愛する努力をすることだ』と
思ってきたけど,Dみたいな人を見るとそんなの嘘っぱちだなぁって思い知らされるなぁ」
と言う私に深く頷くTでした.

今回むこうは丁度バンクーバの私みたいな状態なんだろうな.
裏切られた感も一入だったろうと思うと,何だか申し訳なくなりました.
Lに言った私の言葉は本心です.彼は正当な報いを受けていないと思う.
「あんなに彼方此方出向いて良かれと思って頑張って,
自分が皆の助けを必要とする時は誰もstand byしてくれないなんてなぁ」
という言葉が胸に沁みました.しかも良いことをしようとしたのにね・・・・・・
正しいことを雄弁に説いたところで,人の決定が違うことに支配されているなら,
一体何のためにディベートなんてするんですかねぇ・・・
でも今回の件は私は最初から悲観的だったので,あんなに忠告したのに
予見できなかったTのナイーブさも驚きでした.余計せつないですね.
(ところでSはTが政治家になりたいんじゃないかなんて言ってましたけど,
そうですかねぇ.ていうかもしそうなら私は止めます.絶対向いてないって!!)

「少なくとも『競技』としてのディベートからはmove onするべきかなぁ」
というのが今回の共通見解だったようです.
むこうは難民に無料のディベート教室を開講してあげたりする中に,
私は子供たちの思いやる心を育てるためのディベートを模索する中に,
あざといゲームと化した競技ディベートに疲れた心を逃がしているのかもしれません.
どちらの活動も競争が小さい分,議論の技巧が犠牲になります.
競技ディベートのまがりなりにも世界最高峰と呼ばれるものを目にしてしまった私たちが,
果たしてそれで満足できるのか,競争を取り除くことが本当に答なのか,まだわかりません.
高校の時から,「勝つことよりも大切なことがある」と言い続けてきた私には,
これは馴染みのジレンマです.けどTには違う.他人事ながら心配です.

そんなことを考えながら飛行機に乗って帰ってきたら,
masashiさんのブログとDr.Epitaphさんのコメントを目にしました.
相変わらずお二人とも良いこと書くなぁ・・・(メソメソ)
昨晩は友人Jと同じようなことが話題になりました.
あっちはまだ信じるバイタリティありそうだったな.
どちらもあまりにタイムリーでせつなくなりました.

さて,明日の私は何をどれだけ信じられるのかな・・・

Tuesday, July 17, 2007

決勝を咀嚼する More on GF

1.一線のありか

なんで否定側が「一線越えている」と感じたのかを考えてみました.
どこにその「一線」があるのかな...と.
それで,人間に優劣をつけているところがアウトだったのだと思いました.

「障害があろうと,何か別の挫折をしようと,才能があろうがあるまいが,
人間は人間.命の価値は測れないし変わらない.平等に尊ばれるべき」
という形での自己肯定なら「障害(優劣)ではなく個性」という否定側主題との整合します.

が,「自閉症児の方が天才で優れているんだ.彼らが進化の最先端なんだ.
我々は彼らを羨むべきなんだ」的な方向に行くと,本末転倒です.
結局「どちらがより正しいのか」「どちらがより優れているのか」という話になってしまいます.
じゃあ他の皆をより優れている自閉症児に近づける(矯正する)べきなのか,
ということになると,「障害(優劣)ではなく個性」という主題と大きく矛盾してくるわけです.

そういうわけで,あの否定側のスタンスは戦略的にも致命的だったと思います.

2.閑話休題(国際大会の審査について)

審査員同士の投票後の話し合いでは,言葉の壁もあり(最近masakoは英語に困ってないと言われる度に居心地が悪くなる私です.壁は明確にあるのです)上手く説明できなくて苛々しました.が,前回書いたようなことが言いたかったのです.でも言葉の壁があるからこそそれでは不十分だと思います.もう一歩踏み込んで,今回書いたような形で即座に伝えられるように自分の思考力(特にスピード)を磨かないといかんなぁ,と思いました.まだ解り難い,という話もあるかもしれませんが少なくとも自分の頭の整理は今回の方がついています.

ところで決勝リーグの審査員をするというのは別に大して楽しい仕事ではありません.漫然と観客席で聞くよりは真剣みを持って聞くので理解度はあがります.だから自分の勉強の機会としては費用対効果が上がり嬉しいわけですが,まあその程度のことです.あとは他人からの評価が高かったという嬉しさでしょうけど,ぶっちゃけ「俺を決勝に残せ」的圧力をかける人もいて,もうそこまで行くとただのエゴです.私の場合,EFL(English as a Foreign Language)の審査員が豪亜大会の決勝戦を任されたのはおそらく史上初,ということでそういう自分の中でのちょっとした達成感はありましたが,これも今となっては最重要項目ではないように思います.

ではEFLの審査員にとって,現在の最重要課題と言える事は何なのか.

もちろん予選通過者をコンスタンスに出していくことは,ディベート界の中では意味があります.
予選通過審査員は「EFLは知性に問題があるわけではないのだから,語学さえ努力すれば良質の審査とパネルの多様性確保でコミュニティに貢献できる」という顔役を果たします.

けれどもっと大切なのは,ディベートという特殊なセッティングだけでなく,交渉やディスカッション,はたまた社交におけるコミュニケーションでも知識人として伍していけるという自信と自負心の形成,EFLの知性に対する他者の信頼を勝ち取っていくことではないかと思います.これは目に見えない風評の形で作られるので,より難しい課題でもあります.

そういうわけで,緊張するのは予選の審査ですが,それも豪亜大会の予選ではありません.EFLな審査員が一番神経を使う審査は世界大会の予選の審査だと思います.

何故か.理由は複数に及びます.

なんと言っても合議制であること.4チーム対抗なので合議しなければならない内容がかなり多岐且つ詳細に渡り,しかもバイナリーではないこと.そして豪亜大会に比べ,より人種・文明・宗教間対立が厳しいこと.更にEFLへの風当たりが厳しいことなどが挙げられるでしょう.(ちなみに女性であることが不利に働く可能性が高いのも豪亜大会よりも世界大会だと思います)

そして予選中は特に,こうした審査団の議論の過程がつぶさに選手・同僚もしくは部下(パネル)・上司(チェア)に観察され,常に明晰さと妥当性を採点され続ける(実際にフィードバックの点数が審査員としての昇進・降格となって反映される)ことになります.予選通過「圏内」(当選確実者ではない)の審査員は特に,こうしたテストを何重にも受けることになります.EFLや非西欧人種,自分の審査経歴をよく知っている副審査員長(つまりコネ)がいない人などは更に厳しいチェックを受けることになり,同僚や上司が意図的に配置されることも多くなります.

この状態で英語ネイティブの審査員に自分を婉曲的に認めさせるのにはかなり技術を要します.人格的なバランスを保ったまま,全く関係ない事柄を和やかに議論しつつ,目立たぬよう且つ確かに話をリードし,結果として同僚・上司・部下に「こいつ頭良い!」という強い印象を与え・・・られなければボツ,ということ.(スタート地点が悪いので,ミスしなければ良いわけではなく,積極的にプラス点を稼がないとダメ)これはディベート自体の技術よりも相当社会で使える技術だろうと思います.母語でだって難しいのに,丁寧語や敬語,婉曲表現から端的な表現,ユーモアまで駆使して社会的コミュニケーションを英語でとらなければならないわけです.ホント,選手やってる方が何ぼも楽です.(外務省や企業の研修に使えば良いのに,と本気で思います)

まあ,そういうわけなので,豪亜大会の決勝戦ごときで「上手く説明できない」とか言ってる場合ではありません.より速くより鋭く思考し,より平易に時にはより華麗に英語で表現できなければならない.数ヵ月後に一度リハビリした方が良いような気がします.

さて,言葉の壁の話が出たところで次へ.

3.置き換え

今回の論題は自閉症児についてだったわけですが,
世の中には程度の差こそあれ「障害」がありふれているように思います.

例えば自分の身に置き換えると「言葉の壁」はディベータとしての私にとって障害です.
同時に,日本語文化・メディアから得たユニークな視点がある,という意味で個性でもあります.
しかもその個性はしばしば他人には単に妥当性を欠いているだけに見えがち・・・
そう考えると何だか今回の決勝戦の内容とダブってきます.

自閉症の経験も身体上の障害の経験もありませんが,
EFL(English as a Foreign Language)としての自分に置き換えて,
肯定側・否定側の両主張をフェアだと感じるかどうか考えてみたいと思います.
直接体験がない以上間接体験(読書やヒアリング調査)と想像力で補うしかありませんので.

*勿論これは実際の決勝戦の審査内容には全く関係しなかった部分です.

肯定側は,個人の負担がきつすぎる,公的助成を与えるべきだ,というスタンスでした.
EFLとしての参加者は,なるほど相当きつい負担を強いられています.
英語自体を学ぶのにかかる労力もさることながら,メディアの壁を越えるのが一苦労です.
そのための金銭的負担も時間的負担も相当のものです.
また,確かに大会側から色々助成を受けています.
論題をプロジェクターで出すようにされていますし,
電子機器の使用禁止の中で電子辞書だけは例外となりましたし,
論題に分からない表現があれば副審査委員長に尋ねて良い事になっている場合もあります.
更にEAL(English as an Alternative Language)の決勝戦も設けられています.

さて対する否定側は,公的助成を与えると個性を否定してしまう,というスタンスでした.
論題をプロジェクターで出してあげたり,不明な表現の問い合わせを許したり,EAL決勝を開くといった救済措置を与えると,EFLに「正常化」しなければというプレッシャーを与えてしまう.また,EFLであることの素晴らしさを否定してしまう...本当はEFLの方がENLよりも天才的で特別なのだ・・・

・・・・・・うーーーーん・・・・・・

どうですかねぇ・・・それは・・・

そもそもEAL救済措置がなかった頃も「英語力を上げなければならない」「訛りを取り除きたい」「自然で伝わりやすい表現にしたい」といった『正常化』圧力はめいいっぱいあったような気がします.確かにノーマライズという表現は不穏当ですが,自分の英語をノーマライズしたいという言い方はギリギリ受け入れられていると思いますし,現実だと思います.また,EAL救済措置ができる前にEALが大切に尊重されていたかと聞かれれば明確にノーだと思います.社会の理解は放っておけば上がるというものではありません.社会構造も変えずに救済措置も与えずに「EALを尊重すべき」と言っても,現実偏見に満ちた屑ジャッジにばかりあたれば「尊重」もへったくれもありません.何よりも3キロの辞書を持ち歩くのも,論題が書き落とせずに試合会場に行くのも悲惨の極致.「そんな助けはEFLの自尊心を傷つけるから要らない」とか言うEFLがいたら「いっぺん死んで来い」ってな気分です.

ではEALは特別だENLより優れていると思うか,と聞かれればイエスと答えたい誘惑があるのも確かです.外語で知的活動を全うできるようになるには大変な努力を要します.だからこそ犠牲に見合う「特別さ」があると思いたいものです.また,バイリンガルはモノリンガルより接する情報の幅が広い分視野も広い,というのは有得ると思います.ただそちらはマルチリンガリズムであってEALとENLの対比ではありません.(ENLにも他の言語ができる人はいるだろうし,EALがバイリンガルレベルの情報収集能力を英語で持つとは限りませんので)だから冷静に考えるとノーかな.

結局,
①EALの視点はENLのそれと平等に尊重されるべき,
②社会構造がそれを許さないならアファマティブ・アクションも時には必要,
という結論に.

つまり自分の身に置き換えても否定側の議論には納得できません.

じゃあ否定側はどういうスタンスをとるべきだったのか・・・
次回はそれを考えてみたいと思います.

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1. Where was the border?

I wondered why I felt the negative "stepped too far in to that nonsense" and thought over again where the line was. And then, found that the assumption of the negative was that there are superior people and inferior ones at the end of the day. I probably found that part contradictory with other arguments from the negative. "With or without disability, coming a different sort of cropper or not, being gifted & talented or not...regardless all of such, life is life. Value of life is not measurable and should be eaually respected. " If the negative was affirming the life style of autism in that approach, I probably felt consistent with their stance that "it's not a disability but a difference." However, when they said that autism is a frontier of evolution and they are more genius than we are, it sounded a bit oddly contradicting with their stance. It sounded as if there were, at the end of the day, superior persons and inferior ones. Then, the negative claim that we shouldn't reform people didn't sound real either. So, I think those sub-arguments from the negative was strategically damaging.

2. Intermission (adjudicating international tournaments)

When we had some chats among adjudicators after voting and stuff, it was difficult for me to fully explain the things I wrote in the last post. (I feel extremely uncomfortable whenever someone says masako doesn't have language barrier anymore. I DO. I DO. I DO. How do they know what I really want to say?? So, annoying...)

Anyway, because I have the language barrier, I think I need even more effort to sharpen my ideas. What I wanted to say right after the round was like the last post. But that's not enough. I should have stepped further and gotten ready to express the above in this post IMMEDIATELY. (You might think it's not still clear enough but for me, at least, clearer and structured comparing to the last one) I really need to improve my speed of my thought precisely because I'm suffering for the language barrier.

Okay, let's move to the language barrier thing.

3. Are the arguments applicable if we replace autism with EAL?

The topic we got this time was about autistic children. But there are many sorts of "barriers" in our life everywhere. For example in my case, the language barrier is clearly a "disability" as an international debater/adjudicator. At the same time, I probably have very unique and different perspectives that I gain from Japanese language, media and culture. So, yes, my diability can be a difference. Moreover, that difference is often seen as "irrelevance" at international tournaments and diminished. I'm strongly encouraged to "normalized" my ideas and language by the tournament structure.

Perhaps, it become to sound similar to the content discussed at the grand final?
I don't have an experience as an autistic or any other physical disability.
But hope to imagine how they would feel with applying the arguments to issues as an EFL(English as a Foreign Language). When I don't have a direct experience, I believe it is important to try indirect experience (reading, hearing) and utilizing imagination.

Obviously, this part did not affect my decision over the grand final in any way.

The affirmative said that the burden on individuals (autistic kids and their families) is away too heavy and they should be supported by public fund. Hmmm... EFL participants do suffer for the burden. Learning English itself is an enormous suffer. But overcoming the media difference (= "normalizing our ideas") is even more painful. Financial burden, time we have to spend, tears and toils are indeed huge. And yes, we do have some sort of "support" by tournaments. They are now showing the motions in written form on projectors, we are now allowed to use electronic dictionaries, in some cases, we are even allowed to approach DCAs to clarify terms in motions.
And yes, there are EAL(English as an Alternative Language) Finals. I don't think they are enough "support" but let's assume they are.

Then the negative's stance was that such supports rather deminish our difference that we should rather appreciate to begin with. If they show motions on projectors, clarify terms in motions or provide EAL finals, then the tournament rather pressure EAL debaters to "normalize" them further. And they also deny how EALs are wonderful while EALs are more special and genius than ENLs.

..............hmmmmmmmm.....i...don't know...

The problem is such a "normalization" pressure was heavy even before such remedies. 9 years ago, EFLs were feeling that they have to improve their English, to ease their accents, to gain more "natural" expressions in English as heavy as today. Sure, the word "normalize" sounds very offensive. But that was and is the reality, is it not?

Further more, if somebody ask me whether our own perspectives were respected when we did not have such remedies, I would definitely say NO. Social awareness does not rise only with leaving alone. Our ideas and perspectives were ignored or deminished when we did not have the remedies, too. And what should we do if we have to face linguicism or judges without cultural awareness? Who can make sure the things would go fair? And we bring 3kg dictionaries everywhere without knowing the motion we should debate on and no insentive like EAL award was given after such tears and toils. If somebody who says we should reject such remedies and go back to that time, I wish that person was dead.

Sure, even with remedies, things are not fair at all. Why the hell do we have to express ourselves in a language we don't feel familiar at all? Why do we have to spend enormous amount of time to become communicable to English speakers while they don't make any effort to communicate us? What sort of fairness is that? Shouldn't we be appreciated exactly because of our difference? Shouldn't they know that Japanese language has unique, beautiful and rich ideas? I agree. Sure they should.

But does that mean we shouldn't get any help in communicating in English because it makes us abandon our uniqueness and Anglonize us too much? So, should we prefer not having communication with non-Japanese speakers at all in order to preserve our uniqueness? Should we keep silence until English speakers eventually become to respect our insights? (Does such a day really come someday in future? They might realize after minor languages extinct.)

Now then, how would you answer if somebody asks you whether you think EALs are more special and superior to ENLs? It's very attempting question, isn't it? Yeah, I wanted to answer Yes, if I could. Becoming intellectual in a foreign language requires pains and toils. And such experience make us feel wanting to believe that we got something special in return. But it doesn't necessarily mean we do get something special. Sure, we probably gain wider perspectives than monolingual ones because we can access wider information. But it's more about multilingualism and nothing to do with comparison between ENL and EAL. Some ENL people do have decent second languages. Some EAL speakers are not fluent enough to gain quality information in English. So, if I was asked such a question, I would have to say NO.

So, at the end of the day, I think...
1) Opinions and ideas of EAL should be equally respected (=linguistic rights)
2) If the social structure doesn't respect their liguistic rights, some affirmative actions are needed.

This is how I feel when I apply the arguments of GF to my own personal experiences.
And still feel difficult to nod for negative's argument.

hmmmm...

Saturday, July 14, 2007

今年の決勝戦 On Grand Final This Year

台風4号にビビり外出を控えたものの,関東地方はあっさり通過.
明日からは安心して出かけられそうですね.
とりあえず重曹が欲しい.

今回の豪亜大会は,肩の力を抜いて楽しむことだけを重視しました.
バンクーバのような打撃を受けるのは御免蒙りたかったので,
審査委員長団には申し訳ないけど,何も期待しないことを第一信条としたのです.
何も期待すまい,たとえタブも論題も外語性も何もかもが,
これまで築いてきたと思っていた相互理解を裏切ろうとも,
大好きな友人の表情に私が見たくないものを見たとしても,
眉一つ動かすものか,軽蔑しても詰るものかと思って参りました.
そう思わなければならなかったことは残念だけど,漸く現実的になったとも言えます.
他人様より成長に5倍ほど時間がかかる私です.
(その分老けるのも5倍遅ければ良いのにな・・・)
でもお蔭様で久しぶりに伸び伸び楽しめました.
そんな覚悟をしたのが申し訳ないほど審査委員長団も頑張ってくれていました.
最後は自分でも期待していなかった決勝戦ジャッジに選出され華も持たせて貰ったし.

さて,その決勝戦について忘れない内に書こうかな.
論題は「政府は自閉症正常化のための治療費を負担すべきである」でした.
(That governments should pay for treatments that seek to 'normalise'autism.)
肯定側にオーストラリアのクイーンズランド大学,
否定側はニュージーランドのヴィクトリア大学でした.

結果から言うと,この決勝戦は6-3で肯定側の勝ちでした.(9人ジャッジ)
私はマジョリティの肯定側ボーターでした.
ま,それはどうでも良いのですが,この票の割れ方が興味深いものでした.
肯定側に入れた6人はアジア人(内一名はマレイシア在住のイギリス人),
否定側に入れた3人はオーストラリア人(全員白人)だったのでした.
で,人種で分かれた,という話になるわけです.

実はその前の準決勝では,「闘鶏廃止」の論題で5-2で肯定側が勝ったのですが,
この時も白人勢が全員肯定側投票で,マレイシア人1名と私も肯定側ボータ.
否定側にはアジア人2名が入れていました.
で,この時「人種で分かれなくて良かった」という副審査委員長の言葉に,
「masakoはかなり白っぽいぞ」という微妙なジョークまで飛び,
いまだ残るアジア対オセアニアの構図を思い出させたのでした.

その後でこの決勝戦でしょ?
微妙ですよね.ただの偶然だったとしても.
試合の内容を加味するともっと微妙なんだな,これが.

肯定側の主張は単純で,いかにコミュニケーション能力が生活の基盤となっているか,自閉症というコミュニケーション『障害』がいかに子供の才能を開花させる上で困難をもたらすかというのを中心に据えていました.また,その上で家族の負担の大きさも語り公的負担の必要性を訴えました.

対する否定側の主張は,自閉症は『障害』ではなく『個性』であるというものでした.いかに政府による「改善治療」が社会のはみ出し者を訴追・矯正する道具となるかという話もあり,ミシェル・フーコーを彷彿とさせる内容ではあるのですがちょっと荒削りな印象でした.更に間に挟まった「自閉症は人間の進化型である」とか「自閉症は天才になれて素晴らしい」とかいうひたすらビミョーな議論がかなりフーコー的な部分の現実味を台無しにしてしまってSF化していました.政府が金を出せば「正常化」しなければならないというプレッシャーを与える,という議論も第3弁者から提示されましたが遅すぎた上に粗さが残ったと感じました.

その後,主に『障害』と『個性』の線引きを巡り熱いバトルが交わされたわけですが,ケース・セッティングについての不合意や,自閉症患者に天才が多いかどうかといったサブな論点が妙に時間を喰ったこともあり,今ひとつ議論が収斂しきらなかった印象が残りました.

さて,投票後話を聞いてみると,結局否定側に投票した審査員はフーコー的な部分を高く買ったようなんですね.つまり『正常化』を強いる事は暴力的だという発想なわけです.彼らが頻繁に例として挙げるのは「聾唖者コミュニティには豊かな表現や文化が存在するにもかかわらず社会はそれを無視しがちである」という話です.それが,彼らは『障害』を負っているのではない,賞賛すべき豊かな『個性』を授けられたのだ,という話につながるわけなんですが・・・これが「『個性』を『病』として迫害するのは未熟で野蛮な社会である」という感覚と相まって,件の「アジア対オセアニア」の構図をやっかいにします.つまり「アジアはまだ充分に文明化されていないからこうした人権問題に理解が薄い」という見下す気持ちを否定側投票者が抱いているのではないか,という憶測が生まれるわけです.これが邪推なのかはたまた的を射た推測なのかは私には分かりませんが後味が悪いのは確かです.

さて,このブログでフーコーを検索して下されば分かると思いますが,私はフーコー大好きなんですよね.その著作は殆ど読みましたが,中でも『精神疾患と心理学』は好著だと思うんです.その私が,それでも首を傾げてしまう「単純さ」がこの否定側論者にはあったように思います.皆さん如何思われますでしょうか.

随分前のことになりますが,一時期『五体不満足』という本がベストセラーになったことは覚えてらっしゃる方が多いのではないでしょうか.読んで感動されたという方も多いでしょう.「障害は個性」と言い切る乙武さんのポジティブさには私も生命の力強さを感じましたし素直に凄いなぁと思いました.同時に,その後「障害があるからこそ僕はこんなに特別なことができる.僕は他の人より優れている」というような意味の発言をテレビで観た時は,かえって悲痛さを感じてしまったのを覚えています.

「『障害』者は自分をもっと肯定的に受け入れるべきだ.素晴らしい『個性』を授かったとむしろ感謝すべきなのだ」というような発言を耳にすると,ちょっと怖くなります.フーコーの言う社会による矯正と似た構図が見えるように思います.弱者に対して「助けが欲しいなどと甘えるな.それはお前の精神がたるんどるからだ」と更に鞭打っているように思えるのです.私には大変グロテスクで不健全な発言であるように思えます.心頭滅却すれば火もなんとやらの世界のナンセンスさを感じます.否定側の「自閉症は進化の最先端でクールだ」という話はその一線を越えてしまっていたように思いました.

そんな中,「聴覚弱者が補聴器をつけるのは何故だ.目が悪ければ眼鏡をかけないか.自閉症であることを誇りに思えるのならそれでいい.でも辛い,助けて欲しいと思う時は気兼ねなく助け(ここでは政府による金銭的助成)を求めて何が悪いのか.否定側こそ自閉症児を特別視して檻に入れている」という肯定側の意見が私には素直に受け取れました.

以上が私の感想なわけですが,こうした問題に十分な知識があるとは言えません.自分の受けた印象が果たして実際に『障害/個性』を持つ方たちにとってのものと合致するのか,ご本人たちの意見を聞ける日があったら,とつくづく思いました.

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Hope to write down about the Grand Final before I start forgetting things.
Motion was "That governments should pay for treatments that seek to 'normalise'autism."
The Affirmative was University of Queensland (Australia).
The Negative was Victoria University (New Zealand).

Result was 6-3 for the affirmative and myself voted for the affirmative.
The result itself was not very surprising but the way we splitted was a sort of interesting one.
All the Asian judges (a British person who lives in Malaysia inclusive) voted for the affirmative while all Australian judges voted for the negative.

Now, the claims from the affirmative was pretty straight. They mainly explained that autism is a sort of communication barrier and how much that barrier is damaging their life style and possibilities in the society. They also said that the burden(time, money and mental stress) that their family have to bear is heavy and public support is necessary.

The negative, on the other hand, said autism is not a "disability" but a "difference". They explained how "normalization" opresses and reforms anybody who is different from majority of the society. This part reminded me Michel Foucault a lot but sounded a bit rough. The major problem was lack of reality in middle reliever arguments saying "autism is a frontier of evolution", "autistic people are genius and wonderful" and so on. It sounded a bit off the point as well as SF taste and damaged the reality of the Foucaultistic part, I felt. The third speaker came back to the social oppression issue and developed how state funding on "normalization" pressure the autistic ones and their family even if they don't wish to normalize them. But it sounded a little late and also sounded rough yet.

Later, both teams argued over border between disability and difference. But some disagreements over case setting and sub issues like whether autistic people tend to be genius or not consumed unproportionately long time and I got an impression that major clash was not fully argued out.

In conversations after voting, it sounded to me that the adjudicators who voted for the negative bought the Foucaultistic arguments by the negative. In short, it sounded that they thought "normalizing" somebody is a violent method to oppress minorities. One of them sited an example of deaf community with rich literature and culture and being ignored by the wider society.

Now, if you search Foucault on this blog, you'll probably find that I'm actually fond of theories of Foucault. In fact, I read most of his works and my favorite is "Maladie Mentale Et Psychologie". But even I could not nod for the negative's arguments in that round. And I guess the reason was a sort of simplicity in negative's approach.

It's while ago when the book by Mr.Ototake, "Gotai Fumanzoku [Dis-able-bodied]" became a best seller. I'm sure many of you were moved by it. His positive attitude to assert that his disability is his identity made me feel strength of human being and impressed much. At the same time, when he said on TV that his disability made him so special and superior to others, I rather felt heart-rending. When somebody says that "disable" ones should rather appreciate their identity as a gift, it rather scares me. It sound exactly like an opposite side of coin of Foucault. It rather pressure the weaks that asking for help from the society shows their lack of strength to believe in themselves and it's their fault. To me, it sounds more like whipping the weaks and grotesque. The argument by the negative that autism is a frontier of evolution and super cool made me feel that the team stepped too far into that nonsense.

Then, when the affirmative came back and said, "What's wrong with guide dogs for blind? What's wrong with getting glasses when you have poor eye sights? If they are proud of their autism, that's fine. But if they need a help, why not?", it sounded a lot easier for me to swallow.

So, this is roughly what I found in the round but I don't think I have enough level of understanding of the issue. Wish if I could have chance to hear how people with disability/difference feel about this topic.

FYI, I wrote more comments and analogy with EAL issues in the next post!

Wednesday, July 04, 2007

From KL

Sorry, have to write in English. Can't find any computer that can read or write in Japanese.

I'm now attending Australasian Intervarsity Debating Championships in KL. The host institution is UiTM and its main campus is huge. I've been healthy and well so far. I'm going to drop by Korea for World Schools Debating Championships on the way back to Japan.

So far, Australs is going fine. This time, Japan has extremely small contingent and I'm free from any pressure at all. For the first time in the last 8 or 9 years (after Manila Worlds. I was a first timer and had no idea what i would be going to persue later back then), I'm purely enjoying the tournament and that's very good. :)

I'm eager to know how's WSDC going but found no update so far.

Will be back on 12th. :)

Sunday, July 01, 2007

夏到来 summer has come

どわーーー.
前回の書き込みから一ヶ月も開いてしまいました.
いつの間にか暑くなってるわ・・・

今日から高校生チームはソウル入り.
明日・明後日とスパーリングして本番を迎えるはずです.
準決勝からしか見れない私は遠い地で応援するばかりです.
がんばれよーーーー.

はてさて,豪亜大会のほうは明後日からです.
今回はマレイシアが会場です.
I大のチームはもう現地入りしたはずかな.
私は明後日です.
はあ・・・しっかし準備の出来具合ゼロ!ホントゼロ!!
だから明日は戦争です.えらいこっちゃ.

何より気になるのはパソコンの不調.
ちょっとSPSSのグラフを弄っていると突然の強制終了.
それが1度じゃないとちょっと気になります.
困ったなぁ・・・長時間労働で熱が上がりすぎるのかも?

それから読まなきゃと思ってる本が多いのにどれもこれも重い!
背筋が筋肉痛です.肩に痕が残るほどカバンの紐が食い込むし.
四次元ポケットが欲しい・・・

まあ,騒いでみても暑いものは暑いわけですから,
カリカリせずに健やかに過ごせますように・・・

Wednesday, May 30, 2007

スマイレージ Smileage


1万ヒット記念 第二弾。
(あ、ちなみにヒット数は過去1年ほどです。gree時代のとかは入ってないのでそちらを読んで下さった方はノッカンでごめんなさい)

サウンド・オブ・ミュージックの「私のすきなもの」風コレクション、『スマイレージ(Smileage)』(笑)。その内静物写真ものから3点、自画水彩・パステル4点公開です。

1. ホッとかふぇ。
これはつい最近入ったカフェで出てきたラテ。
ハートが書いてあるのはよく見るけどこれはお上手。
坊やの笑顔がホッコリさせてくれる愛らしさ。
飲むのがとっても勿体無かった・・・

2. 祝福のきゅーぴー
これは友人Kの結婚式でカーテンにぶら下がっていたもの。
実は私からのプレゼントだったので、飾ってくれてとっても嬉しかった。
キューピーも二人の幸せにニッコリです☆
笑窪ができて可愛いでしょう?

3. 一瞬歓喜
名探偵ポワロが気持ちを落ち着ける作業としてやっていたの。
トランプでタワーを作っているんです。
ようやく三階建てが完成した時大歓声を上げて映したもの。
直後に崩壊しました(涙)
次回は四階建てに挑戦します☆


4. 三分だけ待って
我が家で重宝している砂時計の役目は一つだけ。
紅茶の蒸らし時間です。
イラチな父でさえ砂が落ちるのを大人しく待ちます(笑)
それだけですごぉく美味しくなるので、
待つ時間もすいーとです。

5. 満腹な仏様
私は特定の信仰を持たない不信心者です。
が、それでも法事だとか修学旅行だとか、
知らず知らず仏教や神道には触れる機会多いですよね。
宗教というより文化的な意味で。
不信心のせいなのか、
私の描く仏様は大抵「おなかいっぱい。もう食べれにゃい」
とでも言うような表情をしています。
それが私の極楽浄土のイメージなのかしら・・・
我ながら自分の食欲が心配です。

6. ありえなくてもいい、かな
花が椿なんですよね。かたち。
けど水は冬っぽくない。
我ながら辻褄の合わないヘンな絵です。
水の波紋も綺麗じゃないし。
でもこの色の組み合わせが好きなんです。
だからまあ良いや、と思って。


7. 空じゃなくてもいい、かな
色々と模索している時は、
飛ぼうとしているのは分かっていても、
一体全体何所を飛ぶことになるのか見当もつかなかったりして。
でもま、そういうのも良いのかな、と。
真っ青な空を真っ白に飛ぶのでなくても、
なんだかわけのわからない不透明な所を進むのも、
それはそれで意義深いことかも、
とか最近思います。

というわけで今回のスマイレージ展しゅーりょーーー。

Tuesday, May 29, 2007

[Article] 評論家としてのジャッジ Judge as "critic of argument"

English version follows Japanese one.
But before that...

[Anouncemnt: 10000hits anniversary event]

The hit counter of this blog is approaching to 10000. So, special event!!
The first person who send me a question after 10000hits via e-mail or message application on SNS(mixi, Gree or facebook) will receive my honest answer to it. :)
I have no idea whether anybody on earth is interested in such an event but oh well... I like this sort of nonsense. :p

[お知らせ: 1万ヒット記念イベント]

このブログのヒットカウントが1万に近づいて参りました。で、記念イベントです。
1万ヒット後最初にメールもしくはSNSのメッセージ機能で質問を下さった方に、
記念して質問の如何に関わらず必ず正直なお返事をすることに致します。
一体全体そんなことに興味のある方がいらっしゃるものか分かりませんが、
そういう飲み会ゲームじみたことが嫌いではない私なのです。あはは。

さてさて、本題。
最近アップをさぼりがちでしたが、久々にディベート関連論文についても書いてみたり。

[論文] バルスロップ, V.ウィリアム. 1983. 「評論家としてのディベート審査員: 先験的視座へ」. 『米国討論学会誌』. 20巻夏季号. 1-15頁.

プリミティブながら大変興味深い論文。

今のところtabula rasaに対応する形でcriticという言い回しをしているのはこれが最初のもの。ですが、traditional interpretation of this imageというくだりがあるので、どうやらもっと前からあるもののよう。どなたかもっと前に出ているものをご存知でしたら教えてくださいませ。ちなみに、注にUlrichのIn Search of Tabula Rasaという1981年の発表が挙げられていて羨ましい限り。くぅー、私も生で読みたかったな、それ。どっかで手に入らないかしら。

eticとemicという語の感触は、どうやら元のPikeの論文を読まないとしっくりこなさそう。やれやれ、また読むものが増えてしまいました。Leffの使い方が私には本来と逆に思えるのですが・・・どういうことかしら・・・おかしいな。でもまあ、Leffの言い方だとPolicy/NDTのジャッジはよりeticであり、Parliはemicであるかのように読めます。で、Balthropのはその丁度逆化のよう。うーん・・・これは原文読まないとな。


それにしても、1978年ごろを皮切りに「Judgeとは」論が急激に過熱するわけですが、どうも現代の理論は発散してしまって根本が80年代から前に進んでいないように思えます。みんな諦めちゃったのかな。そんなことでいいのかー。

Although I had been too lazy to update my reading in two languages for a while but here it is. :)

[Article] Balthrop, V. William. 1983. The Debate Judge as "Critic of Argument": Toward A Transcendent Perspective. Journal of the American Forensic Association. Vol20, Summer. pp.1-15

Primitive but very interesting.

This is the first article which uses "critic" in realation with "tabula rasa" in debate adjudication as far as I have found. But there is a line that "Traditional interpretations of this image," there gotta be something previous. Please tell me if you know any earlier works on "critic perspective" in debate adjudication. By the way, in a footnote, he mentions about a paper presented at the Speech Communication Association by Ulrich in 1981 (title: In search of tabula rasa) and I wish if I could read it myself.

I'm not quite sure about nuance of "etic" and "emic" yet and probably need to read Pike's work for that. Especially how Leff used these terms make me feel puzzled. Aren't they originally opposite...? Leff's way of explanation sounds that Policy/NDT style adjudication is more etic and Parli is more emic. And Balthrop's one sounds exactly opposite. I really should read the original text...

Although "who's judge?" and "what judging is about?" type of discussion got enormous heat since roughly 1978, it seems to me the current theories lost the focus and are not moving forward from the ones in 80s. I guess studies on paradigms should remain as a hottest issue even now though... It somehow looks as if scholars are tired with digging that issue.

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Alone among most popular paradigms in its efforts to derive standards for evaluation from each individual approach is tabula rasa. "It is," wrote Ulrich, "an approach to judging that emphasizes the desirability of having debate rules evolved from each individual debate instead of being imposed upon a round externally by the judge."
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Saturday, May 26, 2007

時代遅れ behind the times

昨夜ろくに食べなかった母が薬の飲みすぎで胃が痛いというので、
消化の良いものをということでポトフを昼ごはんに鍋一杯作りました。

私は大変ずぼらなので、フライパン一つ、鍋一つで済む料理が好きです。
シチュー類はその時々で色んな材料を楽しめるのも魅力ですよね。
加えて、祖母が大連育ちだったこともあって、我が家の場合は
所謂「家の味」は味噌汁ではなくてポトフにあります。
祖母のは少しロシア風だったとか。母のはちょっとアイリッシュな感じです。
アレンジしだいで色んなバリエーションがあるのも楽しいですね。

そんなわけで私もポトフは得意料理。そもそも失敗しにくい料理ですけど(笑)
私流は、最初にオリーブ油で唐辛子とにんにくをじーっくり炒めるのがコツです。
今日は、ジャガイモ、人参、玉葱、しめじ、茄子に生ソーセージを入れました。

何しろ鍋いっぱいに作ったので、昼に食べて残った分を夕飯にしてしまえ。少し足りないようなら後で少しだけ材料を足そう、と思ったわけです。で、「帰りに材料を少し買い足してくるから沢山食べて良いわよ」と食べ始めた母に言い残して出かけました。

閑話休題。

先日、片桐直樹監督の『戦争をしない国 日本』というドキュメンタリー映画を観ました。
地域の集会施設で40人くらい集まっていらしたでしょうか。
私はこの監督の作品は他に見たことがなかったし、よく知りもしなかったわけなんですが、折角すぐ近所で観れるのだからというわけで出かけました。

結論から言うと、全く好みではありませんでした。
政治的な色としてはかなりC党かS党との関係が濃厚とみました。
別に左っぽいからとか護憲派が嫌というわけではありません。
先日毎日新聞のコラムで「消極的護憲派」と称している精神科医がいましたが、 私は自分を同じくくりに入れています。

記事の精神科医は斎藤環さんという方なのですが、以下のような部分があります。

「身近な人を死なせたくない」という切実な心情からは、改憲、護憲どちらのロジックも引き出せる。ただ私には改憲派のあおる危機感が「改憲ファンタジー」にしか見えない。
(毎日新聞、5月13日日曜日、2面、『時代の風』 「後ろめたさ」こそ倫理だ、より)

私はこの部分にまったく同感です。
脅威を無視しろとか誇張しろとか嘘だとか言うつもりは全くないんです。
世の中物騒だから万が一の備えはしっかりしないとね。
一般家庭でさえ地震や強盗侵入のリスクを見積もって備えるくらいですからね。
ただ、改憲論者の議論展開や見せ方がね、あまりにも子供っぽく思えるのです。
なんか戦争や防衛にロマンを感じ過ぎているのではないか、と勘繰るわけです。

「軍人は小児に近いものである」と言ったのは芥川ですけど、巷に溢れる改憲主義はその耐え難い幼児性という意味で芥川の言うところの軍人的に思えます。芥川の言うとおり、「英雄らしい身ぶりを喜んだり、いわゆる光栄を好んだりする」心理は、耐えようもなく小児的に見えます。

最近連発されている映画群(「男たちの大和」だの「亡国のイージス」だの「日本沈没」だの「硫黄島~」だの)にうっとりする人たちがいるということが私には鳥肌ものなわけです。製作面でも、ああいう映画にロマンチシズムを盛り込もうとする会社の気持ちって分からない。生理的に嫌。観て喜ぶのは動物的に思えるし、作って喜ぶのは動物的なまでの商業・拝金主義に見えます。とても知性を感じられない。芥川は更に容赦がなくて、「機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見うる現象である。」とまで斬って捨てています。

戦争物以外で、似た「生理的にぞわっと来る映画」群を私は「時代遅れの男になりたい」シリーズと呼んでいて(『時代遅れの男になりたい』っていう歌知ってます?)、その手の映画が好き、と言われた瞬間にその男性が恋愛対象外になります。理屈じゃなくて本当に受けつけなくなっちゃうの。生理的にぞわって来るの。で、その問題の映画は「シェーン」、「カサブランカ」などいまだ人気の高いラインアップなので困ったものです。

先日IDC7中に、RとLが「シェーン」の話で盛り上がりまして、
(「シェーン、シェーン、帰ってきて!カムバーック、シェーン!!」
ってラストシーン知ってます?)
私が「シェーン」が好きな男って嫌い、と言うと理由を聞かれました。

私の答えは、「『ロンリー・ウルフ』に憧れる人に限って自分は友達づきあいが良くて守りに入った『ファミリー・ガイ』なのよ。実現するつもりも度胸も理念もこれっぽっちもない癖に妄想の中で恍惚とする姿が生理的に嫌。」というものでした。(レイプもののポルノが好きな恐妻家とかさ想像するだに陰湿で女々しくて嫌でしょう?ってちょっと違うかな。)

・・・・・・Lにゲラゲラ笑われました。
はいはい。どうせあたしゃ融通の利かない女ですよーだ。

ちなみにグレー・ゾーンに位置するのが「紅の豚」。
(金曜ロードショーでやってたみたいですね)
あれが好き、と言われたらかなり微妙です。
かなりカサブランカやシェーンに近いですよね。
時代設定も第二次大戦直前あたりでしょう?
ストーリーも美女を袖にして孤独で無茶な生き方を通す、『男のロマン』と。
「俺は所詮家庭には収まれない男なのさ」って感じ?
エンディングがぼかしてあるのが救いかな。
うーん・・・・・・まあ、あそこまでは許せるかも。
ファンタジーだという割りきりも比較的明快なので。
(『カサブランカ・ダンディ』って歌知ってます?「ボーギー、ボギー、あんたの時代は良かった。男がピカピカの気障でいられた」って歌うの。ああいう風にあけっぴろげに言われると何か許せるでしょう?)
うーん・・・・・・でもやっぱり微妙。

まあ、とにかく、改憲派の多くがシェアしているように見えるその恍惚感が、
あまりに、あまりに時代遅れに私には見えます。
やたら「サムライ魂」とか連呼するスポーツ中継も大嫌い。
どうして「昔気質の侠/時代遅れの男」にそこまで恍惚とできるのかも謎だけど、
それに「愛国ファンタジー」が絡むともう手に負えないグロテスクさ。
その悪趣味な懐古趣味がきぼちわどぅい・・・・・・

さて、問題は・・・『戦争をしない国 日本』もタメを張れる懐古趣味ぶりだったのです。
労働者とか婦人とか学生とか「国民の怒りが爆発」とか・・・言葉遣いからして「ノン・ポリ/しらけ世代」と言われた今の学生の両親くらいの歳の人にさえ「古い」と言われそうな感じ。それはないだろ、と言うくらい一方的な事実認識に一方的な主張。ディベートで言うところの「エンゲージメント」(これが議論を深めるための鍵)しようという気が全く認められない感じ。そういうプロパガンダ方式も、やたら時代遅れな感じ。「改憲ファンタジー」に張る「護憲ファンタジー」。

今日は偶然後輩のYちゃんと9条の話になりまして、
ホントせめてディベータは「現代的なあっぷ・とぅ・でいとで理性的・現実的な」議論を
したいし観たいものだよなぁ・・・・・・とつくづく思いました。
理念面もね、きちんとエンゲージした上で掘り下げないと・・・・・・。
まあつまりは質の高いディベートをしたいってことで難しいのは同じなんですけど。
問題は現代のあっぷ・とぅ・でいとな若者達はあんまり背景知識がない、
・・・・・・ゆえにそもそも意見があまりないみたい。
しらけ世代Jr. 達は元祖に輪をかけて凄いです。
それはそれで・・・・・・感心しないな。
人間無知な事柄に関しては騙され易いですからね。
最近改憲も護憲も極端な意見の人の中にはティーンが多いというのもわかります。
思春期って妄想がちですからね。半分ファンタジーの住人よね。
どうせなら趣味の良いファンタジーに耽ってもらいたいものですが。

さてさて。

帰り道。
駅から母に電話で「どのくらい残ってる?どのくらい買い足せば夕飯に足りる?」と訊くと、
彼女は歯切れの悪い様子で・・・

「残ってない」

・・・・・・。
は?
鍋一杯分が・・・・・・?

・・・・・・誰の胃が痛いって?
鍋一杯食べきる病人が何所にいるんだっての!!

シチューよ、シチューよ、帰ってきて!
カムバーック、シチュー!!

(あ、このオチ駄目ですか?)

Thursday, May 24, 2007

すいーと・じんじゃー・みるく Sweet Ginger Milk

いやー、ハシカ大流行ですねー。
できるだけ学校にいる時間を短縮しようと思ったのですが、
案外手間取って帰宅してみたら……

母が発熱中。
……もしかしたら自宅の方が危険。

ところで、母は料理に創意工夫を凝らす人です。
良く言えば独創的。悪く言うと無難な品が作れず奇をてらいすぎる。
嗚呼今までの呪われた料理たち……
セロリ、インゲン、そしてモロヘイヤの入った自称「タイカレー」。
ヨーグルトと餡子を混ぜた「ヘルシースイート」。
何故か強烈な生臭さを伴う「かけそば」。
関連商品(?)「ミート・うどん」にその後南アフリカで再開してしまうことを子供の頃の私は知らなかった…そうして私は食の細い子供時代に……(ナチュラル・ダイエット?)実話です。

そんな母も料理教室に通うようになり料理の腕も飛躍の進歩を遂げました。積極的に美味しいと言いたい料理の割合は急激に上昇しました。(惜しむらくは私が下宿に出る前に習って欲しかった。何故子供が育ちきってから習うのだ……)しかし彼女の冒険心が消えたわけでは……そう、なかったのです。けれど私には彼女を責められない……今回は私もその一端を担ってしまったからです……

今回のテーマは、ずばり『マ・カ・オ』。

とあるテレビ番組でマカオ料理特集をしてたんですよね。
その中の「ジンジャー・プリン」なるものに二人して目を惹かれたわけです。
曰く、「生姜の絞り汁に砂糖を溶かし、温めた牛乳を注ぐだけでフッルフル」。
なにぃー?生姜にそんな効果が??とビックリ仰天したわけです。
確かにテレビ画面に映されたプリンは杏仁豆腐のようにフルフルでした。

早速キャッキャ言いながら二人して生姜を大量に摺り、
更にキャイキャイ言いながらその汁を搾り、
そしてできたのは……

なまあたたかい甘辛い牛乳……
……ちょっと部分的にどろーり。

…………。
ちーん……。
…………。
…どこまで待っても固まらないし!!

シクシクシク。

我が家には、どろりとした甘辛い牛乳が……途方に暮れたのでした。
これが昨日のこと。

ちなみに母、先ほど起きてきまして、
「パパ帰ってきたら、あれ飲ましてあげて」

…………。
それで良いのか……本当に……
自分の下宿生活の間に犠牲者の名が変わったことを静かに悟った私でした。

Tuesday, May 22, 2007

性悪女の癒し方 regresa a mi

数ヵ月後の案件についてメールを書いていて自分の性悪さを再確認。
こんなこと相手に言っても仕方ないというか脅迫じみてるよなぁ・・・
と思いつつ、ここは脅迫してでも裏切られるのは御免なのよ、と割り切ってもみる。
その癖、自分はいつでも裏切るわよ、と匂わせている・・・

どんだけ性悪やねん。(ていうか我侭なだけ?なお悪い・・・)
女に限らず、やっぱり裏切られた経験は人を性悪にしますよね。
(自分はひと様に裏切られた感を与えないように気をつけないとね・・・)

返ってきた返信が「正直でいてくれてありがとう」
・・・・・・うわ。や、ホント自分の性悪さが際立ちます・・・
どんだけ良い人なの、それ。礼を言ってどうすんのよーーー!!!
(それとも何かの嫌味なのか・・・?)

はああ(脱力)
まったくこの人には勝てんわ・・・・・・

ま、じゃあ即この相手を信用する気になるか、というと
そうもいかないのが哀しさですね。前回の裏切りの傷がまだ痛みます。
(あ、ちなみに上記はすべて色気一切なしの話なんですけどね)

regresa a miは、春先に母がはまっていたIl Divoの曲名です。
本日やたらとそれが頭に流れ続けています。
ていうか連続で聴かされすぎて頭にこびりついている・・・
何故か歌ってしまうCMソングのようです・・・ちょっとイヤ。
しかしその陰鬱さが妙に先ほどのメールのやり取りなんかと合っている。

Una vez mas tocar tu piel y hondo suspirar
Recuperemos lo que se ha perdido

って。・・・うーん・・・うん。
時間が経てばまた、人間不信は終わりを告げて、
ちゃんと友人を信用できる日が戻るのでしょう。

だから今日だけはもう一度だけ、
ちょっと溜息つかせて欲しい。性悪でいさせて欲しい。
明日は良い友人に戻れると・・・思うから。たぶん。いや、きっと(汗)

閑話休題。

今日は一日facebookのサーバがダウンしている模様。
全体のじゃなくて私がのっかってるネットワークのが。
おかげでどうやらメッセージが数件届いているらしいのにアクセス不可。
該当する方いらっしゃいましたらごめんなさい。

そもそもメールの返信は更に怠りがちな私。
不義理もはなはだしいわけですが、ウェブメールの使い方が悪いのか、
「後で返信しなきゃ」と思ってたメールがどんどん行方不明になるんです。
もうほっくり返すのが嫌になってしまってどんどんずんずん溜まっていく。
ああ・・・何故世の中の皆様はもっときっちり管理してらっしゃるんでしょう。
その管理能力の5分の1で良い。分けてもらいたい・・・
ていうかうちのキャンパスが外部からメールサーバにアクセスさせてくれればもっと楽なんだけど・・・セキュリティのためかさせてくれないので・・・慣れないウェブメールを使うことに・・・いや、やっぱり自分が悪いんですが・・・

なーんて、こんな憂鬱そうなことを書いていても
所詮私は部屋でアホな踊りを踊ってしまう道化なお調子者。
フレンズを観ればジョーイを可愛いと思ってしまうし(あの役者バカに見せるの天才的ですよね)、初恋は「忍者ハットリ君」だし(えーええ、いまだに親戚中に言われます)、同年代の友人と会うとボケ専門だし(最近ディベート関連の人にツッコミに分類されビックリ)。
とにかく、性悪気取ってみたところでやたらとおめでたくって底の浅い性悪なわけです。
まあ、だからこその「正直でいてくれてありがとう」なわけで・・・(あのやろー・・・)
全く悩むだけ阿呆らしいというものです。

美味しいココアの一杯もあれば癒されてしまうお手軽な性悪女なのです・・・やれやれ
はぁあ・・・ココアおいちい・・・(@^-^@)
もう今日はいーや。

Monday, May 21, 2007

[Book] ジュリアス・シーザー Julius Caesar

[本] シェイクスピア.1599. 中野好夫訳.1951.『ジュリアス・シーザー』. 岩波書店.

こちらは行きの飛行機で読みました。
英語で読んだら何故か喜劇に思えてしまったので日本語で読んでみました。

ちゃんと悲劇でした。
よかった・・・。

まあ、とにかく例の演説ですが、やっぱりアントニウスはわざと自分を「口下手」と演出していますね。なかなか狡猾です。最初から相当自分の演説の技量に自信を覗かせているにも関わらず、聴衆の前ではまるで真逆かのように振舞う。大した悪人煽動家ぶりです。やっぱり西洋でも口下手は同情を引き易いってことなんでしょうかね。そして弁舌さわやかな方が胡散臭く思われやすい。でも現実は真逆でブルータスの方がよっぽど口下手だ・・・恐過ぎないですか、この話。

しかし誰だ、「ディベートは結局のところ西洋的だ」なんてのたまって私を涙させたのは・・・ホント思い込みって恐ろしい・・・口下手な振りした饒舌な悪人が世にはばかるのは何所も同じなんですなぁ・・・まともな言論教育を受ける必要があるのは日本人だけじゃないよねー・・・・・・日本の場合苦手意識が必要以上に壁を作っているとは思いますけれど。(ちょっと今日は色々と考えさせられるメールが数件届きました・・・ホント、どうやったら素直に人の言葉を疑わずに聞ける幸せを享受できるのかなぁ・・・)

結局このお話では明確な善人キャラはいないように見えます。シーザーでさえ、キャシアスを嫌った理由は彼が痩せているから、という理不尽ぶりです。ブルータスもアントニウスもキャシアスも、全員ある程度(ていうか、かなり)汚れている。が、全員純粋な悪人でもない。・・・・・・なんだか現実的過ぎてかえってグロテスク。お話の世界を楽しむのが難しいのは私だけでしょうか・・・?

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アントニー: 
これ、この傷口、物言わぬ口ででもあるかのように、
真赤な唇を開いて、私のこの舌に代って訴えてくれと叫んでいる
----------------------------
アントニー:
では、大急ぎで帰って、この椿事を伝えてくれ。
いまやローマは哀悼の都、危険に溢れた巷なのだ。
オクティヴィアスどのにとり、まだ安全な広間ではない。
急いで行って、そう伝えるのだ。いや、ちょっと待て。
いまこの遺骸を広場へお移しするから、それまでは行ってはならぬ。
そうだ、それでは一番やってみるか、
果たして俺の演説で、この凶悪犯人どもの残虐行為を、
市民どもはどう考えるようになるかだ。
その結果次第では、お前往って事の次第を
オクティヴィアスどのに伝えてもらいたいのだ。
-----------------------------

アントニー:
ああ、理非分別の心よ!お前はあの獣の胸に逃れ走って、
人間はすべて理性を失ってしまったのか。許されよ、
いま私の心はすべてあの棺の中、シーザーの許へと飛んでしまったのだ。
戻ってくるまで、しばらく待っていただきたい。
市民一:
彼の言分にも、どうして道理はあるようだな
-----------------------------
アントニー:
諸君、私は諸君の心を盗もうとて来たわけでない、
私はブルータス君のような弁舌の徒でもないし
諸君もご承知のごとくただ一介の無骨の野人、
要するに友を愛するというにすぎん。(中略)
人々の血を湧かせるなど、私には才知もなければ言葉も知らぬ
さらに能力、行動力、弁舌、説得力、ともになに一つ持たぬ私に、
どうしてそんな芸当などできようか。ただ率直に語るだけのこと。(中略)
もし私がブルータス、そしてブルータスがアントニーならば、
あるいはこのアントニーが諸君の心を煽り立て、
シーザーのこの傷一つ一つに、ローマの石を暴動に決起させる、
そうした舌を与えることもできようが。
一同:
そうだ、暴動だ。
市民一:
ブルータスの家を焼き討ちしよう。
------------------------------------
召使:
ご主人のお話じゃ、ブルータスさま、キャシアスさまには、
まるで狂人のように馬で城門から立ち退かれたとか。
アントニー:
さては知らせを受けたと見えるな、どんなに俺が
市民どもを焚きつけたか。
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注から
ブルータスの演説が理智的で冷たく、群集の心理を少しも知らぬ学者的演説であることに注意。それに反して次のアントニーのそれが、どこまでも感情に訴え、卑近で、具体的で、巧みに群集の低い知性と天邪鬼心理をとらえていることに注意。シェイクスピアが前者を散文で書き、後者を無韻詩形で書き分けていることも、なんでもない工夫だが見のがせない。
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解説から
例の有名なブルータスとアントニーとの演説を挙げてみる。この二つの演説は、往々にして拙劣作者に見られるような、作者シェイクスピアみずからがやたらと顔をだして行う演説ではなく、両者それぞれがいわば事故の宿命的性格をどうしようもなく露呈させながら述べるという、ある意味ではシェイクスピアの劇詩人的才能を最もわかりやすく、また鮮明に示している有名な演説だが、それがなんと「プルターク」によると、わずか次のような簡単な記述にすぎないのだ。すなわち、ブルータスのそれは、「ブルータス伝」に、
 彼等(市民)に対してブルータスは、その好意をかちえ、同志の行為の正しかったことを言い、彼等に対してキャピトルから降りてくるようにと叫んだ。
とある、ただそれだけなのだ。他方またアントニーの方は、「ブルータス伝」と「アントニー伝」との双方に出るが、しかしそれとて前者では、
 その後シーザーの遺骸が市場へ運ばれて来たとき、アントニウスはローマ古来の慣習に従って、故人をたたえる葬送の演説をした。そして彼の言葉によって、市民の心が故人への哀悼に動くと見るや、彼は雄弁を揮って彼らの心情をいよいよかきたてた。そして鮮血に塗れたシーザーの外衣を手にし、これを市民らの面前に拡げて、そこにつくられた多くの刃の痕を指し示した。すると群集はたちまち激昂と暴動にかわり、もはや彼らの間に秩序を維持することは不可能となった。
 「アントニー伝」もまた大同小異だが、
 そこでシーザーの遺骸が埋葬の場所に運ばれてくると、彼は葬送の場において故人をたたえるというローマ古来の慣習にしたがって、シーザー賞揚の葬送演説をした、彼は市民達がシーザーのこと、とりわけ賞揚の言葉を聞きたがっているのを見てとると、その演説の中にいとも悲しみにみちた言辞を交え、種々の事実を加えることにより、彼らの感情をはなはだしく哀悼、憐憫の情へと動かした。しかも最後には結論として、全群集を前に徒党たちの刃によって至るところ刺し貫かれた故人の上衣を拡げて見せ、暗殺者たちを残忍、極悪な殺人者と罵倒した。これらの言葉によって、彼は市民たちを烈しい激昂にまきこんだために、彼らは直ちにシーザーの遺骸を運んで、市場においてこれを焼いた。
 後にも先にもこれだけである。この素材からしてシェイクスピアが、いかに鮮烈な対照的個性的な二つの演説を仕上げているかは、原作の同じ部分とゆっくり比較対照して読んでもらいたい。
 ただここで一つ問題は、上でもちょっと触れたアピアーヌスの『内乱史』である。これにはかなり長くアントニー演説の内容が述べられている。それによると(後略)
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Friday, May 18, 2007

不審者 suspicious person

肘と膝が痛いので、あっちぶつけてもこっちぶつけても涙目な今日です。
病院では小さな子供のように「痛かったよねー、もう大丈夫だからねー」と言われ、
おとなしくコクンと頷いてしまう情けなさっぷりです。
しかし顔にあった小さな傷は跡形もなく消えました。すごーい。
しかもやったことは傷パワーパッドとかいう絆創膏を3日間貼っておいただけ。
市販薬も 飛躍の進歩 ありがたや (字余り)・・・なーんつって。ひひひ。

問題は目。あんまり治っていないと言われショック。
やはり私の目薬の落とし方に何か抜本的な問題でも・・・
いつまでコンタクト入れられないんだろうー・・・困ったなぁ・・・
買い物するにも街中歩くにも、やたら顔を近づけて確認している怪しい人です。

この上ハシカにでも感染した日にはえらいことになってしまいます。
病院めぐりにもマスクを装着、更にUVサンバイザーで武装した私を、
小学生中学年くらいの女の子が不安そうに見上げています・・・
確かに背後に立っていると変質者みたいだろうか・・・
ごめんねー、怖いよねー、おねえちゃんすぐどっか行くからねー。
(ていうか外しなさいよ、という話も・・・)

さて、現在わたくしお話を伺える広島県出身の方を探しております。
ご協力いただける方いらっしゃいましたら、是非ご一報くださいませー。

Thursday, May 17, 2007

月の雫 water from the moon

しばらく前に壊した眼鏡のバランスを微妙に保って作業中です。右目はもうあんまり痛くなくなってきました。素人の当て推量ですがあと二日くらいで随分良くなるのでは。怪我の方は・・・なんだかよく分からない感じ。これは良いのか悪いのか、どうなんだろう。

さて、

セリーヌ・ディオンの曲でこういうタイトルのがあったんですけど、あの音域の広い声をがなるようにして「do i gotta get water from the moon?」と尋ねる部分が妙に印象的でした。一体water from the moonというのがどういう訳に相当するのか分からなかったわけなんですが、「月に存在するとか存在しないとか言われている(多分存在しない、というかあまりに少量なので蒸発してしまっている)水」のことなら、ちょっとかぐや姫めいています。蓬莱の玉の枝や燕の子安貝と張り合うのに「月からの水」ではちょっと味気ないので、月の雫と訳してみました。フルセンテンス訳すと「あなたに愛されるためには月の雫でも必要なの?」とでもなりますでしょうか。

先週末は、ええ、その・・・、結局アジア大会(元祖の方です)に顔を出してきました。2年前の分裂以来あまり良い印象がなく、正直失礼したいと思っていました。が、開催地が韓国ということで、韓国との関係を悪化させすぎるのは避けたい・・・というジレンマの結果でした。特にJが熱心に誘ってくれたこと、Lが日本に教えに来てくれた直後だったこともあって、全く顔を出さないのでは義理が果たせないなぁ、と思った結果でもありました。それで、2年前の新・アジア大会見学の時と同じく「短期見学者」の立場を採ることでまあなんとかお茶を濁そう、というわけだったのです。

3年前まで、アジア大会は他に類を見ない暖かい大会でした。「アジア」という言葉が必要以上に他の地域(特にオセアニア)への対抗心を助長することは好ましくないことでした。しかしそれを補っても尚あまりある魅力を持つ大会でした。大会の間中、皆笑顔で茶化しあったし、子供のように戯れていました。国籍は殆ど意味を持たなかった。誰もが「気がつくと全然別の国の会ったことのなかった多国籍の人たちに囲まれていた」という状態をしばしば経験しました。

今の両アジア大会はツンドラ地帯のようです。もう片方のアジア大会を意識するあまり、どんどん政治性が増してしまっている。特に元祖アジア大会は一部のディベート以外の理由で投票する汚職審査員が大きな顔をしている。あれは酷い。その上お互いに不信感が渦巻いている。「俺達の脚を引っ張った奴が見つかったらこっそり教えてやるよ。もしかしたらよく知ってる近しい奴かもしれないと思うよ」という某選手の言葉に、大会の絶望的なまでの腐敗を見ました。それは世界大会が今も昔も政治的であるのとは全く別次元の話です。笑いあっている友人同士が、相手に暗闇でグサリとやられるのを恐れているなんてあんまりだ。「あの素晴らしい愛をもう一度」ではありませんが、あの暖かいアジアを取り戻すにはそれこそ「月の雫」でも必要なのかもしれません。 おかげですっかり私は「内向」モードで非社交的に過ごしてしまいました。とは言っても夜の飲み会はそれなりにあちこち顔を出しておきましたが。

ところで日本の選手の社交の仕方は少し方向を変えたようです。社交的な人と社交的でない人の2種類しかいなかった以前とは異なり、現在は3種類に分かれるようです。①社交的でない人、②特定の国の人とだけ社交的な人、③様々な国の人と社交的な人。どうやら新規参入大学には②が異様に多い。まあ分からないでもありません。ただ、いわゆる「肝」の飲み会に行くと、顔を見る日本人は2人とかでした。まあ、正味二日(3晩)しかいなかったのでたまたまなのかもしれません。

試合の感想は、まあ後日に譲ることにして、今は3晩それぞれの記録を一応残しておこうかな。

最初の夜はあちこちの人と再会を祝っておしゃべりをしました。韓国・マレイシア・シンガポールを中心にあちこち回りました。雨降ってたから、それぞれ皆各寮舎に分かれて集まっていました。マレイシアチームと飲んでいるときに、「ねえ、どっかタオルが手に入る場所知らない?」と訊いたら、「やたら小さいのなら参加者キットに入ってるよ。でもマッジ小さいよ」という返事が返ってきて盛り上がりました。その後カルチュラルナイトでそれが替え歌になっていて思わず笑ってしまいました。

次の晩は、なんだったかな。ああ、ウォッカ・パーティだとかで、屋外の寒い中皆でアホな話題で飲みました。ていうかウォッカ飲むのは普通ミキサー必要じゃない?寒いからってストレートで注ぐのやめて下さい、マジで。どこの人が多かったかなぁ。韓国系と東南アジアが多かったかな。その内ペルー出身の方が郷土舞踊を教えてくださいましたが、最初から実技編だったため、基本のステップをちゃんと覚えられませんでした。残念。

最後の晩は、意味不明などんちゃん騒ぎでした。でも主要キャラ勢ぞろいでした。ああいう飲み会こそ日本人も沢山参加して欲しいのだけど、いたのはI大のT君とG大のAちゃんだけでした。うーん、残念。そういえば韓国勢が外国人講師達以外殆どいなかったので、おそらく日本人や韓国人は別に集まっていたのでしょう。韓国のチームは夜のうちに帰ってしまった人も多かったし。中国勢も少なかったですね。うーん、それ以外はほぼ全ての国が揃っていました。歌を歌いだすわ、意味もなく笑い出すわ、その内何故か飛び入りのファイアー・ショー(!!)が始まるわ、ヘンな集まりでした。皆にやたら「masakoはもう来ないんじゃないかと思ったよ。来てくれてよかったよ」と言われ、切なくなりました。ごめんね、みんな。みんなのことは大好きなんだよ。私が非社交的に見えたなら、それは大会の腐敗を憂いているから。腐敗した大会の性質は変えなくちゃ。今、ギリギリのところだよ。みんなだって気がついてる筈だよ?・・・でも、あの場にいた人たちこそが暖かさを保とうとしている「実情と背景を知っている」良識派なのに、彼らとの交流も敬遠しようなんて確かに了見狭かったかもしれない。その後、気がついたら何故か英語村の職員達まで飲み会に混ざっていて、私達はデトロイトやニューヨーク、トロントの人たちとまで入り混じって飲んでおりました。あれは一体何だったんだろう。バンブー・ソージュー・マジック??

どの晩も私は梨花女子大のチームと同室させて貰いました。これが皆素晴らしく可愛いんだ!!その内の一人と北朝鮮の話になって、凄く感銘を受ける話を聞けました。今度アップしたいと思います。

まあ何にしても今年一押しの大会はオーストラルエイジアンです。
一人でも多くの選手が参加できると良いなぁ、と思います。

・・・・・・でも、そうね、まだ月の雫も探し続けてしまうかもしれないな。
誰もが微笑み交わしたあの素晴らしい愛を夢見てしまうかもしれないな。
でも、それには、Do i gotta get water from the moon? :p

Wednesday, May 16, 2007

[Novel] イナイ×イナイ Peekaboo


怪我による発熱と右目の不具合により、現在体調わろし。
ディスプレイがろくすっぽ見えていないため、変換等に間違い多い可能性あり。ご容赦くださいませ。

[小説] 森博嗣. 2007. 『イナイ×イナイ』. 講談社.

飛行機で読みました。
以下ネタばれあり。お気をつけをば。

椙田さん一体次回から何ていう名前で登場するつもりなんでしょう。
今度の新しい名前が更に別の短編とリンクしてたりしそうで、なんともやれやれ複雑な様相を呈してまいります。

どうやら次の予定作もこのXシリーズのようですが、Gシリーズってどうなるんでしょうか。あっちが出たりこっちが出たりするようになるわけでしょうか。更に面倒でややこしくなっていきます。このすっきりしない感じをいつまで引きずることになるのか・・・やれやれです。しかし読んでしまう私。

結局萌絵ちゃんは東京で働き始めたようですし、椙田事務所が東京にあるようでもあります。依然犀川先生が名古屋にいるのだとすると、これからは東京と名古屋の話がパラレルで展開されるんでしょうかね。妙に対称的ですしね。わいわいがやがやなGの学生軍団と椙田事務所の二人はちょっと雰囲気似ているし、鷹知さんのポジショニングが赤柳さんに相当するのかな。ほぼ関わらない人物として西には犀川先生、東には萌絵ちゃん。よくわからないのが椙田さんのポジション。彼に相当するGのキャラクタは・・・国枝先生?はたまた四季博士?あ、でもGには度々各務さんと思しき人が出てきていますから、やっぱり彼女かな。うん、その方が面白いですね。

話の展開の仕方も妙に似ていますよね。GとXのどちらも、S&MやVの時のような明確な謎解きをしてくれない。分かったようで全体像の見えない薄ぼんやりした締りのない終わり方です。VやS&Mよりも時系列的にも後を扱っていることもあってか、より現代的、不確実性の時代に突入しつつあるようですね、この作品群も(笑) しかしすっきりしない。イラチな私的にはフラストレーションの溜まる展開です。

ところで萌絵ちゃんの働き出した大学名は、Gの通りなら東京の私立W大ですよね。Xでは椙田さんが「古い大学で、金持ちの学生が多くて、卒業生ができるだけ沢山死んでいる」と表現していますね。・・・早稲田か。早稲田ですよね(笑)うちの大学といい、早稲田といい、こういうおちょくられた理由でフィクションに登場する率がやたら高いですが、著者が卒業生だったりするんでしょうかね。森博嗣さんは名古屋大の教授ですが、建築が専門だそうですよね。早稲田は建築が有名ですしね。もしかしたらそうなのかな?

ああ、薬が効いてきて眠くなってきました。
今論文読み始めたら途中で寝てしまうかもしれないなあ・・・どうしよう・・・

Wednesday, May 09, 2007

最後の一人 the last one

IDC8終了後講師を成田に送る道すがら、言葉の話になりました。確か私が「もしあなたに子供がいたら何語で教育を受けさせたいか」と聞いたことから始まったような気がします。

日本で暮らしている限りはあまり考えることのないこの疑問ですが、今回のように民族的にはタミル語が母語だが中等教育まではマレー語で受け、高等教育以降は英語主体、というような多言語混合な人を見るといつも疑問に思うことです。どの言語が母語か、と訊いた場合とは別の返答があったりして興味深いです。

英語というのがスレッシュの回答で、私としては疑問が残りました。だってさ、そうやってタミル語やマレー語が死滅する可能性を加速させることに感傷はないのかしら、と思って。どうやらスレッシュはとってもプラグマティックなようでしたが、私にはそこまでさっぱり日本語を切り捨てることは到底できないなぁ、と思うのです。そんな風に駄々を捏ねたところで、いつか将来日本の子供たちも生存のために日本語を捨てる日が来るのでしょうか。

昨日何気なくテレビをつけたら岸恵子が出ていました。
娘が日仏ハーフで英国人と結婚したとか。
孫達は父親とは英語で、祖母とはフランス語で話すのだそうです。
で、日本語はこれからなのだとか。
・・・・・・まあ二の次でも勉強してくれるだけ有難いのかな?
しかしどうやら十歳過ぎているようなのでどの位流暢になるかは疑問な気もします。
なんか言葉の運命ってハードボイルドですねぇ(笑)

もし私が世界で最後の日本語話者になったら・・・・・・最後の一人だったら。
何を日本語で言っても解する人が世界中に誰もいなかったら・・・・・・
私よりも年下の人で日本語しかできない人が沢山いる以上、
ほぼあり得ない想像ではありますが、やっぱり哀しい気がします。
ネトルの言うことは正しい。言語は好き好んで自殺などしない、と私は思ってしまうのですが。

さて、今日はひょんな理由からシェイクスピアの『Julius Caesar』を読んでいます。
論文に引用されている箇所のチェックをしないといけないんです。
古英語は苦手なのでやれやれです。読んだのは当然、

Friends, Romans, countrymen, lend me your ears;

で始まるMarcus Antoniusの有名な演説です。

この演説を読むと、「日本の演劇でこんな風に大衆に語りかけるシーンってあんまりないよなぁ。西洋はスピーチを重んじる文化圏だなぁ」と思いそうになるのですが・・・・・・Antoniusは同じ演説の後半でこんなことも言っています。

I am no orator, as Brutus is;

は?

ていうかこれだけえらい演説かましておいてなんだそりゃ。なめとんのか。
挙句の果てに、

For I have neither wit, nor words, nor worth
Action, nor utterance, nor the power of speech,

ときたもんです。
で、直後に民衆が「うおー、ブルータスの家を焼き討ちだー」と叫ぶ。
えええええーーーー!???
・・・・・・ていうか、えええええーーー!???

で、思うのですが、何だかんだ言って、あっちでもsilver toungueは多少敬遠されるんじゃないですかね。下手するとsophistの汚名を受けかねない。それで、「あっしは語る言葉も持たない無骨物で・・・学のある言い回しの一つもありやせんけど・・・あっしの心が言ってるんでさ・・・あんかたぁ、良い方だったって・・・よよよ・・・」とやると実は日本と同じように結構ウケる。・・・・・・のかな????スーパー・パゴールの世界。・・・・・・ていうか本人極めて饒舌なだけにそれってかなり悪辣な煽動家ぶりに思えますが・・・・・・(汗)

正直読んで困惑気味な私です。
何これ?どう解釈すれば良いの?
うーーーん・・・・・・困ったなぁ・・・・・・(途方ーん)

私は例えば伊勢物語だの為朝物語だのを読めば、その心情分析にある程度自信を持つわけです。それは全く根拠のない自信で、当時の人の風俗に無知な私はとんでもない勘違いをしている可能性が高いわけですけれども、それでもJulius Caesarを読むときほどには惑わない。勧進帳で弁慶の飛び六方を見ればそこに必死に主君の後を追いかける家来の誠実さを見るし、那須与一と言われれば海上の船に掲げられた扇の絵面がサッと頭に浮かぶ。そういう傍若無人ぶりというのは、時に間抜けであっても、やはり芸術を楽しむ根底にある。しかもそこには自分で認めたくないほど、内と外の区別がある。

結局そういうことなのではないのかな、と思うのです。

私は特定の文化背景を5世紀頃のものから「これがあなたのよー」と刷り込み教育された。小学校の頃は鎌倉が近いですから源平の話とか静の舞とかよく聞かされました。そんでもって奈良・京都あたりには必ず修学旅行で行く。(うちは高校時代更に遡って出雲も行かされました。)それが私を言語について保守的にさせるのではないでしょうか。私にやたら感傷を抱かせる。

マレイシアの人は、どうやらマレー語の古い文学を学校で教わっていない様子です。タミル語ともなったら尚更でしょう。だからこうした言語の保護に執着が薄いのではないでしょうか。や、わかりませんけれども。

実は結構欧米の人にも言えるのかも。最近ラテン語を教える中等教育は少ないみたいですね。一番古いもので、シェイクスピアを1作品か2作品、高校で読むかどうかってところのようです。それ以前のものはなし。(それって私達が『忠臣蔵』より昔のは知らないわ、っていうのと同じような感じじゃありません??そう考えると凄いです。) ギリシア・ラテンの文学(日本での漢詩にあたる?)なんてぜーんぜんみたいですね。

以前山手線に乗っていて、『AIDA』の宣伝が中吊りされてたんですよね。それでその時いたコーチ達が、「一体全体Australasians Intervarsity Debate Association以外にAIDAって略称になる言葉があんのか」って笑い転げてたんですよ。

いや、あれはビビリました。
・・・・・・それ、略称じゃないだろ!!!

そう、オーストラリアから来ていたコーチたち、確かこの時は4人でしたが、誰もAIDAがギリシア悲劇を基にしたオペラだと知らなかったんです。
(・・・・・・私は最初にディベートの方のAIDAを聞いたとき、 「なんでよりにもよってそんな悲劇的な名前つけんだろう・・・」と思いましたが、つけた人達が劇のAIDAを知らなかっただけなのね・・・・・・)

言語(とそれに伴った歴史・エピソード・芸術など)によるアイデンティティというもの自体、ひょっとしたら彼らにはあまり馴染みないものなのかもしれません。それはそれで幸せなのかもしれません。

「地球上で自分がこの言葉の最後の話者になってしまったら」

そういう想像は、皆さんに恐怖感を抱かせますか?
後の世代にも漢文や古文を学んでもらいたいですか?
それが単なる感傷だとしたら、感傷を捨て実用的な教育をする方が建設的だと思いますか?

ちょっと考えてしまいます。

Tuesday, May 08, 2007

[Novel] 魔法飛行 L'Envolée magique


[本] 加納朋子. 2000. 『魔法飛行』. 東京創元社.

ふっかーつ!
忙しすぎた日々もあともう少し・・・・・・だと良いなぁ・・・
流石にちょっと体力的にへばり気味ですが、ま、がんばります。

『魔法飛行』は加納朋子の小説の題名ですが、
シャガールの絵のタイトルからとられたものです。
絵のほうは私にはちょっとハテナ・マークが残りますが、
小説のほうは目茶目茶ストレート・フォワードです。
ヘンなカタカナ語を使うと文章が不気味です(笑)

この小説は真っ直ぐすぎて気恥ずかしく、でもたまに開いてしまいます。
お話自体は小説家志望の女の子と謎の人物との手紙によるやりとりという、
他の加納作品同様割と地味な設定です。
けど書いてあることは異様に大きいです。
そのことが、嬉しい時と腹立たしい時とあるんですね。

そういえば最近広い空を見ていないかもしれません。
家の近くは立て込んでいる上並木があるので空があまり見えないんですね。
うーん・・・久しぶりに『宙の名前』でも開けてみようかな。ってそれじゃダメか(笑)

ところで今年は日本から初めて高校生の世界大会(World Schools Debating Championships)へ参加するチームが出ます。昨年末の全国大会で優勝したチームで、女性2名男性1名の3人チームです。これがまた利発で大人びた皆さんで・・・・・・私が高校生の時は断じてあんなに落ち着いていませんでした(汗)練習の様子を見ていても成長が速いので、私までワクワクしてしまいます。彼らを間近で見れるのは、ちょっと「空を見る」行為と似ているかもしれませんo(^v^)o ただ国際大会の厳しさも分かるだけに緊張もします。今まで彼らの先生役を務めてくれたローランドもスレッシュも、自分のことのようにドキドキしてくれているようです。でもいくらドキドキしても「楽しんできてくれますように」と祈ることくらいが私達にできる精一杯です。私達の大会ではなく彼らの大会ですから。ううー、それでもやっぱりドキドキします(笑)

いかんせんバンクーバー以来、何だかどう頑張ってもどうにもならないんじゃないかと暗くなりがちな私ですが、高校生の初世界大会チームを見たり、ちょっと遠ざかって十年前の大会を振り返ったりすると、何だか少しは救われる気持ちになります。牛歩の如し・・・だけど前進してるの・・・かな・・・?まあ、ボイジャーよりは分の良い夢を見てる筈なのかな。しかし夢が実現するのをこの目で見るためにはどんなに長生きしなきゃいけないんでしょう、私・・・・・・(苦笑)気分が少しは好転したこと・・・悔しいからティムにはまだ教えないどこうっと(笑)


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 文字とは所詮記号であり、文章はその羅列にすぎない。世界だとか人間だとか自然だとかいった、形の定まらない奇妙なものを、記号の中に封じ込めることはなんて難しいんだろう。
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「地球で一番大きな手紙ですね。異性人に宛てた」
 考えていることが口に出て、思わずそんなことを言っていた。卓見さんはぱちりとまばたきをしたが、それから白い歯を見せてにかりと笑った。先刻見たばかりの、お菓子をもらった子供たちの笑顔によく似ている。
「うまいことを言うね。手紙ならさしずめ、ラブ・レターってやつかもな。<おおい、我々はここにいる。こっちを向いてくれ>ってね。パイオニア十号だって彼らへの手紙を積んでいたし、ボイジャー一号と二号だってそうだ」(中略)
 私が首をかしげたのを、別な意味にとったのだろう、卓見さんはふいに生真面目な顔になった。「もちろん、実際に宇宙人がそのディスクを手にする可能性なんて、万にひとつもないだろうさ。ボイジャー二号が一番近い恒星に接近するのは、四万年後の話だからね。その次となると、十四万七千年後、さらに次は五十二万五千年後だっていうんだからさ、確かに首をかしげたくなるのも無理はないよ。夢みたいに気の長い話だからね。だけどだよ、夢は未来につながっていた方がいいに決まってる。そう思わないかい?
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 今の子供たちの多くは、ひょっとしたらまるで空を見ないんじゃないかって気がすることがある。それはひどくつまらない、そして恐ろしい想像だ。空を見ようとしない人間に、進歩なんてないと僕は思うから。そして進歩のないところには、未来などないとも思うから。
 だから君の物語に登場したような少年たちの存在を知ることは、僕にとって嬉しい驚きだった。
 君が出会った子供たちは、紛れもなく小さなライトであり、ロベールの子孫であり、モンゴルフィエの弟子たちだ(航空史上に、揃って彼らが兄弟でその名を連ねていることは、いかにも面白い符号だね)。ライト兄弟が飛行機で、そしてロベール兄弟やモンゴルフィエ兄弟が気球で空を飛ぼうとしたように、少年たちは彼らのやり方で、空に近づこうとした。凧や風船などといった、魅力的な小道具を使ってね。
 大空に対する、限りない憧れ。自由に空を飛びたい、という気持ち。それは人間の最も純粋で真摯な願いだとは思わないかい?
 そして、大気圏の彼方、遙か宇宙の果てに同胞を見出そうという気持ちもまた、そんな願いの遠い延長線上にあるんだろうと思う。
 我々が銀河系内で唯一絶対の存在であると自惚れて、安心していられる連中はいい。彼らには、見えない相手に向かって数限りないラブ・コールを送り続ける人間の気持ちなど、決して理解できないだろう。遠い宇宙に向けて、「ハロー」と通信を送ってみる。呆れるほどに長い時間をかけて、それが見知らぬ星の、まだ会ったことのない誰かの許へ届く。そしてその誰かから、ふたたび長い長い時間をかけて、彼らの言葉で「ハロー」という返事が返ってくる・・・・・・。
 それがどれほどに深い意味を持つことなのか、空を見ようとしない人たちには到底理解できないだろう。
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 彼女の思いは、作品のキーワードにもなった言葉、<魔法の飛行>に、最もよく表れている。どうもどこかで聞いた言葉だと思っていたら、マルク・シャガールのリトグラフの中に、同じタイトルの作品があるんだよ。知っているかな?実にロマンチックな絵だよ。愛する恋人の許へ、ピンクの花束を抱えた男が宙を飛んで会いにゆく。女性の目は驚いたように見開かれている。だが、彼女の手はすでに、男を迎え入れるように相手の方に伸ばされている・・・・・・。
 人から人へ向かう心というものは、魔法の飛行そのものだと思わないかい?二人の間に横たわる時間や空間、それに考え方や価値観の相違、様々な実際面での問題―そういった諸々のものを、ときに人はなんて軽々と飛び越えてしまうんだろう。
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Tuesday, May 01, 2007

[Book] いち・たす・いち 1+1


[本] 中田力. 2001. 『脳の方程式: いち・たす・いち』. 紀伊國屋書店.


明日の早朝にはスレッシュが成田に降り立ちます。

今頃出国審査かな。


さて、この本と姉妹本である『脳の方程式: ぷらす・あるふぁ』と一緒にBookOffで発見。何年か前に読んで面白かった本なので二冊まとめて購入しました。この分野と全く関係ない人にさらっと読めてしまうように書かれている好著。おススメです。


私が好きなのは「統一脳理論」という章の「意識の根源」という部分。LGS(lattice gas shell)の話。最近ニューラル・ネットワークを扱う人の多い部署に移動したこともあって改めて面白い話題です。『ぷらす・あるふぁ』の方の「禁断の果実」の章も好き。


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 脳の主食はブドウ糖である。

 どうしても仕方がないときはケトンと呼ばれるものも食べることはあるが、ほとんどの場合ブドウ糖しか食べない。そのくせ大変な大食漢である。

 草食動物は草というかなり効率の悪い食事をとる。(中略)肉食動物は動物を食べることによって、もう少し効率の良い食事法を手に入れた。それでも、脳が消費する恐ろしい量のブドウ糖を作り上げるには、よほどがんばって狩りをしなければならない。(中略)それでは、サル族はどうやって大きな脳を維持する食事法を見つけたのだろうか。

 何でも食べること(雑食)だけでは達成できない。

 実は、果実である。(中略)

 甘い果実を頬張ることで、サル族の先祖は大食漢の脳を大きくすることに成功する。エデンの園の記載は、あながち、うそではなかったのかもしれない。

(『ぷらす・あるふぁ』pp.106-107)

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[Book] Nakata, Tsutomu. 2001. 1+1. Tokyo: Kinokuniyashoten


Introductory book for brain science. Very easy to read through. :)

Monday, April 30, 2007

沈黙の罪 To sin by silence

To sin by silence when we should protest makes cowards out of men.
(Ella Wheeler Wilcox)

映画『JFK』の冒頭に掲げられる引用です。

昨夜NHK総合で21:00から放映された「日本国憲法 誕生」という番組を見ていて、数年前公開された極東委員会の資料も紹介されていました。それを見ながら母が、友人の中に公開されたその日に件の資料を閲覧しに行った方があると言います。なんでも、さぞや学者や報道陣が殺到しているであろうと思って行ってみたら日本人は誰一人閲覧希望に来ていなかったと憤慨されていた、というのです。

全くじゃないですか。
なんて酷い話だろう。
そんな大切な日に駆けつける人がないとはどういうことか。
この国には1億人もいるんじゃなかったですか?
学者は、報道者は、外交官は一体どこへ行ってしまったのか。
その方の嘆きもご尤もなことと思いました。

JFK暗殺に関する記録が公開される日は、どれだけの人がその資料を求めて駆けつけることになるでしょうか。(そういえば長崎市長の暗殺は結局動機不明のままなんでしょうか)

さて、沈黙の罪。

無知が罪だといったり、沈黙を罪だといったり、やたら罪深くて忙しいことだとお思いでしょうか。
いや、まあ、でも茶化さないで話しまして、確かに沈黙することも罪だと思います。
沈黙は無知を生みます。だから罪深いように思います。

例の「日本国憲法 誕生」ですが、よく煩型の人達がケチをつけなかったものだ(ほら、圧力かけたのかけなかったのとよく世間で話題になるじゃないですか?)と感心するくらい、政治的なメッセージが明確なドキュメンタリーでした。

憲法だの歴史教科書だの安全保障だのの話というのは、やはり日常では敬遠される話題ですね。なんだってそんなきな臭くて色気のかけらもないような話題を持ち出さなきゃいけません?十年前は今よりもっとずっとタブー視されていたような気がします。私の記憶は薄ぼんやりしているわけですが、湾岸戦争も拉致問題もそ通過していなかったそのまた十年前はもっとだったのではないでしょうか。

二十年前私は小さな子供だったわけですが、祖父が黙って海を見ているときや大叔父の墓に向かっている時には、尋ねたい言葉を呑み込んだものでした。黒かったはずの祖父の瞳が薄暗い日の海のようにブルーグレーに見えたものでした。(今では後悔しています。たとえ傷を抉ってでも、たとえ自分が幼すぎると引け目を感じたとしても、それでも訊いておくのでした。)

タブー視した気持ちもわかります。
心情としてはほじくるのが躊躇われる話題だし。
理性的にはきな臭いし。
右だの左だのレッテルを貼られたくなければ黙っているのが賢明です。

でも・・・・・・
声が上がるべきだった曲がり角を、もう何度も曲がってしまったんではないでしょうか。
それは自衛隊の活動が拡大されたからとか憲法の改正が議論されているからとかではなくて。

私達があまりに無知だから。

ろくすっぽ議論せずに黙り込んでタブーをタブーのままにしてきたから、
だからこんなにも無知になったんではないでしょうか。
臆病のために沈黙してしまった罪がふくれあがりすぎてしまったのではないでしょうか。
こんなにも無知で許されるのでしょうか。

2300万人が亡くなったと言われる惨禍から学ぶことを疎かにするのなら、
惨禍を減らすための叡智を必死に探すことなく、
万が一にも歴史を繰り返したなら、
その罪はどんなに深いでしょう。
その時には、それは曽祖父母たちの罪ではなくて。
その時には明確に私達の罪なのでしょう。

資料公開日に誰も閲覧に行かなかった。
それが「この国のかたち」なら、私はそのかたちが嫌いです。

皇室を批判するコメディアンが嫌がらせを受け、
受勲を辞退するノーベル文学賞受賞者が脅され、
ビラを配る市民団体が警察に拘留され、
政府の外交方針と異なる発言をしたコメンテータが更迭され、
靖国参拝に反対した議員の実家が放火され、
反戦を訴える地方自治体の首長が暗殺される。
それらに揺さぶり起こされることのない社会。
それが「この国のかたち」なら、私はそのかたちが嫌いです。

自分だって臆病者だから、発言する怖さはわかります。
自分の無知は自分を余計に臆病にさせます。
でもだからこそ、臆病心と闘って発言する人たちの苦難に敏感でありたい。
彼らを守るための声は挙げたいと思います。

いついかなる時でも、言論の自由は社会の命綱だと。
戦後の混乱の中にあった民間の憲法研究会。
言論封圧の中で投獄された言論人たちの集まり。
その質の高さに目を見張る時、
"I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it"
という言葉が心に甦る気がしました。

今日は二人、後輩が一緒に勉強しに来てくれました。
いつか彼らの声が必要とされる時、声を持つ人で居てくれますように。

JFK暗殺の資料公開は2029年です。
極東委員会の資料は・・・・・・もう公開されています。



追記: 靖国合祀問題の資料が4月18日、国会図書館のホームページで公表されました。
http://www.ndl.go.jp/jp/information/news.html#070418_01

Saturday, April 28, 2007

弱点 Weakness

昨日に引き続きだらだらしたことを書いてしまうことにします。

最近どうにも気になることがあります。
意識しなくても結局毎回同じことを感じてしまう。試合を見ると。
現在の日本の選手の弱点には明確な共通点があると思う。

それはレレバンス。

どうして?ホントに。
8割から9割の試合がイレレバントなセッティングで始まってしまうため、
最初の2スピーチを聞いた時点で大変苦痛な試合になるんです。
また、8・9割の選手があまりにイレレバントで場外になるので、
無難で妥当なことを言えれば勝ててしまう。

つまらん。

まともな試合になった上で、面白い試合とそうでない試合があるわけで、
それ以前にまともなクラッシュのない試合が多すぎて上手下手を話す段階になかなかならない。
一体どうしたわけでしょう。

(実はもっと深刻なことに、審査員や観衆がイレレバントさに気がつかないで平然としていることさえあるようになり始めたような気がします。これは真面目に不味い気がします。)

先日日曜日に大会に行って、確か4試合ほど見たわけですが、
上手い下手の話に持ち込めるのは決勝戦のみでした。
おっかしいなぁ。2年ほど前はもう少し平均値が良かったような気がするのですが・・・

中津燎子が『英語と運命』の中で、主催しているコミュニケーションの塾について書いています。
日本人の特に大人は、どんなに一生懸命トレーニングしてもらっても、
ダイレクトに返事をすることができるようにならなくて、
何故かズレてしまうのが治らなかった、と。
最初わざと誤魔化しているのかと思ったがそうではないらしい。
あれは日本人の奇妙な病気だ、と。

最近本当にそういうのって本当なのかも、と思ってしまいそうです。
だってオカシイでしょ、どう考えても。
いわゆる「とんでもケース」の割合がありえないほど高いもの。

で、一体この奇病の発生源は何なのだろう・・・と考えて、
とりあえず数種に分類してみました。
それぞれに典型的だと思った事例を添えてみます。
現実にはそういう「は?」と思わされるセッティングが数知れずあって疲労感がたまります。

(1)英語力の問題(・・・なのか?)というパターン

THBT all you need is love. (2月にあった大会の決勝戦の論題です)
って言われて体罰を持ってきたケースも明らかにわざと真っ芯外したとしか思えなかった。
(loveって言われてtough loveと定義しようっていうのもひねてるけど、
all you need is なら「さえあれば」と取るのが普通なので、
たとえtough loveとするのをありとしても「体罰『さえ』あれば良い」としないといけないわけです。
あの決勝戦のケースは「時には体罰もあって良い」という設定なのでイレレバントの極地です。
マライア・キャリーがAll I want for Christmas is you.と歌った時に、
「時にはあなたも居てくれて良い」と訳したんじゃロマンチックもへったくれもないじゃないですか。)

おそらく世界大会のEFL決勝戦もこのパターン。
lift sanctionと言われて制裁を解除するどころか更に厳しい措置を採ってしまったケース。
話題になった爆撃ケースです。
よしんばliftを「下げる」ではなく「上げる」に解釈してしまったのだとしても、
普通爆撃はsanctionとは言いません。

これは英語力の問題・・・なんですかねぇ・・・???
まあlift sanctionの方はそうなんだろうと思います。
また、本人達も「やらかしてしまった!」と言っていたので別に問題ない気がします。
まあ、そういう事故ってありますよね。緊張してると特に。

けどall you need is loveはねぇ・・・
なんだか選手も聴衆もケースがイレレバントだと思わなかったみたい。
どういうことなんでしょう・・・・・・?
中学英語の構文なので冷静に考えれば流石に分かりそうなもんです・・・
とするとやっぱり「何故かつい真っ芯を避けてしまう」病なのでしょうか・・・?

(2)論題を丸無視してしまうパターン

こないだの日曜日だと、conciencious objectorの試合もこれでした。
THW legalize conscientious objectors in the armed forces.
私が見たのは何故か「韓国のエリート/特殊技能者一割に兵役免除」というケースでした。
(ちなみに1割には遠く及びませんが現在でもあるシステムなので、
そういう意味でも駄目なケース・セッティングです。理念上の対立が全くないです。)
これは特殊技能者なら自動的に免除されてしまうようなので、
objectorとはまーーーーったく関係ありません。何なんだ、一体。

他にセッティングした本人に聞いたものだと、
THBT teachers should tell students “Thou shalt not commit adultery”.
を、学校でのコンドーム配布というケースにしたとか。
コンドームの使用と不倫がどう関係あるんだ?????
なんなんだ!一体???

こういうのは何なんですかね・・・?
どう考えても本人達も「ちょっとズレテルかも?」という認識はあったのではないかと思うのですが、なんで敢えてそういうセッティングを出してしまうのでしょうか・・・?やっぱり「つい真っ芯を外しちゃう」病?

ちょっと気になるのは、両方とも同じ大学が肯定側だったことです。
なんとなく練習のしすぎで、自分達の知っているケーシングに無理矢理こじつけてしまおうとしているのではないかと思います。練習でやったことのあるのでないと出せない、というのでは歌舞伎の世界です。時事性や社会性を重視するディベートでそんなことをされては意義がふっとんでしまいます。うーん・・・大丈夫かなぁ・・・

(3)ディベート自体への理解に問題があるパターン

先ほどのall you need is loveの試合の否定側がまるっきりこのパターンでした。
NAFA系の大会で出すなら問題ないが、いわゆるパーラで出すのには全く適さないケースでした。
というのは、「叩いちゃまずい。怒鳴りつけよう」というセッティングだったんです。

なんだそりゃ。

この試合を決勝戦で見てしまうというショックを受けて以来、
機会あるごとにパラダイムのレクチャーをしてまわっているのですが、
つまるところパーラメンタリー・スタイル自体への理解が浅いということなのだろうと思うのです。
パラダイムを理解していない。

パーラメンタリー(通常パーラメンタリーと言えばBPのことで、AAやNAは含まれません。が、何故か日本では誤用されたまま即興性のディベート全体がパーラと称されているままです。ここでは敢えて誤用のまま用います)スタイルは、基本的に比例代表選挙をモチーフにしています。

たとえば自民党が「憲法を改正すべきだ」と言ったら、民主党は「改正するべきでない」と言わなければなりません。自政党の独自性・差別化を押し出さなければ有権者がその党に票を投じる理由ができないんです。なので、民主党に「僕も改正すべきだと思うんだけどぉ。。。ここの部分のこことここらへんはちょこっと変えたほうが良いんじゃないかな、と思うんだけどぉ」とか言うオプションはありません。分かりにくいからです。とにかく立場のコントラストを明確にすることが至上命題です。クラッシュを創出して始めてディベートが始まります。

尻をひっぱたくか怒鳴りつけるかでは、両方とも「tough loveを与えるべきだ」という立場になってしまうので論外です。パーラのパラダイムでは、それではディベートになりません。

・・・・・・ここら辺の「ポリシーの影響を奇妙に受けたパーラ」という独自の事情を抱える日本では
ある程度仕方ないのかもしれませんが、まず決勝戦でみたくないし、パーラしかやっていない大学に見せられるのはあんまりな気もします。やっぱり、流石にファイナリストは自分達のスタンスがなんかズレてるというのは分かっていたのではないかと思うんです。でも「何故か真っ芯を避けちゃう」病??なんでしょうか・・・・・・?

(4)イシュー選択に問題があるパターン

これが異様に多いです。
感覚的には失敗する試合の5割はこのパターンではないかと思います。
スタンスまではまあ多少クラリティに欠けるが何とかなった・・・その後。
「そこじゃねーだろ!!!」と叫びたくなるような議論が飛び出してくるパターンです。

こないだの日曜日だと、THW ban face veils in school.と言われて、
学校での苛めの問題を延々と語るとか。
いや、そこじゃないだろ!!の極地でした。
救いは、否定側がちょっと具体性に欠けてはいたものの割りと方向がまともだったこと。

同じ日、この直後、THW prohibit any kinds of pornography on the Web.
の否定側が失業問題について熱く語ってしまうのを見てしまいました。
いや、ホント、そこじゃないだろ!!
実はこの試合は肯定側も「未成年者の視聴を防ぐため」というのがメインで、
これまた、そこじゃないだろ!!という気持ちが拭えないものでした。
わざわざ「any kinds of」とまで入れているのだから、相当クラシックなそもそも論を期待していたはずです、論題選考した人は。それをそんな小さなグループに落とし込まれては・・・・・・もう何なのさ。
まあそれでも否定側よりはずっとマシでしたが・・・

同じようなパターンで、一年前の東工大杯の決勝がありました。
Japan should have real armyと言われて、
「自衛隊を日本軍と変名する」というケースを出してしまった肯定側。
いや、真面目に、そこじゃないだろ!!!!
なんでそうやってわざわざ真っ芯外すわけ??

(5)知識に問題があるパターン

これは海外でもみかけるので、日本特有ではないと思います。
が、日本ネタでこれがあると眩暈がします。

そう、これが今年の東工大杯の域内共通歴史教科書の試合ですが、
これはいつかまとめて書くことにしたいと思います。

とりあえず、ルシアに「日本人だって日本のこと全然知らないジャン」と言われて
ぐうの音も出ませんでした。
これまで「日本人が馬鹿で無知なわけじゃない。大会でのトピックが日本人に親しみの薄いものに偏っているだけだ。我々の地域のものを出してくれれば質の高い試合を提供できる」と、論題の地域代表性の重要性を話して回ってお願いしてきていただけに大打撃でした。ホントまいった。

だってさ、セルビアやソロモン諸島についてのディベートでちょっと知識が足りなくてしくったセッティングしちゃったとしても、「日ごろ触れる日本語メディアにほとんど出てこない」という構造的な問題があるけど、歴史教科諸問題で「情報の取得に困難がある」というのは無理じゃないですか。それで同じようなレベルの試合をしてしまっては・・・・・・正直お天道様に顔向けできません的な気持ち。もうティムとかにお願いできないよ・・・・・・はあ、ホント、あの試合は困りました・・・

まとめ。

ディベートにおけるレレバンスというのは、つまりは「空気を読む」ことだと思います。
つまり日本のディベータには空気を読めない人が異様に多い!!!
「空気を読む」ことが一般的に日本的とされていることを考えると何だか奇妙な気がします。

たまにやってしまうのは仕方ないと思うんです。
私も何試合か忘れられないアホなセッティングをしてしまった経験があります。
(具体的にはICUTの決勝のクォータ制を出すべきところでワークシェアリングを出しちゃったのとか、IDC3の決勝の否定側で温暖化をインパクト・ターンしちゃったのとか・・・)

しかしですね、現在のパーセンテージは異常だと思います。
ホント、なんなのだなんなのだなんなのだ。どうしてしまったのだ。
こないだの日曜日は実に4試合中3試合(伝聞のものを含めると5試合中4試合)、
最初の2スピーチで「論外ラウンド」になってしまったわけですから、
どう考えても異常だと思うわけです。

・・・・・・Dynamics of DebateだのResponssivenessだのはディベートの命です。
それが欠けてしまってはディベートにならない・・・
そもそもクッキー・カッターだのプリンシプルだのというのが流行ったのは、
Dynamicsを確保するためなわけですが、言葉ばかりが独り歩きしている印象があります。
どうやったら日本のディベートコミュニティに魂が甦るのでしょう・・・
とりあえず論題をきっちり読め、必要なら声に出して読め、って感じ?

・・・うーん・・・・・・ちょっと愚痴っぽくなっちゃった。
きっと自分で読み返してもやな感じの文章だ。
次回はもっと明るく書きたいと思います。

Friday, April 27, 2007

雷蔵 Raizo

すっかり間があいてしまいました。
前回書いたのはいつだったっけ・・・・・

やれやれ、何だか最近嵐のような日々です。

IDC8、やることになりました。
5月の3日~5日です。
(一日3000円です。参加を検討される方は是非ご連絡ください)
ていうかホント今回はもう無理かと思いました。
何がって自分が。擦り切れそう。神経とか日程とか色々。

まあでもスレッシュが来てくれるのは楽しみです。ちなみに彼も同期です。
アジア大会は1999年のチュラAsianが初めてだったんですよね、二人とも。
当時のビデオに映っているのを発見してしまいました。ひひひ。ノスタルジー。
その後のマレイシアの興隆の種を蒔いたのは他ならぬこの人だったな、と思います。
彼が始めてのアジア大会で、ビッドの呼びかけに「はい」ってその場で手を挙げたんでした。
あれは今考えても凄い度胸だったと思います。思い切りの良い人で行動力も半端じゃなかった。
その後何かと話題のコーチたちを雇い入れ、チームメイト達を増やしていき・・・・・・
本当にアジア大会開いちゃうわ、自分の大学を押しも押されぬアジア有数のチームにしちゃうわ。
今でこそ有名なあの某大学(マルチメディア大ヴォイスの初代なんですよー)ですが、
全ては彼とガラージュの二人から始まったんですよね。
そういうこと本人は吹聴しないけど、だからこそ同期としては尊敬してしまいます。
私にとってはちょっとした地上の星です。

2001年の豪亜大会で「日本のチームが勝てないのは何故だと思うか」と聞くと、
他の人が皆「ちょっと運が足りなかっただけさ」とか「わからない」とか誤魔化していた時に、
スレッシュは「英語だろう・・・。いや、ちゃんと見てみないと一概には言えないな。でも英語なんじゃないかと僕は思うな」と言ってくれました。この率直さと誠実さに胸を打たれ、以来ファンになりました。当時の日本人選手団の様子は今とは全然違いました。あの時にあれだけ誠実な言葉をくれたのは彼が最初でした。2002年のアジア大会で彼がベストスピーカに選ばれた時は嬉しかった。

その後もやっぱり私は変わらずこの選手のファンでした。2002年8月のIDC1で一人講師が突然来れなくなった時には一時はまだ若かったスレッシュに代わりを頼もうと思ったほどでした。その後ようやくその夢が実現して来日してもらえたのは2004年でした。嬉しかった。

政治に出てこない(そういうポリシーみたい)ので知る人ぞ知る影の英雄って感じで、
結局アジア大会のベストスピーカとして有名なのでしょう。
UTMaraをあそこまで育てたこともこの人は本当にひけらかさない。
アジア大会があんなことになってしまった時も、彼の言葉は暖かかった。
そういう誠実さとか選手への真摯さとかいったことの価値が分かるようにしたいと思っています。
それが末永くこのコミュニティで続けていくための唯一の羅針盤だと最近つくづく思うのです。

今回も実は急なお願いで査証の申請など凄く大変だったのに
快く引き受けてくれました。優しさが目にしみます・・・

会えるのは久々です。2005年以来?丸二年も会ってないんですね。楽しみです。

タイトル?全く意味なしです。

Monday, April 16, 2007

[Article] パラダイム評価の危機 The Perils of Assessing Paradigms

[論文] ザレフスキー, デイヴィッド. 1982. 「パラダイム評価の危機」. 『米国討論学会誌』. 18巻冬季号.141-144頁.

すぐ前のローランドの記事に対するザレフスキーからの短い返答です。
このザレフスキーという人は大変面白い人のようです。日本ではハイポの提唱者として有名ですが、そもそもの問題意識は「何のために討論するのか」だったのだろうと思います。彼は競技としての討論しか見えなくなっていく同輩達に警鐘を鳴らしたかったのではないかと思います。ハイポはそれくらい、サイド間の均衡とかフェアネスとかを度外視しているように見えて、それだからこそ面白いと思います。魅了される人が出るのも分かる気がするのです。

[Article] Zarefsky, David. 1982. The Perils of Assessing Paradigms. Journal of The American Forensic Association. vol.18, Winter. pp141-144

This article is a direct and rather short respond from Zarefsky to Rowland's article right before. Zarefsky seems a very interesting person. In Japan, he is well known as an advocator of Hypothesis Testing Paradigm. But it seems to me, his main target was to question the goal of debating. While many fellows were increasingly narrowing their perspective to one for the contest debate (for example, Rowland's justification of his standard was the format of contest debate itself and it is indeed, I think, weak.), Zarefsky wanted them to realize what is the core value of debating. At least, he thought trophies were such a trivial part of debating as a whole. I guess, that is why, Hypothesis Testing Paradigm ignores the balance and fairness between sides of debates to a surprising extent. Regardless the "practicality" of this paradigm, I think his words are worth listening and no surprise at people being attracted by his words. Yes, I find him very charming. :) Although I disagree with Zarefsky on his statement that "a paradigm can be discredited only through ad hominem arguments." (I don't think the discussion over paradigms should be shut down simply because I feel that's the most exciting beauty of debating!!), I still find him very lovely.

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But if the starting point of analysis were the contest debate then the inquiry into paradigms would be trivialized.
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But the analogy is weak, because the goals of argumentation are themselves is doubt.
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Paradigms cannot be assessed against the goals of an activity when the goals themselves are in dispute.
Nor does Rowland's decision to focus specifically on contest debate help here. He asserts, "The ultimate goal of debate is to teach people how to argue effectively." But this statement conceals more than it reveals. What does " argue effectively" mean? If it means "successfuly," then the statement means little more than that the goal is to teach people to win arguments. If it means "realistically," then the goal is to model arguments on those in the public forum. If it means "creatively," then the premium is on novel arguments. If "analytically," then the goal stresses formal and informal reasoning. The point is that we really cannot say with anything approaching the agreements one finds in sience, just what the goal of argumentation and debate is. And without agreement, we cannot evaluate paradigms reliably to see how they function in achieving the goal. The paradigm and the goal are bound up together.
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But each of Rowland's other four standards is flawed. The "fairness" standard assumes that the starting point of analysis is the competitive debate activity;
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Within one paradigm, "justification" arguments are strong; within another they are irrelevant. Asking questions about an opponent's evidence counts as clash within one paradigm; within another a counter-argument is requirred. Terms such as "weak argument" and "clash" are hortatory, but what they mean depends on the paradigm one assumes. Hence they are not paradigm-free standards which can be employed in comparative assessment of paradigms.
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Probably my strongest disagreement is with Rowland's fifth standard, that the paradigm "should operate within the current form of deate." I do not champion innovation for its own sake, and I think that most current paradigms do fit within debate's current form. But to make of that correspondence a standard is to commit a multitude of sins. It trivializes the choice of paradigms by making the contest activity the starting point for a theory of argument, rather than the other way round. It ignores the adaptability of contest debate formats and procedures - "the current cross exam debate format" has not been in continuous use, and no debate format is set in stone. It treats "the current form of debate" as monolithic, ignoring the rich variety of formats and procedures. And it means that the inevitable changes in format will be made randomly and in response to fads, rather than in a systematic way to bring contest debate closer in line with a paradigm of general argumentation.
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Rowland correctly states my belief that "the form of debate should be shaped to the paradigm," but adds, "The search for a more perfect format for debate is certainly a laudable goal, but it is not relevant to the point at issue." The point at issue, though, is not experimentation with formats; it is the establishment of a principle of hierarchy.
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[English vocab for masako]
peril, adherent, induce, assent, probative, conducive, slippage, moot, antecedent, hortatory, set in stone, monolithic, fad, exalt, put the cart before the horse, tenable, formidable,

Sunday, April 15, 2007

[Article] パラダイム評価の基準 Standards for Paradigm Evaluation

[論文] ローランド, ロバート C. 1982. 「パラダイム評価の基準」. 『米国討論学会誌』. 18巻 冬季号. 133-140頁.

基本を網羅した好著。

ディベートのパラダイムについてこれから勉強し始めよう、という方にはこれをおススメします。それか、アーリックの『教育ディベートの審査』のどちらか。両方とも大変わかりやすく概観を提示してくれます。

[Article] Rowland, Robert C. 1982. Standards for Paradigm Evaluation. Journal of the American Forensic Association. Vol 18, Winter. pp 133-140.

Covering the major paradigms and their basic studies.
This is something I recommend to read for somebody who is about to start learning about debate paradigms. Or Ulrich's "Adjudicating Academic Debate". Both of them give us good grasps.

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The choice among paradigms is now the dominant theoretical issue in debate. Not only do disputes over debate theory increasingly focus on the contest among debate paradigms, but specific debate theories and tactics are often understandable only within the frame of reference provided by a paradigm. And in many cases, the justification for a theory or tactic comes from a paradigm or model of debate.
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In addition, scientists operating within different paradigms often perceive very different realities, even when looking at the same data:
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Not only do debate paradigms provide the standards by which judges evaluate debates, but paradigms actually determine what the judge perceives.
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The argument is the same, in each instance, but the way that the judge views it is governed by the decision paradigm.
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Here Zarefsky borrows Johnstone's use of the term ad hominem to suggest that the world views flowing from competing paradigms are so different, while still internally consistent, that no real argument can take place among the proponents of the different debate models. Kuhn makes a similar argument when he claims that the proponents of competing scientific paradigms often cannot understand each other because they see the world in such different terms.
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Saturday, April 14, 2007

[Article] 理性から感性へ From Logos to Pathos

[論文] バーブリア, ミッチェル.1997. 「社会心理学における理性から感性への移行と学術議論: 説得の社会学におけるポストモダンとポジティビズムの融和」. 『アーギュメンテーション』. 11巻.35-50頁.

残念ながらこの論文はしっくりきません。

コミュニケーションの困難さは、確かに「世界観」の違いに起因するのでしょう。けれど、それはロゴスとパトスの分類とは全く関係のないところにあると思うのです。

私達が一つの「事実」をめぐって議論する時、その過程(理由付けや例示)で必ず他の事実を巻き込みます。そうした事実に関しても同意できない時、世の中はどうやって事実認定をするのですか。確かに説得力かもしれない。けれど説得されるマジョリティが信じるサブ事実には根拠も何もなく、単なる刷り込みがものをいっているのではありませんか。

「ああ、この人と話しても無駄だ」と思われる瞬間、ありませんか。
あれは、議論の前提となる予備知識もあまりにかけ離れていて、とても一つの議論に終わらないために諦めているのではありませんか。
世の中にはそういう関係が山ほどある。母語が違うなら尚更です。
少数者の言葉は静かに、水面下で、音も立てずに殺されていくのです。
表面的には議論を尽くされた上での結論として、大事に扱われる「事実」が、真実を嫌うのです。
言葉の、コミュニケーションの暴力性とはそういうものだと思うのです。

[Article] Berbrier, Mitchell. 1997. From Logos to Pathos in Social Psychology and Academic Argumentation: Reconciling Postmodernism and Positivism in a Sociology of Persuasion. Argumentation. vol.11. pp.35-50

I regretfully admit that I have to disagree with this article.

The reason why interpersonal/intercultural/interlinguistic communication is difficult might be indeed because of the differences of "world view" but not necessarily pathotic difference alone. They can be as much as logical.

When we argue upon a piece of fact, we inevitably involve other "facts" in reasoning and providing examples. When we do not agree on such either, the disagreement becomes a lot more complex. Our "world-view" is formed based on huge accumulation of "facts". When the audience have particular bias on such fact judgements for sub-reasons and sub-examples, it is only and violently decided by audience's bias. It's nothing to do with "logos" "pathos" distinction, I suppose.

I wonder...

...if communication just kills weaks softly in this silence, why do we wish to communicate this hard......? Where should we refind our enthusiasm after this futility?

[Abstract of the Article]
This paper argues that one can empirically test, via positivist methods, the post-modern attack on positivist epistemologies: Postmodern perspectives hold Knowledge and Truth to be intersubjective, consensus-driven social construction. But traditional scientific approaches to knowledge, exemplified here byh the cognitive social psycology of persuasion, seem pblivious to this and continue to detach the study of attitudes, beliefs, and emotions from that of knowledge, facts and reason. Abandoning these artificial distinctions in both epistemology and method woud enable this social psycology, reconstituted as a Sociology of Persuasion, to contribute greatly to illuminating the process of Truth and Knowledge construction in social interaction. Moreover, this would facilitate academic engagement in civic discourse.

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In this paper, I wish to argue that if we are to understand each other, if we are to engage in interpersonal or intercultural communication, we must recognize the intersubjective bases to our truths and attend to the effective bases of knowledge. There is a role in civic life for academics (such as social psychologists) who take 'beliefs,' 'attitudes,' and 'knowledge' as their subject matter, but this role is dependent upon the recognition that knowledge is not a matter only of logical inference and reason (logos) but of persuasive rhetorical strategies aimed at aligning emotional ties to world-vies (pathos).
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[English vocab for masako]
epistemology, intersubjective, exemplify, oblivious, pastor, align, murky, dialogic, inference, adhering, creed, sterility, esoteric, vibrant, myriad, dichotomy, preclude, nominalism, epitomize, deviance, snub, reifying, chasm, voluminous, scrutinize, cogent, disjunctive, spurious

Friday, April 13, 2007

[Article] 市民社会における意見表明の役割 The Role of Advocacy in Civil Society

[論文] ゾンペッティ, J.P. 2006. 「市民社会における意見表明の役割」.『アーギュメンテーション』.20巻. 167-183頁

一応一日に一論文読むことにしています。
知らない/自信のない単語は全て英英辞書の意味を書き写すので、
たった一つの論文を読むのも午前中いっぱいかかることもあります。
そんでもってパソコンの前で読めるときは忘れないようにこうしてメモを残します。
で、今日の分はこれ。
何だか暑苦しい文章でしたが何とか完読。
大上段に構えすぎた夢言はしばらくいいです……うっぷ。
暑苦しいっちゅうねん。もう少し具体的に書いて欲しいな。
特にthird spaceの説明がムッチャ胡散臭い。

[Article] Zompetti, J.P. 2006. The Role of Advocacy in Civil Society. Argumentation. vol20. pp167-183

My daily quota now is to read an article per day.
Because I look up every English word that I'm not confident about its meaning and write down whole definition of it, it sometimes takes a couple of hours in the morning.
And this is what I read this morning......
daaaa.... too much idealism in a day!
away too fishy......
wish there was explanation how we should create such "third space"...

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Civil society for contemporary society should embrace the concept of the third space, as discussed by Bryant (1993), Cohen and Arato (1992), and Hauser and Benoit-Barne (2002). The third space envisions civil society as an autonomous sphere, separate from governmental or economic influence. The third space minimizes the amount of undue influence that can emanate from the state or the market. (p.180)
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However, assuming there are enough citizens who have the ability and willingness to engage in civil society, how could their participation be improved? How could civil society be more influential in its relationship to the state and market? How can citizens feel more secure and enthusiastic about their participation? I believe that the skills of advocacy can help answer these questions. (pp.180-181)
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[English vocab for masako]
resuscitate, ushering, theorize, cohesive, flourishing, burgeon, clamoring, deterioration, emulate, reinvigorate, notwithstanding, brute, harbinger, advent, proselytize, suffice to say, transpire, leverage, vis-a-vis, despotism, foster, third space, emanate, coercion, salient, populace, panacea, collusion, acrimony

Thursday, April 12, 2007

[Article] 言葉の泉に毒を盛る Poisoning the Well

(English version is following Japanese one)

[論文] ウォールトン, D.N. 2006.「言葉の泉に毒を盛る」.『アーギュメンテーション』.20巻.273-307頁

ていうかこっちは逆。和訳できません。
"Poisoning the well"にあたる言い回しが思いつきません。なんだろう。
argumentum ad hominem(これも和訳が思いつかない。人格攻撃?ちょっと違うか…)の一種で、「誰かが発言する事前にその人の信用を落としたり、特定の意味に解釈させやすくしておく」ことを指すようです。特定の民族(ユダヤ人や朝鮮人)が井戸に毒を盛ったという噂によって起きた迫害と関連している可能性もありますが、元々ニューマンが使った部分の説明で「Kingsley had poisoned the well of discourse」という用いられ方をしているので、まあ「言葉の泉に毒を盛る」という訳にしてみました。

内容は大変興味深く読みました。特に出てくる具体例がどれも示唆深かったように思います。

ディベートでは、私達が何者であるかは議論に影響しないのだと繰り返し教わるわけです。特に審査員を務めるときは、できるかぎりこうした「言葉の泉に毒を盛る」行為の影響から自由であろうと努めるわけです。しかし現実の社会は違うのでしょうか。また違うべきなのでしょうか。わかりません。私は、実社会でもディベータとしての信条をそのままにしていたい。けれど最近(特に例のバンクーバー以来)少し混乱気味です。

[Article] Walton, D.N. 2006. Poisoning the Well. Argumentation. vol.20. pp.273-307

mmm... this one is opposite. I can't translate this to Japanese.
What's Japanese word for "poisoning the well"??
It's a kind of argumentum ad hominem but points only ones done preemptively.
mmm... for now, I just translate it as "Kotoba no Izumi ni Doku wo Moru" considering the Newman's usage of this phrase.

The content of this article is very interesting. I especially enjoyed examples.

In debating, we are repeatedly taught that it doesn't matter who we are, that argumentum ad hominem should not be awarded. We especially try to avoid to take "poisoning the well" type of "fallacy" in count when we adjudicate. But is "real world" outside of debating different? And should it be different? I don't know. I hope to stay consistent. But I'm recently(especially after Vancouver) a bit confused on this.

(followings are citation from the article)
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The poisoning the well type of argument can be very dangerous. It can shut down a discussion by disqualifying one arguer from putting forward any argument, no matter how good it is, or how much it based on good evidence, simply because any argument he puts forward will always be seen as simply reflecting this same bias. His (or her) arguments will always be seen as biased and one-sided, and therefore limited and unconvincing. If disqualified as arguments that only promote or advocate an interest, pushing ahead covertly for gains for an interest group, they can be discounted, even though they may have merit, and be worth considering. (p.276)
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The attack can be based on several grounds. One is an allegation that the arguer has a character that is ethically bad in some respect, for example that he is a liar. Another is that his personal circumestances are in conflict with his argument. Another is that he is biased - for example, it might be argued that he has something to gain by taking the view he does. (pp.278-279)
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And indeed, if a person has a bad character for veracity, for example a witness in a criminal case, then attacking that person's character in order to make his or her testimony seem less plausible toa jury can be a reasonable form of argument. For example, in legal argumentation, it can be admissible as evidence for an attorney cross-examining a witness to attack the character of the witness for honesty. Because this type of argument is sometimes legitimate, it is something of a misnomer to call it the "abusive" ad hominem argument. In Aristotle's Rhetoric (Garver, 1994), argument from ethos (character) was regarded as highly important in public speaking, and in rhetoric of all kinds, and was recognized as a legitimate kind of argumentation. (p.286)
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In the bias type of attack, the arguer is said to have a personal bias, often in the form of a financial interest or something to gain. For example, suppose a speaker in an environmental debate, who has played down the damage of acid rain in the debate, is shown by her opponent to have ties with a large industrial corporation. This corporation may have much to lose by costly environmental controls that might be placed on industrial pollution. (p. 287)
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[English vocab for masako]
irreducibly, presupposition, innuendo, smear, perverse, stalemate, deteriorate, forestall, construe, taint, argumentum ad verecundiam, diffident, retort, contend, close off, tu quoque, veracity, whiff, lingering, misnomer, adept, virtue

[Comic] 愛すべき娘たち All My Darling Daughters

can't translate this into English...just can't.
writing about politics, economy and stuff is not difficult.
but don't know how to express my feelings in English yet...
hopefully someday... :)

[漫画] よしながふみ.2003. 『愛すべき娘たち』.白泉社.

傑作。

最終話まで含めて5人(一応雪子を中心としてその周囲5名)の女性達が出てくるわけですが、どれも唸らされるくらいドラマチック且つありそうな話(第二話を除く)。それぞれの心情に共感してしまう(またまた第二話を除く)だけに話に入り込みます。しかしホントよくできてるなぁ・・・

以下、ネタばれにつき注意。

第一話。
雪子の母、麻里の八つ当たりの仕方がうちの母にそっくりでビックリ。ここまで理不尽な人が他にも沢山いるのか・・・・・・そうかぁ・・・・・・・私もがんばろーっと(苦笑)

第二話。
これだけは全然わからん。パスです。

第三話。
うーーーーーーんんん・・・・・・これは凄い。ずーっと、たおやかな美人なのに何故か恋愛の縁が少ないという不思議な子のお見合いの模様を追っかけていくわけですが、ここまではありきたり。途中に、「あれ、ってことは・・・」と思わされつつ、最後の台詞にノックダウンされました。お祖父さんの素性はそうかな、と思ってたのよ!しかし彼女の進路と合わせた後の雪子の台詞「そうね、でも、彼女の中では矛盾はなかったのよ」。うーーーーーんん・・・・・・思想ってそんなものだよねぇ・・・・・・とつくづく。

第四話。
牧村の挫折もせつなければ、佐伯の孤独感もよくわかる。女友達ってこういう淋しさといつも隣り合わせだよね・・・。佐伯の「ううん、いいの、それは。とにかく牧村がいましあわせでいるなら、それでいいの・・・」にノックダウンされました。あるよなー、こういう感覚。友達に理想押し付けてもしょうがなくて、幸せでやっててくれることの方が大切だよな、って思う瞬間あるなぁ・・・。しっかしいやーーー、話の構成も表現もため息が出るほど上手。

最終話。
これはちょっとお手軽。でも気持ちはわかるけど。ここに来て突然麻里の夫が格好良くなる。なんだか最後を一人でかっさらっていってズルイ感じ(笑)雪子、負けるなよ(笑)

うーん、こうしてみると私が主にノックダウンされたのは三話と四話みたい。
いや、しかしよくできてるなぁ・・・この作家さん凄いですね。

[Comic] Yoshinaga Fumi. 2003. All My Darling Daughters. Tokyo: Hakusensha.

Omnibus consisted with 5 stories about 5 women surrounding Yukiko.
Each story (except the second story) is very easy to make readers emphasize.
Both story structure and artistic expression are awesome.