Showing posts with label book review. Show all posts
Showing posts with label book review. Show all posts

Monday, April 09, 2007

[Book] 日本書紀 Nihonshoki

[本] 宇治谷孟.1988. 『日本書紀(上・下) 全現代語訳』.講談社.

うーーーん。。。確かにディベート向きじゃないかなぁ……

-------------------------------------
 夏四月三日、皇太子ははじめて自ら作られた十七条憲法を発表された。
 一にいう。和を大切にし、いさかいをせぬようにせよ。人は皆それぞれ仲間があるが、全くよく悟ったものも少ない。それ故君主や父にしたがわず、また隣人と仲違いしたりする。けれども上下の者が睦まじく論じ合えば、おのずから道理が通じ合い、どんなことでも成就するだろう。(p.92)
-------------------------------------
 三にいう。天皇の詔を受けたら必ずつつしんで従え。君を天とすれば、臣は地である。天は上を覆い、地は万物を載せる。四季が正しく移り、万物を活動させる。もし地が天を覆うようなことがあれば、秩序は破壊されてしまう。それ故に君主の言を臣下がよく承り、上が行えば下はそれに従うのだ。だから天皇の命をうけたら必ずそれに従え。従わなければ結局自滅するだろう。
-------------------------------------
 十にいう。心の怒りを絶ち、顔色に怒りを出さぬようにし、人が自分と違うからといって怒らないようにせよ。人は皆それぞれ心があり、お互いに譲れないところもある。彼が良いと思うことを、自分は良くないと思ったり、自分がよいことだと思っても、彼の方はよくないと思ったりする。自分が聖人で、彼が必ず愚人ということもない。ともに凡人なのだ。是非の断りを誰が定めることができよう。お互いに賢人でもあり愚人でもあることは、端のない環のようなものだ。それ故相手が怒ったら、自分が過ちをしているのではないかと反省せよ。自分ひとりが正しいと思っても、衆人の意見も尊重し、その行うところに従うがよい。
-------------------------------------
 十七にいう。物事は独断で行ってはならない。必ず宗と論じ合うようにせよ。些細なことはかならずしも皆にはからなくてもよいが、大事なことを議する場合には、誤りがあってはならない。多くの人々と相談し合えば、道理にかなったことを知り得る。(p.96)
-------------------------------------

[Book] Ujitani, Tsutomu. 1988. Nihonshoki. Tokyo: Kodansha.

Sunday, April 08, 2007

[Book] 討議倫理 Erlauterungen Zur Diskursethik

[本] ハーバマス,ユルゲン.1991. 清水多吉・朝倉輝一訳.2005. 『討議倫理』.法政大学出版局.

え?我慢するんじゃなかったのか?
ええ、まあ……その……。
本当は『コミュニケーション的行為の理論』を読みたいのですが、こちらで今は我慢(笑)。

ちなみに、討議倫理という言葉はドイツ語ではDiskursethik、英語だとDiscourse Ethics(もしくはArgumentation Ethics)となります。これはディベータの倫理/作法(ディベーターシップ)ではなく、ディベータがどうやって倫理を語るべきか(モラル・アーギュメントの立て方)を指すようです。

学部の頃、KDSの先輩方には「事実は価値を生まず、価値は事実を生まない」と繰り返し教わりました。ハーバマスの「道徳原則は、理性の示す事実性から導かれることはない」という言葉はそれに近い意味なのかもしれません。私自身は最近、価値が<事実>を生んでしまうことも、<事実>が価値を生んでしまうこともあるのではないかと思っています。それは、ポスト・モダンを既に前提とするようになった教育を受けた私には、価値と事実の境界線が見えずらいことにも起因しているような気がします。

Discourse EthicsについてのWikipediaの解説はこちらです。

------------------------------------------
 結局、われわれは、このような(あるいは似たような)道徳原則が単にある特定の文化やある特定の時代の直感にあてはまるだけではなく、一般にもあてはまるということを主張する倫理を、普遍主義的倫理と名づける。道徳原則は、理性の示す事実性から導かれることはない。このように事実性に依存することのない道徳原則の根拠づけだが、自民族中心主義的な誤った判断という嫌疑を晴らすことができる。われわれの道徳原則は、今日の成人した白人の、男性の、市民層のよく教育された中央ヨーロッパの先入観だけを反映しているのではない、ということを証明することができなければならない。私がここで問題にしたいのは、討議倫理がこのような関連の中で提起するさまざまなテーゼを心に留めてもらいたいだけである。つまり、それらのテーゼとはこういうことである――論議に真面目に参加しようと試みる人ならだれでも、規範的な内容をもつ普遍的語用論の諸前提をまずもって暗々裡に承知してかかわらねばならないものだということ。その上で、論議上の行為規範を正当化するとはどういうことかが周知徹底されている場合にのみ、道徳原則は、そのような論議の諸前提の内容から導き出されるものだということが、これである。
--------------------------------------------
形式主義的倫理は、人があることを道徳的観点からどのように考察するかを明らかにする規則をあげる。周知の通り、ジョーン・ロールズは、すべての関与者が相互に、合理的に決意して平等な権利をもった契約のパートナーとして向き合うような原初的状態を紹介する。もちろん、ロールズの例は、事実上受け入れられている現実の社会状態を無視したものであり、「当初に目標とされた根本的一致がフェアになされることが保証されているようなスタートの状態」を想定したものであるのは、言うまでもない。これに対して、G・H・ミードは、理想的役割取得を提唱する。これは、道徳的に判断する主体が、問題ある行為が遂行されることによって、あるいは問題ある規範が発行されることによって被るかもしれないすべての人のその時々の情況に身を置いて考えてみることを、要求するものである。実践的討議の手続きは、この両者の考え方よりも優れている。論議においては、原則的にすべての関与者は自由であり、平等である者として、共同的に心理追求に参加する。その際、よりよき論争のための制約だけが通用するべきである。実践的討議は、論議に基づく意思形成のために要求するところの多い形式である。(中略)他方、われわれの実践的討議の方は、その形式について言えば、すべての関与者が同時に理想的役割取得を行いながらの了解のプロセスとして把握される。したがって、この実践的討議は、それぞれ個々の私的に行われる理想的役割取得(ミードの場合)から、公共的な役割取得、何よりも間主観的に共通に展開される役割取得へと形を変えて行われるものである。(p.9)
--------------------------------------------
言語能力と行為能力をもつ諸主体は、彼らがそのつど特殊な言語共同体の一員として、間主観的に共有された生活世界の中へと発展的に入りこむことによってのみ、むしろ、個体として構成されるものである。コミュニケーション的形成過程においては、個々人のアイデンティティと集団のアイデンティティとは等根源的に形成され、保持される。(p.10)
--------------------------------------------

[Book] Habermas, Jurgen. 1991. Erlauterungen Zur Diskursethik. Suhrkamp Verlag.

Friday, April 06, 2007

[Book] 容赦なき戦争 War Without Mercy


[本] ダワー,ジョン.1986. 猿谷要監修.斉藤元一訳.1987.『人種偏見: 太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』.TBSブリタニカ.(同.2001. 『容赦なき戦争』.平凡社)

ピューリッツァ賞を受賞した『敗北を抱きしめて』と同じダワーの著作。
こちらの方が書かれた時期も扱っている時代も早い。
『敗北を抱きしめて』が戦後の日本に焦点を当てているのに対し、
この『容赦なき戦争』は戦中の日米両国におけるプロパガンダを扱っている。
大変興味深い一冊。沢山の実例を伴っているので説得力もかなりある。
平凡社ライブラリー版への序文は9.11直後に書かれており、
テロと真珠湾攻撃の比較も、流布する言説の比較もなるほど、と読んだ。
何よりも、ダワーの示す絶望と希望の危ういバランスに惹かれずにはいられない。

ちなみに、『敗北を抱きしめて』というタイトルを初めて聞いた時は、
なんて凄いタイトルだろうと雷に打たれる思いだったが、
英語の原題がかなり違う印象で酷くがっかりしたのを覚えている。

今まで私が映像で見たダワーはいつも英語で話していた。
けれど日本側の資料にもかなり良質のものも含まれていて、
ダワーは果たして日本語ができたものかと疑問を抱かせるほど。
それでも私的にはダワーよりもラミスの方が好感が持てます。

とにかくそれでもこの本は一読の価値がある本だと思います。

ちなみに去年と同じこの時期に突然戦後史ブームがやってくるのは偶然ではなくて、
東工大杯でショッキングなラウンドを体験してしまうから。
主催者の論題選択には別に問題はないわけだが、
いかんせん参加者の読書量に愕然とさせられる。
それについてはまた後日書くこととします。

---------------------------------
言葉というものは、重要である。スローガン、イメージ、シンボル、ステレオタイプ、記憶の断片――すべてこれらのことは、自己や他者についての概念を形づくり、私たちの行動に影響を与える。そして言葉はたびたび誤解のもとになり、言葉から生まれた概念はゆがめられ、行動は悲惨で破壊的なものとなる。(p.21)
---------------------------------

[Book] Dower, John W. 1986. War without Mercy: Race and Power in the Pacific War.

Thursday, April 05, 2007

[Book] 日本人の言霊思想 How Ancient Japanese Saw Sacred Spirits in Words


[本] 豊田国夫.1980.『日本人の言霊思想』.講談社.

うーん……。
なるほどなぁ、と素直に感心する部分もあれば、
ええええ、と思うくらい言葉に懐疑的な部分もあり。

しかし日本語はパトス的だ、と書いている人は多いわけですが、
その割りに現代日本のディベータのロゴス狂いは何なんでしょう。
もう少しパトスを利用したって文句は出ないのではあるまいか、と声をかけたくなる程、
禁欲的なディベートをする彼らをどう説明すれば良いのか困ります。

---------------------------------
彼ら古代人にとって、言葉は、現代のある種の人びとが主張するような、単なる媒介、符号物ではなく、もっと人間や事物と切実な関係をもった、生きたものとして感じていたのではなかったか。つまり、彼らにとって、言葉は事物と一体をなすものであった。(p.14)
---------------------------------
 四神出生の章で、イザナギ、イザナミが柱をめぐる時、「陰神先づ喜びの言を発ぐ(発言)」というが、イザナギが泉津平坂で、神聖な場所選定の時のコトアゲは、十二神出生の機縁となった。スサノヲが八岐大蛇を退治して、クシナダ姫と新居の地を決めた時、「吾心清清之」といった歓声のコトアゲ、日神と誓約したスサノヲが、男子を生んだ時の大言壮語のコトアゲ、同じく新羅に下った時「此の地は吾居らまく欲せじ」という意思表明のコトアゲ、大国主命が出雲に国造りする時のコトアゲなど。また『続日本紀』にも「興言して此れを、念ひ」とか、興言して何々と用いられているが(巻三三)、すべて発言に特別の意味を持たせている。ヤマトタケルが伊吹山を征服した時、山中で大きな白猪と出会い、「還りに殺そう」とコトアゲしたため、帰途その猪に大変なやまされた話がある。西郷信綱氏は、このコトアゲについて、『新撰字鏡』に「誇」の字義が「挙言也。伊比保己留、又云太介留。」とあるので、ヤマトタケルという名そのものが、挙言すなわちコトアゲすることをすでに内有していたものといえるわけで、この行為が彼を破局へと導く。(「ヤマトタケルの物語」)といって、タケルの破局の原因としてとらえている。身のほどを忘れた、神(白猪、書紀では大蛇)への挑戦的な放言の災厄というわけである。自己の意志をいい立て、タブーを侵したコトアゲである。ヤマトタケルの東征で、上総に渡海する時の、渡り神の神聖を侵したコトアゲでは、「これ小海のみ、立ち跳にも渡りつべし。」というが、これは暴風を招いてしまった。(p.62)
------------------------------------------------------
の反動ではなかったかと思われる。さきの神功皇后の「コトアゲの阜」の制禁の由来も、やはりそうしなければならない大事件があってのことであったらしい。
 為政者は、批判とか反論のコトアゲを制禁し、服従を要請した。これを封じて「神ながらの道」に服従する人びとを迎えたのである。ところが、言語感覚のひろい視野にあった人麿らによって、遣唐使らの行く文字の国を意識に入れた「言霊の幸はふ国」とか、「神ながら言挙せぬ国」などの語句のある餞詞があらわれている。
 言霊の発揚には、まず何といってもコトアゲが必要であるが、そのコトアゲが制禁を受けるという、このような矛盾と緊張を秘めつつ、ミコトノリやノリトは社会に儀礼化され固定していったのである。(p.65)
----------------------------------
コトムケ
 これは現代風にいえば「説得」のことである。つまり言霊の霊威をもってする積極的な行為で、たとえば『古事記』には全体で一七回もの用例がある。なかに、ヤハスという言葉との連用が六回あって、「言向平和、言向和也、言向和平、言向和而」などと表記している。ここでのヤハスとは、もっぱら言葉をもって融和する、平和にする、帰順させるという意味である。すなわち、コトアゲして説得するという上代的方法である。(pp.68-69)
----------------------------------
 日本語の言語環境は、全く隔絶した閉鎖社会に育まれ、言語体系としての思想や文化への拘束的自覚に乏しく、したがってその言語意識はすこぶるパトス的であった。ここに言霊思想などの特有な言語観も醸成されたとみられる。この環境的特徴についての十分な検討もなかったが、最近この閉鎖性の問題も識者によって大きくとりあげられるようになった。(p.217)
----------------------------------
言葉は厳密に論理的な意味で用いられることは少ない。話し手、受け手、遣い方、構え方などにより、ずいぶん変化が多い。この自在な作用がもつ「論理性の不完全さ」というものも、たとえれば、言葉の魔力のカクレガといえよう。(p. 219)
----------------------------------
 相手を意のままに支配する、言葉の悪用面もあるが、カウンセラーが、言語技術を高度に利用して、クライエント(来談者)を好ましい方向に導くことや、造語とかスローガンによる世論操作も、人びとの心を動かす言葉の魔力の善用であり利用であろう。(p.219)
----------------------------------
太平洋戦争中「言挙げせず」とか「海ゆかば」の歌意の利用、「欲しがりません勝つまでは」、鬼畜米英、一億総決起、八紘一宇、天佑神助などの語句のはんらんは、戦意をあおるひとつの世論の洗脳操作であった。これは、日本人の慣習的な、言葉に呪縛され易い民族性、すなわち汎言語主義的慣習の利用であった。言葉と事実との関係以外のところにおける、一定の方向の力が期待されたものである。(p. 220)
----------------------------------
 民主主義の組織には会議が多いが、その言葉のやりとりは、多分に言語魔術の雰囲気があり、格好の実践の場である。比喩の拡大、焦点のズラシとかボカシ、用語の工夫、情緒に訴えたり、不利益なことはいわないなどのゴマカシ論法は、まったく言葉の論理の不完全性に宿る、魔力の悪用である。(p.220)
----------------------------------

[Book] Toyoda, Kunio. 1980. Nihonjin no Kotodama Shiso [How Ancient Japanese Saw Sacred Spirits in Words]. Tokyo: Kodansha.

[Book] イデオロギーとしての技術と科学 Technik und Wissenschaft als >Ideologie<

[本] ハーバマス, ユルゲン.1968.長谷川宏訳.2000.『イデオロギーとしての技術と科学』.平凡社.

というわけでハーバマスです。
読み返してみても分かりにくいものは分かりにくいです。やれやれ。

平凡社ライブラリーで文庫化されているこの版には、
-労働と相互行為
-<イデオロギー>としての技術と科学
-技術の進歩と社会的生活世界
-政治の化学科と世論
-認識と関心
の五編が含まれています。

私の勉強に関係が深そうなのは最後の二編です。

つくづく思うのですが、この手の本を読むにはギリシャ語とラテン語の理解がある程度不可欠です。もう少し学校でどちらか真剣に勉強しておくのでした。私の持っているギリシャ語辞典は古典を読むのには不向きだし、ラテン語辞典はあまりに語数が足りなくて用を足しません。どうにかしないとなぁ……

--------------------------------
境界線のむこう、不安定と不確定の域を脱した存在を考察するのが論理(ロゴス)であり、こちら側のさりゆくものの領域は臆見(ドクサ)にゆだねられる。(中略)そして理論はその規定にしたがう人間のふるまいのうちに、民族精神(エートス)のうちに、反映する。(p.168)
--------------------------------

[Book] Jurgen Habermas. 1968. Technik und Wissenschaft als >Ideologie<.

[Book] 獄中記 In Jail


[本] 佐藤優.2006. 『獄中記』.岩波書店.

この人の読書傾向の面白さに爆笑です。
やー、面白いなぁ。
そしてこの人の語学の勉強の仕方や、本の読み方には関心しきりでした。
まともに勉強しようと思ったら確かにそういうプロセスは有効そうだな、と。

さて、これで、佐藤優さんのものは
- 獄中記
- 国家の罠
- 国家の崩壊
- 自壊する帝国
- インテリジェンス 武器なき戦争
- 北方領土「特命交渉」
と読み、あとは例の大川周明に関するものさえ読めばとりあえず終了です。
今のところ、「国家の崩壊」が特に面白かったです。

この「獄中記」を読んでハーバーマスを読み返したくなりましたが、
しばらくは我慢しないとです。
他にも現在読みたい本にPhilip ZimbardoによるLucifer Effectもあるのですが、
いかんせん届くのに時間がかかるわ、届いてからも読む時間があるか疑問だわ、参ります。
読みたい本を好きなだけ読める日々……そんな日が来ないものでしょうか……

--------------------------------
 「能動的知性」が徐々に回復しつつあり、週末にハーバーマスの『認識と関心』を二五〇頁程読み進めました。客観的認識などというものはそもそも存在せず、まず、「認識を導く関心(利害)」があり、そこから事実の断片をつなぎ合わせて「物語」を作っていくのが、近代的人間の認識構造であるということを、カント、ヘーゲル、マルクス等のドイツ古典哲学の伝統、パース等のプラグマティズム、さらにディルタイの「生の哲学」やフロイトの精神分析学の成果を消化し、見事にまとめあげています。(pp.69-70)
-----------------------------------------
 ハーバーマスのコミュニケーション論で面白い記述を見つけました。論理的観念と心理は関係がないという点についての考察です。
 ①一つの壺が燃焼中に割れてしまった。これはおそらく塵のせいである。壺を検べて、塵が原因かどうかを見てみよう。これが論理的かつ科学的な思考である。
 ②病気は魔法使いのせいである。ある人が病気である。だれがその病気の原因である魔法使いなのかを見付け出すために、お告げに伺いを立ててみよう。これは論理的であるが非科学的思考である(ハーバーマス『コミュニケーション的行為の理論』上、未来社、92-93頁)(p.95)
------------------------------------------
 実は、日本の外交官が、ロシアで(恐らくはヨーロッパ全域で)良好な人脈を構築できない要因の一つが、教養の不足にあります。本省からの訓令に基づき、案件を処理するだけならば、特に教養がなくとも十分仕事をこなせます。しかし、ロシア人、特に政治エリートは知性の水準が高く、よく本を読んでいます。また、議論については、ソ連時代の「弁証法的唯物論」で鍛えられているので、こちら側も相当準備をしておかないと、相手にされません。(p.116)
-----------------------------------------
 この関連で、ハーバーマスのコミュニケーション論はとても参考になります。同人の用語を用いるならば、「演技型コミュニケーション」に徹することが重要です。被告人が裁判官に対して訴えるという姿勢だけに徹した場合、政治的には負けます。私は裁判官に対して何か主張をするのではなく、傍聴席にいるマスメディアに対して呼びかけます。罪状認否もそのような観点から行うのが妥当と考えています。
 国会の論戦も、相互理解を目指すディベートではなく、あらかじめ立場(役割)を決めた「演技型コミュニケーション」です。政治家としては、鈴木宗男代議士の方がはるかに真摯かつ誠実であり、見識も深いにもかかわらず、世論が小泉潤一郎、田中真紀子、菅直人等になびいたのは、これら政治化が「演技型コミュニケーション」に徹しているからでしょう。(pp.129-130)
-----------------------------------------
 ところで、ポパーの注を読んでいて、プラトンが説得を三種類に分けていたというところが出てきたのですが、一寸面白いので紹介します。
 ①理屈による説得
 ②威圧による説得
 ③贈り物による説得
 この三つの説得はどうも等価値のようです。現在的に考えるならば、②は恫喝による強要で③は贈収賄です。(p.172)
------------------------------------------
 日本の外交官(そしてその集団である外務省)は(恐らく過去五〇年以上戦争のような修羅場をくぐっていないせいかと思いますが)弱すぎます。特に以下の点にその弱さを感じます。
 ①秘密が守れない。口が軽すぎる。
 ②自己顕示欲が強く、組織人として行動できない(その裏返しとして、出世街道から外れると、イジけたひねくれ者になる)。
 ③語学力が弱く、十分な意思疎通ができない。
 ④任国事情や一般教養に疎く、任国エリートから相手にされない。
 ⑤人情の機微をつかむことができず、人脈を作れない。
 ⑥セクハラが横行しているため、女性外交官の能力を活用し切れていない。(p.177)
------------------------------------------
 『コミュニケーション的行為の理論』(下)は、ハーバーマス理論を集大成する部分なので、たいへん難しいです。この部分にはハーバーマスのオリジナリティーが現れています。私自身はハーバーマスの考え方を以下のように捉えています。
 ①資本主義体制(システム)は相当長期間生き残る柔軟性をもっている。資本主義が社会主義に移行するとの仮説は破産している。
 ②このような資本主義体制が自己を維持できる主要因は、これまでのところ資本主義のみが社会的コミュニケーション能力の発展に対応する能力をもつシステムだからである。(p.193)
------------------------------------------

[Book] Sato, Masaru. 2006. Gokuchuki [In Jail]. Tokyo: Iwanamishoten.

[Book] 裁判官の爆笑お言葉集 Humor of Judges


[本] 長嶺超輝. 2007. 『裁判官の爆笑お言葉集』.幻冬舎.

かなりカジュアルな一冊。
なにぶん裁判員制度と私の勉強の絡みもあり、
最近司法制度には私的関心が高まっているわけですが…
残念ながら新しいアイディアをくれる箇所はなし。
ただ、幾つか確かに笑った発言もありました。
裁判官の知性を疑うものも多少ありましたけれども……。
娯楽として読むには1時間弱で済むお手軽な冊子でした。

[Book] Nagamine, Masaki. 2007. Saibankan no Bakusho Okotobashu [Humorous Statesments by Court Judges]. Tokyo: Gentosha.

Wednesday, April 04, 2007

[Book] 「NO」と言える日本 The Japan That Can Say No

[本]盛田昭夫・石原慎太郎.1989. 『「NO」と言える日本: 新日米関係の方策』. 光文社.

とうとう読みました。ブックオフで450円でした。
何で読もうと思ったかというと2点。

ひとつは、手嶋龍一の「FSXを撃て」で、米議会がこの本にどのような影響を受けたかという行を読んで興味がわいたから。
もうひとつは、先日のクラブコンペで雅子妃の本の邦訳を出版すべきかどうか話した時に、チームメイトのWさんが、この本が粗悪な英訳で出回ったという話をして下さって興味がわいたから。

で、感想ですが、うーーーん・・・・・・盛田さんはともかく石原さんの部分は事実関係の認識に色々問題がありそう。FSXの部分は特に手嶋龍一の書いていることとかなり大きく食い違っています。どちらが正しいのか、と言われると私には手嶋龍一の見解の方がより真実に近そうに見えます。ていうか石原慎太郎の文章は凄いテクノ・ナショナリズムです。よくもまあここまで「日本の技術」とやらに過信できたものだと思います。

ちなみに英訳との比較もしてみましたが・・・・・・確かに劣悪。
たとえば以下最初の引用の「毛色が変わっている」は「髪の色の違う」と直訳されてしまっています。
・・・・・・おい。
「born with a silver spoon in his/her mouth(生まれつき恵まれて)」を
「銀のさじを咥えて生まれた」と訳すようなもんですぞ。
ほかにも「そういう意味では頑固」がただ「頑固」とだけ訳されていたり。
元々かなりブラントなこの文章を、更にここまでケアレスに訳されては目も当てられない。
こんな本をめぐって政治論争になったとはいやはや・・・・・・

とはいえ、面白い部分もありました。

--------------------------------
 ですから私は、石原さんのおっしゃる日本人だからいやなんだ、ということはわれわれの努力によって解消する以外に方法はないと思うのです。「おまえさんたちがわかれ」と言ったところで、彼らはそういう意味では頑固ですから。
 私自身は、おまえはアメリカ国籍だと言われるくらいにアメリカに仲間がたくさんいますし、私もアメリカの中に住んでいて、アメリカの人から自分の仲間だと思ってもらえるくらいになりましたから、割りに何を言ってもそういうことは感じませんが、石原さんの発言のように、彼らには、日本人は毛色が違うためにちょっと何を考えているのかわからないという気持ちはあるわけです。それからもうひとつ重要なことはメッセージのデリバリー(伝達)の方法が違うということです。日本語と英語では構文が違うわけですが、その違いが、話し合う時にも影響してくるのです。
 私は本にも書いていますが、日本人が漢文を読むときにはかえり点をつけていますが、中国の人はまっすぐ読めばわかるわけです。英語にしてもかえり点なしにそのまま読むわけです。つまり彼らとは思考過程が違うわけです。だからいくらいい通訳使っても日本人の思考過程の順番で言うとなかなかわからない。そういう点で、メッセージのデリバリーということに関して日本の思考過程というのは残念ながらマイノリティーですから、大多数の西洋人とコミュニケーションするには、相手のわかるような順番で物を言ってあげないと、何を言っているかわからない。私はレイシャル・プロブレム以前にコミュニケーションの方法という点において、日本は非常なディスアドバンテージ(不利)があることを知っておく必要があると思うのです。(p.55)
-----------------------------------
 グレンの話の最中に私が、日本人側のネゴシェーター(交渉者)のうちで君らは誰を一番評価するか、と質問してみたら、グレンはただちに黒田通産審議官と言った。
 ご承知のことでしょうが、日本の新聞報道などでは黒田審議官の評判はあまりよくない。あの人が出て行くとトラブルが大きくなると書かれている。アメリカ側でも、ミスター黒田は頑固すぎる、などと非難する。しかし、その頑固なトラベルメーカーを実は当のアメリカが高く買っているわけです。彼は、アメリカ側が無理難題を吹っかけていると思うとガンとして譲らない。かたくなで頑固に、言うべき「ノー」を言い続ける。それでは話にならない、とアメリカ側が脅しをかけても、多くの日本人代表みたいにイエス、ハイハイと急にかしこまってしまったりはしない。強大なパワーのあるアメリカという大男が拳固をふりかざせば、小男の日本は沈んでしまうという意識もあってアメリカは難題を押しつけてきます。それでも黒田審議官は、殴るなら殴れ、おまえらのほうが恥をかくぞ、と踏んばってにらみ返してきた。もちろん、やみくもに「ノー」を叫ぶのではなく、なるほどと思わせる理屈を述べてから言う。交渉というのは、こうでなくてはならないのですが、向こうに言わせると日本人のほとんどが何を主張したいのかよくわからない、と指摘します。
 何を言っているのかわからない日本人に、そんなことではだめだ、と強く出ると、イエス、イエスと慌てふためく。そして、そのイエスがイエスのようでイエスでもない。とにかく、日本人は外圧がなければ何もしないと思わせてしまうのだから国民にとってみると、不本意な話です。外圧に弱い日本などというイメージが付きまとっていては外交がうまく運ぶはずがないと思う。
 私はよく言うのですが、各国大使館の人員の半分を民間人にすべきだ、と。経済レベルで激しく実際に外国人を相手にしのぎを削ってきた有識民間人の中には、日本代表として堂々と論陣を張れる方が何人もおられる。たとえば駐米大使として盛田さんに就任してもらう。夢物語で終わらせたくないほど、私は真面目にそう考えるのです。(pp.128-130)
----------------------------------------------
 ビジネスの場合だと、アメリカ企業の社長と交渉するには、トップとトップの一対一で、その場でイエスかノーか、「それなら、こうする」ということを決めるわけです。それがトップ会談です。ところが日本国内だと、ビジネスの場でも実際は会談の前にすべてを決めておこうとする。
 あるとき、日本の大会社のトップが私のところに来られることになった。「それでは二人だけで話をしよう」と思っていると、相手の大会社の社員から、連絡がうちのほうに来て、「今度うちの会長が行きますけど、盛田さんはどういうことを言われるでしょうか?」と尋ねてくる。「うちはこういうことを言いますが、どう返事されますか?」と、みんな返事を決めに来るわけです。私から見れば、そんなトップ会談なら、しなくてもいいわけです。
 そんないい加減な会談ではなく、竹下さんには日本から見たアメリカの現況を正しく伝え、主張すべきことをはっきりと訴えてきてほしいと思う。(中略)
 日本は主張すべきことは堂々としていいと思うのです。日本という社会は長い間「沈黙は金」という教育を受けてきたから、多少何か言いたいことがあっても、じっと我慢をする。我慢をせずに、私のようにすぐ文句を言うと、ほうぼうで叩かれるという運命になります。石原さんも言いたいことを言う方ですから、ときどきいろいろなところでぶつかるわけですが、我慢などという美徳は西欧ではまったく通用しません。
 私は、日本は石原さんが言われたように、大いに言いたいことを、また、言うべきことを言わなければならない。そうでないと、日本のアイデンティティはなくなると思うのです。(pp.138-140)
------------------------------------------

[Book] MORITA, Akio and ISHIHARA, Shintaro. 1989. The Japan That Can Say No. Tokyo: Kobunsha.

I read this book because it is said that the English translation that circulated in US Congress was really a bad translation. And the following is the citations from English version while the above is the same parts from the original text in Japanese.

I would say... indeed it is a very poor translation. For example, "keiro" is NOT about literal color of hair. It's like translating "silver spoon in his/her mouth" as a baby literally holding a spoon in his/her mouth when he/she was born. What kind of translater can translate like this......sigh...... And this became a basis of political discussion??? unbelievable... Language barrier is scary.

http://www.totse.com/en/politics/the_world_beyond_the_usa/japan.html
-------------------------------
Therefore, I think that the only way to erase the perception Mr. Ishihara points to where Japanese are disliked just for being Japanese is to make the above types of efforts. This is because they [Americans] are stubborn and not likely to be induced by saying "you guys change."
I have so many American friends myself that I have been accused of being an American. Since I have lived in America and have been counted as a friend by many Americans, I am not overly sensitive to what is said about me. As Ishihara has said, to Americans, they feel that because their hair color is different, it is difficult for them to know what Japanese are thinking. I think there is another important point. The structure of the Japanese language and English is different, and this affects our discussions together.
I have written this elsewhere in a book, but when Japanese read Chinese, they put in arrows and symbols to change word order, but Chinese read it directly and understand the meaning of the sentence immediately. English is the same kind of language, which is read one word after another. In sum, this means that Americans have a different sequential order in thought processes. Therefore, no matter if you use interpreters, it is impossible to interpret in the same sequential order as the thought processes that that generated the words in Japanese
. Thus, when a message is to be delivered, it is regrettable but true, that the sequential thought process of Japanese is in the minority in the world. When communicating with occidentals, who are in the majority, if things are not communicated in an order they can comprehend, they do not understand what we are saying. It is necessary that we be cognizant of this disadvantage that Japan has in this area.
-----------------------------
In the course of my conversation with Glen Fukushima, I asked whom among the Japanese negotiators he considers the best. He immediately came up with the name of MITI's Kuroda, whom the Japanese press used to criticize for his tough positions. The press claimed that his participation aggravated the problems with the U.S. The Americans criticized him for being stubborn. Strabgely, the American negotiator named him the most effective. He is stubborn and is able to say "no" decisively whenever he should do so. The Americans usually try to overpower negotiations by increasing pressure. But Kuroda does not feel that he must say "yes" to American pressure. America is a giant in many ways, and, in many ways, Japan is a dwarf. This obvious contrast has been exploited by the Americans often in the past.
Mr. Kuroda kept pointing out that irrational pressure is not always the result of reason or logic, and reinforced this position by withstanding increased pressure
. His "no" is not a no for its own sake; he always states his reasons. This is the proper approach and attitude in negotiations. In the past, there have been allegations that Japanese logic and opinions have not made any sense to the other side.
When the opposing side points out that Japanese opinions and demands have no logical basis, all of a sudden the illogical Japanese start saying "yes, yes, yes..." in a panic. But these "yesses" do not necessarily mean yes in the sense of positive assertion. At any rate, the other side then comes to the conclusion that Japan will not take action unless pressure is placed on them. This is a rather unfortunate situation for the people of Japan. The Japanese image of being soft in the face of pressure does not help Japan's diplomatic efforts at all.
I have often suggested that at least half of Japan's diplomats stationed abroad be civilians. Those who are in business and other professions who have dealt with foreigners are in a better position to represent the interests of Japan than are career diplomats. Send Mr. Morita to America as our ambassador: a brilliant idea! But it should not be just an idea.

--------------------------------------------
In negotiations among business leaders, we, top management hold discussions face to face, saying "yes" or "no", or "if you do that we will do this." However, we have a tendency to prepare answers for negotiations even in business world in Japan. Take my case, for example. Once a chairman of a large Japanese firm was vistiting me and I planned to talk to him face to face. Then, someone from that office called us and asked what I was going to talk about when we met. "Our chairman is going to say such and such. How will you respond?" They wanted to prepare all answers beforehand. I do not think we need to have meetings if the content is planned beforehand. I want Mr. Takeshita to say correctly how we, Japanese, see the present situation in the United States and tell them clearly what we want to do. (L.O.)
Because of our historical discipline, Japan has adhered to the principle that "silence is golden," but I believe Japan must insist that the United States do what must be done. An outspoken person like me is easily criticized from every corner and I am sure Mr. Ishihara has had the same experience since he is also very outspoken. But to be silent and to put up with things do not work at all in the West. As Ishihara has suggested, I think we should say what we have to say. If not, I am afraid we will lose our own identity as Japanese in the world.

----------------------------------

Tuesday, February 06, 2007

[Book] 国家の罠 Trapped by the State

[本] 佐藤優.2005.『国家の罠』.新潮社.

あーーーー,逃げてるなぁ・・・
実は「ポプラとカエデ」,アップしてある後の部分も書いてある部分が多いのです。
ただ……ちょっとアップするのが辛いんだなぁ・・・

えええにぃうえい,

はい,読みました。国家の罠。

そうねぇ……確かに読む価値はあると思いました。
ただちょっと評価しにくい本ですね。
(評価が低いという意味ではなく評価するのが難しいという意味)

個人的に,ディベート関連の知人をざーーっと思い浮かべた時に,
私は大体6割の人を何らかの形で尊敬を持って見ていると思います。
2.5割の人には尊敬とまではいかなくても好感を持っている。
ところがその・・・1.5割くらいの人はどちらかというと軽蔑している。
いや,まあそう単純なものでは勿論ありませんけれども。

で,1.5割の内の更に下方1割にあたる人で,
佐藤優にそーーーっくりな人がいるんですよ。
見た目だけじゃなくて。

ただね,その苦手だな,と思うコアな部分の一つ,

彼が,結局のところ自分の影響力なり能力なり人脈なりに自己陶酔したのか,
それとも国益だかなんだかを追求する上であまりにも頑張りすぎたために
意図せず影響力を持ってしまったのか。

これは本当に紙一重の違いで,
他人はおろか本人にだって区別つくものなのかわからないですよね。

自己陶酔するのは人情だし,より頑張ったヤツがより影響力を持つのも世の常。
どっちかだけってことはあまりないでしょうね。
ただ,自己陶酔の方が強く出ると,人はウソをつくと思うんです。
本人にウソだと明確に意識できる精神的な強さがないと醜悪の極みになると思います。
意図せずの方が強く出ると,普通は事前に自分の特異性を解消しようとすると思います。
ただ,情報の世界は特別だと言われると,まあそういうこともあるだろうな,と。
若しくはそっちの面にはとっても不器用な人なのかもしれない。(こっちかな)

27年後のことを書いてあることや,2000年がいかに鍵だったのかという話から,
おそらく私は佐藤さんが後者なのだろうと想像します。
そうだとすると,確かに同情するかも。
確かに「悪かった,悪かった,運が悪かった」(やりきれないなぁ)。
ホント男の嫉妬って怖いわぁ。出る杭を打つ心理ってホント醜い。建設的でもない。
ただ,裁判でどっちになるべきかはちょっと別かなぁ……

うん,でもそうね,私が買ったこの本の印税が彼に入ることに罪悪感は感じない。
情報が公開される頃が楽しみですね。

Monday, February 05, 2007

[Book] 教育ディベートの審査 Judging Academic Debate

[Book] Ulrich, Walter. 1986. Judging Academic Debate. National Textbook Company.

久々に読みました。
前読んだ時より楽しめました。
とってもわかりやすい。

例の『現代ディベート通論』でよく引き合いに出されている本で,
2章がJudging Paradigmsについてです。楽しい。
この本ではAdvocacy ParadigmとJudicial Paradigmが同一視されています。
わからないでもないですね。

私は1章のジャッジの倫理についての部分も結構好きです。
こういうのを臆面もなく書ける人好きなの(笑)

でもまあやっぱり80年代に書かれた本だということ,
Policyの方だけの世界観で書かれているところなど,
この本の限界は明白。古典として読む感じですか。

でもちょっと会ってみたいディベートコーチには入ります。
幾つくらいの人なのかしら。

Friday, February 02, 2007

【Book】現代ディベート通論 Contemporal Debate Theories


【本】伊豆田達志ほか.2005.『現代ディベート通論 復刻版』.東京:ディベートフォーラム出版会.(初版1985)

最近復刻版が出た、伝説のディベート教科書。
復活のニュースにマニアが沸いた一品。

これ一冊で大抵のことは網羅できてしまう優れもの。
しかし初心者や、実際の試合を見たことのない人には不向き。
おそらく何が何だかわからない。

ディベートに関しては大体わかった、と思った時に一度は必ず手にとって欲しいかな。

[ここから追記: 2007年2月2日]

春セミナーでAdjudicationの講座の担当を希望したので,久々に現代ディベート通論を開けています。パーラのAdjudicationの解説でも,一応こちらと比較対応できるようにしておきたいです。で,パラダイム,パースペクティブ,フォーカス,フィアットあたりはもう一度お浚いします。その後のセオリーの扱いはここまでが解ればどうとでもなる筈・・・と思っているのですが,ここまでの解説だけでもレジュメが厚くなる(当たり前か)。うーん・・・どうするべきか・・・理論編はかっ飛ばして実技編だけにするべき?

疑問1.決論命題の被正当化性について

p.30「これは価値命題と事実命題の混同から来ている。事実命題では,例えば"X is A"と"X is B"とは同時に成り立たず(但し,A =/B),"X is B"とも言えそうならば,"X is A"とはならないと言える。」

とあるのですが,これおかしくないですかね。
例えば,「Xさんは女だ」と「Xさんは学生だ」は両立すると思います。
私はホント論題を事実だ価値だ政策だと分ける意味を感じません。

【Book】 Izuta Tatsushi et al.2005.Gendai dibeito tsuron fukkokuban. Contemporal theories of debating (republished editon).Tokyo: Debate Forum Press.(first published in 1985)

The legendary debate textbook reprinted recently.
A lot of debate manias went crazy when they became to know the revival of this historical work.

This single book covers almost everything about debating.
However, it is probably not for beginners.
It is a bit technical and too difficult and boaring for them.

This is something we need to read whenever we felt that we have leaned about debate enough.

Tuesday, January 30, 2007

[Book] インテリジェンス 武器なき戦争 Intelligence, the war without weapon

[本] 手嶋龍一・佐藤優.2006.『インテリジェンス 武器なき戦争』.

最近読んだ本のアップを怠っていて,どこから書くべきかわかりません。
ブルデューの『話すとは』について書こうかな,とも思ったのですが,
ちょっとそこまで体力がないので,一応ここら辺も挙げておこうかな・・・。

読んでへえー,と思ったのはおそらくこの手の本を手に取ったものとしてはかなり邪道な部分。そう,私は佐藤優氏にあまり良いイメージがなかったので彼の著作を読んだことがぜーんぜんなかったのです。ほら,ラスプーチンっていう渾名だけでもちょっとアレだし,SAPIOに記事が載ってるのも目立つし,更には例の大川周明の本書いた人だっていうんでかなり拒否反応があったんですよね・・・。手嶋龍一さんのは結構色々読んだんですけど。

なのでロシアとの関係が最近冷え込んでいる理由が,日本政府のチェチェン問題への対応が遠因だという意見は初耳でした。へええええええええ,と思いました。でも確かに考えてみると色々符号が合うような気も。

チェチェンは国際テロリストのせいで不安定なのだ,とプーチンが言った時,私はそれを通訳学校のブースでBBCやCNNを見せられて知りました。で,明らかにプーチンが9・11の尻馬に乗っているっていう印象を受けました。誰が信じるんだよー,圧政やめろよロシアー,って。キャスターのWar on Terrorismが圧制を正当化することに悪用されているって話に最もだと思いました。

ところが佐藤氏曰く,チェチェンは本当にアルカイダとつながっていて,あの件に関してはロシア側が正しい,と。イスラエルもそう言っているから裏も取れている,と。それを日本は知っていたのにG8で確信犯的に欧米側に回ってチェチェンは人権問題だとロシアを責めたのだと。

・・・・・・そうなの!??

ゴメン,プーチン。
欧米のメディアは偏っていて云々と眉間に皺をいっつも寄せている癖に酷いやつです,私ってば。

いや,だからと言ってジャーナリストだの亡命者だのを殺して良いということにはなりませんが,そうした
事件についても私は主に欧米のメディアを通して理解しているわけなので・・・・・・

やーーー。本当に情報って怖いですね。
情報が偏っていたら精神の自由なんて絵に描いた餅ですもんねーーー。
恐ろしい。知らないうちにどんどん私のオツムは固定観念に支配されている・・・

とりあえず,ロシアについてもう少し時間を見つけて読んでみようと思いました。あと,食わず嫌いならぬ読まず嫌いを改めて,佐藤優氏の本も一応読んでみようと思いました。

頑張るぞ!!

Saturday, October 07, 2006

[Book] 美しい国へ Beautiful Country

[本] 安倍晋三. 2006. 『美しい国へ』. 文芸春秋.

2ヶ月ほど前に読んだのですが今頃アップします。
なぜなら、テレビでふかわりょうが、「読んで(安倍さんを)大好きになっちゃった」と叫んでいて驚いたから。

えええ??この本で好きになったの????
うーん・・・ちょっとそこは異議ありって感じ。

確かに、尤もだと思う部分もありましたけれども、「これはないだろ!!」と叫びたくなるような部分も・・・

たとえば133ページ。以下引用。
------------------------------
”交戦権がない”ことの意味

 もうひとつ、憲法第九条第二項には、「交戦権はこれを認めない」という条文がある。これをどう解釈するか、半世紀にわたって、ほとんど神学論争にちかい議論がくりかえされた。
 どこの国でももっている自然の権利である自衛権を行使することによって、交戦になることは、十分にありうることだ。この神学論争は、いまどうなっているか。明らかに甚大な被害が出るであろう状況がわかっていても、こちらに被害が生じてからしか、反撃ができないというのが、憲法解釈の答えなのである。
 たとえば日本を攻撃するために、東京湾に、大量破壊兵器を積んだテロリストの工作船がやってきても、向こうから何らかの攻撃がないかぎり、こちらから武力を行使して、相手を排除することは出来ないのだ。わが国の安全保障と憲法との乖離を解釈でしのぐのは、もはや限界にあることがおわかりだろう。
-----------------------------

えええええええええ??????
この行には本当に驚きました。特に「たとえば」以降の部分です。

だってさ、東京湾は日本の領海じゃん!交戦権全く関係ないし!!!

銃刀法違反だって警察が取り締まれるのに、大量破壊兵器を指くわえて見てなきゃいけないわけないじゃん!!!!万が一銃に関する法律はあるけど大量破壊兵器に関してはないってんなら(んなアホなことあるのだろうか)、つくれよ、法律!!マリファナは取り締まる法律があるけどヘロインはないんだ、みたいな状態だってんならそれ自体変な話だけど、じゃあ法改正しろよ、と思います。そんなの純粋な国内問題じゃん。

たとえば、ピストルを所持して日本に入国しようとする人が成田空港に降り立ったらどうなるか。そりゃ入国許可されませんよね。大体、怪しいと思ったら強制的に鞄を開けさせられて、検査されて、ピストルが出てきたら逮捕ですよね。「銃刀法違反」!ピストルを持ってると知っていてもピストルを撃つまで警察は手出しをできないなんてそんなあほなことない。抵抗したり、逃走しようとしたりしたら「公務執行妨害」!更に事態が悪化すれば警官の方も発砲するかもしれません。実際普通の犯罪捜査中に警官が発砲してるケースなんて沢山あるでしょう?普通の警官では手に負えない相手なら機動隊だのSATだのが出動するわけでしょう?それでも駄目なら自衛隊出すわけだ。

それとどう違うんだ???

「日本を攻撃するために、東京湾に、大量破壊兵器を積んだテロリストの工作船がやってきたら」、領土内なんだから警察や自衛隊(この場合海上自衛隊?)の武力で取り押さえるのは、交戦行為でもなんでもないじゃん!!実際領海侵犯してきた不審船を銃撃したことあるじゃん!でもその不審船の出身地と思われる国と戦争に突入したなんて言う人どこにもいないじゃん!だって領土内だもん!!万景峰号だって拒否できたでしょう?

普通の犯罪者相手に警察が発砲して「交戦行為だ!」なんて言われたことあるかしら。それが大量破壊兵器を持ったテロリスト相手だったら発砲しちゃいけない、憲法にそう書いてある、だなんて、大嘘もいいところだ。

幾ら、空港や港湾施設は法律上特殊だとは言っても、武器や麻薬の所持取り締まりはちゃんと出来ているはず。私は例えば以下のサイトの説明の方が正しいと思う。
http://sociosys.mri.co.jp/stuff/2004/0618_2.html

違うの?????

ロシア領内に入り込んで密漁している漁船があったら、ロシア側が銃撃することもあるわけでしょう?それは犯罪の取り締まりであって、日本との交戦行為じゃないじゃん??

違うの????

正直、この行を読んだ時には寒気がしました。
だってこんな頓珍漢で浅はかな嘘を信じて、この国は憲法改正を検討しているわけ?????

憲法改正の議論は大変複雑で難しい問題だと思います。
両方の意見にそれなりに説得力があると思う。
私個人はそれでもやっぱり九条を変えるのは反対だし、
愛国心教育なんてやめて欲しい。
けど、反対の立場にいる人の気持ちが全くわからないとは言いません。

けどさ、幾らなんでもこんな国の一大事に関して、こんな初歩的なところで、
こんな出鱈目な発言を一国の首相がしているってどういうことなんだろう・・・
こんな嘘を大真面目に言って、「だから憲法改正しなければ」って言ってるの??
いくらなんでもあんまりじゃないだろうか・・・

政治家として、不勉強じゃ済まないレベルでしょう???
中学生レベルの法制度理解がありませんってことだもん。
安全保障以外のことだってこのレベルなんだとしたら由々しきことだ。
それともまさか確信犯なの?
嘘だってわかってるけど、国民を騙すには充分ってことなの?

ホント、どういうことなんだろう・・・
それとも私がよほど馬鹿で、実は領土(海)内に大量破壊兵器を持ち込まれても
警察は何も出来ないのでしょうか?何か私が見落としてるのでしょうか・・・

ふう。

今政権全体の評価はよくわかりません。
安倍さん以外の人の閣僚がどうなのかもわかりません。

けど、こんな、こんな無知とか嘘とかでは済まないような説明で、
憲法改正に政治家生命かけちゃうような首相には投票できません。

憲法改正が必要なら仕方ないさ。改正しよう。
けどこんな、こんな酷い低レベルな議論でそんな大事なことを決めるだなんて・・・
本当の議論はもっとずっと深くて複雑で難しいものなのに・・・
まっとうな議論して欲しい。それでお給料貰ってるんでしょう??
きちんと議論して欲しい。

ディベータの端くれとしては、この本には正直憤りを感じます。
こんな嘘で国民をまるめこもうだなんて・・・汚い。
この本読んで「大好きになっちゃった」という有権者にも激しい憤りを感じます。
こんな嘘にあっさり騙されるなんて・・・情けない。

あ、しまった。今日は随分怒り心頭な投稿になちゃった・・・

ま、いっか。今日は冷凍庫に新発売のハーゲンダッツがあるんだ。(^v^)
夜中だけど食べて幸せ取り戻しちゃおっと。

Tuesday, September 12, 2006

[Book] λに歯がない λ has no teeth

[本] 森博嗣.2006.『λに歯がない』.講談社.

読みましたー!ようやく。
感想としては,εよりずっと好み!楽しめました。

あ,以下ネタバレだらけです。お気をつけをば。

中盤で赤柳さんと話している女性,最後のシーンで梶間さんと話している女性は,両方とも各務さんだと思いました。口調とかSP同伴なとことか。でもって最後のシーンの男性は保呂草さん。問題は赤柳さんが誰なのかですよねー・・・。うーん・・・誰なんだろう。あと海月君。でも山吹君と同じ島出身でしょう・・・??うーん・・・誰だろう・・・。ヒントは犀川先生と思考回路が似ていること。・・・林さんにもう一人子供がいるとか・・・?でも犀川先生の頭は紅子さんの方が似ている気がするから・・・。うーん・・・いっそ全然関係ない方がすっきりするかな。

ご多分に漏れず,萌絵ちゃんと犀川助教授の仲が少し進展したことも嬉しさ5割り増しでした(笑) 膝の上に萌絵ちゃんが座って抱きついてもようやく動揺しなくなった犀川先生。頑張れ,その調子!なんだかいつのまにか萌絵ちゃんちにお泊りすること増えてるし。よしよし。

・・・あれ,けどさあ,萌絵ちゃんちって諏訪野さんいますよね??あれ???それって実家生の家にお泊りしてるって感じ・・・?あ,それはいやかもー・・・。紅子さんと林さんの時も思ったけど,プライバシーなさすぎる感じが・・・。うーん・・・。まあ,いっか。なんかこの二人は心配なさそうだから,喜多先生の心配でもしてようっと。

Sunday, August 27, 2006

[Book] 自由はどこまで可能か How far can liberty go?


[本]森村進.2001.『自由はどこまで可能か』.講談社.

この本を読んで,自分はリバタリアンというよりリベラルなんだな,と思った。

特にそう思ったのは,著者が書いてる相続禁止(相続税100%)の理由。贈与は個人の所有物に対する意志が明確だから自由を尊重しているが,相続は故人の意志という架空のものに依拠している,というのが主張のようです。

私は,人によってスタートラインが違いすぎるのがフェアではないという根拠を最初に思ってしまう。でも確かにそんなこと言ったら贈与はどうするんだよ,親に受けさせてもらった教育の違いはどうするんだよ,子供の食生活と健康だって親の収入に影響受けてるよ,スタートライン一緒なんて幻想なんだよ・・・と言われたらホントごもっともです。贈与もすんなっって言えるほどラディカルにもなれないしなぁ・・・(ていうか贈与を禁止したら経済取引として同じことをするだろうな。だからといって市場も否定したりしたら全くの共産主義に・・・そんなんやだ)・・・うーん・・・リバタリアンの方が一貫性が高いなぁ。(但し,リバタリアンの多くは故人の意志を想定して相続を正当だと考えているようです)

でもやっぱりこうして考えると私は,人格的(社会的)自由度は高ければ高いほど良いと思ってるけど,経済的自由度はあまり高いといやだ(ない方が良いと思っているのではなくて,高すぎるのは嫌だ)と思っているんだなぁ・・・。うん,やっぱり私はリバタリアンではなくリベラル・・・かな。

他に,「臓器移植くじ」のたとえ話(くじに当たった人の臓器を病気の人たちに移植すれば,一人の犠牲で沢山の人を救える。そうするべきか?という思考実験)も面白かったです。「殺すのと死んでしまうのとは倫理上違う(病人が死んでしまうことよりもくじに当たった健康的な人を殺すことの方が問題),というのには根拠がない」という部分がかなり。私もやっぱり殺すのと死んでしまうのは違うと感じるので,社会の持つ価値観の非論理性が確かめられて興味深く思いました。

頭の体操になる本です。リフレッシング!こういうの好きです。

Wednesday, June 21, 2006

[Book] イソクラテス弁論集1 Isocrate. Discours

[本]イソクラテス.小池澄夫訳.1998.『イソクラテス弁論集1』.京都大学学術出版会.

スリリングでドキドキする文章。
もっと勉強しなければと高揚する気持ち。
イソクラテスという人は、沢山の名演説を「書いた」けれど、
声が小さく小心であるのを気にして自分では話さなかったとか。
そんなの想像できない勢いのある文章です。
果たして小心であってこんな自信に満ちた言葉が紡げるものだろうか・・・
イソクラテスの文章に恋しそうな今朝です。

下の引用、特に最後の部分は、ちょっとチョムスキーを思い出します。

-------------------------------------
 まことに、有益な言論を聞いて学ぼうともしないのは、友人の好意を拒むのと同じように見苦しい。好んで寸暇を言論の傾聴にあてるならば、やがて他の人には難解な言葉がよどみなく理解できるようになるであろう
 こうして聞いた言葉は多くの財貨より、はるかに貴重なものであると考えること。なぜなら、一方はすみやかに失われ、他方はすべての時を貫いてとどまるからである。われわれの所有するものの中で唯一、知恵のみが不滅である。何か有用な教えを授けると宣言する人びとを尋ねて、遠路を旅することに怯んではならない
-------------------------------------

 世上には言論にひどく反感を抱いている人がいて、哲学する者を罵り、彼らがそのような仕事に励むのは徳のためではなく権勢欲のためだと言う。ぜひとも彼らから聴きたいと思うのだが、なにゆえ一方で雄弁を欲する者をおとしめ、他方で功業を望む者を誉めそやすのか。もし利欲が彼らの唾棄するところであるならば、はるかに多大の利得が言論よりも実業によって生まれているではないか。(中略)徳に背くことなく利得を挙げるならば、その仕事そのものは非難にあたらない。むしろ咎めるべきは、行為において罪過を犯す者、あるいは言論によって人を過たせ、不正に言論を用いる者である。
-------------------------------------
 互いに説得し、また欲するところのことについて自分自身に明らかにすることができるようになってはじめて、われわれは野獣の生活から訣別したばかりでなく、集まって城市を建設し法律を立て技術を発明したのであるが、われわれの工夫考案のほとんどすべては、言葉がこれを準備したのである。
-------------------------------------
 この言葉の助けによってわれわれは、異論かまびすしいものについて論陣を張り、未知の事柄について考察する。まことに、われわれが他の人びとを説得するために述べる論拠と、ひとり熟慮判断するために用いるそれは同じものであり、多数の会衆の前で弁舌をふるうことのできる者を雄弁家と呼び、懸案をめぐって自分自身を相手に最もよく論議をつくす者を深慮の人とみなすのである。
-------------------------------------
 私の見るところ、諸君は発言者を分け隔てず公平に聴くことをしていない。ある者には神経を集中するが、ある者に対してはその声を聴くことすら我慢しない。そして諸君のそういう態度は不思議ではない。諸君はこれまで諸君の欲望におもねる者でなければ、すべて演壇から引き降ろす悪習に染まっているからである。

-------------------------------------
 われわれは戦争と平和について討議するために民会に集まって来た。この案件こそ人びとの生活に深甚な影響を及ぼすものであり、これについての審議の正否により、幸不幸が決定するものである。われわれが討議するために集まった議題はかくも重大である。
-------------------------------------
 ところが諸君はこのいずれにも等閑にして狂躁をほしいままにしている。われわれがここに集まったのは、すべての発言を聴いて最善の意見を採択すべきだと考えてのことであるのに、すでにいかなる行動をとるべきかは明確に知っているかのごとく、耳に快い煽動家の言葉しか聴こうとしないではないか。しかしながら、いやしくも諸君が国益の追求をねがうならば、むしろ諸君の意見に反対する者の議論に耳を傾けるべきであって、甘言は斥けなければならない。壇上に立って論弁する者のうち、諸君の欲するところを述べる者は、容易に諸君を欺くことができるが、しかし甘言を排して忠告する者が諸君を瞞す気づかいはない。なぜなら、何が有益かを明らかにすることなしには、諸君の意見を変えようとしても到底できるものではないからである。だがその点は措いても、人は過去について判断を下すにせよ、未来について深慮するにせよ、対立する議論を吟味し双方の主張を公平に聴かないでは、事はおぼつかない。
--------------------------------------
 私は諸君の見解に反対することの困難を承知している。またそれだけではない。民主制のもとでありながら、ここ民会で「自由な言論」が許されているのは、諸君のためをはかることのできない愚か者のほかになく、また劇場では喜劇作家のほかにない。なんとも恐るべきことに、国家の犯した失態を他国のギリシア人に吹聴する者にはどんな功労者も及ばぬ愛顧を与え、諸君を譴責し訓戒する者には、国事犯を相手にしているかのように不快を隠さない。
--------------------------------------

[Book]G. Mathieu et E. Bremond ed. 1929. Isocrate. Discours. vol.1. Paris: Les Belles Lettres.

--------------------------------------------
I observe, however, that you do not hear with equal favor the speakers who address you, but that, while you give your attention to some, in the case of others you do not even suffer their voice to be heard. And it is not surprising that you do this; for in the past you have formed the habit of driving all the orators from the platform except those who support your desires.

--------------------------------------------

[Book] 第1感 Blink

[本]グラッドウェル,マルコム.沢田博・阿部尚美訳.2006. 『第1感: 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』.光文社.

やたらと売れているようなので期待して読んだのだが、イマイチ。当たり前のことしか書いていない・・・というか古い!!なんだ今更?な内容。しかも分析が全く科学的でない。ひたすらエピソードが並ぶ。ビジネス書としては許されるのだろうか。よくわからないが、一般化に耐える知見は得られない。エッセイなんだか意見書なんだか何なんだかわからない。ありがちで中途半端なアプローチだ。

更に気になるのは、彼の言う「第1感」の概念に一貫性が見えないことだ。ある時は「時間をかけないで行う判断」を、ある時は「言語化されない情報」を、またある時は「偏見を除いたブラインド・テストによる評価」を指している。全然別のことではなかろうか。

ナンセンスな論理(?)展開も多すぎる。下の引用部分の「仕切りのおかげで純粋な瞬時の認知が可能になり」というのは全く意味不明だ。視覚情報の有無と判断にかかる時間は無関係だ。審査員は視覚情報を制限されたのであって、曲の最初の2秒だけを聴かされたという話ではない。「偏見を取り除いて能力を基準に人を評価すること」と「直感に頼って評価すること」は全く別物だ。「直感に頼って評価すること」と「聴覚優位な情報授与」も全然関係ない。(両方とも厳密に言えば関係有る。しかしこんな大雑把な文脈では断じてない。もっとバイオな問題だ)全くナンセンスだ。

それどころかこの本の他の箇所には「ひと目で見抜く力」という見出しの部分もある。人間の顔の特徴は視覚的・直感的には認知できても言語化できない、というくだりもある。仮に下の引用部分で彼の示唆するとおり視覚情報は「時間のかかる情報処理」で、「直感ではない」のだとしたら、これらのセクションはどう解釈すればいいのだ??「ひと目で見抜く」直観力について語っているではないか??矛盾しまくりだ。「直感に頼れ」と言いたいのか「直感に頼るな」と言いたいのかも全く意味不明。

全体的に、思い付きを書き散らした印象が拭えない。関係のある情報とない情報が判然としている。頭が悪そうな文章だ。よほどバカでなければこいうのは書こうと思っても書けないのではないだろうか。はっきりとダメな本。何でこれがベストセラーなんだろう・・・。

----------------------------------------
 ジュリー・ランズマンがメトロポリタン歌劇団の主席ホルン奏者を選ぶオーディションを受けたとき、練習用ホールには仕切りが設けられたばかりだった。そのとき、歌劇団の金管楽器のセクションに女性はいなかった。女性は男性のようにホルンを吹けないというのが「常識」だったからだ。だが、そこにランズマンがやってきて演奏した。素晴らしかった。「最終選考で演奏したとき、結果を聞く前に合格したとわかった」と彼女は言う。「最後の曲を演奏したときにちょっと小細工したの。確実に審査員の印象に残るように、最後の高いドの音をかなり長く伸ばしてみたの。審査員は笑い出したわ。必要以上に伸ばしたから」

 だが、合格者が発表されて彼女が仕切りの後ろいから現れると、みんな息を飲んだ。コナントの場合のように、彼女が女性で、女性のホルン奏者が珍しかったからだけではない。男性の演奏と間違えるような力強く大胆に引き伸ばした高いドの音のせいだけでもない。審査員は彼女を知っていたのだ。ランズマンは以前にメトロポリタン歌劇団で代役として演奏したことがあった。だが耳だけで聴く前は、その演奏の素晴らしさにみんな気づかなかった。仕切りのおかげで純粋な瞬時の認知が可能となり、小さな奇跡が起きたのだ。最初の2秒を大事にすれば、いつでも起きる小さな奇跡だ。そうして彼らは、ランズマンの本当の力を知った。
------------------------------------------------------

[Book] Gladwell, Malcolm. 2005. Blink. NY: Little, Brown and Company.

I have absolutely no idea why this book is a best seller. This doesn't make sense at all. This is a very messy book with messy ideas.

For example, the following part doesn't make sense at all. Visual information has no relation with the length you take for making a decision. Making decision in a brief time and doing it based on prejudice are different things. Making decision based on instinct and doing it based on audio information are different, too. It really doesn't make sense...

----------------------------------------
When Julie Landsaman auditioned for the role of principal French horn at the Met, the screens had just gone up in the practice hall. At the time, there were no women in the brass section of the orchestra, because everyone "knew" that women could not play the horn as well as men. But Landsman came and sat down and played -- and she played well. "I knew in my last round that I had won before they told me," she says. "It was because of the way I performed the last piece. I held on to the last high C for a very long time, just to leave no doubt in their minds. And they started to laugh, because it was above and beyond the call of duty." But when they declared her the winner and she stepped out from behind the screen, there was a gasp. It wasn't just that she as a woman, and female horn players were rare, as had been the case with Conant. And it wasn't just that bold, extended high C, which was the kind of macho sound that they expected from a man only. It was because they knew her. Landsman had played for the Met before as a substitute. Until they listened to her with just their ears, however, they had no idea she was so good. When the screen created a pure Blink moment, a small miracle happened, the kind of small miracle that is always possible when we take charge of the first two seconds: they saw her for who she truly was.
-----------------------------------------------

Monday, June 19, 2006

[Book]認知コミュニケーション論 Cognitive Linguistics

[本]大堀壽夫編.2004.『シリーズ認知言語学入門: <第6巻>認知コミュニケーション論』.大修館.

うーん・・・なんかレトリックという言葉が誤解されていると思うんですよね。以前ご紹介した『レトリック感覚』のような本が国語の教科書に使われているのが誤解が続く元なのではないかとちょっと思います。レトリックを比喩だと思ってるんですよね・・・多分。しかし専門家として本を書く方もそういう理解をしている状態だと本当に何と言ってよいのか・・・

Wikipediaでさえ修辞学は正しく紹介してくれているのですが・・・(但し修辞技法やレトリックは主に比喩についてになっていて非常に中途半端。しかも半保護指定ページのようです。よほど混乱しているのでしょう)。修辞学、修辞法、修辞技法、レトリックなどの語が違う意味で使われたりするのも意味不明です。原語は同じRhetoric(a)の筈ですが・・・英語のWikipediaは、かなりまともな内容です。してみると日本特有の混乱・誤解なのか。

例えば私が自分を修辞学者だと名乗った場合、おそらく大抵の人は小説や詩歌における比喩表現の研究者だと思うのでしょうか・・・うーん・・・ホント困るなぁ。せめて専門家には間違わずに使って欲しいと切実に思います。この本は誤解を助長してしまうと思うのでNGだと私は思うのですが・・・。以下の引用部分は私が勉強した限りでは間違っていると思います。

そしてまたもややたら引用されているのが夏目漱石。佐藤さんと全く同じパターンです。なんで!!??どうして夏目漱石がレトリックの使い手ってことになるの??絶対勘違いしてるよなー・・・。しかも古代ギリシアの修辞学と現代の修辞学は違うっていう説明も佐藤さんの説そのままなんですよね、この本。パクったんじゃなかろーか。ホント。似すぎているでしょう。

確かに修辞学はリバイバルされた後アプローチが少し変化したとは思いますが、あくまでも大衆(受け手)を「説得」するという要素は残ってるはずだと思うんですけど・・・。何故か日本の沢山の人はそこを頑として無視し続けているわけで・・・どうしてなんでしょう・・・。佐藤さんばかりをあまり悪く言いたくありませんが、やっぱり中等教育であんなの一斉に読まされちゃ誤解もしますよね・・・。多分国語の先生たちも彼のちょっと偏った説を信じてしまっているのでしょうし。沢山の人に「レトリック=比喩」と思い込ませてしまった功罪は大きいように思います。教科書認定する人ももう少し考えてから選んで欲しいものです・・・。

例えばアリストテレスのArs Rhetoricaは、どんなに「リバイバル」されたとしても「比喩中心の表現法」とはならない筈だと思うんですが・・・Ars Rhetoricaには三段論法や例示の仕方、証人の扱いなども同じように扱われていて、比喩や装飾的な言葉の利用はあくまでも一部なんですけどねぇ・・・。それもあくまでも説得の手段として登場するのですが・・・。「詩的な表現」の是非についても確かに触れてはいますが、これもあくまで説得に有効かどうかという視点です。詩や演劇自体の研究は全く含まれていなかった筈。先述の英語のWikipediaも、Currentの部分にもinduce coopearationという定義が出てくるのですが・・・。何故日本では鍵だった筈の「説得」が消えてしまったんでしょう・・・。そこが一番重要なはずなのに・・・。「説得」が関係なくなったらもう「リバイバル」ではなくて全くの別物だと思うのですが・・・。

--------------------------------------------
伝統的なレトリック(修辞法とも呼ばれる)は,比喩を中心とした表現法の細かな分類に専念する傾向が強かった。しかし20世紀に入ってその再評価が始まり,言語学のなかでも,とりわけ認知的アプローチの中で本格的な注目を集めるようになった。(p.137)
--------------------------------------------
レトリックに対する人間の学問的関心は,古くは古代ギリシアにまで遡る長い歴史をもつ。古代ギリシアおよびローマ時代には,レトリックは法廷や儀式などの場における弁論の技術として体系化された。巧みに演説を行い聴衆を説得するためには,表現をどのように華麗に飾ればよいか,その方法を分類,整理することに修辞学者たちの力が注がれた。また,レトリックは詩や演劇などの文学作品における効果的な技法についての研究でもあった。以来,中世からルネッサンス期にかけて,レトリックは一般教養の仕上げの役割を果たす重要な科目として学ばれてきた。だがその後,近代の合理主義的,実証主義的な思潮が強まるにつれて,レトリックは単なる表現の装飾的な技術と見なされて重視されなくなり,規範的,教則的な性格をもつ学術としてのレトリックは衰退した。

 ところが20世紀,言語学の台頭および隆盛とともに,レトリックは言語研究者により従来とは異なる角度から光を当てられることになる。まず,メタファー表現がもつ意味の特徴に対する考察がなされた。(p.156)
--------------------------------------------

[Book] Ohori, Toshio ed. 2004. Cognitive Communication. Tokyo: Taishukan.

Monday, June 05, 2006

[Book] 脳とコミュニケーション Brain and Communication

[本] ヤクルト国際シンポジウム.1994.『脳とコミュニケーション』.ヤクルト本社.

シンポジウムの講演(予稿?)集。
10年以上も前のものなので,現在では常識となっているものが多い。
けれどそれなりに楽しく読めた。特に表現の仕方に学ぶところが多い。

ちなみに最近,高校で保健を教えてくださった先生のご主人が脳の可塑性についてを書かれていたことが判明。うわー。奥様はおだやかーに笑顔で恐ろしくグロい内容を講義してくださる方でした。最近はどうしてらっしゃるんでしょう・・・・・・お元気でしょうか・・・懐かしいです。しかし今振り返ってもうちの学校の保健の授業は内容が丸っきり生物(しかも人体限定)だったと思います。一通りの臓器を図画できるうら若い乙女達を大量生産して,一体あの学校は何をしようというのでしょう・・・

---------------------------------
 人間の子供は驚くべき早さでコミュニケートすることを学ぶ.これは,言語知覚を支える生来の資質と,知覚システムを母国語へ”調律”させる初期の言語経験への鋭い感受性による.誕生直後は,乳幼児は生まれた国や周囲の言語によらず,世界中の言語で使われている全音声単位を識別することができる.したがって,生まれた頃は”世界の一員”といえる.しかし特定の言語に触れていくうちに,言語に使われてる音の違いを聞き分ける能力は衰える.乳幼児の知覚システムは,”文化に結びついて”くる.大人になるまでに,母国語で区別していない音の違いを聞き分けるのが困難であることに気づく.
---------------------------------
 言葉を通じて他の人々とコミュニケートする能力は人間と動物を区別するものである.このため言葉は神経生物学から哲学まで,幅広い研究分野の対象とされてきた.
---------------------------------
 脳がいかに言葉を”処理”するかについての知識が理解される時,いかに無秩序の脳がこの重要な人間の能力において不完全であるかという洞察が鮮明になるし,また無秩序を扱う新な方法が見つかるかもしれない.
---------------------------------

[Book] Yakult International Symposium. 1994. Brain and Communication. Tokyo: Yakult Honsha.


-------------------------------------
Human infants learn to communicate with amazing speed. This is due to both to innate predispositions that support language perception and to a keen sensivity to early language experience that "tunes" the infant's perceptual system to the native language. Early in life, regardless of the country in which they are born and the language they are exposed to, infants can discriminate among all of the phonetic units used in the world's languages. Infants at birth are thus "citizens of the world." However, with increasing exposure to a specific language, infants' abilities to hear differences among the sounds used in language are reduced. Their perceptual systems become "culture-bound." By the time we reach adulthood, we find it difficult to hear differences between sounds that are not distinctive in our native language.
---------------------------------------
The capability to communicate with other people through language is an ability that distinguishes humans from other animals. For this reason, language has been the object of study across a wide range of investigative disciplines from neurobiology to philosophy.
-------------------------------------
As this knowledge becomes available about how the brain "does" language, insights to how the disordered brain is deficient in this important human ability will be sharpened, and new ways of dealing with the disorders may be discovered.
--------------------------------------

[Book] 生体情報論 Bio-Informatics

[本]福田忠彦.1997. 『生体情報論』.朝倉書店.

はい。これも今更ですね。読んでなかったらまずいですよね。
でも一応アップしてみる。

今の主流はもちろん電極を突っ込むような荒っぽいやり方ではないけれど,技術は変化しても成果はそこまで劇的には変化していないような気がする。使われている部位を特定させる方法(fMRIとか)もどんどん使い勝手が向上しているようだけれど、それでも「何処で」考えているかが分かることは「どうやって」考えているかが分かることとは違う。もちろん推理する助けにはなるわけだけれど、やっぱり精神物理学的なアプローチと合わせ技に持ち込む必要がある。だから大勢は今もここに書かれているままなような気がする。遥かなる道のりですね。

---------------------------------------
 近年,脳科学は目を見張るような進展を遂げているので,脳の機能についてわれわれはかなり多くのことを把握できたように思われるが,実はそれとてごく一部の機能にすぎない。現在の脳神経生理学の主流は,動物の脳に微小電極を差し込んで個々の細胞の反応を測定するものである。これらの細胞の反応については多くの正確な知識が蓄積されつつあるが,これらは断片的なのであって,百数十億以上といわれる細胞が組み合わされて構成されている脳の神経回路を1つのシステムとして理解することは途方もない課題であり,不可能に近い.(中略)
 要するに,われわれが脳から学ぶ点はデービッド・マーが指摘しているように,脳における情報処理の基本アルゴリズムである.しかし,これをどのように構築するかは人間の独創力にかかっているのであり,その実現は工学技術に委ねなければならない.脳の機能を理解するためには,バイオサイバネティクスの手法を導入するのが有効である.まず脳の機能を限定し,脳と同じような機能を有する神経回路モデルを構成する.その際,神経生理学における知見にのみならず,心理学によって得られた最新の知見もできるだけ忠実に取り入れる.解明されていない部分は仮説をたてることによって補い,全体としての機能をコンピュータシミュレーションによって調べる.誤りがあれば修正を繰り返し行う.
 このようにして脳における情報処理の基本アルゴリズムを明らかにすることができる.
-------------------------------------

[Book] Fukuda, Tadahiko. 1997. Bio-Informatics. Tokyo: Asakurashoten.