Friday, September 15, 2023

ディベート邂逅30周年記念: ディベーター列伝1 嶽南亭 渡辺徹さん

 <ディベート邂逅30周年記念: ディベーター列伝1 嶽南亭 渡辺徹さん>


というわけでディベート始めて満30年を迎えました。


30年のディベート活動の中で邂逅した人、「なんだこの人、すごすぎる!」と思った思い出のディベーターを紹介するというのを企画したいと思うんですが、自分のことも書いていいこと悪いこと色々ある中、他の方のことを紹介するのはどこまで許されるのか、、、悩むところです。でも紹介したい素敵な方達がいっぱいいらっしゃるのも真実。。。ぼちぼち着地点を探っていくようにしたいと思います。


で、第一弾、お一人目は「渡辺徹さん」です。


これをお読みの方の中にご存知なかった方もいらっしゃるかもしれないと思うのですが、そして私もようやく実感し始めたところなのですが、二年前に亡くなりました。日本ディベート界は巨星を失いました。三周忌ということで不肖の後輩の目から見た渡辺徹さんをご紹介したいと思います。


実は二年前にも書こうとした(リビングにホワイトボードを導入したという投稿をした際に「本当は他のことを書こうかと思った」と言っていたのは徹さんの件でした)のですが、上手く言葉になりませんでした。今回こそは。


徹さんと言えばディベート甲子園という印象をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。実際は、私の知る限りでは徹さんは驚くほど幅広いフィールドをお持ちの方でした。日本語でも英語でも、事前リサーチするタイプでも即興でも、学生の集まりも社会人の集まりも、どこに行っても会えるという方は5人に満たなくて、そのお一人が徹さんでした。唯一徹さんが未踏破だったのが国際大会だと思います。お誘いしたことはありますが、本業でご多忙な中当然無理なことでした。でもそのくらい、徹さんは非常に懐の広く深い方でした。なんだかものすごくとりとめのない話になってしまったのですが、思い出話からそのお人柄の温かさが伝わると良いなぁと思います。


1.邂逅


私が初めて徹さんに会ったのは確か1995年、高校の先輩である林田さんの試合を見学しにNAFA系の大会にお邪魔した時だったと思います。中3でディベートに出会った私は高校でESS(英語会)に入ることでディベートを続けていました。ディベート歴3年目、既にディベート馬鹿化していた私に大学生の試合を見に来たらと声をかけて下さった先輩には感謝しきれません。当時のNAFA系の大会って割と会場がピリピリしていました。休み時間は正しく休み時間な即興系とは異なり更に準備ができてしまうだけにどの選手も準備に余念がありません。一年生大会であれば二年生達も必死にサポートしていたりしますし、三年生達はジャッジに行っていたりします。忙しそうな大学生たちの邪魔をしないように小さくなっていた友人(長濱さん)と私に声をかけて下さったのは確か更に上の先輩の岡安さんだったか黒川さんだったかどちらか(ひょっとしたら両方)であったと思います。「ちょっとおいで」と言われて連れられた先には、殺気立った会場で場違いに典雅な雰囲気でニコニコと扇子を扇いでいる方がいました。それが徹さんでした。当時すでに「KESSの大先輩」であった渡辺さんに対して自分を「新しい子です」と紹介されて目を白黒させながら「まだ大学生じゃないのでまだKESSに入らせてもらったわけではないんです!」と恐縮する私に、徹さんはすぐ後輩になるよ、塾内高校のディベーターならもう後輩みたいなもんだよって笑っていました。


2.ディベートとそれ以外と


その後の25年間に徹さんとご一緒したディベートの場は、初めてお会いした当時は想像もつかない程多様かつかなり頻繁でした。徹さんがいつから私のことを<スズマサ>って呼ぶようになったんだったか定かではありません。でもかなり早いタイミングから<スズマサ>呼びされていたような気がします。JDAの日本語大会でもお会いしました(対戦もしたかも)し、ESUJの大会でもお会いしました。明るい選挙委員会主催の若手政治家と大学生が一緒にチームを組んで試合した時は仕掛け人でいらしたんじゃないかと思います。その内JPDU系の大会にも来ていただくようになったし、逆に私が甲子園の方に顔を出すようにもなりましたし。高校生の英語の大会でも一緒に審査する機会があったし。やたらと特定のフォーマットやスタイルにこだわりの強い人や、すぐに優劣をつけたがる人が大半な中で、徹さんはそういう方ではなかった。<スズマサ>を誰かに紹介して下さるときは、いつも「KESSの後輩」って言葉が最初に出てきましたけれど、正直徹さんと<スズマサ>の接点はほぼKESSと関係ありませんでした。でもそんなことには頓着なさらない方でした。その後、それこそ徹さんに私を紹介して下さった先輩達がKESSから分離独立するからついてこいと言ったので私もKDSに移籍しましたが、徹さんには一切非難されませんでした。私にとって、「KESSの先輩」を大きく超えた「大先輩」でありながら、やはりどこかおおらかな良い意味で徹さんの言う通り「KESSの先輩」でした。


そんな徹さんが私の中で格別な先輩になったきっかけは主に二つじゃないかと思います。


1つは徹さんのディベート観があまりにも魅力的だったこと。普段の言葉や態度から分かってはいたものの、そのことを再認識したのはある年に徹さんがした甲子園決勝の審判講評でした。内輪では有名な「ディベートって」というフレーズの後に徹さんが言ったのは、「皆で力を合わせてより良い未来を選び取るためのもの」だったと記憶しています。ああこの人の信じるディベートが好きだ、と心から思いました。ぶっちゃけ、政治って究極的に長いディスカッションみたいに見えます。前にスピーチが足し算、ネゴシエーションが引き算、ディベートは掛け算でディスカッションは割り算、と書いたことがあります。ディスカッションはディベートの集合体だけどネゴシエーション要素が強い、と。長いディスカッションになると更にディベートよりネゴシエーションになる気がします。なので、政治の世界では平場(ディベート)の俎上に上がる言葉にどれだけ意味があるのかなぁとつい思ってしまいます。徹さんという政治のプロが、子供達がディベートを学ぶことに夢を見続けていたことを、ちょっと奇跡のように感じます。すごい強さだな、と。私が徹さんを思い出すとき、あの言葉、ディベートは皆で力を合わせてより良い未来を選び取るためのもの、がいつもあります。


2つ目は、実は徹さんがIDC(Intensive Debate Camp)立ち上げの時に応援してくれた数少ない人だったことです。私はディベートとなるとこだわりが強すぎてちょっと暴れん坊なので、立ち上げた謎企画もたくさんありましたし、その手の企画(KDSへの移籍も含めて色々...)は大体既存の団体や組織に拒否反応を示されるものが多かったように思います。大学生ディベート祭(NAFA、CODA、JPDUを一度に集めるというイベント)とか、もう参加して下さった当時のNAFA会長(明海の杉田さん)には足向けられません。あの頃はこの3者の中で最も老舗だったのがNAFAで、残り二つは誕生直後という状態でした。そんなわけで私のディベート人生、揉め事を起こしているのが平常運転という情けない面があります。中でもひどく叩かれたのがIDC(Intensive Debate Camp)でした。


私が初めて国際大会に参加した当時(1998年)、日本のチームが国際大会ではさっぱり勝てなくてですね。300チーム中下位30チームに全日本チームがいる、そういう状況でした。下位10%に全員って。。。下位10%は日本チームか途中欠場かって状態でしたから。海外のチームには「そもそも勝ちに来てるわけじゃないんでしょ」だの「世界大会を見れれば満足なんでしょ」だの言われるし、日本の参加者側の言葉にも負け犬根性があまりに色濃かったし。私本当に腹を立てまして(笑)。自分じゃなくても良い、とにかく日本から勝てるチームを輩出するんだって思いこんじゃったんですね。で、海外からコーチを招聘してきて2週間少人数グループで特訓してもらう缶詰合宿をしよう、参加したい日本の子は全員受け入れよう、その上で教員学生比率を保てる人数のコーチを呼ぼう、とそう思ったわけです。なんであれにあんなにJPDUが反発したのか今となっては笑い話みたいな話なんだけど、これがまあ激しい妨害工作を受けまして(おかしいな、曲がりなりにもJPDU初代代表だったんだけどな、私)。揉めに揉めて。絶対に参加するなってメンバーに厳命した大学サークルなんかもあったそうで。「なんでだよ、日本チームに勝たせたいって思わないのか?意味わかんねぇ。」っていうのが当時(2003年)も今も単細胞な私の感想だったんですけど。でまあとにかく開催するのが大変だった。JPDUだけでなく他のもっと大人な団体なんかにも、まあ私のやり方がまずかった面もあり相当そっぽむかれまして。その時に助けて下さったのが徹さんと海老原さん、そして井上奈良彦先生でした。あの方達がいなかったら今に至る日本勢の活躍なんてきっとなかった。そこからIDCを毎年開催して、日本チーム初のESLブレイク、審査員ブレイクにこぎつけた2006年、EFL決勝進出を果たした2007年、EFL優勝の2008年(この辺りの年号ちょっと記憶が精確じゃないかも、今度確認しておきます)、とどんどん日本チームが勢いをつけていったのだと勝手に自負しています。もし2003年に開けなかったらきっとその後も開かれなかったと思います。国内の些末な見栄や意地の張り合いが凄すぎて狭苦しくなっていたところに風穴を開けられたのは、ホント徹さんを始めとした少数の後押しして下さった大人たちのおかげでした。


同時に、「そもそも英語が母語じゃない者には勝てないルールになっている。公平なルールに変えてもらわなきゃいけない」と私は思ったんでした。でも単なるディベート馬鹿にはどうやってそんな政治活動をして良いのかさっぱり分からない。失敗を繰り返しながらああでもないこうでもないって言って評議会で何年も試行錯誤を頑張ってみて、うまくいったうまくいかなかったというのをいつも徹さんと海老原さんに相談していました。徹さんは「国際捕鯨委員会並みにドラマチックだ!これぞ政治!」ってめっちゃ楽しそうに相談に乗ってくれました。ルールや慣例の変更はIDC以上に大事でした。そのことを大半の仲間が分かってくれない中、徹さんがいなかったら、私はあそこまで頑張れなかったように思います。だってその部分を評価してくれる国内の人は、その恩恵で勝てたと思われる選手にすら当時本当に少なかったから。国際大会に一度も言ったことのなかった徹さんが実は日本勢の国際大会活躍の縁の下の力持ちだったんだなんて、きっと知る人は殆どいないんです。


その後、ひょんなことから日本語で即興のディベートをする社会人サークル(?)的なものを徹さんと塩崎さんが立ち上げる時に呼んでいただいて、徹さんのディベートする姿を直接見れる機会がそれまで以上に増えました。英語の大会だと参加チーム数が多すぎてたまにしか対戦はできなかったんですね。それが小さな集まりだとしょっちゅう見れる。楽しかったです。


徹さんのスピーチは、いつもユーモアに溢れていました。いつも笑顔でした。聞いてる方も笑顔になるようなスピーチが本当に多かった。勝手に自分と似てると思ったところがあって、それはタイムマネージメントがちょっと苦手なところ。エンタメ性を狙ってしまうせいでちょっと形が崩れやすいところ(笑)。あはは、徹さんごめんなさい。でも、私ほどノーコンじゃないけど、ちょっとリスク背負って限界を攻めることがあるスピーチも多かったですよね?大先輩が、うまくいったーとかあれはダメだった―とか、普通に平場で感想戦を交わしてくれるのが凄く凄く楽しかった。偉い人なのに、簡単に「一介のディベーター」に戻って見せてくれるところが本当に素敵な方でした。


一度、ちょっと変わったオープン戦に出たときは、私から不遜にもチーム組んでくれませんかってお願いして。丁度忙しいからその日程だと選手としては出れないけど、でもチーム名はつけてあげるし、準備も一緒にやってあげるからって言って下さって。あの時もらったチーム名は「Queen's Gambit」。徹さんといえば扇子とか落語とか俳句とかちょっと和なイメージなのにチェスっていう意外性にビックリした覚えがあります。


徹さんとするディベート談議は、ディベートの中身の話も、ルールや技術面についての話も、政治っぽい話も、ディベートにかける夢の話も、何でも本当に楽しかったです。その時間が大好きでした。いつも徹さんが質問をぶつけてくるのに、答える私がちゃんと徹さんとのやりとりから教わってて。徹さんはちょっとプラトンから見たソクラテスみたいでした。


2008年には私の結婚式/披露宴にもご出席いただいて。結婚して最初に住んだ遠い町田の狭いアパートまでわざわざ来て下さって、学生たちと混じってワイワイして下さったのが懐かしいです。私はキッチンの住人になりかけていたのですが、最後の品であるカキフライを揚げて持っていったら、「よし、これだけ食べて失礼する!」っておっしゃいました。あれは、ご多忙で本当は長くいらっしゃれない中(あとニコチン切れで苛っとする中)、私がキッチンから出てくるのをちゃんと待っていてくださったんだろうと思います。揚げたての熱いのを二つ、ひょいひょいって頬張って大急ぎで帰っていかれました。


そういう気づかいをサラっとする方でした。煙草も、飲み会とかの前後にフラって消えて戻ってらっしゃるんだけど、ある時「ここで吸っていただいて私は構わないですけど」って言ったら「え?スズマサはそうだったのか」って驚いていらして、ああ今まで一言も言わずに気遣って下さってたんだとようやく知ったこともありました。


ご家族の話をされる時の笑顔は格別で、すごく幸せそうでした。照れて愚痴のふりをするようなことがなくて。ご家族への愛情が率直で。ぶっちゃけ当時のディベート界では珍しかったんではないかしら。そんなところも含めて、ロールモデルな先輩でした。


3.お別れ


実は、今のところに引っ越す前、子供が生まれてからも私の自宅にお呼び立てしてディベートの会議をしたことがありました。かなり少人数のワーキンググループで集まって。これまた母一人子一人、しかも子は赤ん坊という状態だったからまたもや狭いアパートで。家も育児もディベートの計画も私の頭の中身も何もかもがとっちらかっていて。その会議の延長上で実は徹さんとケンカ、、、ではないんだけど、私が徹さんの助言を聞かなかったことがあって。徹さんは、「スズマサ、とにかく生まれたばかりの子との生活に今は合わせろ。いつもだったらできることができなくなってるぞ。」「スズマサ、おじさん達とはケンカするな、おじさん達の嫉妬や恨みを買うな」って一生懸命言って下さったけど、私はどうしても言うことをきかなくて。ここで曲げたら徹さんが可愛がってる<スズマサ>じゃないじゃん、みたいな気持ちもちょっとあったりして。私を助けるために巻き込まれてくれたのが徹さんだったのに、なんだか徹さんが大人の汚さを子供な私に分かれって言ったような気になってしまって。結果的に私が暴走してうまくいかなくて、きっとたくさん迷惑をかけました。私は徹さんは今回も味方してくれるはずって勝手に思い込んでいたところがあって、言うこと聞かなくてやらかしたのは私自身なのに、それ以降何だか妙に疎遠にしてしまいました。あの時徹さんは、「落ち着いたらすごくおいしいランチ食べさせるから」って言ってたな。


その後それでも何回かディベート会場でご一緒する機会はあったけど、四人の子供が全員生まれた頃だったかな。ディベート甲子園のジャッジルームで徹さんから話しかけて下さいました。決勝の審判講評の内容について徹さんから私に相談するっていう体で仲直りしようよってジェスチャーをして下さったんだと思います。あの時、強張った顔でそっけないコメントをしてしまった自分を、今となっては後悔しきれません。その次にお会いした時に、あれ?ちょっとお痩せになったかなって思ったのに、そのままで。そしたらコロナ禍がやってきて。大丈夫かなって心配だったのにおめにかかる機会がなくなって。大会は軒並みオンラインで。オンラインだけど審査員のメンバーにお名前があることに勝手にホッとして。そしてそのまま訃報を聞きました。バカでした、私。本当にバカでした。まさか50代の内に亡くなってしまうなんて思いもしなかった。完全に反抗期にひっこみがつかなくなって甘えたままでいる子供みたいな状態でいたせいで徹さんにお別れが言えなかった。後悔してもしきれません。徹さん、いつも通り「バカだなぁ、スズマサ」って笑うかなぁ。


今の家に引っ越してからはお招きする機会がありませんでした。

我が家の住処の変遷をご存じな徹さんはちょっとだけ「どうしたスズマサ」って驚かれたかもしれないな、と思ったりします。

子供達に挨拶させて、ちょっとだけ上達した料理を出して、徹さんがディベート界の未来を語るのを聞かせてもらう、、、そんな時間を頂戴しそこなってしまったんだ、とようやく思います。


授業の中で、学生さんの質問への答え方に迷った時、よく徹さんの言葉を思い出します。

徹さんに会いたいなぁ。「バカだなぁ、スズマサ。あなたは本当に変なところでバカになるよね」ってまた言ってもらいたいなぁ。そんな言い方はしなかったかなぁ。わかんなくなっちゃったから直接聞きたいなあ。

せめて、「皆で力を合わせてより良い未来を選び取るための」ディベートが伝わるような授業を、徹さんが大事にした若い人たちとし続けていきたいなと思います。


嶽南亭 渡辺徹さん、忘れられないすごいディベーターでした。

Sunday, December 26, 2021

Debate Advent Calendar 2021 12月1日~6日のまとめ

 Debate Advent Calendar 2021、12月1日~6日の掲載記事は以下でした!!

12月1日~5日は予告記事、6日はmasakoによる「議員立法ってそんなにあるの!?」でした。

12月1日! by 事務局

Debate Advent Calendar 2021が始まります! - Debate Advent Calendar 2021 (hatenablog.com)


12月2日! by 事務局

執筆して下さる方募集しています! - Debate Advent Calendar 2021 (hatenablog.com)


12月3日! by 事務局

なんでこういう企画? - Debate Advent Calendar 2021 (hatenablog.com)


12月4日! by 事務局

予想外なことが起きた件 - Debate Advent Calendar 2021 (hatenablog.com)


12月5日! by 事務局

中の人は誰ですか? - Debate Advent Calendar 2021 (hatenablog.com)


12月6日! by masako

兎聲舎 Toseisha: 議員立法ってそんなにあるの??

Sunday, December 05, 2021

議員立法ってそんなにあるの??

 Debate Advent Calendar企画 1日目!(12月6日)

Debate Advent Calendar 2021 - Adventar

本日は不肖編集部自ら執筆者(masako)の投稿です。

(あ、やめて。石を投げないでください。明日からは超豪華な執筆者陣が待っています。)


というわけで、、、

アドベントカレンダーとして、肯定側の立論をサポートするエビデンスの「議員立法たくさんある」というカードを公開します!

法律って全部官僚の人が原案作ってるんじゃないの?なんて思ってましたが、衆議院だけでも議員立法が年に十~三十件も成立しているらしいです。古都保存法が議員立法で珍しいって読んだことあったので意外でした。

ただ、Wikipediaに「依頼立法」という言葉も書いてあって、全部が全部本当の意味で議員さん達が主体的に提出したものではないみたい。内閣が自分からは言い出しにくいなっていうのを議員さんに「そっちから出して~」って頼むこともあるってことか。

それなら「ゼロ院制」のCPを出した否定側はこの「議員立法たくさんある」というカードが出ても、「現状の議員立法は内閣主導の依頼立法がほとんど!内閣主導の議員立法には悪いもの多い。必要なものは国民投票の提案が出るようにすれば問題なし!」って再反駁することもできたかな?と思います。

あと、、、、、、、、、ちょっと突拍子もなく聞こえるかもしれませんが、肯定側がゼロ院制はトピカルだと主張したら否定側は何とお返事したのかなぁ、なんて想像するのも楽しかったです。間接代表制の衆議院と参議院という二院制から、国民投票という直接民主制の「立法システム/国会」に一元化、集約している一院制だ、と。どうかなぁ。妄想するとワクワクします。

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エビ1 【肯定側】衆議院の議員立法はたくさんある。 

「令和 2 年に成立した法律 13 本、修正 4 本を紹介しています。平成 31 年及び令和元年に成立した法律 18 本、修正 5 本を紹介しています。平成 30 年に成立した法律 23 本、修正 3 本を紹介しています。平成 29 年に成立した法律 11 本、修正 10 本を紹介しています。平成 28 年に成立した法律 30 本、修正 9 本を紹介しています。」

(衆議院法制局 Website. 成立した議員立法. https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/housei/html/h-seiritsu.html)

エビ2 【ゼロ院 Cp 否定側】議員立法とされているものでも多くは依頼立法で内容はイマイチ。 

「第 10 回国会(昭和 25 年 12 月 10 日召集)からは、議員立法の数が急激に増加した。この一因としては、「政府依頼立法」という形で議員立法が行われたことが挙げられている。この後も議員立法の提出件数は多い状態で推移したが、成立件数は減少してきた。「利権法案」・「お土産法案」と批判されるような立法も多く、また、各省庁からの関係常任委員会の委員への依頼により、政府内で予算等の調整を終えていない法律が抜け駆け的な議員立法として提出され、成立する例も少なくなかったといわれる。」

(国立国会図書館 調査及び立法考査局 専門調査員 農林環境調査室主任 茅野千江子. 「議員立法はどのように行われてきたか」. 『レファレンス』. 平成 28 年 1 月号. P.36)

エビ3 【ゼロ院 CP 否定側】議員立法の中でも良いものは CP 下では国民投票できる可能性が高い。 

「同法[古都保存法]は,京都・奈良など 8 市町村に適用される議員立法であったが,その運用面は地元が作成するの保存計画に任された。同法が制定された理由として,鶴岡八幡宮事山の宅造計画(1963 年)に市民が反対したことも一つの契機であった.この市民運動は「御谷騒動」と呼ばれ,計画の初期段階に,地元民が根強い運動を展開したことにより 2 年後に事業は中止され,市民の間で歴史的風土あるいは古都を保全(当時は「保存」が多く用いられた)する気運の高まりがみられた。」

(永野征男.1999. 「市街地における緑地保全と土地区画整理事業との不整合:鎌倉市の丘陵地における事例」. 『日本大学文理学部自然科学研究所研究紀要』 No.34. P.15)

エビ4【ゼロ院CPの肯定側】国民投票ありのゼロ院制はつまり一院制①

「一院制: 国民の代表機関である議会が一つの会議体だけで構成されているもの。」

(『日本大百科全書ニッポニカ』による一院制の定義から)

エビ5【ゼロ院CPの肯定側】国民投票ありのゼロ院制はつまり一院制②

「一院制: (略)民意は一つであるという考えに基づき,1789年のフランス革命議会で初めて採用された。」

(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』による一院制の定義から)

エビ6【ゼロ院CPの肯定側】国民投票ありのゼロ院制はつまり一院制③

「国民の意思は単一であるという理論に基づくもので,第2次大戦後の東欧社会主義諸国やアフリカにその例が多く,ニュージーランド,デンマーク,スウェーデンなども採用している。」

(『百科事典マイペディア』の一院制の解説から)

エビ7 【ゼロ院CPの肯定側】国民投票ありのゼロ院制はつまり一院制④

「一院制が初めて採用されたのは,1789年のフランス革命議会においてであった。当時のフランスでは,主権は単一不可分であるから,国民の主権を代表する議会もまた不可分でなければならず,議会を二院に分けることは,国民の意思を二つに分離することになるとする理論が広く受け入れられていた。」

(平凡社『世界大百科事典 第2版』の一院制の解説から)

Friday, December 03, 2021

芸術の秋ですから

今日はちょっと鳥肌立つほどなディベートを見てしまった。。。不意打ち喰らった余韻に浸っている。

論題: 政府はハイカルチャーからフリンジカルチャーへ援助先をシフトするべきだ。
論題: 反宗教芸術を禁じるべきだ。

芸術の帰属について、ドガの絵画の解釈と社会的意義について、信仰と個人の人格の関係について、言論と芸術の違いについて、、、

正に、我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか、縦横無尽に議論する皆に魅了された。

んー、今晩は余韻を肴にワイン飲んじゃうぞ。

***
数週間前のハイブリッド授業。三脚のてっぺんにカメラ兼マイクがついているタイプなのだけどカメラの調子が悪い。しかも私が少しでも遠ざかるとマイクもイマイチとのこと。困ったなー、と思ったら教室の学生さんから提案があった。

「三脚ごと手に持ってマイク機能だけ使ったら?教材を画面共有してる時点でカメラそんなに意味ないし。」

。。。分かるんですよ、分かります、確かにね。
しかしお断りしました。だってまるでバンドのボーカルがマイクスタンドごと持ち上げてるみたいじゃない?

「調子に乗って、愛してるぜディベートォォォ!!!!、とかシャウトしない自信がないので止めておきます。」

皆冗談だと思って笑ってくれましたが、、、正真正銘本気でした。笑。
***

いや〜、今日みたいなディベート見ちゃうとさ、危ないよね、愛が迸りそうで。自家感電死したくないし。笑。

でも、、、いいディベートは正義です。(ポッ 恥) おかげさまでワインが美味しいです。乾杯。

Tuesday, November 17, 2020

女性の声Kritikについて


代弁するというKが出たそうで、先日私自身が喋ったこととの関連でそれについての私の考えを想像する方がいるかもしれないな、と思います。誤解されたくないので自分で書きます。

1. 問題が相似しているというだけで別の論題に移行することは難しいと思います。
2. また、代弁するということは非常に複雑な問題を抱えていると思います。
3. 私が例えば予選第三試合のジャッジだったとしても票を投じなかったと思います。
4. しかしながらそういうKを出してみたということ自体には意義を感じます。
5.ぶっちゃけホント生きづらい。そこにいるだけでしんどい。
6. つまり何をして欲しいわけ?って聞かれますかね?
7. 代弁するのと乗っ取ったりパクるのは違う

の7点にわけて説明したいと思います。

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1.問題が相似しているというだけで別の論題に移行することは難しいのではないか。

これは単なる議論の挿げ替えにあたるから。
問題の本質が似ているというだけで話題を変えて良いとは私は思わないです。
理由は(1)本質が何かは明らかではない。(丁度昨年の決勝戦にケースがintrinsicかそうでないかとか話がでましたね。debatableなことが多いかな。)(2)個別の論題に個別具体的な特徴がある。要は政治家とディベーターは違う(かもしれない)。だからそれぞれをその都度議論する意味がある。という2つですかね。
(2)がより重要なのかなと思います。多くのディベート団体はそれぞれの個別具体性を重視するからこそ政策論題を設定しているのであって、そうでなければ価値論題を設定しても構わないのです。「全ての行政文書の公開を義務付けるべし」と「内部告発者をその取った手段に関わらず保護するべし」の間に違いがないのであれば、「正直は美徳だ」という論題で構わないのです。そうしないのは、両者の間には違いがありその都度ディベートするのが良いと考えられているからだと思います。(多分アリストテレス的な考えがバックボーンにある?)
余談ですが、即興のディベートは価値論題で論じることがあるという誤解をしている方がいらっしゃるかもしれません。確かに。しかしあれは言うなれば大プロポ時代だっただけなんです。(これ若いディベーターには通じないかな。。。)一見価値論題に見えるものも、肯定側はプラン(政策)を提示しなければならないという期待をコミュニティが共有していたようです。で、プランフォーカス、、、というか否定側はTopicalityを出せるけれどクライテリアは限定されており、Topicalなカウンタープランは出せないけれどカウンターワラントも出せないルールです。あれはあれで面白いルールです。例えば1994年のWUDCの決勝戦の論題は「マキャベリズムが正しい」でした。肯定側が提示したプランは「(英国政府は)テロリスト(IRA)と和平交渉するべし」でした。(括弧内の部分はプランでは限定されず、主に想定される例がアイルランド紛争だったという意味)大プロポにも限度があんだろと思われそうですが、当時はしばしばこうした論題が出ていたようです。即興ディベートの世界も現在はほぼ小プロポ化してメジャな国際大会でこうしたメガプロポは出ません。メジャな国際大会では一時期ほど小プロポではなく現在は中プロポ(?)が好まれるようで、こちらは多種多様な地域から集まる選手の間に個別具体的な例に関する事前知識の差による不公平が生じないようにという配慮が理由と思われますが、アクションは限定しているものが殆どです。(ちなみに私自身も国際大会では小プロポから中プロポへの移行を推した一人です。)
論題を挿げ替えることはできなくても、アナロジーとして用いることはもちろん可能だと思います。政治におけるクォータ制の是非を論じる上で、「これは政党をディベート団体に置き換えるとこれこれこういう状況にあたるわけなんだけど、ディベート団体でもこうなってますよね」と話を卑近な例におきかえることで聴衆に想像しやすくすることはできると思います。これは論題はあくまでも政治におけるクォータ制で、その立証の材料としてディベート界における状況が語られるというパターンです。アナロジーの妥当性は説明した方がよく、それはフランスの事例がCPに当てはまるのか説明した方が良いのと同じだと思います。
今回の大会の場合、政治の世界に構造的差別が実在していることを理解してもらうためにディベート界の現状が似ていることを示すことは有効だったのではないかと思います。ディベート界の異様さに気が付いていなかった(これに対する私の感想は「そんなことあり得るの?数を数えられないの?政治の比じゃないじゃん?差別がないなら一体どんな理由でこんなことになると思えたの?」ですが、先日の私の冒頭の話が新鮮だったという方がいらっしゃるらしい。マジか。)というスーパー鈍感な人がジャッジであればあるほど、自分が気づかずに構造的差別を形成する側に回っていた証拠を突き付けられた時の衝撃は大きいことでしょう。一度自分自身が気づかず差別の片棒を担がされていたと考えるようになった時、同じことが他所でも起こっていると考える信ぴょう性は上がるかもしれません。
(但し、これは聞き手が賢いけれども無自覚だった場合で、差別者である自覚がありそれでも差別している場合や鈍感なだけでなく理解力が乏しい人でもあった場合はあてはまりません。後者の場合は証拠をつきつけられても自分が差別してきたと理解できません。残念ながらそういう方も案外大勢実在します。人間はどうしても自分に甘いので、他人は差別心があるかもしれないが自分にはないと思いたい願望が強いものです。その願望が理解力を低下させる原因になることもあります。男性政治家(他人)は差別的かもしれないが、ディベーター(自分)はそうではないと思いたい人は多いことでしょう。ジャッジは聡明に違いないと想定すると手痛い思いをする危険大です。普段は聡明な人が自分が差別者だということに関してだけは全く理解力がないということは往々にしてあるのです。)
しかしこれは逆のこともできるということではありません。類似した別の政策をアナロジーに使って論題の正しさを説明することはできても、論題の方を類似した政策に挿げ替えることはできないと思います。

2. また、代弁するということは非常に複雑な問題を抱えていると思います。

代弁者になる(当事者以外が語る)というのは、それはそれで大変勇気のある行為だと思いますが、代弁することが好まれないケースもあります。これは非常に乱暴に言えば"I have a dream"とスピーチしたのがキング牧師ではなく白人だったらあそこまで感動しなかったという話かと思います。
ここでは当事者の定義を、a. 受動性(自ら選んだことではない)、b. 継続性(長期にわたってその状態が続く)c. 被抑圧性(発言権がない、差別されている)d. 少数者性(多数から理解されない)の4つを満たしたものとします。(https://www8.cao.go.jp/.../hyouka/part2/k_5/pdf/s4.pdf
女性ディベーターの場合、自ら女性になることを選んだとは言えず、大多数は性別が変わることを経験せず、組織の要職を任されることが少なく、人数的にも少ないです。
(但し、ほぼ全ての女性スーパーディベーターは20代中盤でコミュニティを去るので、bの継続性は微妙です。かなりソーシャルキャピタルが集積しにくい状態に陥っていると思います。これはおそらく、選手(プレーヤー)をやっている内は差別を大して実感しないが、審査や団体の役職(マネージメント)に回り始めると突然シビアな局面に直面して嫌になったり、そもそもそうしたステップアップが許されない(役職につけない)状況に嫌気がさしてしまうからではないかと想像します。ガラスの天井とかトークニズムとかですかね。私は自分が所属したことのあるボードでは必ず一度は女性を登用しようと訴えていますが毎回抵抗を示す方が多数派です。女性候補者を却下する理由がまた曖昧で反論しにくいことが多いです。)
当事者は発言しにくい傾向があり、また上の定義のように、だからこそ当事者となっています。聾唖を障害ではなく文化だと主張するときに通訳が必要だったり、知的障害者の権利を訴えるのに当事者より家族が中心になっていたり、性的マイノリティの権利を主張する過程で望まずカミングアウトすることが怖くて主張することをあきらめなければならなかったり、白人ばかりの役員会で黒人の権利を主張すると役職を追われる可能性が怖くて言い出せない(せっかく抜擢してやったのにと飼い犬が牙を剥いたと恨まれる、次から絶対ボスに牙を剥かない従順な犬を選ぼうと思われたりする。。。)、肥満に対する差別に反対したいけれども長く差別に晒された結果少しでも自分の体形に注目されるのは避けたいので言い出せない、、といった具合ですよね。試合の中で散々説明されていましたね。
しかし当事者が少しでも自ら声を上げられそうなものだと世間が判断した場合は代弁行為は批判にさらされます。ダウン症は実は知的障害を伴ってはいないという主張をするのがソーシャルワーカーや家族によって行われるとか、自閉症はニューロダイバーシティだと主張している中心的メンバーが家族であるとか、そのくらい良いのではないかと思われるようなものまで、当事者不在で代弁することに対する違和感を指摘する声はあります。
しばしば非当事者には、裏方に回ること(当事者に発言する場を提供したり、その安全性を確保したりすること)が求められたり賛美されたりします。そうでないと、当事者を道具にしているという誹りを受けがちです。(それが良いことなのかは議論の余地があると思います。)今回の場合だと、ディベートの試合に勝つためや、奇抜な論法の試行をするために、ディベート界の女性差別の問題を道具にしている、矮小化しているという非難を受ける恐れがあると思います。(しつこいですが、その批判が妥当かどうかは議論の余地があると思います。理由は主に下の注)
今回のKは、男性ディベーター2人のチームが女性ディベーターの立場を代弁するというもので、違和感を感じる人がいるのは必然だったのかと思います。これはおそらく昨年度のKにもあてはまる問題で、Kを出した人が生活保護を受けている人ではないことの潜在的な争点はあったように思います。
また、論題及びサイドとの組み合わせも良くなかったように思います。論題の肯定側ははaffirmative actionを肯定するもので、ひいてはidentity politicsも肯定している可能性が高いと思います。これらは前提として他者が代弁することを否定することになっていると思われます。別に女性でなくても女性の利益を代表できるのであれば女性議員を増やす必要はないと考える人が多いかもしれません。女性でないと女性を代表できないから女性議員を増やすべきと考えているのだとすれば、当事者以外の代弁については批判的だと考えられると思います。その論題の肯定側が「本質的に同じ問題」について当事者以外によって代弁する正当性を強弁するのは少々矛盾して見えます。女じゃないと女を代表することはできないという意見を説明するために男性ディベーターが女性ディベーターの代表をするというのは少し奇怪ということです。
注)後述しますが、実際は当事者が当事者として問題を語る場合でさえ、それは不可避的に代弁行為になります。そのため上記のような非難はしばしば声を上げる当事者にも向けられます。当事者集団内部から非難されることは声を上げる当事者には非常に堪えるので、結果として声をあげられない原因にもなります。けどさ、当事者が声を上げられなくて、非当事者は猶更声が上げられないなら、一体誰が声を上げるわけ?

3. 私が例えば予選第3試合のジャッジだったとしても票を投じなかったと思います。

私が仮にジャッジだった場合は、主に1が理由でおそらく否定側に投票したと思います。ひょっとしたら2の最後で述べた矛盾も理由にする、、、かもしれませんが主とは言えないかもしれません。(私はジャッジとしては割と矛盾を強く嫌うタイプだと思います。)

4. しかしながらそういうKを出してみたということ自体には意義を感じます。

サイレントマジョリティでいるよりは潔く代弁者となる方が良いかもしれないからです。
例えば、随分前ですが「ディベートのススメ」という謎な名前の大会ができました。バレンタイン近辺に開催される大会で、「ディベート界の恋愛を促進する」という珍妙なテーマで、当初は男女混合チームでなければ出場できないとかだったか参加費が高くなるとかだったか制限が設けられていたように記憶しています。同時に妙に盛り上がった大会でもありました。後年にそのルールは緩和され、恋愛に限らず広い意味での愛を促進するとかいう話になったのだったか、性別関係なくチームを組めて、しかし何故かコスプレして参加したりする更に謎イベントへ変貌していったようでした。何故変化していったのか、が大切だと思いました。どう見ても同性愛差別的な大会なわけでしたので。
そこで同性愛者のディベーターがふざけんなよ!って(結果的にカミングアウトする羽目に陥るリスクを取ってまで)声を上げてルール変更を迫らなければならないというのはいかがなものか。自分が同性愛者ではなかったとしても「これおかしくない?」って声を上げなければ、要は公衆の面前で行われている「精神的な意味でのレイプ」の目撃者でありながら止めない状態になるのではないか。かといって同性愛者でない者が先頭をきって同性愛差別をやめることを訴えるのもなんだかキング牧師が白人だった的な居心地の悪さがある?じゃあ、あまり騒がず静かに徐々に、理由も公には明示しない形で大会を変化させていく、という形が良いのか?それってこの大会が設立された時にショックでぶっ倒れそうになり「もうディベート辞めよう」とまで思った人たちの気持ちは救われるんだろうか。変化し終わるまでの過渡期のディベーターはどうなるんだろうか。。。私自身モヤモヤして考え込んで動けずにいる内に徐々の変貌を遂げていきました。おそらく穏当な形で抗議した立派な人達が影にいたのかと。
だから私自身が、「公衆の面前で行われている「精神的な意味でのレイプ」の目撃者でありながら止めない」という形で加害者になったことが実際にあるんです。申し訳なかったと思う。自分が未熟だったし至らなかった。3年前のあの日に「今の発言おかしくないですか?」って声を上げず傍観していた人々を責めることもできない。あの時行動できなかった自分は信用できないし、同じように他の多くの「何もしてない人」のことも本当の意味では信用しない。
そういう私にとって、あの論題であのKを回すのは正直どうかな。。。私がジャッジでも票入れられないな、と思ったとしても、少なくともそれをしたディベーターはサイドを取る(俺らは代弁しますけど何か?と言い切る)勇気は出したわけで。そういう意味では好ましくも思うんです。(ただ論題とサイドとの組み合わせ的に矛盾しているのはやはりいただけないかな。。。)

5.ぶっちゃけホント生きづらい。そこにいるだけでしんどい

残念ながらディベート界で「この場にいる女は私だけ」とか「発言権のある女は私だけ(TKに女性がいっぱいいるけど審査員は私だけとか、スタッフに女性はいるけど役員は私だけとか)」というシチュエーションが今までに数限りなくありました。これホントしんどい。(最近は組織的なことはほぼ何もやってないので楽です。)
女性が自分だけというシチュエーションを嫌う理由は私の場合主に3つあります。

1) ロールモデルと持ち上げられるのがツライ

マイノリティであるにも拘らず成功した人間をロールモデルと呼ぶ時があります。昔、「日本女性でも成功している人はいる。日本の女性が差別されているというのは甘えだ。」的な話で具体例として「白洲正子、オノヨーコ、緒方貞子」を挙げているのを読み、頭が一瞬真っ白になったことがあります。いやいやいや、それ、超ド庶民な読者(私)がロールモデルにして良い方々!?
とはいっても、「その三人は別格です。大多数の日本女性にとって参考になりません」ってその人達をはじき出すのもいかがなものか。。。そういうこと言い出すからマイノリティが内部分裂するばかりでアイデンティティポリティックスすらままならないのでは?
で、ごくたまなんですが、私がロールモデルだ、って言って下さる方がいて。。。その度にこれまたややこしい気持ちになるんですね。i)差別なんて存在しないって言うためのダシに私がされたら嫌だ、ii)私が仲間だと思ってる人々から「あいつは違うんです」ってはじき出されるのは嫌だ、iii) 私そんなに凄くないんです、私だって加害者になったことがあるんです(4.参照)、別にいつもマイノリティの守護者をできてるわけではないんですっていう後ろめたさがある、iv)かといって目立たないように成功しないように下流志向になるのが正しいとも思わない。。。なんだこりゃ。どうしたら良いんだ。。。
そういう時に、結局たくさんの仲間が成功していれば、誰も特別視しなくなるなって思います。そりゃ私も人間なんで「あんたは凄い!」って言われたら嬉しいなって気持ち、自己顕示欲だってあるんだけど、コミュニティとしては誰もが活躍できるのが良いですよね。
とりあえずオンリーワンは「過去の栄光」で構わないのかな。

2) tokenだと自覚している者の自己肯定感は低い

オンリーワンでいるのは嫌だという気持ちには他にも理由があります。そんなわけで、ロールモデルだ、と持ち上げられた時にぐちゃぐちゃ面倒くさい気持ちが去来するのと同時に、自分はtokenにされているのではないか、という不安もまた抱くものです。
あの論題で審査員が全員男性っていうのも体裁悪いんで、ちゃんと女がいますよっていうアリバイ工作に自分は使われているのではないか、と心配になるんですよね。ジェンダー論題の審査パネルに女が一人しかいないとこれまたさすがに体裁悪いんで、じゃあチーフをやらせることでその辺り補うか、という判断になることも容易に想像がつく。であればいっそジャッジに行かない方が、、、って思いました。女性クォータを論じるのに決勝トーナメントのジャッジ7人中7人が男性だったらさすがに異様だと気が付くのではないか?と。(いや気が付かないかもね、あの人たち、とも思った。いやいやいや、自分も相当だけどあのコミュニティの人たちも相当だよね、、、鈍感力)
同じ女にズバリ、「お前はtokenにされている、tokenになることによってお前も加害者の一人になる、裏切り者」と呼ばれることは女としては正直ツライ。。。(実は11月1日朝に実母に近いことを言われた私。。。知ってるよ、やっとバックレない勇気かき集めたのにもう何も言わないで。。。)でもディベート好きなんすよ、、、それでもそこにいるだけで男性の道具に成り下がるから辞めなきゃダメ???決勝じゃなくて予選だけ見たいって言わなきゃダメ?そもそも予選もダメ? 
ちなみにとあるディベート団体のとある委員会の私の出席率が著しく悪いのは、あ、ここは女性は完全にtokenにしてる、と思っているからです。もうお一人いた女性が辞めてしまった時に、いっそ自分も一緒に辞めた方がコミュニティにとって良いのではないかと真剣に悩みました。
随分前に、友人が会社を辞めることで体現したいこともあれば残ることで体現したいこともある、と書いていて、滅茶苦茶共感しました。絶対的少数になってしまったとき、辞めることでメッセージを伝えたい気持ちもわかるけど、残ってなんとか組織を変えられないか踏ん張り続けるという選択もある。後者はここぞというタイミングで多勢に無勢は承知の上で本来味方な筈の組織内部の大多数に対して開戦しなければならない場合もありほぼ自殺行為だったりする。そもそも個人にコミュニティのためにそこまでしてあげなきゃいけない義理はあるのか。人生もっと大事なこといくらでもありそうなものだ。今まで私は悩みながら後者の道を模索してきたけど若干挫折した感じで、しかし消耗と徒労感が激しいし他にやりたいこともあるので、本格的に前者にシフトすることを検討中、といったところです。

3) 女性が女性問題を語るのもまた、代弁でしかない

今回のKを不快に思ったり、むしろKに傷ついたりする女性もいるという話もあると思います。それはそれで構わないんじゃないかな。そりゃ女性だって色々いますよね。ていうかだからこそ一人になりたくないんですよね。一人だと女性全員を代表しているかのように誤解されかねないじゃないですか。そんな重大責任負えないしそんなことするつもりもないし。私とは違う意見の女性も同じ場所に同席してくれていて初めて自分の好きなこと言えるって側面もあるんですよね。女性が沢山いて珍しくなければ、女性の多様性がある程度担保されるので気が楽です。
例えば先日の決勝戦後の私のしゃべったことに、直後のチームのスピーチはほぼ真っ向否定になっていたと思います。ああいう発言をする気持ち、正直よくわかる。超少数者である場合、抹殺されずにそのコミュニティで生き残るためにはマジョリティの不興を買うのは怖い。「私は私に良くしてくれてる皆さんが差別者だなんて思ってないです!そういうこと思ってるのはアイツだけじゃないかと思います。嫌うんならアイツだけにしてください。」とアピールしなければならない圧力が働くのも、非常によ~~~~く分かる。(ひょっとして杉田議員とかそういうタイプなのかなぁ?)そういう圧力下にいたら、私の喋ったことというのは「ちっ、余計な事言ってんじゃねーよ。こっちにまで火の粉がかかったらどうしてくれんだよ」という話にもなり得る。また、プレーヤー経験しかない人とマネジメントに回ったことのある人で意見が異なるのは至極自然なことです。
とはいえ、あそこでああ言われてしまっては「それは昔の話」とか「今の若いディベーターは違う」とか「俺らは大丈夫」とか「女性自身が違うと言ってる」とか自分への言い訳や逃げ道を許して、理解力を低下させる(1で書いた通り人間自分に甘いものなので)原因になると思うんですよね。実はたった3年前のことで、あの場にいた殆どの人は3年前も現場にいたし、何なら頷いてる側だったし、少なくともレイプ見逃し側ではあったと思う(なぜ私があれを精神的な意味でのレイプだと捉えるのかはまた別の機会に)。ああ言ってかばってしまったら、その現実から目をそらすよね、きっと。それじゃ私が喋った意味なくなっちゃうんだけどな。
しかし、それも含めて女性の多様性だからね。私も先輩たちが上げてくれたトスを大きくカラぶったり、全然違う方向に打っちゃったり、トスが上がったことに気が付きさえしそこなったり、、、散々やらかしてきているわけだし、他の人のそういうのも許容したい。何より、女だから皆が女性差別と戦わなきゃいけないわけじゃない。ちょっと残念だけど、もちろんそうだから。私は差別は存在すると思っていて、むしろどうやったらあの人数比で存在しないと思えるのかサッパリ理解できないけど、存在しないと信じる自由もそう発言する自由もあるよね。(根拠を聞きたいけど。。。特定の人を指して「この人が良い人だから」っていうのは構造的差別を話すときにはいかがなものか。。。だれもその人が悪い人だとは言ってないもの。。。良い人だって自覚なく加害者になっちゃうのが問題だから。。。)
一人しかいないと、私みたいな者の声かあの時の選手みたいな声の片方が女性を代表する声と誤解されかねず、そのたった一人にとっては耐え難いほどの重責になりかねないと思うんです。それが、私がtokenとしてのたった一人の女性ジャッジになることを苦痛に思う理由の一つでもあると思うんですね。

6. つまり何をして欲しいわけ?って思われますかね?

言うは易しで、私も実行する勇気がないことがたくさんあります。あなたがやらないからといってあなたを個人的に憎んではいません。自分のことも含めてコミュニティをただ薄く広く嫌いなだけです。でもせっかくなら好きでいたいです。

(1) 自分も構造的差別に加担してきたことを自覚しましょう

迷ったら自分は加害者側なのだと思えば十中八九間違いないと思います。ていうかそこ間違えていたとしてどんな問題があります?あと、間違えてないです。

(2) 次に眼前でレイプされている人を見たら止めましょう

代弁して良いのか、みたいな悩みは捨てましょう。当事者だって代弁者です。代弁することの是非をごちゃごちゃ考えると世の中良くならないです。治安維持大事。

(3) 加害者は適切に罰しましょう

杉田議員が結局辞めさせられてないじゃん、というスピーチを今回の大会で見ましたが、全くです。一体どうなってるんでしょう。あからさまな差別発言をする人は適切に罰しましょう。別に殺せって言ってるんじゃありません。公式に謝罪させるとか降格させるとか出場停止処分するとか、とりあえず示しをつけて、被害者が「次はない」と安心してコミュニティに戻れるようにしましょう。治安維持大事。杉田さんは謝ってもあの方は謝ってすらいません。

(4) マイノリティにチャンスをあげましょう

チームメイトを探しているなら是非女性をチームに誘ってください。どこかのポジションに女性候補者が挙がったら(審査員にとか、審査委員長にとか、委員にとか、役員にとか、理事にとか、サークルの代表とか、何でも良いんですけど)、却下する前に本当に却下しなければならないのか考えましょう。そこまでヤバイ人材じゃなかったら前向きに採用を検討しましょう。できないならせめて大した根拠もないのに反対するのはやめましょう。

(5) クォータ、良いかもよ?

Australasian Intervarsity Debating ChampionshipsではAffirmative Actionが採用されていて、各大学は出場選手の1/3以上が女性でないとチームを出場させられません。男性ばかりのAチームと女性ばかりの下位チームを作ることも非難の対象になります。殆どの国際大会は審査委員長団も女性比率が低すぎると非難されますので一人しかいないようなことはまずありません。米国のTitle IXの例もあります。(欧州を中心として)国によっては企業の役員の一定数以上は女性にすることが義務付けられています。そういうのやってみるのも手かもしれません。荒っぽいかもしれないけど、このまま放置してて直る見込みありそう?
今回のK、そんなわけでディベートのスピーチとしてはイマイチ評価できないんですが、内容面「政治とディベートは似てる。どちらも男性の覇権主義が激しい。そろそろ変わろうぜ」っていうところは、うん、そうしてくれないかな、って思います。具体的な提案もあると良かったかな。Australasians方式も私としてはアリだと思いますけどね。

7. 代弁するのと乗っ取ったりパクるのは違う

他のアイディアをパクることの常習犯な人とか団体ってあってそれがちょっと嫌。しかもそれを「我こそ正義」とばかりに語る人とかやっぱり嫌ですよね。。。元ネタのアイディアや意見を出した人へのリスペクトは必要だと思います。
今回のKを回したチームはその点、いちいちしっかり仁義きってくれて礼儀正しかったのが印象深いです。その点も好感持ちます。インタビューとか、実名伏せたままで且つ引用だということは明らかにするというのは偉いなって思います。事前にこういう形で引用させてくださいって律義に許可取るのも偉いなって思いました。

そんなわけで、総合的には「今回は残念だったけど、これにめげずに是非頑張って!」って感じです。

Monday, January 07, 2019

ディベートは算数なみ

ディベートやディスカッションを四則計算に喩えると、

  • 足し算がスピーチ
  • 引き算がネゴシエーション
  • 掛け算がディベート
  • 割り算がディスカッション

って感じですか。

話者と意思決定者が分離されているのがスピーチ、ディベート。参加者が両方兼業するのがネゴシエーション、ディスカッションですね。

足し算(スピーチ)から引き算(ネゴシエーション)を飛ばして掛け算(ディベート)に行くのは超自然かつ簡単です。

が、引き算(ネゴシエーション)知らずに割り算(ディスカッション)をするのは無理だし、出来れば割り算(ディスカッション)の前に掛け算(ディベート)しときたいですよね。じゃないと筆算に入れない。桁数増えたら引き算(ネゴシエーション)だけで割り算(ディスカッション)するのには限界がある。

丁度そんな関係だと思いますね。

ディスカッションがディベートの集合体だ、と書いたのは間違いではないと思うし議事録に残る部分はその通りなんですが、実質的にはネゴシエーションの集合体としての側面が大きいと思います。

短いディスカッションでは事前協議が殆ど全てで議場で口に上る言葉は重要性を持つとは限りません。そういう意味ではディベート力は出る幕がそこまでないというか。

長いディスカッション(何時間、何日、何ヶ月、何年)でも事前やインターバル中のネゴシエーションが超重要です。というかそこが趨勢を決めることが多いと思います。但し、長くなればなるほど、議事録に残るようなフォーマルな発言の影響が強くなりディベートの腕前も効いてきます。

なので、ディベートさえできれば次に自然とディスカッションを学べるわけではないかと思います。先にネゴシエーションできないとね。

ただ、一桁の足し算ができたら別に8桁同士の足し算とかを暗算できなくてももう引き算や掛け算を始められるのと同じで、レジェンド級の雄弁家になるまでディベート始められないわけじゃないし、タフネゴシエーターかつディベートチャンプでないとディスカッションを始められないわけではないと思います。

そういう意味では小学生がディスカッションしても全く差し支えないですね。ていうかむしろ四則計算並みの基本スキルなので早くやるのが自然だと思います。

(心の呟き1:職業的にこれを言っちゃうのはアレかもですが、大学生にスピーチやディベートを基礎からしてもらう現状は正直残念です。義務教育で基礎は終えるべきでしょ。四則計算並みに全員使うんだから。とか言って私自身引き算と割り算ができない足し算掛け算教員なわけなんですけれどね(笑)って反面教師としては一流(笑))

(心の呟き2:トーナメントディベートで、小学生が中学入試対策でやる鶴亀算みたいな、その後人生で使いそうにないスキルが強調されてしまうのもどうにかならないものかしら。別に算数と違って数学に化けちゃいけない制約もないのに。合否/勝敗をモチベーションにすることの必要悪?なんか、あーーー、こういう過去問重視かつ場当たり的な答えの出し方教えるイマイチな塾の先生いたよなー、みたいな気分になるんですが。)

Tuesday, November 26, 2013

On score range of BP debate 女性大会、今年は参加しました (2)スコアレンジについて


皆さんは何故ディベートするでしょう。
世の中の色々なことを知ることができるリサーチ力をつけたいから?
論理的に考える力、批判的思考力をつけたいから?
世の中を良くするための提案を作る問題解決力をつけたいから?
その提案の良さを他の人に説得して一緒に世の中を良くする仲間をつくる説得的プレゼン力を身につけたいから?

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さて、今回のJWDC、前日になって審査員ブリーフィングの資料を見てビックリしました。
だってBPなのにスコアレンジが65-85なの!ええ?50-100でしょ?と。

それで、「なんで65-85に狭めたんですか?」と質問したら回答がこれまたビックリ。
「え?BPは65-85ですよね?それ以外のレンジのBPの大会なんて見たことありません」と。
悶絶。うっそーん。

世界大会はじめ私の知るBPの大会は殆どが50-100です。
世界大会のルールにも、そのルールを書いた人物が出しているハンドブックにも50-100と記されています。
どうやら日本(及び北東アジアの一部の大会)のローカル・ルールで65-85らしいのです。
そして誰に聞いてもそのローカル・ルールが決まった経緯や理由が分からない。

ちなみに2チーム対抗で1チーム3人のAustralasiansは65-85でminimum marginが0.5。maximum marginが15と決まっています。(同じ3on3のアジア大会は分裂したりくっついたりしたので正直今のルールを読み込む気力がなくなりましたが、とりあえず分裂前はもう少し狭いスコアレンジでmaximum marginが12でした。)
ひょっとしたらBPの審査をロクに知らない人が3on3を参考にレンジを設定してしまったのか?とも思われます。そうだとしたらホントろくでもない。

で、私はこのBPのローカル・ルールに強く反対です。
バカじゃないかと思う。
何故か。

1) 予選結果順位の点差

現在日本の大学英語即興ディベートのコミュニティで主に一年の前半に汎用されている3on3のフォーマット、その中でも例えばAustralasiansでは、前述の通り65-85のスコアレンジを採用しています。1スピーチあたり20点のレンジ幅です。3人1チームで、1チームあたり3スピーチ+総括スピーチ(総括スピーチは半分の点数)なので、1試合でチームあたりだと20×3+10=70点のレンジ幅があることになります。予選8試合行うと70points×8roundsで560点の幅が生まれます。仮に審査員たちがこのスコアレンジを最大限活用してくれることを想定、Australasiansに仮に150チーム参加したとして、予選結果順位の1位と2位の差、2位と3位の差、といったチーム間の点差は理論的には560/150で約3.7点です。これは、1試合あたり0.5点未満の違いで順位が変わってしまうということです。

これに対し、BPでは1スピーチあたり50-100のレンジ、50点のレンジ幅。2人1チームで1チーム2スピーチなのでチーム辺りのレンジ幅は100点です。大学の世界大会で予選9試合すると900点のレンジ幅。同じく審査員たちがスコアレンジを最大限活用してくれることを想定し、420チーム参加したとして、予選結果順位のチーム間の点差は約2.1点です。1試合あたり0.2点程の差で順位が変わってしまうのです。

ここからも世界大会の審査員のスコア感度を均質化することがいかに重視されるかお分かりになるのではないでしょうか。

2) 最低マージン

予選の試合数や参加チーム数とは関係ない視点でも見てみましょう。

3on3は2チーム対抗です。勝敗をつけるだけ。必要な最低マージンは0.5点です。
これに対しBPは4チーム対抗。1-4の順位をつけなければなりませんので、1位と4位の間に必要な最低マージンは3点です。
つまりBPは3on3の6倍点差をつけなければならないのです。

3on3は70点のチームスコアのレンジ幅の中の0.5点、BPは100点の同レンジ幅で3点。
6倍の点差を1.5倍ないレンジ幅の中でつけなければならない。
6/(100/70)で4.2倍の精度が求められる計算です。
これもまたいかにBPの審査に精度/高いスコア感度が求められるかという指標になるでしょう。

3) スコアリングにかける時間

同じく予選試合数や参加チーム数に寄らない一般的指標を見てみましょう。
時間の観点、どの位時間をかけてスコアをつけているのか、というのは如何でしょうか。

大会で審査にかけられるのは最大15分くらい。
どの大会でも勝敗(BPだと順位)の方がスピーカースコアよりも優先して予選順位が決まりますので前者の方が重視されますし審査も慎重になります。

3on3では一人一人が独立して審査します。15分中8分を勝敗を決めることに、4分をスコアリングに、3分を主審が副審2人とフィードバックの内容の擦り合わせにかけたとしましょうか。4分で8スピーチのスコアをつけるので1スピーチ30秒かけてスコアリングしていることになります。

BPでは審査は合議制です。順位付けもスコアも3人以上の審査員が話し合って決めます。15分中11分かけて順位を合意できたとしましょう。残り4分でスコアを話し合います。8スピーチのスコアをつけるのに4分でやはり1スピーチ30秒でのスコアリングです。しかしここでも話し合う手間があるのです。一人一人の審査員が10秒で各スピーチの適性スコアを考え、残り20秒の内12秒(一人あたり4秒)で自分が良いと思ったスコアを他に伝えたとします。残り8秒で擦り合わせです。

8/30で約1/4の時間(30/8で3.75倍の俊敏さ)で審査することが求められるのです。
これもまたいかにBPの審査に精度/高いスコア感度が求められるかという指標になるでしょう。

にも拘らず、選手には心外かもしれませんが、8秒で擦り合わせるには妥協が不可欠です。3点以内の妥協は容易に行います。5点となると抵抗が生じます。10点ずれている審査員がいるとなるともう大事件です。8秒でどうにかできるレベルではありません。ですのでスコア感度の悪い(スコアレンジの感覚がずれた)審査員がいると本当に困ります。本当なら1点の誤差が許されない、0.2点の差で予選順位が変わってしまう世界なのに3点の妥協がやむを得ない、調整する主審も辛いのです。その中でぶっ飛んだ点数を主張する副審、そんなのがいたらフィードバックシートには「次の試合からはこいつはトレイニー(見習い)にしろ」と書かざるを得ないわけです。

4) 総合すると。。。

1/4の時間で4.2倍の細かい採点をする。。。ざっくり3on3の16倍の審査精度を必要とされるBP。
しかも予選通過できるかどうかが2/5の点差で変わってしまうことも加味するとなれば40倍の審査精度が求められることに。。。もうそんなの本当に可能なの?というレベルです。

だからこそ世界大会の審査員レベルというのはReason for Decisionの良さと同時にスコア感度もとても重視して評価されるのです。1試合あたり0.5点の差で予選通過できるか変わってしまうAustralasiansのジャッジも大変ですが、BPのジャッジングはそれ以上に大変なんです。また、だからこそ近年の大会のブリーフィングでは審査員に口が酸っぱくなるほど「スコアレンジはできるだけフルに活用してくれ」と言ってくるのです。

それがですよ、スコアレンジが2/5に狭まったらどうなってしまうと思います?
16倍どころか40倍、40倍どころか100倍の審査精度を求められるということに。
もうなんでそんなことするの!!????逆でしょ??バカヤロー―――!!と頭をかきむしりたい状況です。

5) ローカル・ルールの愚

さて、これだけ審査員のスコア感度にピリピリしている世界で、日本だけスコアレンジが違うと言うのです。本来50-100のところ、65-85ということは上下合わせて30点分スコア感度がずれています。

BPでは3点程度の妥協はやむを得ないとされている。それ以上均質な審査基準を300人以上の審査員に求めるのは現実的ではないのです。ロボットではなく人間ですから。しかし10点ずれていたら大問題だ、ということは上記の通りです。その時にこの国の審査員たちは30点ずれた審査練習をしているらしいのです。

もう絶句。

どうしてそんなことするの?????

日本の審査員が活躍できない筈だよ。
30点ずれてる人なんて絶対に絶対に絶対にトレイニーにしかできません。
なんでわざわざ自分達が活躍できないようにするの?????

6) 審査員が活躍しない国の選手は活躍できない

「日本の常識は世界の非常識」
日本人審査員がいない大会ではまさにそうなのです。
しかし審査員の2割を日本人が占める大会ではそうではない。
日本人審査員が参加できないということは日本の選手、日本的な議論は評価されないということなのです。

国際大会で差別されたと感じる選手は大勢います。
彼らは英国やアイルランド、オーストラリア中心の審査で、そうした国の選手が贔屓されていると感じているかもしれない。
しかしね、審査員プールの何割がそうした国の審査員で占められるか考えてごらんなさい。

何故審査員プールの多様化が必要であり、自分たちが良質な審査員を提供することが義務であるだけでなく自分たちに利するのだということに気が付かないのですか???
何故自分たちが連れていく審査員のトレーニングに必死にならないの???

その昔、国際大会ではより評価の高い審査員をトップルーム(パワーペアリングで勝ち数の多いチームの集まった試合)に配し、評価の低い審査員をボトムルーム(負けのこんでいるチームが集まった試合)に回すのが一般的でした。

その結果、日本チームの中には9試合中7試合くらい、試合の途中で駆け出して行ってトイレでゲーゲー吐く二日酔い審査員や、試合中に眠りに落ちる審査員や、ノートを全く取ってくれないような審査員、明らかに人種差別的傾向のある審査員といった真面目に審査する気のないダメ審査員にあたってしまうケースもありました。1round目で勝てば天国負ければ地獄だった。

私たちは長くその制度と戦いました。同じ額の参加費を払っているのだから、良いジャッジにあたるチャンスも、悪いジャッジにあたるリスクも、全参加チームが共有するべきだ、と主張したのです。その主張は広く受け入れられました。現在では3人のジャッジ・パネルの総合評価をできるだけ均し、勝率に関係なくランダムに配置するというシステムを採用してくれる大会が増えました。EFLがEFLだからという理由でクズジャッジばかり回されるという状況は減ったのです。

最近日本の大学チームが国際大会で活躍できるようになって、昔の日本チームより自分たちが上手になったのだ、昔の日本のディベーターが下手くそだったのだと思っている人がいるようです。おめでたい勘違いも甚だしい。後輩たちが活躍できるように努力して環境を変えた先輩たちに謝って頂きたい。

折角そうした先輩たちのおかげでまともな審査員を回してもらえるようになったのに、何故自分たちでそれを台無しにするの?

2008年のタイで開かれた世界大会に、とある日本の大学が殆どBPの経験のない、スコアレンジも知らない人たちを大量に審査員として連れていきました。その時のことはこのブログの以下の記事に書きました。

http://toseisha.blogspot.jp/2008/01/on-responsibility-as-participating.html

この時以来、日本に対する批判は爆発しました。
ロクな審査員を連れてこないクセに良い審査員を要求し、本来良い審査員を必要とする人々を苦しめる迷惑で厚顔無恥な国であると思われるようになったのです。

最初に起きた動きの一つは、そもそも世界大会に参加できる国は地域ごとに選抜してはどうか、地域大会で優秀な成績を収めた大学だけが参加できるようにしたらどうかというものでした。

ここで私は、世界大会は世界一を決めるだけのものではない、世界大会は世界とディベート文化を共有するためのものでもある、参加者の多様性は保たれるべきだという議論を展開しました。

ほぼ同時に起きた動きとして、本戦の審査員に多様性など必要ない、優秀さのみを基準とすべき、というものがありました。

ここで私は、世界で一番説得力のある人を選びたいのであれば、世界の一部ではなく世界中の人を説得できる人間を選ぶべきだ、そのために本戦の審査員もまた世界中から集められるべきだ、という議論を展開しました。

自国からやってくる審査員のレベルが遅々として上がらない中、こうした議論をしつこく展開することで私は多くの友人を失いました。2010年のトルコで開かれた世界大会ではこうしたEFLの動きに対して痛烈な差別発言に直面しました。

三つめの動きがありました。これは、現実のものとなりました。優秀なジャッジに対する補助制度の確立です。

この制度は、「審査員プールの質を向上しなければならない」という文句のつけようのない正当化がされていました。この記事の前半に書いたことを読んでいただければ、世界大会の審査員に求められている審査精度がいかに凄まじいものかお分かりいただけるでしょう。ですから私もこればかりは反論できなかった。

けれどね、様々な大会で活躍したCVを持っているのは誰ですか?結果的に審査員プールのかなり大きな部分と多額の資金の使途が、特定の地域の審査員に占められるようになったのです。この制度ができてから今までに何人の審査員がこの制度で招聘され補助金を受けたか知っていますか?その中に日本人が何人いたか、知っていますか。

「日本の常識は世界の非常識」
日本人審査員がいない大会ではまさにそうなのです。
しかし審査員の2割を日本人が占める大会ではそうではない。
日本人審査員が参加できないということは日本の選手、日本的な議論は評価されないということなのです。

それなのに皆さんは審査員プールの日本人割合が上がったのか下がったのか、EFLの割合が上がったのか下がったのか、マイナー大学の審査員割合が上がったのか下がったのか、多様性が上がったのか下がったのか、一向に調べる気配がない。全くの無頓着です。どうしてそんなに無知でいられるの?

この環境で、2012年大会の副審査委員長の任に就くことは当初私は全く気が進みませんでした。国外で吹き荒れるバックラッシュにも、一向に状況を理解してくれない国内のコミュニティにも疲れきっていました。それでも副審査委員長になった時、毎晩のようにサンドバックかボロ雑巾のようになりながらも、何とかそれまで通りコミュニティにとって正しいと思う主張をし続けることができました。その全てを受け入れてもらえたわけではなかった。悔しかった。でもできるかぎりのことをしたし、聞き入れて貰って実現したことも色々ありました。予選が終わった時の解放感は忘れられません。

道半ばだな、とにかくより多様な地域、多様な集団に良質の審査員がいる状況にしなければ、これ以上は難しいな、と思いました。

そんな折、日本はなんとわざわざ世界大会と審査基準を変え、ローカル・ルールに移行し、そして今までよりも更にスコア感度の悪い審査員ばかり生んでいるというのです。

ホント、バカなんじゃないの?????
バカバカしくて付き合いきれない気持ちになります。

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かの友人Tは「Debate is not a hobby but life style」と言いました。
その意味では日本のディベーターの殆どは実際にはディベーターとは呼べません。

ディベート界だって小さくても社会です。
ディベートでリサーチ力をつけたい人が何故ルールすら知らない、読んだことがないの?
ディベートで批判的思考力を付けたい人が何故、なぜ諸処の大会のルールが現状のようになっているのか考えないの?なぜ日本だけスコアレンジが違うことを疑問に思わないの?
ディベートで提案力・問題解決能力を身につけたい人が何故大会のルール変更を提案しないの?どういうルールが自分たちの大会に相応しいか考えないの?
ディベートで説得的プレゼン力を身につけたい人が何故この手の話をすると敬遠して同調も反論もしないの?そもそも何故意見を持たないようにするの?

日本のディベーターの殆どの人は実生活ではディベートしません。
試合会場で、選手の時にしか議論しないのです。
議論しないだけじゃない。調べもしないし考えもしないらしいのです。
なんちゃってディベーターであって全然ディベーターではない人達の集まりなのではないかな、と思います。

ちったあ頑張れよ、若造たち。

Monday, November 25, 2013

On JWDC GF 女性大会、今年は参加しました (1) 決勝について

前の投稿にある通り昨年は参加を見合わせたJWDCという女性ディベーター支援大会ですが、今年は審査員として参加してきました。その前日にお邪魔した中学生・高校生の関東甲信越大会と合わせ、これでしばらく(希望的観測では1か月少し)ディベート大会を生で見るのはお休みになります。ああ、残念。。。でも短い間に随分沢山の大会を回れたので1か月分チャージした、ということで。この2か月間ほどにお邪魔した大会では沢山の方に色々なお気遣いを頂きました。感謝する気持ちでいっぱいです。

さて、JWDCの決勝戦について。

正直ノートを取らずに漫然と聞いてしまったので、厳密なコメントをする資格はないように思います。なので雑感程度なのですが、面白い論題だったので。

論題は、「ジェンダー(社会的性別)は出生時ではなく、後に本人が選ぶべきだ」というものでした。

ちょっと残念だな、と思ったのはどのチームもsex(生理的性別)、gender(社会的性別)、sexual preference(性的嗜好)の区別があまりついていなかったように思うことです。

開幕与党(OG)の、LGBTの人達の権利という議論は、閉幕野党(CO)に最初から「それはsexual preferenceであってgenderじゃないでしょ」と突っ込まれていて、その通りだと思いました。(精確にはLGBはsexual preferenceだしTはgenderに合わせてsexを変更しているのであってsexに合わせてgenderを変更するケースは少ないだろうしどちらにしても的外れ。)

genderがmaleな人がmaleな人を性的に嗜好するのがG、自分がfemaleでfemaleな人に性的嗜好を感じればL、maleにもfemaleにも性的魅力を感じるのであればBということなのでしょうが、であればgayであることとmaleであることは相反しません。male、female、LGBといったカテゴリー分けはナンセンスです。

そもそもOGが「genderを選択させる」と言っている時、そのgenderは何種類に分かれていると想定しているのでしょうか。選択させるからにはカテゴリー分けが行われているはずでは。

実際のところはgenderも様々なようです。male(男性)、female(女性)以外にboth(両方)やneither(どちらでもない)があるわけで、それぞれのカテゴリー内も様々です。あとTPOによって変化する人もいるかも。

COにしても、「産休の確保などcommon interestを持ったgenderによる結束が必要である」という議論を出しているのですが、産休はどちらかというとgenderではなくsexの方が基になったcommon interestかと思います。COは「genderはbiological featureと切り離せない」とも言っており、この点について釈明する必要を感じている様子は見受けられましたが、具体的な理由や事例は出されず未消化な気がしました。COもまた、sexが幾つかの明確なカテゴリーに分類できることを前提にした議論をしていたように思われます。

実際のところはsexも様々なようです。生理的なmale(男性)、female(女性)というのは何を基に決めるのでしょうか。性器によってでしょうか。それであればやはりboth(両性具有)というケースもあります。また、子宮が生まれながらにないケースのように生来生殖器官のいずれかがないということもあります。これはmale?female?both?はたまたneither?生まれた後に性器がなくなったりできたりすることもあります。性転換手術をする人もいますし、宦官のようなケースもあれば、事故で失う人もいれば、病気で切除する人もあれば、主義主張によってなくす人もいます。この人たちはmale?female?both?neither?生殖機能で決まるという考え方もあるかもしれません。しかしその場合、性器はあるが生殖能力がないというケースはどうカテゴライズされるのでしょうか。無精子症の人はmaleになれないの?無精子症ではなく乏精子症や精子無力症の場合は?勃起障害の人、子宮筋腫や内膜症が理由で妊娠しにくい人、排卵障害の人、不育症の人、原因不明不妊の人は??放射線治療をした人は?精子や卵子を凍結保存してある人は?生殖能力はあるけれど、例えば妻/恋人だけEDとか、乳癌や主義主張など様々な理由で乳房切除した人は?アンジェリーナ・ジョリーみたいに乳房再建した場合は?極端に胸が小さい女性とかは?よく考えるとgender以上にカテゴリー分けしにくい気もします。

そう考えると、COの言う「genderはbiological featureと切り離せない」とはどう解釈すれば良いでしょう?(ちなみにLGBTはgenderとは関係ないでしょ、と突っ込まれたOGはDPMでTranssexualの話に切り替えて(というか絞って?)誤魔化していたように記憶していますが、これは前述の通りgenderに合わせてsexを変えるケースがほとんどであろうことを考えるとOGの的外れぶりを尚更強調してしまっていました。学校でどっちと扱われるかという話も結局学校はgenderというよりsexを基に割り振っているわけでしょ?やー、本当にこの論題のこと全然分からなかったんだろうな。。。なのでOGが勝つことはなさそうかな。。。と思ったらナント結果はOGの優勝でした。。。うひょー、ま、COでないならOGになってしまうのだろうか。。。うーん。。。)

COはまた、sexual preferenceは生来決まっていて選択するものではない、とLady Gagaの「Born This Way」という曲名を使って表現したのですが、はたしてそうでしょうか?

実際のところは生まれてから、というか物心ついた時から変わらない人もいれば、人生の途中で気が付く人もいれば、人生の途中で変わる人もいます。confused(わからない)という人もいます。(どのケースも「自らの意思で選び取った」というよりは偶然や運命の結果としてそうなったという意味ではCOの「選ぶものじゃない」というのは正しいと思います。生まれながらの運命とは限らないけれど。)

また、sexual preferenceも様々なようです。hetrosexualな(異性を性的に嗜好する)人、homosexualな(同性を嗜好する)人、bisexualな(異性・同性の両方を性的に嗜好する)人の三種類しかいないわけでもない。neither(どちらにも興味がない)、という可能性もあります。この場合の異性だの同性だのがsexを基にしている場合もあればgenderを基にしている場合もあるでしょう。異性の二次元キャラクターを性的に嗜好して生身の異性には興味ないという場合はhetrosexualになるの?とか、性別にかかわらず馬(動物)に興奮するといった場合はbisexualと考えて良いの?車や電車といった無機物を性的に嗜好する場合は?といった疑問もつきません。また、一口に性的に嗜好するといっても色々です。いわゆる性交をしたいケースも性交の形も色々ですし(クリントン元大統領的な定義もあればそうでないものもあり。。。)、興奮するけれど性交はしたくないケースもあるでしょうし、プラトニックな嗜好の場合もあるでしょうし。。。

また、sexにしてもgenderにしてもsexual preferenceにしても、そういったラベル付け自体に反対だったり、意味を見出さなかったり、単に気にならないという人も増えつつあることでしょう。

そこら辺の現実(クイア・セクソロジーが所与となっている)を踏まえて考えると、昨日の決勝戦の4チームは4チームとも議論の意味が分からなかったというのが正直な感想です。

二点、お、良いな、と思ったのは両方ともCOから出てきたもので、「他者にどうラベル付けされようとも、あなたとその人生がそのラベルに従わなければならないということではない」という視点と「そうであれば生まれながらに規定される方が後で選ぶより良い」という意見でした。

後者の理由が産休の件になってしまったのでうーん。。。って感じでしたが、もし「出生時に他人に勝手につけられたラベルにであればレジスタンス(抵抗)できる。でももし自分で一つのラベルを選び取ってしまったら自らそのラベルやカテゴリー分類の制度/体制に組み込まれることに同意しているわけで、もう二度とカテゴリー分類自体に抵抗することができなくなるではないか」という話になったのであれば私は明確にCOを支持したと思います。

つい先週、K先生が授業で米国のフィギュアスケーター、ジョニー・ウィアーさんのインタビュービデオ(https://www.youtube.com/watch?v=a6-MAmhGKsU)を流していらして大変興味深かったのですが、ウィアーさんのような「gender(musculinityやfemininity)は時代遅れで無意味なものに思える」という意見は、もし仮にウィアーさんが一つのgenderカテゴリーを自ら選んでしまっていたら自己矛盾してしまい持ち得ないものになります。そしてウィアーさんのような人はgenderを自分が選択することにも強い抵抗感を感じることでしょう。

今学期、聴講させていただいたS先生の授業でも、ミシェル・フーコーが全てのラベルやカテゴリーを拒絶したという話が出ました。フーコーもまた、自分で一つのgenderカテゴリーに収まることには強い違和感を感じたかもしれません。このブログで何度も触れている『精神疾患と心理学』という著書で示されているように、「お前は気違いで治療を必要としている」と他者に言われている段階ではまだ<治療>は完了していない、言われた本人が「自分は気違いで治療を必要としている」と信じるようになった時に<治療>が完了するのだとすれば(映画「カッコーの巣の上で」はこの考え方を素晴らしく代表しているように思います)、「お前は男で男らしくあるべきだ」と言われている内はそれを疑問視することも反抗することもできると思うのです。でも本人が「自分は男であり男らしくあるべきだ」と信じてしまうようになればもう「男らしさ」「女らしさ」を是とする体制に抗うことはできないでしょう。

今回の論題、Opp.が辛いと感じた人もいたようですが、もしそもそもgenderカテゴリー自体に反対するという立場を取るのであればOppにも一貫した視点が打ち出せる余地があったように思うのです。COは最もそこに近かったけれどあと一歩足りなかったように思います。(でも残り3チームは完全にそれ以前の段階で倒れていたので、比較優位としては私ならCOに勝たせます。まあとはいっても真面目にノートを取って聞いた試合ではないので少々無責任かもしれませんが)

ただね、全てのラベルやカテゴリーを拒絶するというのは果たして人間社会に可能なのでしょうか。「我ら」と「彼ら」、「西洋」と「東洋」の二分類を批判したサイードに強く共鳴しながら、同時に人間というのはカテゴリー分類をすることなしにモノを考えられる生き物なのかという疑問も強い、現代の我々はその隘路にいるように思います。Gov.には是非その辺りに切り込んで貰いたかったですね。(こちらの視点をCOが自ら出してしまったのはCOとしては戦略ミスだったと思います。それはGov.が言うことでOpp.の言うことではないと思う。話の深さはピカ一だったのにあと一歩及ばなかったり戦略的でなかったり本当に惜しかったなぁ。やはり自分たちの立場を整理するというのが大切なのでしょうね。)

以上、昨日のGFの感想でした。

Wednesday, July 04, 2012

久しぶりに。【Vol.5】

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5.【倫理編③】咀嚼し評価する
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EUが女性科学者を増やそうと"Science: It's a Girl Thing"というビデオを作りましたが、視聴者から非難轟々、慌てて引っ込めたそうです。
http://rocketnews24.com/2012/06/27/224728/

このビデオをrather insultingと感じるかは「人による」かもしれませんが、少なくともEUの視聴者にはビデオのメッセージを咀嚼し評価した結果、かえって女性蔑視的であるという結論に至る人が一定数以上いて、しかも声をあげて堂々とそう表明しているということです。

どうしてこれがinsultingだと思われるのかというと、おそらくは、「女性が科学に有能であることは誇らしいことだし、ちゃんと科学者としての能力が評価されますよ」というメッセージを伝えたいにもかかわらず、実際には「女性は知性ではなく見た目が可愛いくてセクシーであることが重要ですよ。知性よりも異性をどれだけ惹きつけるかだけが女性の価値ですよ。科学者になっても科学をすることではなく同僚の男性にモテることが存在意義ですよ」と受け取られるメッセージになっているから。(特に男性の真面目そうな科学者がちっとも科学者には見えない派手でお色気強調型の恰好をした女性たちが歩いてくるのをみて手を止めメガネをかけ直してまでガン見するあたりが最低。。。どう見ても彼女らの科学に関する能力に注目しているのではない。)

こういうアホなPV作っちゃう人がいるのも、うっかり会議を通して採用しちゃう政府があるのも鈍感極まりない話ですが、少なくとも視聴者に咀嚼し評価する力があるので淘汰されるわけです。

さて、最近日本の英語即興ディベート界では女性向け大会新設という話がありまして。最初「素晴らしい!」と大感激したのですが、よくよく聞いてみると選手は女性のみで審査員は男性可。というか女性に選手になることをススメる結果審査員は殆ど男性になるとのことで。。。それってダメじゃない?ということで一気にトーンダウンした私です。

丁度日米交歓ツアーで米国代表チームが来日してきて、委員会に女性が増えたとか、あっちの有名大会で優秀な成績をおさめた選手に女性が多かった年にその年の女性参加者が団結した話とか聞きまして。。。その時丁度上の件も話したんですよ。選手での参加を主催者はススメてるみたいだし私自身審査するよりディベートする方が好きなんだけど、そういうわけで選手に回る気になれないんだよね。。。と。これがあっさり通じるんですな。大した説明してないのに。「それは確かにグロテスクだね。審査員も女性にならないなら選手参加はしないって言ったら?」というのが米国選手の反応でした。しかしどうも日本の当該コミュニティ自体ではそういう反応は薄い。というか私だけが一方的にしている。

いや、だってさ、ミスコンじゃあるまいし、女性選手がずらーっと並べられて男性の観客に品定めされてランキングつけられるってどうなのよ、マジで。そもそもの開催趣旨って何なんだろう???

まあ審査委員長の方に丁寧に状況をご説明頂いて、とりあえず贅沢言わずに第一回を開催したいんです、第一回で人が集まれば二回目以降は良くなるかと、ということのようなので、まあ不参加にはならないようにしようと思うようになりました(でも多分審査員として)。

ところがその矢先。今度はその大会のロゴがアップされたんですよ。それがAKB48のロゴそっくりで、ご丁寧に「そっくりなのは気のせいです―」みたいなコメントつき。。。ちなみにロゴを作ったのは主催者の一人で男性の方のようなんですね。

なんかもうがっくり肩から力が抜けました。

もうさ、多分何のために女性大会開くのかという根本の認識が違うんだと思うんですよ。だってあまりにそっくりでしょ、上のEUのScience: It's a Girl Thing!とかいうキモいPVと。そんなもん冗談半分に作るなよ、台無しジャン。。。。。。と私なら思う。

わざわざ解説するのも野暮な話ですけど、「女性が知的で理性的で批判的な大人な態度を示すことを応援しよう」というイベントなんだろうと思うんですよ。女性に気兼ねなくディベートする場を与えようっていうのはそういうことだろうと思うんです。そもそもは。そのイメージがAKBというおそらく「可愛くて若くて素直で素人っぽい。支持層は殆ど男性で、男性にとって可愛いかどうかで競争している」というディベートからはほど遠いものに置き換えたら結局「女たちは可愛くて若くて素直で素人っぽい態度を示すことで男性にファンになってもらいたいです。ディベートの中身なんて良いんです。AKB総選挙のように誰が可愛いか、誰を恋人にしたいかい、誰のファンかで男性が票入れて下さい。」っていう真逆のメッセージになっちゃうじゃん。ホントEUのScience: It's a Girl Thingそっくりじゃん。むしろメチャメチャ女性蔑視な大会なのでは。。。。。。

しかも、重要な点は、そのロゴに「いいね!」を押してる人は居ても文句言ってる人はいないんですよ。。。本当にさぁ。。。どういうことなの。。。もう一気に参加意欲が減退しました。

EUの件はね、まあ人間間違いってありますよね。それでも視聴者が抗議して取り下げられる(淘汰する)から良いですよ。でも日本の英語即興ディベートのコミュニティはそれがない。浄化機能が働いてないんですよね。。。

そんなに文句つけるのが怖いのかなぁ?
それともそもそも気が付いてないの?

どういうことなんでしょう。。。後者なら真剣にコミュニティの読解力(咀嚼し評価する力)の欠如を分析した方が良いと思うんですよね。。。

これって「グロテスクだと思う感性の人ばかりじゃない」ということに配慮しなきゃダメですか?

とりあえず米国の選手に「例の大会がロゴがAKBのパクリなんだよー」って言ってみよう。なんて言うかな(ってすぐ想像はつくけど。。。)

Monday, July 02, 2012

久しぶりに。【Vol.4】

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4. 【倫理編②】言葉によるリンチ
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昨日の決勝に限らず、耳を疑うような発言を聞いた時に、観客が逆に喜んでいたりすることがあって本当にゾッとする。そういう集団は言葉で他者をリンチしかねない。(この辺りの詳細は拙著「コミュニケーション摩擦と社会公正:国際ディベート大会での調査から」に。)恐ろしいディベータ―と聴衆の共犯関係だ。狭いコミュニティの内輪同士の熱狂は時に暴力的だ。

その暴走に大会の進行を中断してでも敢然と異議を唱える。

それができるのが2001年のIDEAスタッフ達であり、Alexandraさんはじめとする良識ある審査員諸氏だった。

あれには本当に感動した。

駄目ですね。私にはまだあれはできない。情けない。
審査員として座っている大会の決勝戦で、最終スピーチ終了直後票も集める前にスックと立ち上がったあの姿を私はきっと一生忘れない。
「こういうことを言うために我々はディベートしているのか。囃し立ててた観客の姿に私は心が凍りついた。」とそう毅然と彼女が言ったとき、私の隣に座っていたガキは彼女への憎悪をむき出しにしてグチグチと言い訳を隣の席に呟いていた。でもそのガキは立ち上がって反論しなかった。おそらく彼女の方が正しいと心の何処かでわかっているから。
それでもいい。今納得いかなくても、時間をかけてゆっくり理解できれば、分からないままよりはずっといい。いつか分かった時に、教えてくれた彼女に感謝できれば尚更いい。

コミュニティには彼女みたいな人が要る。
私はまだ全然彼女のようにはなれない。
でも彼女みたいな人が要る。
あの時のIDEAスタッフ達のような人々が要る。
本当は今すぐ要る。
でも、今が駄目でも、いつか日本にも現れると良い。
それで初めてAcademic Debate(学習・教育を目的としたディベート)が本来の姿になる。

丁度今、日本の高校生たちがメキシコで開かれている今年のIDEA YFに参加している。勝っても負けても良い。IDEAから学べることはそんなことよりずっと大きい(そして残念ながらWSDCではそれがイマイチ学べない)。是非その心を、「優しくなるためにディベートするんだ」って気持ちを掴んで帰ってきてほしい。

久しぶりに。【Vol.3】

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3. 【倫理編①】言ってることのグロテスクさに気づいてくれ
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この項はTwitterで書いたことのまとめ。大幅加筆あり。

最近(例えばGeminiGF)、学生さんのディベート見てると「この人、人間らしい心を失ってしまったのではないか」「ディベートマシーンを演じているのかしら」と不安になることが多々あります。

ただ、この点に不安が大きいのが、非常に残念ながら日本ディベート界のお家芸(?)。かつてJPDUの春セミで「離婚に課税しよう」という論題が出たことや、大会で「HIVキャリアーの入国を禁じよう」といった論題が出たことがあるほど。「アホかーーーー!!キモいわ!!!」と背筋が凍るような思いをしても周囲は平然としていたりする。(「離婚に課税」については講師としてきていたオーストラリア人講師たちが「何考えてこういう論題が出るんだと思う?」と愚痴っていました。全くだ。)

そういうこと煩く言うと、①嫌がられる、②海外の大会の論題を使い回すケースが増える、というイマイチな方向に向かってしまうようですが。。。

海外の論題が必ずしも全て良い論題とは限らないんだぞーーーーーーーー!!!!
(なんでそう権威に弱いの。。。)

ま、論題の件は置いておいて。。。

議論内容についても、冷徹な損得勘定だけじゃなくて、もっと人間の心の温かみのある善悪と向き合った議論(最近これが俗にprinciple argumentsと呼ばれている。。。)をしようよ、という動きがあり、猫も杓子もプリンシプルプリンシプルなわけですが、肝心の根っこが置き去りな印象を受けます。

昨日Pre-Australsの決勝の論題はThat the military targetting of any place of worship is a legitimate warfare tactic.というものでした。

まあ、debatableな論題だとは思います。私が肯定側だったらあまり積極的に選びたくはない論題だけど。

で、この論題を肯定側でひいちゃったらほぼ選択肢はないでしょう。necessary evilだと言うしかない。

そういう意味では、value judgement云々という話が余計&逆効果だったとはいえ、肯定側一人目のスピーチは、「まあ、こんな感じでしょうな」と納得のいくもの。「戦火の中の血みどろの総力戦に兵士も市民もあるか」「軍事戦略上利用されていれば軍事施設と見做す」的思い切りの良い、潔いと言えなくもない展開でした。話の深さは可も不可もなしといったところ。(でもこの話の展開で「マドラッサはテロリスト育成の温床になっている!」とか叫ばれると、まだ幼い児童たちが何十人も爆撃で吹っ飛ぶところを思い浮かべるよね。。。その程度の「軍事戦略上の利用」でも兵士なみに見做されるなら軍政下の日本や現在の北朝鮮のプロパガンダに影響されている国民は全員老若男女健康なのも病弱なのも皆十把一絡げに攻撃対象になるだろ。広島・長崎万歳状態かよ。。。と正直ヒキましたけど。)

"Fog of War"のマクナマラの「戦争を早く終わらせるため、そして味方兵士千人の命を救うために、何十万人もの市民を空襲で殺したり原爆を投下したりするのは本当にproportionateと言えたのか」という疑問と対極にあるスピーチだったと言えるでしょう。謂わばレメイ将軍の役どころですね。まあその役どころ引いちゃったんだからその役に徹するしかないよね。(その前に引き当てない方法もあった筈だが。。。)

ちなみに私は1AにMatter 30, Manner 31, Method 14の合計75点をつけました。Methodの減点は「value judgement debate」&「last resort」という逃げに走ってclashを避けているケースセッティングのため。

ここまでは見られたんですよ。問題はこの後。

  1. 「戦争で家族も友人も財産も、全てを失った人が魂の救済を求める時、最も神を必要とする人間から信仰の場を奪うのか」というOppに対する2A「アイデンティティは宗教以外でも構わない。家族を亡くしたなら学校にアイデンティティを守ってもらえば良い」意味不明。
  2. 同様のポイントに対する3A。「1)祈るのは教会でする必要ないだろ。自宅で祈ってろ。2)教会じゃなくて学校で十分。3)俺らがカウンセリング提供してやる。」
  3. 「人々の崇拝の対象を奪うことは、人々を怒りと復讐心で団結させ戦いを激化させ、平和を遠のかせるだけだ。だからこそマッカーサーは天皇を殺さなかった」というOppに2Aの台詞「天皇はmilitary targetじゃない」意味不明。
  4. 「祈りの場は人々の精神性の支柱であり記念碑であり心の平穏の場である」というOppに対し「記念碑だって何処だって良いだろ。病院でも記念してろ」という3A。

などなど、耳を疑う発言が出るわ出るわ目白押し。
(但し、3Aのスピーカからは「そういうことが言いたかったわけではない」と聞きました。本当は何と言いたかったのか聞いてみると実際に口にしていたのと随分違うことな印象を受けましたが。。。でも言ったことだけを見たら相当ヒトデナシだと思う。)

この「教会がダメなら○○でも代わりにしとけ」発言の連続に正直席を立ちたい気持ちでした。。。

家族の代りに学校、とか、
教会の代りに自宅、とか、
記念碑の代わりに病院、とか、

①意味が分からない
②凄くinsulting

これを大した説明なく、ただナンバリングしてドライに次から次と言うんだわ、また。共感する気持ちといったものが殆ど表現されない。

そうじゃないでしょ。
代替品をあてがえば良いっていう話じゃないでしょ。

こういうこと言える人は、一度韓国の歴史建築に行って何回破壊されて何回再建されてるか説明書きを読んでくるといい。清水寺は爆破するけど代わりに京都の駅ナカにコミュニティーセンター作ってあげるからと言われて納得すんのか考えたら良い。

もしくは、パレスチナ紛争は手を尽くしたけど解決しないから最後の手段として争いの原因になってる嘆きの壁や生誕教会、岩のドームなどを全部爆破しよう、代わりに各グループの領地にメモリアルセンター作るからさ、とか言ったら納得してもらえるか。

お宅の息子を牽き殺しちゃったけどこの子代わりに養子にさせてあげるからさ、と言われて納得する親がいるか?君のおじいちゃんの形見の腕時計を捨てちゃったけど代わりを買ってあげるよ、と言われて納得するか?

人が愛着を持っているものに代替品はない、代替品について口にすること事態が侮辱的だ。そんなこと小学生程度の社会性でもあれば容易に分かるはずのことでしょう。

ましてやお気に入りのバッグとかではなく、人生に絶望した人間にとっての魂の救済の場について話しているわけでしょう。何処でも誰でも代わりになれるわけでないことくらいわかりそうなもんだ。

私自身は無宗教ですし、神に魂の救済を求めたことはない不信心者ですけれど、戦火の中ですがれるのは神だけという状況にも無縁ですけど、お墓参りくらいはしたことありますし、あれだけ皆が目の色変えるのが宗教なんですから、少しは想像したことありますよ。もし私が愛する人がある日突然理不尽な死に方をしたら、辛くて辛くて、「でもあの人の身体は死んでも心も消えてなくなってしまったわけではない。きっとあの人は全知全能な誰かに善い人だったと認められて平和で幸せな天国で私を待っているんだ」と信じたくなるかもしれない。「どうかあの人に天国で幸せにならせてあげてください」って霊験あらたかな場所や先祖代々信心してきたご本尊に毎日祈りたくなるのかもしれない。美しい仏像やマリア像やキリスト像の横顔を見つめて「どうぞそのお慈悲であの人を安らかに」と祈るのかもしれない。そう信じるしか、今日や明日を生きながらえる術がない状況というのがあるかもしれない。

また、宗教施設というのはそのコミュニティにとって特別な場所であることも想像はつきます。ルーマニアの森深くに朽ち果てそうな、それでも貧しいコミュニティが必死にお金をかき集めて維持し続けている教会を沢山見ました。その辺りの村はどこも貧しくて、維持が容易でないことが分かりましたけれど、でも放棄しようとはしないんですね。。。中も外も極彩色の古いフレスコ画で、自ら死を選んだ聖人達の死にざまがビッシリと描かれていた。あの暗くて小さな建物の最奥のオルタ―に光が差し込むのを、どんな思いで住民がみつめるのか、全く想像がつかないとは言わない。うちの母も遠方にあった先祖代々の墓を近くに移す時、たまたま気に入って覗いた同じ宗派のお寺に曽祖父が寄進したという記録が残っていて「運命だわ!きっとここなら皆(先祖)も納得してくれるわ」と感激していました。ま、どこの寺でも構わないってわけにいかなくて、何かしらattachmentが感じられないとイヤなんだろうな、というくらいは分かる。

否定側が「戦争で家族も友人も財産も、全てを失った人が魂の救済を求める時、最も神を必要とする人間から信仰の場を奪うのか」と言った時、そういう話をしていたわけでしょう?その時、どの寺でもどの仏像でも良いってわけにいかないんでしょう?ましてや学校の教室で間に合わせて下さいとか言われた日には。。。常識で考えて、そういうもんじゃないでしょう。

「否定側はそこまで説明しなかった」という反論も聞くんですけど、「人が愛着を持っているものに代替品はない、代替品について口にすること事態が侮辱的だ。ましてや信仰の対象とまでなれば尚更だ。モハメットに破門されたから今日からシッダールダにしようってわけにはいかない。」という程度のことを説明されなければ分からないAverage Reasonable Personってどんなよ。赤ちゃん(ほぼTabla Rasa)なのかよ。ごく普通の人としての心はそこにないの?本気で学校や病院で事足りる可能性と五分五分だと思うわけ?いつもの深い信仰心とその人柄で長年を共にしてきた神父さん/お坊さんの代わりを占領国が派遣してくる見ず知らずのカウンセラーが務められる可能性が五分五分だと?本気で思うの?人間としての肌感覚はそこにはないの?

そうではないでしょう。
代替品をあてがうから良いだろってことじゃない。

私が肯定側からの返答として納得がいったかもしれない話としては、例えば以下のような返答があり得ると思います。

「どれだけ残酷なことかということはわかります。死人に鞭を打つような行為だということは承知している。それでも、敢えて、今それをしなければ、同じように家族も友人も財産も、全てを失って絶望に沈む思いを彼らの子供たちにもさせなければならなくなるんです。」

実際、肯定側もReplyはそういう路線でした。
だから私がグロテスクだと感じたのは要は2Aと3Aなんですよね。。。
ホント一体どういう感覚なのか、私には理解できません。

恩師の言葉に「人間は優しくなるために学ぶんだ。学問の目的は優しくなること。」というのがあるんですが、私は勝手に学問をディベートに置き換えています。人の心を失ったディベーターは正に凶悪なソフィスト。このブログでは再三出てきているテーマですが、ディベートをすることで人としての心を失うならディベートしない方が良いと思います。冷血漢な雄弁者になることが称賛されるコミュニティなら私は所属したくありません。

久しぶりに。【Vol.2】

早くも面倒くさくなってきた。。。
しかし、こういう機会に書かないと後で何回も面倒な思いするしな。。。
一回書けば何回も使えるんだから(Extra-Topicalなケースの問題点も一度ここに書いたらもう説明せずに済むようになったじゃん)。。。頑張れ、自分。

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2. 【技術編②】逃げとしての《This is a value judgement debate》
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この台詞の使用は2種類に分類されると思います。

(1) 「肯定側と否定側がGoalを共有しているタイプのディベートではありません。(つまり普通のディベートです。)だから、ProcessだけでなくValueの吟味もしっかり行ってください。」という意味。

前回の投稿に、PolicyなしのValueディベートなんてないし、ValueなしのPolicyディベートなんてない、と書きましたが、後者については、「Valueについては両サイドに全く意見の相違がない」という希なケースもあります。

例えば、炭素税導入のディベートで、肯定側も否定側もCO2削減が最優先課題だということで同意していて、あとはどの削減方法が最も有効に削減できるかについての意見の食い違いだけという場合。例えば、消費税増税で、肯定側も否定側も景気の回復が最優先課題だと同意していてあとはどうやって景気回復するのが早くて効果的かという点だけという場合。などです。

この希なケースでは、ディベートの焦点はValueから離れProcessに収束してきます。炭素税導入でCO2が増えるのか減るのか、消費税アップで景気は上向くのか下向くのか、そこのみを争うことになるわけです。(この手の論題はしばしば「悪い論題」とされますので、やっぱり聞き手はValueとProcessの両方を聞きたいと思っているんでしょうね)

で、あたかもこのような特殊な場合かのようにプロセスばっかり重箱の隅をつつくように吟味する審査員がいると普通のディベートの時困るので、もしくは最初からValueについて両サイドが大きく見解を異にする確率が高いと予測されディベートのメジャなclash pointがValueになるだろう時、「これは価値観が争点になるディベートですよ。(プロセスばかりじゃなくて背後にある価値観にもよく目を向けてね)」という意味で「This is a value judgement debate」と言う、ということが考えられます。

これは至極、至極、まっとうな使い方です。

さて、もう一種類。

(2) 「うちのチームの意見だけ考慮して、相手チームの議論は無視してください。」という意味。

これが昨日の決勝のタイプ。ダメダメなパターンです。

「もし全部できうることを手を尽くして、それでも他に戦争を終わらせる手がなくて、毎日大量の一般市民を含む死者が出ていて、そんでもって一般市民を殺せば戦争が早く終わるとしたら、そしたら一般市民を殺しても良いでしょ?」
「え?それって具体的には例えばどこ?いや、具体的にどこかは関係ないんだよ、これはvalue judgement debateだから。」

というのが昨日の肯定側。基本的に。

これはヘテロな女に「もし世界中に男が僕しかいなくなって、それでもどうしても結婚したくなったら、そしたら僕と結婚してくれるよね?」「え?どうして世界中の他の男がいなくなったのか?それはいいんだよ、もしもの話なんだから。で、どう?結婚してくれるよね?」と聞いているようなもんです。

うざい。

そもそもの仮定が非現実的で自分に都合よく極端に走っている。質問自体を「No」と答えられないように設定しておいてわざわざ聞いてくることにどんな意味があるというのか。

否定側チームが議論することができないように、ほぼtruismになるような架空の設定を捻くり出すことで勝利を確実にしようとする肯定側のセッティング。こういうのはチキンで姑息なチームのすることです。

で、自分たちのセッティングのあまりの架空性・非現実性を棚に上げるための言い訳として言われる「This is a value judgement debate」。こちらには全く正当性がありません。

(1)の使い方であれば、まあ良いんじゃないですか。まともなジャッジにはわざわざ言う必要もないようなことですが、心配なら言えば。

でも(2)は駄目です。屑です。


久しぶりに。【Vol.1】

最近ノータッチだったブログですが、久しぶりに書きます。
というのも、GeminiGFを見て色々思ったこととか書かないでいたら早くも忘れ始めたから。いかん。

昨日は久々に学生のディベート大会の審査をしましたけど。。。良いスピーチも幾つか見れて嬉しかった反面、机に突っ伏したくなるスピーチも幾つかありました。(どちらでもない惜しいくらいのスピーチもありました)

良かったスピーチとしては、R1のN君のスピーチ。あれは非常に感心した。あとは決勝のS君、U君。あれもなかなかできないスピーチだったと思う。良いスピーチを聞けると「明日月曜日なのに夜遅くまでやるなぁ」とかいう気持ちは吹っ飛んで「来て良かった。聞かせてもらってよかった。このスピーチだけだったら視聴料払える」とか思うわけで、彼らのスピーチは社会人が休みを削っていく動機づけ的には重要だなぁと思います。

まぁ、とりあえず久しぶりに決勝の感想文。長いので論点ごとに分けましょう。これはまず一点目。

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1. 【技術編①】Value Judgement Debateという幻想
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ホントValue Debateという幽霊がなかなか消えませんねー。
いまだに、現実の特定の状況背景(Context/Process)や実現可能性(Feasibility)とは関係なく、価値観/倫理上の原則論のみの是非を議論すること(Value Debate)ができる、と信じている人がいるようです。

古くはCEDAとかValue Debateを標榜していたわけですが、時を経てその路線は放棄。Policy Debateに戻りました。もう一つのウリだったCross-ExaminationはNDTも取り入れたので、結局CEDAとNDTにはもう違いがない、というのが私の理解です。

何故CEDAがValue Debateを放棄したのか。それは単純に純粋なValue Debateなんてものは存在しないからです。良いディベートではContext/ProcessとValueの両方がバランス良く語られます。片方だけなんてことはできない。

(「地球はいついつできた」とか「邪馬台国は九州にあった」といった事実関係の決着のみを争うディベートはこの限りではありませんが、ま、それはValue DebateやPolicy Debateとは関係ありませんね。事実関係を争うことを焦点にした競技ディベートは現存しませんし。)

例えば、「贅沢は良いことだ」というValueの正否を問うディベートをしたとして、審査員は何を基準に審査しますか?「贅沢は心を豊かにする」「贅沢は人を傲慢にする」とかいったフワフワした理由づけのみ提示されたところで、どちらの方がより重要な決定要因となるかこれだけで決められますか?

ここで言う贅沢というのが借金をしてまでご馳走を食べることなのか、サラリーマンがGWに家族旅行をすることなのか、ビジネスマネジャーが飛行機のファーストクラスに乗ることなのか、食後の一杯/一本のことなのか、とあるカップルが婚約指輪を買うことなのか、研究者が蔵書を沢山抱えることなのか、ギリシャが公務員の雇用を守ることなのか、バスタオルを毎日洗濯することなのか、はたまた注射は使い回ししないという話なのか、有給休暇を取るという話なのか、動物実験をバンバンやるという話なのか、画家が画材を惜しまず何度も試し描きすることなのか、所持金5000円の学生がギャンブルに一千万投じることなのか。。。

「贅沢」が何を具体的に意味しているのか、誰が何をすることの価値なのか、から離れて、ただ「贅沢が良いこと」かどうかを決められますか。

「人を殺すのは悪いことだ」という価値感の是非を、「殺人鬼に襲われてもみ合いの中で自衛しようとして殺してしまう殺人なのか、快楽殺人や利己的な欲望のための殺人なのか、わからなくて決められますか。

具体的な文脈なしに原則論の是非だけを議論/審査するなんてことは不可能なんですよ。

同時に、全てのPolicy判断にはValue Judgementが伴います。大学がプールを新設するべきか考えるにあたっては大学が「学生の福祉・健康」「学生の課外活動」「水泳競技を通じた大学の広報」「代わりに予算を充てられる筈だった図書館の増築の断念」「管理費用の増加」「安全面でのリスク」といった様々な要素が並んだ時、結論を出すには重みづけを行わなければならない。そこでは必ずその大学のvalue judgementが生じます。その大学にとって大切なことは何か、議論せざるを得ないんです。

PolicyなしのValueディベートなんてものは存在しないし、Value抜きのPolicyに関するディベートなんて成立しない。value judgement debateというのは(後述の特殊な文脈での使用を除けば)意味を持たない言葉なんです。

古い方の中には、「でも《パーラ》はValueなんでしょ?」とか思う方もいらっしゃるんでしょうね。

1980年代~2000年代初頭の日本の即興性ディベート(KUELや初期のJPDU)のイメージが残る方たちに「《パーラ》はディベートじゃない」と言う人たちがいるのは、この辺がまーーーったく分かっていない酷い論題が当時の《パーラ》の大会で続出していたからでしょう。「米よりパンの方が良い」だの、「恋人よりペットが良い」だの、屑な論題が大量にあったのです。

これをまともなディベートにするには、「米よりパンの方が良い」を「日本は農産物の輸入規制を撤廃するべき」に、「恋人よりペットが良い」を「市町村/国は独身者向けに集団お見合いの主催から保健所での遺棄された動物とのマッチング補助に予算を振り替えた方が良い」に、ディベータが勝手に置き換えてやらなければいけなかったのです。それを上手にしないとまともなディベートにならないということに気づけ、実行できるのは当時の最も優秀なグループのみだった。論題を曲解できることが《良い》ディベータの証というふざけた闇の時代だったわけです。Titech Cup前に少し話しましたが、この世代のディベータが最近の大会に来て論題の解釈に失敗しがちなのは、この時代の経験が染みついているからだと思います。

当たり前ですが、ディベータが屁理屈こねて論題を曲解しないとまともなディベートができない論題が頻出するというのは悲劇的なことです。全くもってばかげていた。結局Policyにしないとまともにディベートできないんなら最初からPolicyの分かる論題を出せば良い話なのです。

当時私が「こういうアホな論題はもうやめましょう」と何回言っても先輩も同輩も後輩も皆頑として聞かなかった。当時のKUELのテキストがご丁寧に、「論題には①事実論題、②価値論題、③政策論題の三つがあり、それぞれに話すべき内容が違います」と解説していて、皆さんそれで「価値論題と政策論題のディベートは別のもの」と思い込んでいるわけです。

最近の日本の学生はKUELのテキストの代りに国際大会での成功者の話を拠り所にするようです。昨日も「でも世界チャンプがvalue judgement debateって言ってた!」と私に言った学生さんもいましたが、世界チャンプの言うことなら何でも鵜呑みにするというのはダメだね。盲信して自分で考えてない点は全然変わっていない。

こう言っちゃなんですが即興性ディベートは継続的な理論構築を全く経ていないため、本当に胡散臭い定説が平気でまかり通っています。きちんと吟味されたことがないんですね。世界のトップクラスの選手や審査員でさえディベートの理論や審査方式についての論文を一件も読んだことがない状態で「我こそエキスパート」と自負しているのですから嘆かわしいことです。

実は世界大会も上記のKUEL/JPDUと同じ失敗をしてるんですね。単に日本の方が少し遅れているだけで。昔は「The glass is half full」だの「Machiavellism is the way to go」といった極端なオープン論題が出ていて、コミュニティの《トップ》のディベータは「Machiavellism is the way to go」を「政府はテロとの交渉に応じるべきだ」というPolicyに解釈し直してディベートしていた(WUDC1994GF)。そのアホさ加減に漸く気が付き、現在では最初から特定の政策を明確に示唆する論題ばかりが出ているわけです。

そういうわけで、CEDAを見ても、KUEL/JPDUを見ても、WUDCを見ても、要はValueのみを議論することなんてできない、というのがこの30年で学習されたことなわけです。そしてそれは理論的にもあちこちに書かれている(私よりずっと上手く説明している論文が幾つもあると思いますから興味のある人はそっちを読んでください)。

にもかかわらず、今でもvalue judgement debateというフレーズを使うケースには二種類あります。
片方は至極まとも(前出の特殊な文脈)で、もう片方は単なる屑です。
察するに前出の世界チャンプは前者の意味で使ったのでしょう(というかそう思いたい)。

ここから先は次の投稿へ。

Saturday, March 17, 2012

最近飛行機関連で驚いたこと

2年も放っておいたブログを何故か今さら復活させているわけですが、その間にFacebookと連動しなくなっちゃっているんですよね。このブログサイトはGoogle+に固執するGoogleがやってるサービスなので、Facebookが敵に塩を送るのをやめたのかな。。。と思ったのですが、関係なく外部ブログ全部ダメみたいですね。Facebook Notesを使え、と。やなこった。だって今までのコンテンツどうするのよ。

あと改行が上手く入らなくなってるっぽい。インデントめちゃ見にくい。。。

ま、とりあえず表題の件。

堂々の第一位!

1. 宇宙旅行

マイレージ会員になっているとある航空会社からメールが届き目を疑いました。「宇宙船で宇宙を旅するまたとない機会をお客様にご提供いたします。」って。。。。

いつものフライトスケジュールとかキャンペーンのお知らせかと思ったのに。。。

まずギャグかな、と思ったのですが4月1日ではない。次に偽メールかな、と思ったのですがHTML形式メールのデザインもいつも通りだし私のマイレージ番号も名前も正しいし、発信元のアドレスもいつもと同じ。。。

うーーーーん。。。と思いつつ恐る恐るリンクをクリック!すると地理の問題に全問正解すると宇宙旅行が当たる抽選に参加できるとのこと。やっちゃいました、全問正解。そして応募してしまいました。いやはやどうなることやら。しかし費用はスポンサー持ちみたいだし、健康診断その他色々受けなきゃなようですが、行けるなら行ってみたい。しかも本人が行けないなら第三者を指名しても良いんですって。凄くないですか。もし未産婦はやめておけと家族に止められたら夫を指名しよう、うん。

けど「いつ」って言うのが書いてないんですよね、この宇宙旅行。これから5年以内の話なのだろうか。それとももっと先の話?説明には飛行士としてのトレーニングを積んでからの出発になるとも書いてあるし。。。そもそも問題の宇宙船自体完成していないみたいだし。まあかなり先の話だとして、でも面白そうではあります。(こういうこと言うと母には怒られますが)

ちなみに妻が突飛なことを言い出すことに慣れている夫。反応は「へぇー」でした。。。相変わらず薄いなぁ、リアクション。抽選結果が当選だったりしたら流石に驚くかしら。。。当選結果は2カ月後!らしいです。

第二位!

2. 隣の席が夫の仕事関係者

笑顔が優しくて人懐こい方だなぁ、と感心していたらなんと夫の仕事関係者でした。お隣に座った翌々日に夫が顔を合わせたそうで。。。ひえー。機内で何事もなくて良かった。。。

しかしねぇ、このフライト私窓側の席だったんですよね。長いスカートたくしあげて隣の方の足を跨いで廊下に出たりしていたわけで。。。うーん、できればそういう神経使う相席は。。。避けたいかも。。。今回は先方がおおらかな方で特に何もお気に障らなかったようで本当に良かったです。

第三位!

3. 機内お見合い

別のフライトで。三人掛け席の通路側に座っていたのですが、窓側の方に真ん中の席の方を結婚相手にどうか、と力説されてしまいました。当の真ん中の席の方は大変感じのいい方ではあったのですが、当方それ以前の問題が。。。何とか口を挟む隙をみつけて「既婚なんです」とお伝えすると腰も抜けんばかりに驚かれた様子で逆に驚きました。指輪はめて食事しているんだから真っ先に気づきそうなものですが。。。しかし50人くらいに丸聞こえな中「この人どうですか。良い人ですよ。なのに一人なんですよ」と大声で言われてしまった真ん中の席の方。。。さぞやお困りだったことと思います。

そう言えば親戚と旅行中にタクシーに乗ったら運転手さんに「実家に毎年果物をたくさん送るからうちの長男の嫁に来ないか」と言われたこともありました(知らぬところで勝手に縁組されそうになった息子さんも大変です)。あと船で船長さんにとある乗組員さんとの結婚を勧められたことも。。。公共の交通機関でお仲人するって世の中で一般的なのでしょうか。。。

そう言えば前述の航空会社では、隣の席の人をフライト前にSNSで見つけておけるサービスも開始されました(当然希望者のみ。しかし一定のマイレージクラス以上は席を選択できるので。。。美男美女の隣は大人気、とかになるのでしょうか。。。それって大丈夫なの?紳士は金髪がお好きの世界ですね)。その航空会社のアンケートにも「機内での出会いや交流はフライトの楽しみの一つですか」といった質問が入っていました。交通機関を見合いや合コンの場と捉えたことは皆無だった私。そんな人おるのかい、と驚いていたのですが。。。

いやーーーー、世の中私が思っているよりずっとワイルドなのかもしれないですね。。。

Thursday, March 15, 2012

今春ディベート雑感徒然

JDA春期日本語ディベート大会の決勝戦を観戦してきましたー☆面白かったです。
決勝戦常連さんの肯定側に対して名古屋からニューフェイス参戦のフレッシュな否定側でした。そのニューフェイスの可愛らしい女性のネガブロックが秀逸でした!凄い!これからが楽しみです。また是非試合に出て貰いたいです。
結果は、私が審査員なら肯定側だなぁ。。。と思っていたところ。。。
予想通り肯定側でした。
あくまでも私の感想ですが、否定側のネガブロックにアファリバはほぼ全く返せていないんですよね。ただ、そもそもネガブロックがそのまま残っても良く考えると試合の大勢は影響を受けない、、、という、肯定側のケース作り勝ちだったと思います。
丁度昨年秋のJDA決勝で否定側だった自分のチームが、試合中の自分の凡ミスもあったものの、やはり準備の段階で否定側の勝ち方を決め切れずにいたのが敗因だと感じたのと少しダブりました。
やはり中・上級者の試合(超上級者になるとまた逆の印象ですが)では試合前に試合の大勢が決まるんだなぁと再確認しました。
*****
東工大杯の決勝もなかなか面白かったです。この試合は自分自身が否定側だったんですが、対戦相手が一度やってみたいなと思ったN君のチームでした。というのは、以前にやはりN君が肯定側の決勝戦(アラブの春における草の根メディアについての一戦)を観たことがあったんですが、ちょっと特殊で自分たちに有利な文脈に落とし込む1A、試合のフレーミングが上手なんです。私は普段そういう捻り技があまり好きではないのですが、その試合では妙に魅力的なスピーチになっていたので一度対戦してみたいなぁと思った覚えがあります。
で、結論としてやはり捻り技には捻り技特有のメリット・デメリットがあり、総合的には王道なアプローチの改変を迫るものではないと感じました。
特殊な文脈に落とし込むディベートは、その文脈と論題にズレがないと対戦相手や審査員が思い込んでくれない限り、文脈の特殊性を指摘し逆を突く一般論を展開されると負けてしまうのではないかと思います。
特に感じた弱みは、一つの事例のストーリーテリングを強みにするあまり、①理由や原理を説明することを怠りがち、②文脈が細かすぎて同じ文脈上にある他の例を見つけにくい、③ストーリーテリングにかなり時間を費やしてしまうので戦略上のリスクヘッジができない、④エンゲージするための武器が1stで全く仕込まれないので2ndに圧倒的な破壊力がないと攻めの姿勢の相手の前では丸腰になる、といった点があると思います。
上記のアラブの春の試合でも、肯定側が特定のタイムフレームにのみフォーカスしたディベートに相手を誘い込もうとしている中、否定側はそれに対抗せずそのまま相手のフィールドに入って試合をしてしまっていたと思います。が、特殊なタイムフレームを取っ払ってしまって冷静に論題を読み返せばかなり否定側有利な論題だったと思います。否定側が気にせず架せられたフレームを壊して攻めの姿勢を貫けば試合後半の展開は大きく違ったかもしれません。
これに対し、所謂王道なアプローチは(観念的)原理原則論と(実際的)事象説明をバランス良く行うというものだと思います。これは定義的に複数の事例を想定する/念頭に置くことになります。原理原則論という大きな武器が手に入るほか、事象説明についても勝負所に後述の釘形事例提出をすることで①補強でき、②論題とのズレを縮めることができるというメリットがあります。
さて、釘形事例提出とは何ぞや、と思われるかもしれませんが、これは私のオリジナルではなくIDC中にTから聞いた表現です。言い得て妙だと思ったのでそのまま私も同じ表現を使っています。大工道具の釘というのは細長い突き刺さる部分と平らな円盤状の留め部分の2パーツから成っています(留めのない唯の針棒だと刺さっても二つの木材を接着することができません。外れてしまいます。)。丁度そんな要領で、一つの例を深く突き刺さるまで説明し、類似事例を2つ位サラッと挙げます。そうすると自分たちの原理原則と事象説明がうまくガッチリと固定されて強い構造になる、ということです。
今回の東工大決勝で言えば、他のプロフィール情報が政党の基盤となっていることを示すために、性別の例で説明した上で宗教や出身地域だって同じだよね、とサラッと言っておくとか。民族が政治アジェンダの基となることがあることを示すために、アパルトヘイトの説明とベルギーのフランドル/ワロンの説明をした上でオランダのフリースランド、アイルランドの独立紛争などをサラサラっと名前だけ挙げておく、といったことです。
勝負所を見分けられることが前提ですが、見分けられるようになればこの釘形のイメージは結構使えます。
これがあまりに一つの事例の文脈を強調してしまうと、同じ文脈の事例はないもしくは汎化の役に立たないので、留めの部分が出せなくなってしまうと思うんですね。例えば、あそこまでケニアの文脈だけを強調してしまうとケニアと同じ文脈の例を複数挙げるのはほぼ不可能か、挙げられたとしても論題の範囲に対して矮小化している印象が強まってしまう。「ケニアについて言えることは他のどの国についても言えることだ」という説明ができない以上、ジャッジさんや対戦相手が「これはケニアについての論題/ディベートだ」と思いこんでくれないと勝ち目が低いだろうということです。
というわけで、私はおそらく今後も授業ではバランス重視のスピーチを練習して貰うだろうと思います。
が、ともすると閉塞感のあるディベート界、皆が皆同じような議論ばかり展開して同じようなアプローチではクサクサしますよね。そういう意味ではああいう癖の強いワイルドなスピーチも面白いな、と思います。実際東工大決勝も9票中2票は肯定側に入っているんですよね。それは我々否定側が不十分だったからと言ってしまえばその通りですが、ああいう肯定側の割り切ったストーリーテリング一本勝負、というのにもまたちょっとした魅力があることを示しているのではないかと思います。
また、こちらのケースもやはりJDAの決勝と同じく、スピーチする前、事前の戦略決めが非常に重要だということでもありますね。
*****
余談ですが、上述の釘形事例提出は即興制のフォーマットで重視される技だと思います。準備制(日本だとNAFA, NADE, HEnDA系が相当)では一つの勝負どころに複数の事例を充てる時間的余裕はなく、また接着が重要になるほど原理原則論が深くされることが少ないこともあり、最も強いエビ1枚に絞り込むことにかなりの労力を割きます。代わりと言ってはなんですが通称「オンバランス・エビ」が汎化の役割を担うことが多いです。このオンバランスの分析というのはNADEやHEnDAといった高校生が活用していないことが多く、今後それができるチームが出てくると楽しいのではないかと思います。NAFA系大学生からのアドバイスにもエンピやオンバランスをもっと使うと良いということがあったようですね。頑張れ、高校生!
複数の事例を紹介するアプローチと、オンバランスどちらかという統計や理由づけをするアプローチ、どちらの方が優れているか。個人的には特にどちらの方が圧倒的に優れているということはないような気がします。なので、授業では両方のスキルを獲得して貰いたいと思っています。(が、そこまで授業の進度が行くことは非常に非常に稀なので悩むこと自体結構杞憂。残念!「ディベート初級」と「ディベート上級」の二コースに分けられたら上級ではこういうことも扱いたいですね☆)

Tuesday, February 07, 2012

[DVD] Inside Job インサイド・ジョブ

[DVD] Inside Job

面白かった!
クリントン、ブッシュ、オバマと政権が代わっても金融担当者の顔ぶれが恐ろしいほど変わってないことが改めてわかる。
以下が結論?
①金融は規制緩和しちゃダメ。(規制は必要があって存在してきた。)
②規制が守られているか監督する人は金融関係者じゃダメ。(ある意味当たり前。しかし金融に詳しいけど金融業の背景がない人って誰?)
おまけ。個人的感想としては、アメリカもホント『コネ社会』だなぁ、と。能力主義というのは場所を問わず悲しいほど壮大な幻想だと思う。そして日本人よりむしろ欧米人はもっとコネ重視。しかも自覚がとても薄い。度し難い。同時に他に良い方法を人類が生み出していない。今後の情報社会に期待。

[DVD] Food Inc. フードインク

[DVD] Food Inc.

来学期の教材づくり、ドキュメンタリー大量観第一弾!

結構怖かったです。

私が特に怖く感じたのは、
①ブロイラー鶏の死骸が生きている鶏とかなり長時間一緒にされているらしきこと(死因が何だったのか分かりませんが感染性だったら病気だけどまだ死んではいない鶏が売られているのね。。。)
②牛の体は穀物を食べるように進化していないのでトウモロコシ飼料は大腸菌のミューテーションにつながること。
③極めて不衛生な状態(糞尿でドロドロ)の牛や豚がそのまま屠殺機に入っていくこと。ギャー、汚い!その刃、どのくらいの頻度で洗ったり殺菌したりしてるの??
④抗生物質入りの飼料のせいで病原に耐性がついてしまうらしいこと。間接的に抗生物質を日常摂取している人間も右に同じだろうと再確認。

うーん。。。これってアメリカだけ?日本の農家がテレビに出てくると、そういう感じではないですよね。牛とか毛並みも良かったりして、ブラシまでかけられたりして。カメラが平気で牛舎に入っていくし。それって極一部でしょうか。殆どはアメリカみたいな感じなのでしょうか。。。

Wednesday, November 04, 2009

Feminology (10. The Sissy One) フェミノロジー(第十話:女々しい女)

昨日、JDA秋季日本語大会に参加させて頂きました。本当に楽しい大会でした。久々の選手としての参加は血が沸き立つ気持ちでしたし、選手としての感覚が戻ってくる感じにしみじみしました。決勝戦に進出できたのは本当に幸運なことで、チームメイトのAさんのお力以外の何物でもなかったと思います。プレパが鈍い私なのに辛抱強く練習試合を設定していただきました。参宮橋にしょっちゅう練習に通うのもとっても楽しかった。練習会の場所の手配からスケジュール調整、対戦の設定まで何から何までAさんにおんぶに抱っこになってしまいました。申し訳なさと感謝の気持ちでいっぱいです。本当にA氏の懐の大きさにただただ驚きと感謝の念を抱くものです。

同時に、大会に参加していて、二つ、残念に思ったことがあります。
一つは自身のパフォーマンスについてで、これはもう反省しきり。いやもう、猛省中ですが、きちんと整理して、かつもっと気合いを入れて、別の投稿で書かせていただきたいと思います。

とりあえず今日は、まず一つ目。
フェミノロジー関連を一つ、書かせて頂きたいと思います。

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そのことを書く前に、今年ももうすぐやってくる大学生の世界大会について触れたいと思います。

世界大会で差別撤廃担当の役員をしていた時、私は数多くのアジア人及びアフリカ人の参加者に同様の陳情を繰り返し受けました。「白人ばかりにジャッジされるのが辛い」というのです。

誤解のないように書いておきたいのですが、白人ジャッジは人種差別者だというのではありません。確かに幾つかの陳情は特定の白人ジャッジが差別的発言をした、というものでした。多くは不幸な誤解や不注意から生まれた過失だと思われました。本当に差別的だと疑われる人の数は恐らく非常に少ない。

それでも、毎試合毎試合居並ぶ白人ジャッジ達に唯一の有色人種の選手として評価されなければならないことからくる苦痛は切々と語られるのでした。

何故か。

それはジャッジの構成が「あまりにも過度に」偏っているからだと思います。

全体のプールに占める人数の割合も非常に偏っていますが、チェアやパネルはもっと偏っています。決勝進出ジャッジともなれば圧倒的な人数比なのです。(2006年に、とある人が私のことをEFLでブレイクした初めてのジャッジと呼びました。確かに言語的バックグラウンドについては人種間よりも尚極端な比率です。)

これはどんなコミュニティにも当てはまることだと思うのですが、

圧倒的に少数の立場に立たされるのは居心地の悪いものだし不利なことです。

「ジャッジ自身は無意識かもしれないが、自分が有色人種だから不当に低く評価されているのではないか」という疑念を払うことはとても難しい。それが様々な形でプレッシャーにもなるし、プレッシャーが大きくなること自体も競争の中では不利なのです。スポーツの試合のアウェー感、それが主観的評価を伴うディベートという競技では更に大きくなる。

ジャッジとはrational animal(合理的存在)ではなくrationalizing animal(合理化する存在)だと言った人がいます。全くその通りだと思います。仮に厳密には有色人種のチームが勝つべき試合というのがあったとして、しかし逆の判定をしたとしても、判定理由など(ええ、本当に普段審査している者がこれを言うのは勇気が要りますが)、判定理由などいかようにも説明できるのです。これは誠実な審査員であればある程実感していると思います。究極的にフェアな聞き手になろうと努めに努めに努めても、それでもなお、自分の意識に上らないような感覚的なものが影響していないと断言することは、良心的なジャッジ程しないでしょう。そして自分の中の意識に上らないようなどこかに差別心が潜んでいないと断言すること、こちらは良心的な人間程しないでしょう。

「有色人種だからマイナス2点!」と意識的に差別を行う審査員がいるとは殆ど誰も思わないのです。しかし、提示された証拠の評価が無意識に低くなったり、スタイリスティックな表現力が無意識的に低く評価されたり、「無意識的に」されているのではないか、という恐れは、多くのマイノリティが感じるところなのです。(ここで言うマイノリティとは、単に人数的なことを言うのではありません。社会力学的な意味も含まれます。)

そしてまた、実際に不当に低く評価されている節も散見されるのです。有色人種やその文化圏に居住する観衆の圧倒的大多数が明らかに有色人種のチームが勝ったと判断したのに、白人が圧倒的大多数を占める審査員パネルは逆の白人チームに軍配を上げる、そうした例は枚挙に暇がありません(とはいっても「意外な判決」というのはどんな場合にも起こりえるもので人種のせいとは無論断定できないものですが、それでも観衆は「あれは人種のせいだったのではないか」という疑いを拭えないものです)。予選中ともなれば密室でどう行われたか知り得ようもないため更に露骨なのではないか、そう多くの参加者が不安に思うのも無理からぬことでしょう。

こんなこともあります。
2006年の世界大会では、ウィルス性髄膜炎の罹患者が発生して騒ぎになりました。ウィルス性というだけあって感染する病気だそうです。そのニュースが舞い込んできてしばらくして、罹患したのはアフリカからの参加者だという噂が実しやかに広まったのです。その後、感染の確率が低く、重症化する恐れも小さいと分かって話が沈静化した後、実はアフリカからの参加者ではなかったと伝え聞きました。

これは、「ウィルスを持ち込んだのはアフリカ系らしい」もしくは「アフリカ系なのではないか」といった憶測を根拠もなしに言い出した人間がどこかにいるということです。

アフリカからの参加者は、この噂をどんな思いで耳にしたことでしょう。

参加者の中で5%も満たない圧倒的少数派であるアフリカの参加者。
彼らはさぞや居心地の悪い思いでいるだろうと思うのです。

(だからこそボツワナの誘致委員達がBriefing Roomの待ち時間に陽気に歌を歌いだしたとき、それに熱烈な拍手を送り愛しく感じた人々もまた、少数とはいえいたのです。)

「差別はない」とは、やはり私の本音としては、とても思えないのです。

実に、圧倒的に少数の立場に立たされるのは居心地の悪いものだし不利なことです。

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JDA大会の話に戻りますが、NDT系(準備あり)ディベートのコミュニティにおいて、女性は圧倒的なマイノリティなのです。女性同士のチームは一つしかなかったのではないでしょうか。

しかし本当の意味で深刻なのは審査員プールです。即興系ディベートでもジャッジルームが男性ばかりだと不平を言う私ですが、NDT系はその比ではないのです。

昨日、私は7人の方(予選3+決勝4)に審査していただきました。全員男性でした。100%です。
おそらく、大会の審査員15名ほど全員が男性だったのではないでしょうか。

上の世界大会の例で述べたとおり、私は「男性ばかりだったから女である私の点数が低くなった」とか「男性ばかりだから女である私が負けた」とか言っているわけでは決してないのです。勝ち負けも点数も、本当に納得のいく良い大会だったのです。審査員の皆さんの誠実さと審査基準の質の高さは国内で指折りの大会だと思うのです。今回の大会の審査がどうだったとかそういうことでは本当に全くないのです。

が、しかし、本音で言えば、やはり男性に裁かれる立場に置かれ続けることは相当に苦痛なのです。

一般に、男性がディベートする女に対して強い反感を持っていることは骨身に染みている私です。
ジャッジとはいえ男性。そういう気持ちもどこかにあるのではないか。(現にその手の発言をする男性ディベート関係者いっぱいいますしねぇ。遠い目。今回ジャッジして下さった方々はそうではなかったですけど)

例えば、前にも書きましたけどNDT系の最も戦闘的なシーンはやはり質疑応答だと思うんです。静かに静かに獲物の周りに網をはり、かかったと思った瞬間に一気に引き上げる、そういう猟師技ぽい感じがあるんですよね。もしくは推理小説の探偵役。で、かかったと思った瞬間、引き上げる前、ここでがらりと態度を変えることが大切だと個人的には思うんです。それまで淡々とドライな質問を続け、質問される側も聴衆も「一体質問者の意図はどこにあるんだろう?良い質問が思いつかなくて時間稼ぎ?」と思った頃、突然かかった!とばかりの会心の笑み。そこからドラマチックに変わる質問者の態度があって初めて、聴衆にも今までの質問の意図と全貌が組み合わさったパズルのように画として見える。そのためには態度の変化というトリガーが不可欠なんです。そうしないとパズルのピースがピースのままに思われてしまう危険がある。

ちなみにここで質問される側も罠だったと気がつくわけですが、「罠だ!」と思った時には既に遅し、引き上げるのは大抵容易です。既にしてしまった返答は取り返せませんから。むしろ、罠だと気付きながら釣りあげられるしかない相手の姿を晒す、というのは演出的にも効果大と思われます(ここら辺は以前に「A Few Good Men」について書いた記事に書いてあるので興味があればご覧下さい)。ここで必要なのはズバリ刑事コロンボや名探偵ポアロ、はたまた名探偵コナン的な演技力。間抜けそうで本心の見えない無邪気そうなつまらない質問の数々、全ての証拠(ネタ)が揃ったところで劇的に仮面は剥がれ、一気に畳み込む攻撃性が牙を剥きます。聴衆は「昼行燈かと思いきや実はすっごい頭良いんだ!」「鷹のように有能」と感嘆する。その「ああ、そういうことか!なるほど!!」という強い印象によって、すぐ後に来るパートナーのスピーチが同様の議論を提出する時、既に聴衆は自チームの味方になっているというわけです。質疑応答の目的は、基本的にそこにあるのだと、私は個人的には思う。次のパートナーのスピーチが評価されるように行う泥臭い下準備。スターのために赤絨毯を敷く行為。

でね、女性がこれをやるとどう思われるんでしょう。無邪気で無害そうな質問の陰に潜む周到な罠、会心の笑み、そして一気に牙を剥いて狩った獲物を牙に刺したままサディスティックなまでに晒す、というこの一連の演技はね、やっぱり相当に攻撃的です。女性のディベータがじわじわと罠を張った挙句にやりと笑う図をね、男性のジャッジは、男性が同じことをやった場合と同じように評価できるのかしら。

ちょっと不安になるんですね。

ポアロはね、かなりの高確率で犯人の犯行を暴いた後に憎悪を込めて叫ばれます。「この小賢しい外国人が!」
自分より下だと思っていたマイノリティに罠にかけられ釣りあげられた時にマジョリティが感じる腹立ちは恐ろしいほど強烈です。
(私も一度カウンセルでやって身をもって経験しました)

それで思うんですけど、男性の聴衆は上のような狩りを女性選手がするのを、にやりと笑うのを目の前にして、反感を感じずに済むものでしょうか。

試合中、自分が磨いた狩りの能力を如何なく発揮したいという思いと共に、かえって心象を悪くして逆効果に不利になるのではないかという恐怖が、質疑応答中に交叉するんです。その迷いは、刃を鈍らせて手際の悪い狩りという結果をもたらすことも少なくない。歯切れの悪い質問やつい挿げ代えてしまった無難な質問に後悔することが幾度となくあります。

または、チームメイトとの接し方。昨日の大会で唯一負けた試合は決勝戦なわけですが、そこでは他の3試合とは大きく異なる点がありました。一瞬ではありますが、私が準備時間の主導権を握ったかに見えたかもしれないシーンがあったのです。というのは、練習試合や予選で一度も相手にしなかったデメリットが2NCで出てきたんです。私の担当は2AC。よって2ACのブリーフの準備をしたのは私。もし順当に1NCでそのデメリットが出てきたのなら、私が私の作ったブリーフを基に反論を急きょ組み立てれば良かったのです。しかし2NCで出てきたためにそれはチームメイトの仕事になってしまった。そこで、2ACのブリーフを把握している私から、「こういうカードを使いませんか、これはどうですか」と次々と提案を行うことになった。見ようによってはイニシアティブを取ってチームメイトである年上の男性のスピーチ内容を指定しているとも思われかねないことをしなければなりませんでした。

昨日の決勝で負けた理由は主審の説明通りの理由で完全に納得がいきます。本当に丁寧で誠実な講評を頂いたと思いました。大好きな尊敬するジャッジさんにコメントを頂いて感謝しているし、講評を聞けば心象は全然関係なかったとも本当によく分かるのです。第一対戦チームにも女性がいた。それなのに、それでも忸怩たる思いを実は抱くわけです。年上の男性にテキパキ指示する女って図的に嫌がられそうだよなぁ、年齢差がなくたって世話女房って言葉もあるくらいで、あれこれ男性を構う女性って悪いイメージがあるし、云々。

更には、私がサンクス・ワードで「Kさん、女性ディベーターの会、やりましょう」と公言したり、夫への感謝を述べたり(妻への感謝を述べた男性ディベータ、主催者は今まで結構目にしましたけど、夫にというのはひょっとすると史上初かも?)したことまで、ひょっとして反感を持たれるのではないか、と臆病になる。

昨日の大会で私が最も課題として大事にしたのは構成でした。現役のNDT系ディベータだった学生時代、私の大きな弱点の一つは構成力だった。こっちのフローからあっちのフローへとジャッジを迷子にさせることが本当に多かった「汚い」スピーチをする選手でした。で、今回は綺麗にスマートにまとめる、それが最も大きな目標でした。結果として、構成が苦手な私としてはかなり上々な出来だったと思います。まあ元が悪すぎるというのはありますけれど、その点に関しては満足だし、苦手を少し克服できたという嬉しさもあります。しかし点数を見てみると、構成に5点や6点を貰っている。ある試合では質疑応答の態度が悪いと3点を貰いました(10点満点です)。私は9点が貰えるほど自分が上手だとは思えない。8点も貰いすぎかもしれないと思う。過分な点数を頂いている試合もあるのです。しかし何度フローをみても、構成に5点がつく程失敗したとは本音を言えば思えない。

本来、過分に貰うことがあるなら過小な評価をうけることだってあって当然なわけです。だから、別に構成についた5点が不当だとは冷静に考えれば全然思わない。それでもね、先に「無意識に女のくせにと思われているのではないか」という不安が根底にあるから、つまらないこと一つ一つに過敏になる。疑い深く、臆病になります。

男性ばかりの審査員プールを擁する大会に選手として参加するというのは、本当に本当に気が重いものなのです。

昨日の大会では選手も女性は本当に少ないんです。自嘲的な笑みを浮かべて「今年は少し多いです」と言った女性もいましたが、3%が5%になったところで大して変わりません。50%とかじゃありません。5%。。。よりは多いのかもしれませんが、パッと見10%はいないわけです。

でも私はやっぱり、審査員が男性のみということ、そのことの方がより、深刻だと思うのです。

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実はこれとほぼ同じ気持ち、恐怖と辛さ、を私は別の切り口でも感じました。
それは、私が会場で数少ない、NDT系と即興系の両方をするディベータだというものです。

昨日決勝戦の後、「いやあ、やっぱりあれですか。masakoさんのあの2ARは、ただのポリシーディベートにはしないぞ、っていう、そういう意味ですか。」と声をかけに来て下さった方がいました。

これ、私的にはかなり傷つくというか辛い一言なのでした。

確かにあの2ARは私としてもチャレンジでした。無難にやった方が良かったかもしれない。本当に今にして思えばきっとそちらの方が良かったろうと思うのです。ただ、何回も書いている通り、私はコントロールの悪い剛速球投手みたいなもので、パワーはあるがノーコンなんです。出来に本当に斑がある。良い時はまあまあ良いが悪い時はからきしなのです。で、昨日の決勝はその「からきし」に当たってしまった、そういうことなんです。

2ARで私がやりたかったこと、というか暗に主張したかったこと、それは即興性のテイストを加えるということでは全くありませんでした。「ポリシーディベート」(私はNDT系のディベートを「ポリシーディベート」とは呼びません)に対するアンチテーゼを行いたい、そんなことは露ほども意識していなかった。それとは全く別のことだったのです。それについては次の投稿で上手く説明できたらと思います。しかし、私はあまりにマイノリティ(即興制という「ゲテモノ」食い)であるため、その点が思いのほか目立ってしまうようです。何かちょっと変わったアプローチに挑戦しようとすると、「ああ、即興制の人だから」と思われてしまう。しかしそもそも私のディベート歴は今でもNDT系の方が長いんです。

で、「即興制をやる異教徒/ゲテモノ食い」というレッテルが、不利に働いているのではないか、と思うと、とても臆病になるんですね。それが、私がチャレンジングなことはやめてひたすら無難に試合をこなした方が・・・と思う原因になる。これ、女性ができるだけ会議で目立つ発言を避ける心理とそっくりだと思うんです。はたまた、レッテルを払拭するべく過度にNDT系にオーソドックスな方向に針が振れてしまったりすることもある。これは、男社会な業界の男性が過度に豪快放埓に振舞おうとしがちなこととそっくりだと思う。

それが本当に息苦しい。息苦しいんです。

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どうしたらこうしたディベート界におけるマイノリティとしての辛さを克服できるのか。
それはまだ分かりません。
マジョリティになりきることが私にとっての答ではないこと、それが唯一分かっていることです。

とりあえず試しに、女性ディベータと女性ジャッジの養成とプロモーションに努めること、それから即興制の審査パラダイムに関する誤解を解く機会を地道に探していくこと、くらいでしょうか。(後者はなかなかないんですよねー・・・)

そしてできるなら、同じようにマイノリティな選手を、私自身は少しでもフェアに評価できるように、日々勉強したいと思います。頑張れ、自分!!

P.S. この投稿はコミュニティの人口構成に対する問題意識について書いたものであり、本当に本当に本当に、昨日の審査員のどなたかを批判するものでは全くありません。審査頂いた皆様に本当に有益なアドバイスを頂戴しましたし、審査内容は本当に納得のいくものでした。お忙しい中お時間を割いて大会の審査をして頂いたことを心から感謝していますし、是非またご指導頂きたいと心から願っています。どうかその点だけはご理解いただきたく存じます。今後もどうかよろしくお願い致します。

Monday, July 27, 2009

携帯壊しました

以前バスに轢かれ激しく調子が悪かったのをだましだまし使っていたのですが、遂に全く機能しなくなりました。電源は入るのですが液晶が全く見えないという事態に・・・仕方なくとうとう電話を買い換えました。ただ、そのため過去3日間位に頂戴した携帯メールは旧電話が受信してしまい永遠に読めない状態になってしまいました。過去3日間の間にmasakoにメールしたのに返事が来ないぞ、という方いらっしゃいましたら再送をよろしくお願い致します・・・。ごめんなさい。

Tuesday, January 13, 2009

練習会のお知らせ

WSDCチームの練習を助けようシリーズです。
(既に大学2年生並みには上手なのでご自分の練習としても問題ないと思います)

以下参加できる方大募集します。
学生・社会人問いません。よろしくお願い致します。

1月17日(土)大船(午後から)
1月25日(日)町田
1月31日(土)都心(午後から)
2月2日(月)都心
2月3日(火)都心

です。

こちらに書き込みをして下さるのでも、mixiやfacebookでメッセージ下さるのでもメールでもなんでも結構です。是非ご協力お願いします!!

masako