Tuesday, November 17, 2020

女性の声Kritikについて


代弁するというKが出たそうで、先日私自身が喋ったこととの関連でそれについての私の考えを想像する方がいるかもしれないな、と思います。誤解されたくないので自分で書きます。

1. 問題が相似しているというだけで別の論題に移行することは難しいと思います。
2. また、代弁するということは非常に複雑な問題を抱えていると思います。
3. 私が例えば予選第三試合のジャッジだったとしても票を投じなかったと思います。
4. しかしながらそういうKを出してみたということ自体には意義を感じます。
5.ぶっちゃけホント生きづらい。そこにいるだけでしんどい。
6. つまり何をして欲しいわけ?って聞かれますかね?
7. 代弁するのと乗っ取ったりパクるのは違う

の7点にわけて説明したいと思います。

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1.問題が相似しているというだけで別の論題に移行することは難しいのではないか。

これは単なる議論の挿げ替えにあたるから。
問題の本質が似ているというだけで話題を変えて良いとは私は思わないです。
理由は(1)本質が何かは明らかではない。(丁度昨年の決勝戦にケースがintrinsicかそうでないかとか話がでましたね。debatableなことが多いかな。)(2)個別の論題に個別具体的な特徴がある。要は政治家とディベーターは違う(かもしれない)。だからそれぞれをその都度議論する意味がある。という2つですかね。
(2)がより重要なのかなと思います。多くのディベート団体はそれぞれの個別具体性を重視するからこそ政策論題を設定しているのであって、そうでなければ価値論題を設定しても構わないのです。「全ての行政文書の公開を義務付けるべし」と「内部告発者をその取った手段に関わらず保護するべし」の間に違いがないのであれば、「正直は美徳だ」という論題で構わないのです。そうしないのは、両者の間には違いがありその都度ディベートするのが良いと考えられているからだと思います。(多分アリストテレス的な考えがバックボーンにある?)
余談ですが、即興のディベートは価値論題で論じることがあるという誤解をしている方がいらっしゃるかもしれません。確かに。しかしあれは言うなれば大プロポ時代だっただけなんです。(これ若いディベーターには通じないかな。。。)一見価値論題に見えるものも、肯定側はプラン(政策)を提示しなければならないという期待をコミュニティが共有していたようです。で、プランフォーカス、、、というか否定側はTopicalityを出せるけれどクライテリアは限定されており、Topicalなカウンタープランは出せないけれどカウンターワラントも出せないルールです。あれはあれで面白いルールです。例えば1994年のWUDCの決勝戦の論題は「マキャベリズムが正しい」でした。肯定側が提示したプランは「(英国政府は)テロリスト(IRA)と和平交渉するべし」でした。(括弧内の部分はプランでは限定されず、主に想定される例がアイルランド紛争だったという意味)大プロポにも限度があんだろと思われそうですが、当時はしばしばこうした論題が出ていたようです。即興ディベートの世界も現在はほぼ小プロポ化してメジャな国際大会でこうしたメガプロポは出ません。メジャな国際大会では一時期ほど小プロポではなく現在は中プロポ(?)が好まれるようで、こちらは多種多様な地域から集まる選手の間に個別具体的な例に関する事前知識の差による不公平が生じないようにという配慮が理由と思われますが、アクションは限定しているものが殆どです。(ちなみに私自身も国際大会では小プロポから中プロポへの移行を推した一人です。)
論題を挿げ替えることはできなくても、アナロジーとして用いることはもちろん可能だと思います。政治におけるクォータ制の是非を論じる上で、「これは政党をディベート団体に置き換えるとこれこれこういう状況にあたるわけなんだけど、ディベート団体でもこうなってますよね」と話を卑近な例におきかえることで聴衆に想像しやすくすることはできると思います。これは論題はあくまでも政治におけるクォータ制で、その立証の材料としてディベート界における状況が語られるというパターンです。アナロジーの妥当性は説明した方がよく、それはフランスの事例がCPに当てはまるのか説明した方が良いのと同じだと思います。
今回の大会の場合、政治の世界に構造的差別が実在していることを理解してもらうためにディベート界の現状が似ていることを示すことは有効だったのではないかと思います。ディベート界の異様さに気が付いていなかった(これに対する私の感想は「そんなことあり得るの?数を数えられないの?政治の比じゃないじゃん?差別がないなら一体どんな理由でこんなことになると思えたの?」ですが、先日の私の冒頭の話が新鮮だったという方がいらっしゃるらしい。マジか。)というスーパー鈍感な人がジャッジであればあるほど、自分が気づかずに構造的差別を形成する側に回っていた証拠を突き付けられた時の衝撃は大きいことでしょう。一度自分自身が気づかず差別の片棒を担がされていたと考えるようになった時、同じことが他所でも起こっていると考える信ぴょう性は上がるかもしれません。
(但し、これは聞き手が賢いけれども無自覚だった場合で、差別者である自覚がありそれでも差別している場合や鈍感なだけでなく理解力が乏しい人でもあった場合はあてはまりません。後者の場合は証拠をつきつけられても自分が差別してきたと理解できません。残念ながらそういう方も案外大勢実在します。人間はどうしても自分に甘いので、他人は差別心があるかもしれないが自分にはないと思いたい願望が強いものです。その願望が理解力を低下させる原因になることもあります。男性政治家(他人)は差別的かもしれないが、ディベーター(自分)はそうではないと思いたい人は多いことでしょう。ジャッジは聡明に違いないと想定すると手痛い思いをする危険大です。普段は聡明な人が自分が差別者だということに関してだけは全く理解力がないということは往々にしてあるのです。)
しかしこれは逆のこともできるということではありません。類似した別の政策をアナロジーに使って論題の正しさを説明することはできても、論題の方を類似した政策に挿げ替えることはできないと思います。

2. また、代弁するということは非常に複雑な問題を抱えていると思います。

代弁者になる(当事者以外が語る)というのは、それはそれで大変勇気のある行為だと思いますが、代弁することが好まれないケースもあります。これは非常に乱暴に言えば"I have a dream"とスピーチしたのがキング牧師ではなく白人だったらあそこまで感動しなかったという話かと思います。
ここでは当事者の定義を、a. 受動性(自ら選んだことではない)、b. 継続性(長期にわたってその状態が続く)c. 被抑圧性(発言権がない、差別されている)d. 少数者性(多数から理解されない)の4つを満たしたものとします。(https://www8.cao.go.jp/.../hyouka/part2/k_5/pdf/s4.pdf
女性ディベーターの場合、自ら女性になることを選んだとは言えず、大多数は性別が変わることを経験せず、組織の要職を任されることが少なく、人数的にも少ないです。
(但し、ほぼ全ての女性スーパーディベーターは20代中盤でコミュニティを去るので、bの継続性は微妙です。かなりソーシャルキャピタルが集積しにくい状態に陥っていると思います。これはおそらく、選手(プレーヤー)をやっている内は差別を大して実感しないが、審査や団体の役職(マネージメント)に回り始めると突然シビアな局面に直面して嫌になったり、そもそもそうしたステップアップが許されない(役職につけない)状況に嫌気がさしてしまうからではないかと想像します。ガラスの天井とかトークニズムとかですかね。私は自分が所属したことのあるボードでは必ず一度は女性を登用しようと訴えていますが毎回抵抗を示す方が多数派です。女性候補者を却下する理由がまた曖昧で反論しにくいことが多いです。)
当事者は発言しにくい傾向があり、また上の定義のように、だからこそ当事者となっています。聾唖を障害ではなく文化だと主張するときに通訳が必要だったり、知的障害者の権利を訴えるのに当事者より家族が中心になっていたり、性的マイノリティの権利を主張する過程で望まずカミングアウトすることが怖くて主張することをあきらめなければならなかったり、白人ばかりの役員会で黒人の権利を主張すると役職を追われる可能性が怖くて言い出せない(せっかく抜擢してやったのにと飼い犬が牙を剥いたと恨まれる、次から絶対ボスに牙を剥かない従順な犬を選ぼうと思われたりする。。。)、肥満に対する差別に反対したいけれども長く差別に晒された結果少しでも自分の体形に注目されるのは避けたいので言い出せない、、といった具合ですよね。試合の中で散々説明されていましたね。
しかし当事者が少しでも自ら声を上げられそうなものだと世間が判断した場合は代弁行為は批判にさらされます。ダウン症は実は知的障害を伴ってはいないという主張をするのがソーシャルワーカーや家族によって行われるとか、自閉症はニューロダイバーシティだと主張している中心的メンバーが家族であるとか、そのくらい良いのではないかと思われるようなものまで、当事者不在で代弁することに対する違和感を指摘する声はあります。
しばしば非当事者には、裏方に回ること(当事者に発言する場を提供したり、その安全性を確保したりすること)が求められたり賛美されたりします。そうでないと、当事者を道具にしているという誹りを受けがちです。(それが良いことなのかは議論の余地があると思います。)今回の場合だと、ディベートの試合に勝つためや、奇抜な論法の試行をするために、ディベート界の女性差別の問題を道具にしている、矮小化しているという非難を受ける恐れがあると思います。(しつこいですが、その批判が妥当かどうかは議論の余地があると思います。理由は主に下の注)
今回のKは、男性ディベーター2人のチームが女性ディベーターの立場を代弁するというもので、違和感を感じる人がいるのは必然だったのかと思います。これはおそらく昨年度のKにもあてはまる問題で、Kを出した人が生活保護を受けている人ではないことの潜在的な争点はあったように思います。
また、論題及びサイドとの組み合わせも良くなかったように思います。論題の肯定側ははaffirmative actionを肯定するもので、ひいてはidentity politicsも肯定している可能性が高いと思います。これらは前提として他者が代弁することを否定することになっていると思われます。別に女性でなくても女性の利益を代表できるのであれば女性議員を増やす必要はないと考える人が多いかもしれません。女性でないと女性を代表できないから女性議員を増やすべきと考えているのだとすれば、当事者以外の代弁については批判的だと考えられると思います。その論題の肯定側が「本質的に同じ問題」について当事者以外によって代弁する正当性を強弁するのは少々矛盾して見えます。女じゃないと女を代表することはできないという意見を説明するために男性ディベーターが女性ディベーターの代表をするというのは少し奇怪ということです。
注)後述しますが、実際は当事者が当事者として問題を語る場合でさえ、それは不可避的に代弁行為になります。そのため上記のような非難はしばしば声を上げる当事者にも向けられます。当事者集団内部から非難されることは声を上げる当事者には非常に堪えるので、結果として声をあげられない原因にもなります。けどさ、当事者が声を上げられなくて、非当事者は猶更声が上げられないなら、一体誰が声を上げるわけ?

3. 私が例えば予選第3試合のジャッジだったとしても票を投じなかったと思います。

私が仮にジャッジだった場合は、主に1が理由でおそらく否定側に投票したと思います。ひょっとしたら2の最後で述べた矛盾も理由にする、、、かもしれませんが主とは言えないかもしれません。(私はジャッジとしては割と矛盾を強く嫌うタイプだと思います。)

4. しかしながらそういうKを出してみたということ自体には意義を感じます。

サイレントマジョリティでいるよりは潔く代弁者となる方が良いかもしれないからです。
例えば、随分前ですが「ディベートのススメ」という謎な名前の大会ができました。バレンタイン近辺に開催される大会で、「ディベート界の恋愛を促進する」という珍妙なテーマで、当初は男女混合チームでなければ出場できないとかだったか参加費が高くなるとかだったか制限が設けられていたように記憶しています。同時に妙に盛り上がった大会でもありました。後年にそのルールは緩和され、恋愛に限らず広い意味での愛を促進するとかいう話になったのだったか、性別関係なくチームを組めて、しかし何故かコスプレして参加したりする更に謎イベントへ変貌していったようでした。何故変化していったのか、が大切だと思いました。どう見ても同性愛差別的な大会なわけでしたので。
そこで同性愛者のディベーターがふざけんなよ!って(結果的にカミングアウトする羽目に陥るリスクを取ってまで)声を上げてルール変更を迫らなければならないというのはいかがなものか。自分が同性愛者ではなかったとしても「これおかしくない?」って声を上げなければ、要は公衆の面前で行われている「精神的な意味でのレイプ」の目撃者でありながら止めない状態になるのではないか。かといって同性愛者でない者が先頭をきって同性愛差別をやめることを訴えるのもなんだかキング牧師が白人だった的な居心地の悪さがある?じゃあ、あまり騒がず静かに徐々に、理由も公には明示しない形で大会を変化させていく、という形が良いのか?それってこの大会が設立された時にショックでぶっ倒れそうになり「もうディベート辞めよう」とまで思った人たちの気持ちは救われるんだろうか。変化し終わるまでの過渡期のディベーターはどうなるんだろうか。。。私自身モヤモヤして考え込んで動けずにいる内に徐々の変貌を遂げていきました。おそらく穏当な形で抗議した立派な人達が影にいたのかと。
だから私自身が、「公衆の面前で行われている「精神的な意味でのレイプ」の目撃者でありながら止めない」という形で加害者になったことが実際にあるんです。申し訳なかったと思う。自分が未熟だったし至らなかった。3年前のあの日に「今の発言おかしくないですか?」って声を上げず傍観していた人々を責めることもできない。あの時行動できなかった自分は信用できないし、同じように他の多くの「何もしてない人」のことも本当の意味では信用しない。
そういう私にとって、あの論題であのKを回すのは正直どうかな。。。私がジャッジでも票入れられないな、と思ったとしても、少なくともそれをしたディベーターはサイドを取る(俺らは代弁しますけど何か?と言い切る)勇気は出したわけで。そういう意味では好ましくも思うんです。(ただ論題とサイドとの組み合わせ的に矛盾しているのはやはりいただけないかな。。。)

5.ぶっちゃけホント生きづらい。そこにいるだけでしんどい

残念ながらディベート界で「この場にいる女は私だけ」とか「発言権のある女は私だけ(TKに女性がいっぱいいるけど審査員は私だけとか、スタッフに女性はいるけど役員は私だけとか)」というシチュエーションが今までに数限りなくありました。これホントしんどい。(最近は組織的なことはほぼ何もやってないので楽です。)
女性が自分だけというシチュエーションを嫌う理由は私の場合主に3つあります。

1) ロールモデルと持ち上げられるのがツライ

マイノリティであるにも拘らず成功した人間をロールモデルと呼ぶ時があります。昔、「日本女性でも成功している人はいる。日本の女性が差別されているというのは甘えだ。」的な話で具体例として「白洲正子、オノヨーコ、緒方貞子」を挙げているのを読み、頭が一瞬真っ白になったことがあります。いやいやいや、それ、超ド庶民な読者(私)がロールモデルにして良い方々!?
とはいっても、「その三人は別格です。大多数の日本女性にとって参考になりません」ってその人達をはじき出すのもいかがなものか。。。そういうこと言い出すからマイノリティが内部分裂するばかりでアイデンティティポリティックスすらままならないのでは?
で、ごくたまなんですが、私がロールモデルだ、って言って下さる方がいて。。。その度にこれまたややこしい気持ちになるんですね。i)差別なんて存在しないって言うためのダシに私がされたら嫌だ、ii)私が仲間だと思ってる人々から「あいつは違うんです」ってはじき出されるのは嫌だ、iii) 私そんなに凄くないんです、私だって加害者になったことがあるんです(4.参照)、別にいつもマイノリティの守護者をできてるわけではないんですっていう後ろめたさがある、iv)かといって目立たないように成功しないように下流志向になるのが正しいとも思わない。。。なんだこりゃ。どうしたら良いんだ。。。
そういう時に、結局たくさんの仲間が成功していれば、誰も特別視しなくなるなって思います。そりゃ私も人間なんで「あんたは凄い!」って言われたら嬉しいなって気持ち、自己顕示欲だってあるんだけど、コミュニティとしては誰もが活躍できるのが良いですよね。
とりあえずオンリーワンは「過去の栄光」で構わないのかな。

2) tokenだと自覚している者の自己肯定感は低い

オンリーワンでいるのは嫌だという気持ちには他にも理由があります。そんなわけで、ロールモデルだ、と持ち上げられた時にぐちゃぐちゃ面倒くさい気持ちが去来するのと同時に、自分はtokenにされているのではないか、という不安もまた抱くものです。
あの論題で審査員が全員男性っていうのも体裁悪いんで、ちゃんと女がいますよっていうアリバイ工作に自分は使われているのではないか、と心配になるんですよね。ジェンダー論題の審査パネルに女が一人しかいないとこれまたさすがに体裁悪いんで、じゃあチーフをやらせることでその辺り補うか、という判断になることも容易に想像がつく。であればいっそジャッジに行かない方が、、、って思いました。女性クォータを論じるのに決勝トーナメントのジャッジ7人中7人が男性だったらさすがに異様だと気が付くのではないか?と。(いや気が付かないかもね、あの人たち、とも思った。いやいやいや、自分も相当だけどあのコミュニティの人たちも相当だよね、、、鈍感力)
同じ女にズバリ、「お前はtokenにされている、tokenになることによってお前も加害者の一人になる、裏切り者」と呼ばれることは女としては正直ツライ。。。(実は11月1日朝に実母に近いことを言われた私。。。知ってるよ、やっとバックレない勇気かき集めたのにもう何も言わないで。。。)でもディベート好きなんすよ、、、それでもそこにいるだけで男性の道具に成り下がるから辞めなきゃダメ???決勝じゃなくて予選だけ見たいって言わなきゃダメ?そもそも予選もダメ? 
ちなみにとあるディベート団体のとある委員会の私の出席率が著しく悪いのは、あ、ここは女性は完全にtokenにしてる、と思っているからです。もうお一人いた女性が辞めてしまった時に、いっそ自分も一緒に辞めた方がコミュニティにとって良いのではないかと真剣に悩みました。
随分前に、友人が会社を辞めることで体現したいこともあれば残ることで体現したいこともある、と書いていて、滅茶苦茶共感しました。絶対的少数になってしまったとき、辞めることでメッセージを伝えたい気持ちもわかるけど、残ってなんとか組織を変えられないか踏ん張り続けるという選択もある。後者はここぞというタイミングで多勢に無勢は承知の上で本来味方な筈の組織内部の大多数に対して開戦しなければならない場合もありほぼ自殺行為だったりする。そもそも個人にコミュニティのためにそこまでしてあげなきゃいけない義理はあるのか。人生もっと大事なこといくらでもありそうなものだ。今まで私は悩みながら後者の道を模索してきたけど若干挫折した感じで、しかし消耗と徒労感が激しいし他にやりたいこともあるので、本格的に前者にシフトすることを検討中、といったところです。

3) 女性が女性問題を語るのもまた、代弁でしかない

今回のKを不快に思ったり、むしろKに傷ついたりする女性もいるという話もあると思います。それはそれで構わないんじゃないかな。そりゃ女性だって色々いますよね。ていうかだからこそ一人になりたくないんですよね。一人だと女性全員を代表しているかのように誤解されかねないじゃないですか。そんな重大責任負えないしそんなことするつもりもないし。私とは違う意見の女性も同じ場所に同席してくれていて初めて自分の好きなこと言えるって側面もあるんですよね。女性が沢山いて珍しくなければ、女性の多様性がある程度担保されるので気が楽です。
例えば先日の決勝戦後の私のしゃべったことに、直後のチームのスピーチはほぼ真っ向否定になっていたと思います。ああいう発言をする気持ち、正直よくわかる。超少数者である場合、抹殺されずにそのコミュニティで生き残るためにはマジョリティの不興を買うのは怖い。「私は私に良くしてくれてる皆さんが差別者だなんて思ってないです!そういうこと思ってるのはアイツだけじゃないかと思います。嫌うんならアイツだけにしてください。」とアピールしなければならない圧力が働くのも、非常によ~~~~く分かる。(ひょっとして杉田議員とかそういうタイプなのかなぁ?)そういう圧力下にいたら、私の喋ったことというのは「ちっ、余計な事言ってんじゃねーよ。こっちにまで火の粉がかかったらどうしてくれんだよ」という話にもなり得る。また、プレーヤー経験しかない人とマネジメントに回ったことのある人で意見が異なるのは至極自然なことです。
とはいえ、あそこでああ言われてしまっては「それは昔の話」とか「今の若いディベーターは違う」とか「俺らは大丈夫」とか「女性自身が違うと言ってる」とか自分への言い訳や逃げ道を許して、理解力を低下させる(1で書いた通り人間自分に甘いものなので)原因になると思うんですよね。実はたった3年前のことで、あの場にいた殆どの人は3年前も現場にいたし、何なら頷いてる側だったし、少なくともレイプ見逃し側ではあったと思う(なぜ私があれを精神的な意味でのレイプだと捉えるのかはまた別の機会に)。ああ言ってかばってしまったら、その現実から目をそらすよね、きっと。それじゃ私が喋った意味なくなっちゃうんだけどな。
しかし、それも含めて女性の多様性だからね。私も先輩たちが上げてくれたトスを大きくカラぶったり、全然違う方向に打っちゃったり、トスが上がったことに気が付きさえしそこなったり、、、散々やらかしてきているわけだし、他の人のそういうのも許容したい。何より、女だから皆が女性差別と戦わなきゃいけないわけじゃない。ちょっと残念だけど、もちろんそうだから。私は差別は存在すると思っていて、むしろどうやったらあの人数比で存在しないと思えるのかサッパリ理解できないけど、存在しないと信じる自由もそう発言する自由もあるよね。(根拠を聞きたいけど。。。特定の人を指して「この人が良い人だから」っていうのは構造的差別を話すときにはいかがなものか。。。だれもその人が悪い人だとは言ってないもの。。。良い人だって自覚なく加害者になっちゃうのが問題だから。。。)
一人しかいないと、私みたいな者の声かあの時の選手みたいな声の片方が女性を代表する声と誤解されかねず、そのたった一人にとっては耐え難いほどの重責になりかねないと思うんです。それが、私がtokenとしてのたった一人の女性ジャッジになることを苦痛に思う理由の一つでもあると思うんですね。

6. つまり何をして欲しいわけ?って思われますかね?

言うは易しで、私も実行する勇気がないことがたくさんあります。あなたがやらないからといってあなたを個人的に憎んではいません。自分のことも含めてコミュニティをただ薄く広く嫌いなだけです。でもせっかくなら好きでいたいです。

(1) 自分も構造的差別に加担してきたことを自覚しましょう

迷ったら自分は加害者側なのだと思えば十中八九間違いないと思います。ていうかそこ間違えていたとしてどんな問題があります?あと、間違えてないです。

(2) 次に眼前でレイプされている人を見たら止めましょう

代弁して良いのか、みたいな悩みは捨てましょう。当事者だって代弁者です。代弁することの是非をごちゃごちゃ考えると世の中良くならないです。治安維持大事。

(3) 加害者は適切に罰しましょう

杉田議員が結局辞めさせられてないじゃん、というスピーチを今回の大会で見ましたが、全くです。一体どうなってるんでしょう。あからさまな差別発言をする人は適切に罰しましょう。別に殺せって言ってるんじゃありません。公式に謝罪させるとか降格させるとか出場停止処分するとか、とりあえず示しをつけて、被害者が「次はない」と安心してコミュニティに戻れるようにしましょう。治安維持大事。杉田さんは謝ってもあの方は謝ってすらいません。

(4) マイノリティにチャンスをあげましょう

チームメイトを探しているなら是非女性をチームに誘ってください。どこかのポジションに女性候補者が挙がったら(審査員にとか、審査委員長にとか、委員にとか、役員にとか、理事にとか、サークルの代表とか、何でも良いんですけど)、却下する前に本当に却下しなければならないのか考えましょう。そこまでヤバイ人材じゃなかったら前向きに採用を検討しましょう。できないならせめて大した根拠もないのに反対するのはやめましょう。

(5) クォータ、良いかもよ?

Australasian Intervarsity Debating ChampionshipsではAffirmative Actionが採用されていて、各大学は出場選手の1/3以上が女性でないとチームを出場させられません。男性ばかりのAチームと女性ばかりの下位チームを作ることも非難の対象になります。殆どの国際大会は審査委員長団も女性比率が低すぎると非難されますので一人しかいないようなことはまずありません。米国のTitle IXの例もあります。(欧州を中心として)国によっては企業の役員の一定数以上は女性にすることが義務付けられています。そういうのやってみるのも手かもしれません。荒っぽいかもしれないけど、このまま放置してて直る見込みありそう?
今回のK、そんなわけでディベートのスピーチとしてはイマイチ評価できないんですが、内容面「政治とディベートは似てる。どちらも男性の覇権主義が激しい。そろそろ変わろうぜ」っていうところは、うん、そうしてくれないかな、って思います。具体的な提案もあると良かったかな。Australasians方式も私としてはアリだと思いますけどね。

7. 代弁するのと乗っ取ったりパクるのは違う

他のアイディアをパクることの常習犯な人とか団体ってあってそれがちょっと嫌。しかもそれを「我こそ正義」とばかりに語る人とかやっぱり嫌ですよね。。。元ネタのアイディアや意見を出した人へのリスペクトは必要だと思います。
今回のKを回したチームはその点、いちいちしっかり仁義きってくれて礼儀正しかったのが印象深いです。その点も好感持ちます。インタビューとか、実名伏せたままで且つ引用だということは明らかにするというのは偉いなって思います。事前にこういう形で引用させてくださいって律義に許可取るのも偉いなって思いました。

そんなわけで、総合的には「今回は残念だったけど、これにめげずに是非頑張って!」って感じです。