Sunday, April 30, 2006

【Book】アフリカ報道 Reports on Africa

【本】鈴木正行.2005.『日本の新聞におけるアフリカ報道: マクブライド委員会報告の今日的検証―外国通信社への記事依存度の変遷を視座にして―』.学文社.

ここのところ、「誤解される日本」を強調した記事や本を中心に紹介しました。
けれど、忘れてはいけないのは、日本は純粋な被害者ではなく、加害者でもあるということです。経済的な優位を盾に、途上国について「学ぶ必要性を感じない」日本のメディア。それは大変傲慢な姿です。一方で欧米のメディアを非難しているからこそ、より一層グロテスクなこの国の姿です。

先日ご紹介した倉田さんの記事に、日本人は英国の首相を知らなければならないけど、英国人は日本人の首相を知る必要性を感じていないという下りがありましたね。もちろんその例は多少古い。今は日本の首相を知っている人は80年代よりずっと増えたでしょう。けれど今、現在、日本の私たちは東南アジアやアフリカ、ラテンアメリカの国々の政治リーダの名前を言えない。日本人は自国の首相の名前を知らないと憤慨する一方で、貧しい国には同じ無関心と無視を押し通しているようです。

痛みを知らない人が他人の痛みを思いやるのは難しいかもしれない。
けれど私たちは痛みを知っているのだから、もっと違った対応ができる筈ではないのかと思うのです。

以下、引用。
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 世界を飛び交う情報の多くは,こと発展途上国について言えば,必ずしも正確なものではない。(中略)国を越えてゆく彼らの情報に対して,自らの言葉で語れていないということの現実。そうであるからこそ,つまり自らの言葉で正確に発信したいという願いが生じ,そこからこの”New Information Order=新情報秩序”という概念は生起した。
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 極東の日本にあってアフリカは今後も遠い大陸だろう。しかしだからといって無関心であっていい筈はない。マス・メディアのグローバル化,及び情報技術(IT)の発達によって,”地球”は十数年前に比べれば,はるかに狭く,そしてどの地域も遠い存在ではなくなってきている。メディア(情報)だけでなく,人の心もそれに伴って理解し合えるようにならなくてはならない。そのためにも多くの,そして正確な情報を,と願う。人々が関心を持つことによって,その正確さはより増すことになるだろう。
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【Book】SUZUKI, Masayuki. 2005. Reports on Africa by Japanese Newspapers: Contemporal Study on MacBride Report -From a view point of dependency shift on materials from foreign news agency. Tokyo: Gakubunsha.

【Film】エドワード・サイード Out of Place

【映画】佐藤真.2006. 『エドワード・サイード OUT OF PLACE』.SIGLO.

出来立てほやほやのドキュメンタリー映画。

昨日完成記念上映会に行っていました。
素晴らしい作品だと思いました。

上映会の会場だった九段会館は800人ほど入る劇場でした。
14:30会場ということでしたが良い席で見たかったので14:10に着きました。そうしたらもう皆さんどんどん入場してました。しかも一階席の1/3位は関係者席。なので一階席はほとんど埋まっていました。にもかかわらず外には当日券を求める人のビックリな長さの列が。みるみる間に二階席・三階席も埋まっていき、最終的に立ち見もかなり大勢出ていました。凄い・・・やはりサイードの死を悼む人々が世界中に沢山居るのだなと思わされました。

かなり前しかも中央の空席を一つ奇跡的に見つけることができました。
身を沈めて2時間17分に及ぶ作品を堪能しました。
サイードは、日本で言うところの白洲次郎みたいな感じだったのかなーと思いました。
共通点として、①大富豪のボンボン、②中等教育から英語圏で英語が堪能、③本国が英語圏の国と交渉する際に度々助力を請われた・・・などなど。
ただ、やはり「オリエンタリズム」をはじめとした著作を著したことで、
サイードは白洲と一線を画すように思います。

映画には沢山のパレスチナ人やユダヤ人が登場します。
いわゆる知識階層だけでなく、普通の街路の人々もカメラに話します。
その部分が一番面白かったです。
タバコ屋をやってるお爺さんやパレスチナ難民キャンプのお爺さんなど、
特にお爺ちゃん達の大爆笑な「いいキャラ」っぷりがこの映画にパワーを与えていると思いました。

観ながら泣くわ笑うわ大変でした。
私は日本の観客は声を立てない、と思っていたので、タバコ屋のおじいさんが
「何処に住んでると思ってる!?」と叫んだ時に皆が一斉に笑ったのは意外でした。
でもすごく楽しかった。他にも笑いを誘うシーン満載で、話題の深刻さにもかかわらず、重苦しい作品にならないで済んでいました。

その後のサイード夫人や大江健三郎さんのスピーチも素晴らしくて、
「もっと、もっと」って気分でした。
プログラムが終了して外に出たらなんと20:30!
いやはや、6時間も会場に居たことになります。
でも有意義な時間でした。もう一度観たい!!です。(^v^)

5月16日から渋谷のアテネ・フランセでロードショーが始まります。
もしお時間が許すようならおススメ致します。

サイードを全くご存じない方でも楽しめると思いますが、
少しでも予習していくとより楽しめる作品だと思います。
普段本をあまり読まれない方には、サイードの著作では、みすず書房から出版されている
『戦争とプロパガンダ』というオムニバス(?)シリーズがとっつき易いと思います。

【Film】Sato, Makoto. 2006. Edward Said OUT OF PLACE. SIGLO

【DVD】大量偽装兵器 Weapon of Mass Deception


【DVD】シェクター,ダニー.『大量偽装兵器』.シネマリブレ.

2004年のデンバー映画祭とオースチン映画祭の最優秀ドキュメンタリ賞を受賞した作品。

何故、そして如何にイラク戦争の報道が偏向し、事実に背を向けたかというドキュメンタリー。

国内メディアでは放映されることのない映像の数々。

例えば、報道陣が沢山泊まるホテルがFriendly Fireされる(味方の筈の軍から爆撃されること)シーン、血まみれの同僚を助けるべく奔走するジャーナリスト達。何故、米軍は報道陣の定宿を爆破するのか?呆然とするジャーナリスト達の表情。恐ろしい可能性を認めるのに苦しんでいるように見える。

内容はつくづく恐ろしい。我々は、命の危機に晒されるジャーナリストに軍に逆らう報道を行うことを要求できるのだろうか。「何故真実を報道しない」と、安全地帯の居間で彼らを非難するのは容易だけれど、私たちは彼らを守るために何かできているだろうか・・・。

映像の中には、「助けて」と泣き叫びながらしかしハンディカムを手放さない日本人女性ジャーナリストや日本語で「何かしろよ!撮ってないで!」と怒鳴る報道者の姿もある。何故我々はこれを国内のメディアで見なかった??何故海外で細々と販売されるDVDで見ることはできても国内メディアで見ることはできないのか?日本のジャーナリスト達の命が脅かされている。これは大切なこと、私たちが知っておく必要のあることではないだろうか。特にNHK。NHKに税金が使われたり視聴料がかかるのは、我々市民の「知る権利」を保障するためではなかったのか。そして私たちはどうしたら真実を伝える特派員の安全を確保できるのだろうか。

国境なき報道陣(Reporters without borders)」によれば、イラク戦開戦以来の3年間にイラクで命を落としたジャーナリストは88人です。

映画WMDのオフィシャルサイトはこちら

【DVD】Schechter, Danny. 2005. Weapons of Mass Deception. Cinema Libre.


Friday, April 28, 2006

【Repost】生真面目という阿呆 Stupidly Serious and Lovely

将来的にGREEの日記も外部ブログ設定に変更することを検討しています。
なので、これまであちらに書いた中から、
データ消去されてしまうと個人的にちょっと残念と思うものを,
今後チョコチョコこちらに再掲載していきたいと思います。
全部終了したところで外部ブログ設定に切り替えます。

【再掲載】masako. 2005. 「生真面目という阿呆」.『GREEの日記』. 10月29日.

今日は一年生大会の審査員をするべく早起きして某女子大に向かっています。
昨晩わざわざ集合時間・場所の電話確認まで頂戴して驚きました。親切丁寧な主催者です。

一年生用の大会なので例年言語の壁に四苦八苦している選手が多く、内容的にも技術的にも手に汗握るとはいきません。こういう大会の審査は普段お世話になってるコミュニティへの年に数回の恩返し的な位置付けになります。なのでこういう日ばかりは笑顔で臨みたいわけですが・・・ねむいです。6:30にお家を出たのに遅刻すれすれ。なんとかならんものだろうか、アクセスの悪さ。しかも土曜とは思えない混雑ぶり。皆さん新聞に赤ペンで何やら書いてらっしゃいます。そうか、今日は競馬があるのね。うう・・・このままでは半魚人みたいな顔で一年生を恐がらせてしまいます。カフェインをどこかで調達せねば。

ちなみに今日の読み物はArthur SchopenhauerのThe Art Of Controversyです。かなり面白いです。しかしよくもまあこんな細かく厳密生真面目に考えるもんです。途中で阿呆くさくなんなかったのでしょうか・・・私はとても好みですが、こういう人も話も。問題はラテン語の部分が多いこと。単語やフレーズではなくパラグラフ単位でラテン語ではお手上げです。専攻のことを考えたら今更な気もしますがこれはさすがに羅和か羅英を買うべきかもしれません。帰りに探してみようかな。

【Repost】masako. October 25th 2005. Stupidly Serious and Lovely. blog on GREE

【Article】知識赤字 Info Deficit

【雑誌記事】倉田保雄.1983.「「東洋の神秘」を増幅する慢性的対日”知識赤字”」.『朝日ジャーナル』.25巻28号.49-51頁.

池田勇人と春日野親方の話やBONBOKO ONOには大爆笑。
あはははははははは。
いやもう・・・ホント、倉田保雄さん苦労してるなぁ・・・
あはははは。いや、笑い事じゃありませんが・・・

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 私はロンドンとパリで通産約一〇年にわたる特派員生活を送ったが、その間に痛感したことは日本人の対英、対仏認識に比べて、英国人、フランス人の対日認識がケタ違いに低い、つまり日欧間の慢性的な大幅”知識赤字”の存在である。私に限らず、海外駐在の経験をしている日本人は、そうした知識赤字のひどさにおどろくよりはむしろあきれ、かつ嘆くわけだが、赤字の原因そのものは一目瞭然であり、それだけにまたガックリくるわけだ。
 では、その原因は何か。答えは簡単明瞭で、彼らは日本について知る必要がないからである。われわれ日本について知る必要がないからである。われわれ日本人は欧米の歴史、政治、文化、風物についてかなりの水準の基礎知識を持っているが、これがないと高等教育も受けられないし、安定した就職もできないからである。だが、逆もまた真ではなく、欧米人は、日本にかかわりのある特殊な職業にたずさわるのでなければ、日本についての知識などは問題にならない。日本で英国の首相の名前を知らないと、有名校や大企業に入れないのは当たり前だが、英国で日本の首相の名前を知らないでも、どうということはない。
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 一九六五年、池田勇人首相が死去した。翌日の『タイムズ』(六五年八月一四日付)の死亡欄に写真入りで大きな記事が載った。そこまではよかったのだが、その写真をよく見ると、それは池田首相ではなく、なんと春日野親方だった!その前年、横綱栃錦として放英した際にとった写真が、タイムズのアルファベット順のIとKの合同ファイルの中に入っていた中から、IKEDAより恰幅のよいKASUGANOが【選ばれた】というのがことの次第のようだが、いずれにしても、訂正などは行われていない。
 この場合ももし、日本の大新聞がチャーチルの写真をオーソン・ウエルズと間違えて死亡欄に出していたら、どんなことになっていただろうか。その一年前に死去した大野伴睦氏の『タイムズ』死亡記事にはなんと、ボンボコ・オーノ(BONBOKO・ONO)という見出しがついていた。
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【Article】KURATA, Yasuo. 1983. Chronic "Info Deficit" with Japan exaggerating "Oriental Mystery". Asahi Journal. Vol.25, No.28. pp.49-51

【Book】最終弁論 Ladies and gentlemen of the jury

【本】リーフ,マイケル.S.・コールドウェル,H.ミッチェル・バイセル,ベン.藤沢邦子訳.2002.『最終弁論』.朝日新聞社.

事件の名前は知っていても内容をよく知らなかった有名事件について,勉強になりました。スピーチも面白く読みました。

ただ,弁護士や検事の役割,ということについては考えさせられました。例えば,チャールズ・マンソンを訴追したヴィンセント・ビューグリオシー・ジュニアの紹介には以下のような一節があります。

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 検事としての経験わずか五年でビューグリオシーは、カリフォルニア州対チャールズ・マンソン事件の主任検察官となった。公判前に、ある被告人の弁護人は、ロサンジェルス・タイムズ紙にこう語った。「マンソンも他の被告人も有罪になりっこない、検察側には指紋が二つとヴィンス・ビューグリオシーしかないんだから」
 マンソンは殺人現場へは行かなかったにもかかわらず、ビューグリオシーは有罪を勝ち取り、この裁判のおかげで、彼はアメリカでもっとも有名な法律家の一人となった。
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 彼は八年間の検事としての経歴において、百六件の重罪陪審裁判で百五件に勝利した。うち二十一件の殺人事件では、無罪となった被告人はいない。(中略)
 ビューグリオシーは法廷での活動を続けて、被告人側に立った三件の殺人事件で勝訴し、殺人事件無敗記録を二十四連勝に伸ばした。(中略)
 ビューグリオシーは、潔白だと信じられない依頼人の弁護は引き受けないと言っている。
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これってどういうことでしょう・・・?
この元検事である弁護士は米法曹界での尊敬を集めたともあります。
でも私には「潔白だと信じられない依頼人の弁護は引き受けない」という一文がひっかかるのです。

10人中9人が有罪だと思うような事件でも、無罪である可能性を死力を尽くして探してこそ弁護士では?というかそういう弁護士さんがいてくれないと困るでしょう。検察側は、被告人が誰であろうとどんな事件であろうと有罪証明をするべく力を尽くしているわけで、もう片側に同じような人がいてくれなければフェアなディベートになりません。ただでさえ捜査のための特権もリソースも検察に偏っているのです。皆に有罪だと決め付けられてしまったからという理由でまともな弁護を受けられずに裁判をしたら冤罪が起こるかもしれない。それでは「疑わしきは罰せ」ではないか?1000人の犯罪者を見逃しても1人の冤罪を防ぐ、というのが近代裁判の精神ではなかったのか。刑事裁判の弁護士が「クライアントのえり好み」をしていて良いのだろうか・・・。そういう弁護士が尊敬を集めるというのは如何なものでしょうか...?負けると思っていても仕事中は「全力で潔白を信じたフリ」をしてくれる弁護士が本来の理想的な弁護士ではないのでしょうか。

以下、ビューグリーオシーのスピーチ部分から引用。
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 この「裏道」という言葉は、イラン生まれの外国人であるハタミにとっては、単なる「小道」だったかもしれません。しかしチャールズ・マンソンにとっては、裏道は、ゴミ箱がならぶ、ネズミと猫と犬の住みかを意味しました。マンソンがハタミから、裏道を行けと言われたとき、あまり愉快に感じなかったと思われます。テート邸がマンソンにとって象徴的意味を持つもの、特に体制側の拒絶を示すものになったことは想像に難くありません。
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【Book】Lief, Michale S., Caldwell, H.Mitchell and Bycel, Ben. 1998. Ladies and gentlemen of the jury: Greatest closing arguments in modern law.

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After only five years a a procecutor, Bugliosi became the lead attorney in the state of California's case against Charls Manson. Before that trial began, an attorney representing one of the defendants told the Los Angeles Times, "There's no case against Manson and the other defendants. All the prosecution has are two fingerprints and Vince Bugliosi."
Although Manson was not at the murder scene, Bugliosi won convictions and the trial made Bugliosi one of the most famous lawyers in America.
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Now, the back alley may be an alley to Hatami, a foreigner from Iran, but to Charles Manson, a back alley is a place where they have garbage cans, it is the habbitat of rats and cats and dogs. So I am sure he wasn't too happy when Hatami says to take the back alley. One doesn't have to stretch the imagination to realize that the Tate residence was symbolic to Charles Manson, and particularly the establishment's rejection of him.
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【Article】ニュース報道の流れ Flow of News Reports

【論文】伊藤陽一.1990.「国際間のニュース報道の流れの規定要因(国際化の中の放送<特集>)」.『放送学研究』.Vol.40.pp. 69-94

伊藤教授の文献は,受信・発信のどちらについて言及しているかによって,論戦のどちらの陣営と見るか難しいものです。が,以下が基本的なスタンスを比較的明快に示しているように思います。

受信の話は特に論争の種となるような部分は見当たりません。
発信の部分がちょっとトリッキーではあります。

発信に関して,この方は,紙面に載る記事の数(量)について,日本と欧州諸国は対等の関係であり,東南アジア諸国とは逆に入少出多,と書いています。これは私自身の経験的な直感とよく合います。ただ,これはあくまでも量に焦点を合わせたものなので,質の面(誤解を招く記事やエキゾチックな面を誇張した記事など)も含めて同じことが言えるかは疑問だと思います。

よく,国際通信社論の人たちと真っ向対立した意見であるかのように書かれますが,誤解ではないでしょうか。伊藤教授は量について話していて,国際通信社論の人たちの不満は「主に」質にある。視点が違うので空中戦だと思います。

以下,引用。
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 メディア帝国主義(media imperialism)とは,ある国のメディア産業が外国の政府や資本によって実質的に支配され,国民に伝えるマス・コミュニケーションの内容が外国政府や外国企業の干渉を受ける状態を指している。(中略)...古典的なメディア帝国主義は,現在では独立国においてほとんどみられないと言ってよいだろう。
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Schiller(1976:9頁)によれば,文化帝国主義とは「ある社会が現代の世界システムの中に組み込まれ,その世界システムの中で中心的位置を占めている勢力の持つ価値を受け入れたり,それを強化する過程全体」を指している。シラー(Schiller)は多くの著書と論文の中で無数の実例をあげているが,それらをすべてまとめて一言でいえば,商業主義,資本主義的価値観や世界観,その他欧米(特に米国)支配層の言語,宗教,政治制度,政治的信条を含む文化を第三世界において広めることに貢献するあらゆる活動が「文化帝国主義的」になってしまうようである。
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 第三世界に進出した先進国の多国籍企業が現地のテレビの報道番組やドキュメンタリー番組のスポンサーになったり,現地の新聞の大広告主になったりすることがある。このような活動によって,現地のニュース報道に先進国寄りのバイアスがかかるということは考えられる。前述のように,現在の第三世界においてはもはや,新聞や放送局が外国政府や外国資本の直接的支配を受けているという例はほとんどみられないが,このようなルートを通じて間接的に影響力が及ぶということはあり得る。
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 日本の共同がその企業規模や財政力にもかかわらず,英米仏の国際通信社と競争することができない最大の理由は言語である。共同が海外市場においてニュースを売るためには,そのニュースは英語やフランス語に翻訳されなければならない。このことは配信に余計なコストと時間がかかることを意味している。通信社業において時間的遅れは致命的である。日本語で書かれたニュースは国際市場では通用しないという事実が,共同を国際通信社にする上での最大の生涯となっている。
 ここでは日本語の例をあげたが,英語,フランス語以外のほとんど全ての言語は同様なハンディキャップを持っている。これを「文化帝国主義」と呼ぶことが適切であるかどうかについては,前節のマス・メディア・インフラストラクチャーの強弱の場合と同様,議論の余地があるが,ある言語は世界的に広く通用するのに他の言語は通用しないという「不公平」が,国際間の情報の流れの不均衡の一因になっていることは確かなようである。
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【Article】Ito, Yoichi.1990.Factors that decide international flow of news reports.Broadcasting Studies.Vol.40.pp. 69-94

【Article】国際報道に欠けているもの What international reports lack

【雑誌記事】倉田保雄.1982.「新聞の国際報道に欠けているもの」.『諸君』.第14巻7号.96-105頁.

この人の文章は分かりやすい!
昨日(?)ご紹介した『ニュースの商人』のあとがきは発信力に焦点がありましたが、
こちらは受信力にも疑問を投げかけるものです。
私も、「日本は耳は長いが口は小さい兎」と言われても、
そもそも耳が長いかも疑わしいだろ、とは思います(笑)
個々人では努力している人も沢山いると思いますけれども。

以下、引用。
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 しかし、こうしたマスコミの国際報道はたしかに”目まぐるしい展開をみせる国際情勢を刻々とらえて報道している”には違いないが、報道の焦点がA点(例えばポーランド紛争)からB点(中米紛争)に移った場合、A点関係のニュースは急激に新聞の紙面、テレビの画面から消えてしまい、しばらくの間は明けても暮れてもB点関係のニュースのオン・パレードと云うことになる。

 具体的な例で云えば、昨年十二月からことしの二月にかけて、日本のマスコミの国際報道はポーランド一色で、中東紛争などはもう収まってしまったかのように文字通りの”沙汰止み”で、読者はポーランド以外では『何も起こっていない』という錯覚にとらわれかねない。
 そして、ポーランドにおける軍政が長期化の兆しを見せ、”連帯”のニュース性が落ち込み、全般的に報道が内容的にマンネリ化すると、ニュースの焦点はエルサルバドルの三月総選挙をめぐる反政府ゲリラの活動を軸とした中米紛争に移り、読者、視聴者は好むと好まざるにかかわらず、”リングサイド観戦”を余儀なくされ、自動的にポーランド離れをすることになるのだ。その間に、ポーランドでは派手な紛争などは起こらないにしても、グレンブ大司教による調停工作などポーランド情勢全般は活動を続けているわけだが、三月末ごろまでに日本人の大多数は、ポーランドについては忘れがちで、中米紛争に気をとられてしまっていたのである。
 中米紛争にかんする予備知識もなく、日本と直接関係のない紛争をいきなりリングサイドで見せられても、おもしろくもあるまいと思うのだが、”消費者”には選ぶ権利があるようでいて実はないのは現代消費社会の”見えざるパラドックス”であり、ニュース消費も決してその例外ではない。
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 ニュース・マガジンとは、アメリカのタイム、ニューズ・ウィーク、フランスのレクスプレス、ヌーベル・オプセルヴァトゥール、ル・ポワン、西ドイツのデア・シュピーゲル、英国のエコノミストといった国際ニュースの週刊誌のことである。なお、英国の場合は、週刊誌ではないが、サンデー・タイムズ、オブザーバーといった日曜新聞がエコノミストとならんでニュース・マガジンの役割を演じている。
 これらの週刊誌を定期的に読んでいれば、一般紙の読者でも、”バミューダ症候群”に影響されることなく、フォークランド紛争進行中でも、中東、中米、そしてポーランド情勢に毎週”接する”ことができる。もちろん、高級紙の読者の場合のように毎日、なんらかの形で、世界のトラブルスポットの脈をとってみることができると云うわけには行かないが、私はニュース・マガジンによる国際情勢のレギュラー・インプットの効果はバカにならないと思う。
 日本には週刊誌という名のつく雑誌は掃いて捨てるほどあるが、残念ながら国際報道なみの厚い読者層を持つニュース・マガジンはない。
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【Article】Kurata, Yasuo. 1982. What international reports by newspaper lack. Shokun. Vol.14, No.7. pp.96-105

Thursday, April 27, 2006

【Article】第三世界と国際通信社 The Third World & International News Agencies

【雑誌記事】堀川敏雄.1979. 「第三世界と国際通信社」.『新聞研究』.331巻.46-50頁.

問題なのは通信社(問屋)じゃなくて新聞(小売店)という視点は、なるほどなぁー・・・と感心させられました。最近問題になるテレビ局の極度な政治偏向も小売店の問題と言われればそうかもなぁーと。 FoxTVにしても、フジサンケイグループにしても、ニュースの小売業者であって問屋ではないかもしれないですね・・・少なくとも国際ニュースに関しては。

以下、引用。
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 先進国、途上国を問わず、途上国ニュースないし”建設的開発ニュース”が少ないのは、国際通信社の陰謀のせいではなく、新聞がのせないからである。
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 情報不均衡の元凶みたいにいわれる国際通信社への批判には、誤解が多い。第一、もうからない。
 UPIは株式会社であるが二十年いj表配当をしていない。ほとんど毎年大赤字である。APは共同と同様非営利の社団法人であるが赤字を出すこともある。ロイターのニュース部門は赤字で、経済通信が収入源である。新聞発行部数千二百万のフランスに、国際通信社AFPがあるのは、形式はともかく政府の補助金があるからなのである。
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 むしろ国際通信社や準国際通信社が途上国の必要によりよく対応して、現在以上に重用される可能が強いだろう。
 このことは”新国際情報秩序”派をいら立たせ、悪者は例により”西側の文化帝国主義”ということになろう。”大学紛争”は当分ますます観念的にエスカレートしそうである。
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【Article】Horikawa, Toshio. 1979. The Third World and International News Agencies. Newspaper Research. vol.331. pp.46-50




【Article】21世紀のアカデミック・ディベート Academic Debate Toward Next Millennium

【雑誌記事】並木周.1997.「21世紀に向けアカデミック・ディベートはどうあるべきか」.『ディベート・フォーラム』.全日本英語討論協会出版会.p20

リベラル・アーツがリベラルな理由は、「奴隷ではない」という意味の自由人を由来とするのが一般的なようです。なので、「精神的な自由」よりも「物理的な理由」が先にたった感じがします。(同じことかも知れませんが。物理的に不自由だけども精神的には自由な状態って想像しにくいので)

それでも。

この言葉が胸に響くのは・・・・・・何故でしょうね・・・・・・。
それは多分、美術について学んだ者は、セザンヌの見方が「知識に縛られる」のではなく「より感動する自由を持つ」という話にどこか惹かれるからじゃないでしょうか。ヘーゲルが人間が弁証法を通じて最終ゴールである完全な自由に近づいていく、と考えたのを思い出す。それが本当か分からないなら、信じてみたい夢だと思う。「優しくなるために、自由になるために学ぶんだ」と。無知と戦うことは、天国への道程だと。

以下、引用。
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 ディベートの目的は、今でも「アーギュメンテーションの教育」と認識されているであろう。アーギュメンテーションとは,「議論をする過程」という意味である。従って,論理と修辞(レトリック)の両面を持っている。論理とは,自然のあり方を記述する方法論ないし構造そのものである。たとえば,自然法則は全て論理に従うし,論理は自然法則と同じくらい客観的である。つまり,論理は自然の有り様である。人の考えも,論理で記述しない限り他人に伝えることは不可能である。なぜなら,他人は自己から見れば自然現象だからだ。一方、論理で記述されたことを乗せる「もの」が言葉・すなわちレトリックである。多彩な表現や抑揚を加えることでより効率的に他人へ考えを伝えることが出来る。これもレトリックの重要な要素だ。
 このように,アーギュメンテーションには他人を理解するという過程が含まれる。他人を理解することができなければ議論になり得ないからである。また,他人を説得するには,自分の考えを正確に理解される必要がある。他人の考えをある方法論に従って理解する過程を学ぶ学問を総じて教養学という。日本語ではピンと来ないかも知れないが,アメリカではこれをLiberal Artsという。何故「自由」かというと,ある物事を理解する方法論を身につけた人は,そうでない人より精神的に自由であると言えるからだ。この自由を,「想像力」ともいう。例えば,セザンヌの絵画を見てみよう。色彩の使い方が如何に画期的であるか,その構図の取り方が如何に絵画そのものの概念を覆したかということは,絵画の歴史・手法を知っていれば,純粋に感動できる。知らなければ,セザンヌの絵を楽しむ「自由」がその分少ない。絵画という方法論を通じて,時空を越え,セザンヌの考え・思想を垣間みることができる。ディベートにも,アーギュメンテーションという方法論を通じて他人の考え・思想をよりよく理解する「自由」がある。アーギュメンテーションは人間の社会活動の中で最も重要な役割を担っているので,アカデミック・ディベートは極めて重要な教養学である。考えを論理的にまとめ言語にて伝える過程は,全ての人類の活動に共通した「要素」であるから,むしろそれは「教養学の教養学」と言う方が適切である。


【Article】NAMIKI, Shu. 1997. Academic Debate toward Next Millennium. Debate Forum. Volume XII Number 4. Tokyo: NAFA Press p20

【Book】言葉ある風景 Scenery with language

【本】小椋佳.2004.『言葉ある風景』.東京:祥伝社.

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イラク戦争が始まる前の二月十五日には、世界中でいっせいの反戦運動が起こりました。世界の六十カ国で運動は起こり、一千万人が参加したそうで、ベトナム反戦運動を上回る規模だったそうです。(中略)イギリスから発信された言葉で、反戦運動のきっかけになった言葉があります。
「国民という名で戦争はできない」
Eメールに書かれたメッセージの中の一文だそうです。
「イギリスという国家が戦争すると言っても、私個人というのは、だからといって戦争をするわけではない」このメッセージが、数日間の間に世界を駆け巡り反戦運動に繋がっていった。このことを知ったときに、すごい時代になっているんだなって思いました。一市民のひと言が世界的な運動を惹起したのですから。まさに、インターネットの力は大きいなと感じますね。

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【Book】OGURA, Kei.2004.Scenery with language.Tokyo: Shodensya.

【Book】ワード・ポリティクス Word Politics

【本】田中明彦.2000.『ワード・ポリティクス』.東京:筑摩書房.

高瀬淳一の『武器としての<言葉政治>』が国内の政治に焦点があるとすれば、こちらは外交について。特に極東外交について言及している。

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 通例、軍事力も経済力も言葉を伴って使われ、その言葉によって意味が与えられる。いわゆるアメとムチの区別は、言葉によって与えられる。「私の要求にしたがいなさい。さもないと攻撃しますよ」という言葉を伴って、軍事力は、多くの場合意味をもつ。また「私の要求にしたがってくれれば、これだけの代価を支払いますよ」という言葉を伴って、経済力は多くの場合意味をもつ。その意味でいえば、すべてのポリティクスは、ワード・ポリティクスである。(中略)
 しかし、それにもかかわらず、本書で指摘したいのは、現在の世界システムにおいて、特に東アジアの国際政治において、そしてとりわけ日本の外交政策を考える時は、パワー・ポリティクスやマネー・ポリティクスとならんで、ワード・ポリティクスが重要になっている、ということなのである。しかも、そこでのワード・ポリティクスは、かならずしも、単純な脅迫や交換の言明に直結しないシンボル操作を含むものである。よくよく考えてみれば、相手に影響を与えようとして使う言葉やシンボルは、必ずしも脅迫と報酬というコミュニケーションにのみ還元されるわけではない。
 コミュニケーションには、単にこちらの意向を伝えるだけでなく、そもそも相手の思考内容自体に影響を与えようとする機能も大きい。何が好きか嫌いか、何が正義で何が悪か、何が重要で何が重要でないか。これらの問題について、さまざまな言葉を使うことで、相手の見方を変えることは十分ありうる。さらにまた、自らが何者であるか、何のために存在しているのか。これらの根源的なものの見方についても言葉は影響を与え得る。そしてもし、このような側面に影響を与えることができれば、相手に影響を与えるのに軍事力や経済力はそれほど必要なくなるだろう。こちらの思うとおりのことをすることが、相手にとっても正しいことである(あるいは得になることである)と認識してもらえば、特にそのために脅迫をする必要もないし、報酬を与える必要もないからである。(中略)最近になってより鮮明になりつつあるが、1990年代後半、日本を取り囲む外交は、ますます会議外交・首脳外交を中心としたものになっている。これ自体、グローバリゼーションの進展する世界システムの動向、つまり『新しい「中世」』で論じたさまざまな動向が生み出した現象であるが、これを一国の外交ということでみると何がいえるのだろうか。この二つの論文で、私は初めて明示的に「ワード・ポリティクス」(言力政治)という言葉を使って、当面する課題を提示したつもりであった。説明的にいえば、現代の会議外交・首脳外交においては、ますますシンボル操作能力が重要になる。着想力、表現力、発言力、説得力、演出力、すべてを引っくるめた言葉の力、「言力」とでもいいうるパワーが重要になってきていると論じた。そして、残念ながら日本外交に最も欠けているのが、この力なのではないかと指摘したつもりである。

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【Book】TANAKA, Akihiko.2000.Word Politics.Tokyo: Chikumashobo.

When the " as weapn" by Takase Junichi is focusing on the domestic politics, this one is about diplomacy, especially about diplomatic policies in Far East.

【Book】武器としての<言葉政治> <Word Politics> as a weapon

【本】高瀬淳一.2005.『武器としての<言葉政治>:不利益分配時代の政治手法』.東京:講談社.

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 私は、これからの首相は、どの政党の出身者であっても、この<小泉型政治手法>を踏襲するか、少なくとも意識せざるをえないと思っている。<小泉型>は、政界の変人がもたらした一時の突然変異ではない。角栄後の政治リーダーの何人もが「ミニ角栄」を目指したように、「ミニ小泉」を志向する政治家も、おそらくつぎつぎと現れることだろう。小泉は、だれがなんといおうと、政治家として一定の成功をおさめた。実現した政策の評価はおくとしても、かれは首相の座にのぼりつめ、党内からの反発を尻目にそれを長期間維持した。しかも内閣支持率では八〇%台という大記録を打ち立て、選挙では歴史的大勝をおさめた。(中略)長期にわたって国政を担うには、やはり「言葉」が必要である。国民が政治家のパフォーマンスを喜ぶからといって、言葉による考え方や価値観の伝達が重要性を失ったわけではない。政治はいまも、究極のところは「説得による納得」で動いている。それを忘れてはならないだろう。言葉は人々の政治認識を根底から変えることができる。それは種々の政治イデオロギーが言葉で綴られていることからもわかる。それゆえに、政治を志す者は、古今東西、まずは雄弁の術を磨いた。そして、含蓄ある言葉を発して、人々を動かそうとしてきた。政治の基本技術は、古来、言葉の使い方にあったのである。一方、聞き手である国民は、政治家の資質をその言葉で判断してきた。大向こうをうならせるような名演説や名ゼリフには喝采を惜しまず、反対にうっかり失言でもしようものなら、容赦なく指導者失格の烙印を押してきた。最近、忘れられがちであった「言葉の政治力」は、二〇〇一年の小泉の登場によって、久しぶりに脚光を浴びることとなった。言質をとられまいとして曖昧にしか語ろうとしない、あるいはただ声高に文句ばかり叫びまくる政治家たちの言葉に国民は辟易としていたのだろう。簡明で直截な言葉を情熱的に繰り返す小泉に、国民は狂喜し、惜しみなく「高支持率」を贈った。そこには、あたかも政治ドラマの醍醐味を思い出したかのような雰囲気さえあった。
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一方、森善朗が二〇〇〇年五月十五日に神道政治連盟国会議員懇談会でおこなった発言は、本人もさほど意識していない「うっかり発言」であった。それでも、政治的帰結はけっして小さなものではない。森の発言はつぎのようなものであった。
日本の国はまさに天皇を中心とする神の国であるということを国民にしっかり承知していただくという思いで活動をしてきた。(中略)この「神の国」発言をきっかけに、森内閣の支持率は四〇%台であったものが二〇%台、あるいはそれ以下へと急下降していく(翌月の朝日新聞社の世論調査では十九%、産経新聞社の世論調査では十二・五%)。翌月の衆議院選挙では、森は自民党の政治CMにも登場しないほどに選挙の表舞台から追いやられたが、それでも自民党の退潮は避けられなかった。

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テレビのニュースと政治家は、いまや相互依存的になっている。相互依存のなかでは、相手を理解し、相手のニーズをふまえて行動することは、珍しいことではない。<小泉型>は、テレビ・デモクラシーという時代状況を反映した政治手法にもなっているのである。
 その典型的な例が、小泉の「ワンフレーズ・ポリティクス(一言政治)」である。これによって、日本の首相も、アメリカ大統領なみに、ニュースショーと相互依存的になったといってよい。ワンフレーズ・ポリティクスは、なにも小泉の発明したものではないからである。
 そもそも、テレビのニュースショーでは、通常、一定の放送時間のなかに、政治問題から芸能・スポーツにいたるまで、数多くのニュースが並べられる。一つ一つのニュースは短く、悲痛に満ちたニュースが二~三分流れたかと思うと、もう笑みがこぼれるような映像へと変わっていく。目先がどんどん変わっていくのも、ニュースの娯楽性の一要素である。
 こうした状況では、いくら政治家がきちんと説明しても、それがそのままニュースで放映されることはまずない。むしろ、気の利いた短いセリフをいえば、ニュース番組は喜んでそれを利用してくれる。
 アメリカでは、レーガン大統領時代から「サウンドバイト」と呼ばれる一〇秒ほどの短いフレーズを大統領が用意することが一般化している。大統領にとって都合のいい方向に議論を導くために、気の利いたセリフを政権側が周到に作成し、それを演説や発言のなかに入れておくのである。それをマスメディアが目論見どおりに取り出して利用してくれれば、大統領側は政策を自然と国民にアピールすることができる。ニュースショーの特徴をふまえた巧みなメディア・ポリティクスである。
 アメリカでもそうなのだろうが、日本の場合、政治家はとくに長々としゃべる。周到に言いまわしを考え、言質をとられないように婉曲表現を使う。ところが、小泉の場合は、政治家には似つかわしくない短く断定的な発言スタイルである。たまたまにせよ、これはニュースショーのニーズに合致したものであった。

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【Book】TAKASE, Junichi.2005. <Word Politics>as a weapon: Political technique at the time of loss sharing.Tokyo: Kodansha.

【Book】議論のレッスン Lesson for Argumentation

【本】福澤一吉.2002.『議論のレッスン』.日本放送出版協会.

トゥールミン・モデルを基本とした議論テキスト。
新書なのに(失礼)まともな内容なので、初心者には良いかもしれない。

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日本社会において「議論技術を身につけるべきです」などと提案すると、「そうするに越したことはないよね。ことの決定は徹底的な議論の末にするべきだよ」などと、いったんはたてまえとしてその提案に同意し、受け入れるような姿勢を見せる人でも、本音では「甘いね。君は。いつまでそんな青臭いことを言ってんの。現実の世のなか、よーく見てごらんなさいよ。すべてその場の空気とか、雰囲気とか、感情とか、場合によっては恫喝とかで決まるんじゃないの」と思っているのではないでしょうか。実際問題として日本の社会では、場所を問わずわけの分からない議論(それを議論と呼ぶならば)の論理でことが決定されている場合が多いようです。この本はそのような風潮を是認しつつも、時と場合によってはより分かりやすいフォーマルな議論(フォーマルな議論の定義は後でしますが)をするべきである、ということを提案するものです。
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それでは議論(口頭での議論、および読み書きの議論を含む)について学ぶとどんなよいことがあるのでしょうか。たくさんあると思いますが、そのうちの3点をあげてみます。
ひとつ目は、議論のあり方を考え、知ることにより、刺激的な知的興奮を得られることです。ちょっと大げさに言えば、議論について考える前と後では、世のなかのすべての出来事に対する味方が大きく変わるはずです。いままで漠然と読んでいた新聞記事、学術的論文、エッセイ、聞き流していた国会中継、テレビ討論、ニュース番組、友人との知的会話などが、より分析的に把握できるようになるのです。もし読者がジャーナリストなら、必ずや「一流の政治家」(仮にそんな人がいるとして)を相手に意義ある議論を展開できるようになること間違いなしです。
2つ目は、議論を通して”自分を知るチャンス”が得られることです。これについてはちょっと解説が必要でしょう。議論とは常に相手を必要とするものと考えがちですが、それは狭義の議論です。意思決定する場合、そのプロセスにおいてはまさに自分自身が議論の相手となる場合が多いのです。この本では「論拠」(根拠の一部)と呼ばれている議論の要素を重視します。詳細は本文をご覧いただきたいのですが、私はこの「論拠」が、議論の最も中心にありながら伏せられ、隠されている場合が多いと考えています。論拠を探り、ひもといていくことは、単に「議論とはなにか」を考える上で重要なだけでなく、自分自身すら気がついていなかった自分のものの見方、考え方を発見し、それに直面することにつながります。これはある種の自己発見です。
3つ目の効用としては、日常的議論からよりフォーマルな議論までの幅広いさまざまな議論のうちから、時と場合、内容と程度に合わせて適切な「議論レベル」を選択できるようになります。日常の議論(単なるやりとり)に堅苦しいルールを持ち出してもはじまりませんが、知的でよりフォーマルな議論のときに日常的議論をするのも問題です。議論の内容によっては、ルールを適度に提案することでより建設的な議論になると思います。

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【Book】FUKUZAWA, Kazuyoshi. 2002. Lesson for Argumentation. Tokyo: Nihonhososhuppankyokai.

【Book】ニュースの商人 Merchant of news

【本】倉田保雄. 1979. 『ニュースの商人 ロイター』. 新潮社.

『文化帝国主義』が書かれたのより20年以上前に書かれたのだということを改めて思わずにはいられない。国際通信社論の火付けの一端を担った書。
この話題に興味のある人は必読。
重要なのは「あとがき」との見方が一般的(笑)

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七七年二月七日、フランス国営放送は、「黄禍がフランス経団連を不安に陥れる」と題するフランス経団連のJ・ビトカン国際通商委員長とのインタビューを放送したが、その中でビトカン氏はこともあろうに、「フランスが牛肉、缶詰を輸出しようとしても、日本政府は国民に魚を食べ続けることを強制して輸入を阻もうとしている」という暴言を平気で吐いているのである。(中略)
「タイムズ」紙は社説で、「日本経済は、西欧的な民主的な形式をとりながら、実は非公式な指示、命令が働いていて、結果的にはまるで計画経済の諸国(共産圏)と同じことになっている。こういう国と自由な競争は不可能であり、われわれは管理された輸入割り当て制度に頼らざるを得なくなるだろう」と主張しているが、これは「保護貿易政策でお前らを閉め出すぞ」という脅迫にほかならない。
一方、仏紙「ル・モンド」も、日本のインフレ対策が成功するのは、ほかの国では想像もつかないほどに労働者が飼い馴らされているからだ。トヨタでは過去二十四年間にストが一回もなかったというではないか」と指摘し、平穏な労使関係は罪悪だと決めつけるありさまである。
「タイムズ」や「ル・モンド」は、いずれも発行部数は五十万部足らずで、日本の「朝日新聞」や「読売新聞」に比べれば十分の一以下の“小新聞”だが、これらの新聞は、日本国内でしか読まれない日本の大新聞と違って、世界中で読まれているのだから、その影響力たるや推して知るべしである。極端なことをいえば、このような世界が読む新聞が「日本は悪者だ」と報道すれば、全世界がこの論調を信じてしまう可能性は十分にあるわけだ。
こんな無法な切捨てご免の日本批判、いや対日非難にたいして、日本はどんな反論、つまり、その場でどんな風に切り返したかというと、これがなんと“音無しの構え”だけで終わってしまったのだから情けない。
七七年の対日非難たけなわのとき、日本の新聞には連日、EC側の一方的な言い分が大きく報道され、それにまた解説記事がつくといった具合であったが、それでは同じ時期に日本側の言い分ないし反論が一体どの程度EC諸国の新聞に報道されたか。これまた、時折思い出したように出るぐらいで、解説記事も出るには出るが、EC側に都合のよい解説ばかりだったという事実が、日本の外交不在、つまり反論不在の何よりの証拠である。
いうまでもなく、西欧社会では、反論をせずに沈黙を守るということは、合意もしくは容認を意味するから、相手はつぎからつぎへといいたい放題なことをいい出すわけだ。(中略)
このような日本の外交は、ある意味では過去三十余年にわたるニュース輸出の努力をしなかったツケがまとめて廻ってきたことによるものだと私は考える。ロケットやミサイル面での有事態勢を整える前に、まず“情報面での有事態勢”を整えておくべきなのだ。
それは、商品輸出網が世界中に広がっているのと同じように、ニュース輸出網を広げておき、有事の際はそのネットワークをフルに活用して“反論”するという仕組みである。(中略)
ことと次第によっては、国際通信社の方が自衛隊より、有事に役立つかも知れない。
それはまた国際化する日本が二十一世紀に挑戦し、これを生き抜くための不可欠の“近代装備”なのだ。

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【Book】KURATA, Yasuo.1979.The merchant of news: Reuters.Tokyo: Shinchousha.

It suggests a lot of things that this book was written more than a decate before "Cultural Emperialism" was. This is one of the documents opened the dead heated discussion over the necessity of Japanese international news agency. You have to read this if you are interested in international information inequity.

It is widely said that the key message of this book is in its postface. :p

【Book】会議の技法 Skill for Discussion

【本】吉田新一郎. 2000. 『会議の技法』. 中央公論社.

着眼点は大変良いと思うのだが、実際に紹介されている方法論は今ひとつ。

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 情報化時代であるにもかかわらず、同じ組織や団体内の人間同士のコミュニケーションは必ずしも円滑に図られているとは言いがたい状況である。私たちのコミュニケーション能力の進歩は、科学技術の進歩にはるかに及んでいない。
前例主義や、さしたる根拠もなしに上で決まったことがまかり通っている場合も少なくない。これまでとは異なるアプローチで、新しいことに挑戦することが求められていることはわかっていても、何をしていいのかわからない。アイディアを出し合って、説得力のある代替案をつくるすべももっていない。また、ピラミッド型の組織に代わるチーム型の組織形態が、時と場合によっては求められているといっても、それをどのように機能させていいのかわからない。
これらの諸問題を解決・改善する有効な機会の一つとして「会議」が位置づけられる。(中略)

 しかし、出席してその中身に満足したり、後味が良い会議は極めて少ないのも現状である。(中略)
 ひるがえって思い起こしてみると、私たちは効果的かつ効率的な会議の運営方法をどこかで学んだことがあるだろうか?学校のホームルームや生徒会、大学時代の研究会やサークル、あるいは大人になってからの職場やさまざまな団体における会議のもち方、どれ一つとっても長年実践されてきたやり方を疑問をもたずに継承している場合がほとんどである。

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【Book】YOSHIDA, Shinichiro. 2000. Skill for Discussion. Tokyo: Chuokoronsha

【Book】英語と運命 English and destiny

【本】中津燎子.2005.『英語と運命』.東京:三五館.

面白かったです。
肩のこらない内容なのでざくざくざくーっと手早く読みました。
方法論に関してはあまりに経験的すぎて同意しかねる部分もありますが、体験談としては学ぶところもありました。

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「歌・舞・音・曲」はいかん!人間に必要ない!というのが父の信念の第一であった。第二は、男は女より数段まさっているから全権力を握り、その全責任をとる。女はそれに従うのが人の道だ。第三は、人間は軽々しく言葉を発するな。だまってやることをやる。第四は、人間はだまっていても全神経を働かせ気を利かせて、人の意図を察しろ!第五は、とくに女は、言われなくとも男の意図を察し、男を支え、尽くすことが女の道であることを忘れるな!(p27)
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父は私たち子供が幼年期や自動機を経て、中等教育を受ける時期になると同時に、母との会話を用件以外認めなくなったのである。理由は一つ。「女はバカだから、話をするとバカが子供に伝染する」これを読んでる皆さん!笑っちゃいけないヨ。実際何十年経っても、「女はバカだから母親と話すとバカが伝染る」と言われた時の気持ちを忘れることはできない。(p35)
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私の癖は、常に突然しゃべりだすことだったから、「婉曲話法」のかたまりになるようにしつけられていた戦前の日本人たちの私への評価はますます悪化するばかりだった。(p88)

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アツカマシすぎる、と言われて私は大いに不満だった。ふつうに道を歩いている、見ず知らずのアメリカ人らしき人間をつかまえて、英語のテキスト本などを突きつけて「発音を教えてくれ」と言うのが、まさにアツカマシイ例だと思うが、私に向かって直接用件を述べる人間に、質問して確認するのは当然なことではないか。しかし、戦後間もない当時の日本には、戦時中はもちろん、昔からの人間関係の上下感覚が色濃く残っていた。女が、用件を述べている相手に向かって何かの確認をするのは、あまりいいこととはされなかった。相手が男性でしかも占領軍所属の軍人であった時は、トラブルを恐れてだれも何も言わなかったのである。(p.145)

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日本の文化風土そのものが「質問」や「疑問」を、「生意気」「不遜」「傲慢」というところに位置づけていたから、「質問」をする発想そのものがなかった。とくに戦争中は「疑問」を口にすることなど許されていなかった。男性がそんな扱いを受けている時に、女が何かを問いただすなんてことは万が一にもあってはならないことだった。(p.146)
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ボーゼンとしている私にカーターは、
「文章を作る以前に、タイトルを見て、まず必要な情報を集めることを忘れちゃいけない」
と説教し、ついでに、
「日本人を見ていると口を開いてからゆっくり考えはじめるようだねえ。それじゃ遅いよ」
と感想をのべた。

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かねてから気になっていたのだが、
「日本人全般に見られるこれほど強い『英語学習熱』にくらべて、英語力の程度が貧弱なのはなぜだろうか?」
という率直な好奇心であった。
世界の中でも「英語学習に関して、その熱心度・真剣度・努力度はハンパではないが、「英語下手」の度合いもまたハンパでないところが、非常に神秘的な感じがするのである。(中略)私の感じでは、従来の「英語学習時代」はもう二十世紀の遺物としてとっくに終了していて、これからの二十一世紀ははっきりした目的を持った一般大衆(特別エリートではない)の「英語利用」または、「英語活用」時代となっているように思うのである。二十一世紀の「英語」はこれまで以上に「世界共通語」となり、本家の英国をさしおいて、独自の文化スタイルで独自に拡大してゆくにちがいない。

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それ以来、私はあらゆる場で、あらゆる機会をとらえて「なぜ?」という質問をアメリカ人にぶっつけることに専念しはじめた。
そしてその質問を百パーセント以上助けたのは、ジェイムスが訓練してくれた発音の明快さであった。人間はだれだって、たずねたいこと、聞き正したいことが山ほどあるが、相手が答えてくれるとは限らないのはどこだって同じである。アメリカ人、否、西洋人は平均して「質問」に答えるような訓練を子供の頃に受けているらしく、答えてくれるほうだが、ただ一つ発音が悪いとふり向かない。わざわざ聞き直すことなんてせずに無視するのがふつうである。(p140)
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「日本人の英語はよくわからない」というアメリカ人が多かったが、その八十パーセントは日本人の声が小さくて聞こえないという単純な理由からだった。(中略)観察をつづけているうちに、「声を大きくする」ことは日本語の世界では「はしたない」、または「みっともない」と思われていて、ある種のタブーとなっているのではないかと気が付いた。つまり人間の心の奥にある「美意識のモンダイなのだ。こうなるともう、どうしようもない。美意識の違いほど、異文化摩擦のすさまじさを露にしているものはない。
相手に届かない声や、不透明な言葉による意思伝達はほとんど一顧だにされない英語の世界と、相手にある種の雰囲気が伝わればそれでいいのであって、言葉が耳に入ろうが入るまいがさほど大したことはないという日本語の世界とのちがいは、単なるコミュニケーション・スタイルの問題にとどまらない。
およそ「知的世界」のすべてにおいて、大小、深浅、さまざまの谷間が連なっていると言ってもおおげさではないのである。(p316)
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【Book】Nakatsu, Ryoko.2005. English and destiny.Tokyo: Sangokan.

【Book】戦争広告代理店 Public agent of war


【本】高木徹.2002.『戦争広告代理店:情報操作とボスニア紛争』.東京:講談社.

新潮ドキュメント賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞したというだけあって、読み応えがある。

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ハーフは、話を聞きながらシライジッチの英語力を冷静に観察していた。その語学力が強力な武器になることは明らかだった。シライジッチは、学生時代アメリカに留学していたことがあり、英語はそのとき身につけていた。さらに歴史学の大学教授だったことから数多くの書物に親しみ、語彙はきわめて豊富で知的だった。標準的なアメリカ人よりはるかに気の利いた英語の表現を駆使することができた。
さらに都合がよいのは、シライジッチの語りは短いセンテンスで構成されており、区切り目が明確だということだ。通常こうした著名人の発言が国際ニュースで流れるとき、数秒から長くても十数秒の単位で短く編集されてしまう。その一つ一つの発言の塊を「サウンドバイト」と呼ぶ。ところが人によっては、話す言葉のセンテンスが長く、区切れないため、短く編集することが難しい場合がある。こうした人のコメントはテレビのニュースとして使いにくいため、おのずとテレビ局に嫌われ、ニュースに登場する機会も減る。
 「シライジッチの言葉はサウンドバイトにぴったりでした。それは、情報戦争を戦ううえで、有利このうえないことでした」
 ハーフは、そう証言した。
 「ボスニア・ヘルツェゴビナの窮状を世界に、そしてアメリカに訴え、またセルビア人の野蛮な行為を世界に知らせなければならない」
 と、ベーカー長官に対したときと違い、独演会さながらにまくしたてた。
 ハーフは、シライジッチが、スポークスマンとしてうってつけの素質を持っていると見てとった。シライジッチは、聞く者にあわせて、その関心をひきつける表情を作る才能を持っている。怒りをストレートに表現すべきときは激情を、また、悲しみを物語るべき時は静かな悲嘆を、その端正な顔にうかべることができるのだ。
 なかでも効果的なのは、微笑の仕方だった。一つのパラグラフを語り終えた後、一呼吸をおいて、にこっと微笑む。その表情は悪魔的でさえあった。女性、それもある程度以上の年齢の女性には非常に大きな効果があった。これは、アメリカでは実際上の効果も十分に見込める利点だ。アメリカ社会の一流ジャーナリストや、高級官僚には女性が多い。彼女たちが大きな社会的影響力を持つ場合もある。ある著名な女性ロビイストは、一通りインタビューが終わったあと、
「ハリスって、とてもハンサムよね。あの眼で見つめられるとどうしようもないのよ」
 夢見るような目つきでそう付け加えた。
 そうしたことが、どれほど実際の国際政治を動かしたかを計測することは困難だ。だが、『ワシントン・ポスト』紙のある高名なコラムニストは、
「シライジッチが多くの女性ジャーナリストを味方にしたので、西側メディアの論調はボスニア・ヘルツェゴビナに有利に傾いたという面もたしかにある」
 と真剣に指摘している。
 さらに、明らかにシライジッチはナルシストだった。
 シライジッチが自分自身の姿に酔い、言葉に酔っていることは、彼と直接言葉をかわしたことのある人間なら感じ取ることは難しくない。それは、数多くの記者の矢継ぎ早の質問を受け、テレビカメラとマイクのプレッシャーに常にさらされるスポークスマンにとって、必須の性格でもあった。
 ハーフは、シライジッチに言った。
「まず、ここワシントンで、記者会見をやりましょう」
 各有力紙やテレビネットワークの国際ニュースは、国務省担当記者がカバーすることが多い。彼らは国務省のあるワシントンにいるのである。シライジッチにも異存はなかった。
 やるからには、一刻も早く行うべきである。記者会見は翌日、五月十九日にセットされ、数時間後には各メディア向けの招待状兼案内状が用意された。そこには、流血の惨事が続くサラエボから、ボスニア・ヘルツェゴビナの外務大臣が最新のニュースを携えてやってきたこと、そして、シライジッチの英語が堪能だと強調されている。

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【Book】TAKAGI, Toru.2002.Publicity agent of war: Propaganda and conflict over Bosnia.Tokyo: Kodansya.

Wednesday, April 26, 2006

【Internet】ビデオニュース・ドットコム Videonews.com

【インターネット】ビデオニュース・ドットコム

日本のマスコミ酷くない?!商業主義?メディオクラシー?政治家の介入?
まともな番組が欲しい!!・・・ということで・・・
広告に頼らないメディアを!と1999年に始まったインターネットニュースサイト。
通常のテレビ局が放映しないような様々なニュースのビデオクリップがインターネット上で見られます。
月額525円払えば会員サービスも受けられるようです。
おススメは特集番組欄。20分程度の短いドキュメンタリーが色々見れます。

【Internet】videonews.com

Why Japanese mass media is so crappy?
Tokenism? Mediocracy? Intervention by politicians?
That does it! We need decent media!! ...therefore...
Videonews.com was founded in 1999 to provide just news videos on line.
It is run without commercial but with registration fee of viewers.
Viewership is 525 yen per month.
Even without registration, there are a lot of video clips available there.
You can see many news video; even the ones that major TV channels usually don't put on air.
My favorite is "special issues" section.
You can watch many 20min length documentaries there.

【Book】文化帝国主義 Cultural Imperialism

【本】ジョン・トムリンソン.片岡信訳.1997.『文化帝国主義』.青土社.

この人頭いいなぁ・・・と思います。

特に下の引用部。日本でなら70年代から言われていることだし、マクブライド委員会だって70年代に組織されていたわけだけど、英語圏の人が気づいたということは評価できると思います。

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ユネスコの概算によると、「全印刷物のうち三分の二以上が、英語、ロシア語、スペイン語、ドイツ語、フランス語で書かれている」ということである。世界中には約三千五百の非文字言語と、約五百の文字言語が存在するという事実を考えれば、このことは少なくともある種の文化帝国主義を象徴するものだという気がしてくる。そうすると、単にこれらの支配的言語で書くこと自体が帝国主義を再生産するという逆説も成り立つかもしれない。それは、ただ単に英語で書くことが世界中の本棚を占める英語のテクストの全体量をさらに増大させるという、大雑把な意味で成り立つということではない。もっと重要なのは、文化帝国主義の問題に関する私の着想は、もともと英語で書かれたテクストか、(おそらくは)ヨーロッパの言語から英語に翻訳されたテクストによって培われたものだという点である。たとえばケチュア語やグアラニー語で書かれた文化帝国主義についての議論などがあるのかもしれない。ところが、それについて私は何も知らないのだ。ここでは、私の無知というものが問題の焦点となる。というのは、私の書くテクストが、いかに悪意がないとはいっても、もしかしたら何らかの影響を与えてくれたかもしれないものを排除し、いくつかの声を文字通り「黙らせ」てしまうからだ。

【Book】Tomlinson, John. 1991. Cultural Imperialism: A Critical Introduction.

He must be smart!

Especially the following quotation. Well, it is nothing new to Japanese who have been discussing on this since 70s. And even an international committee like MacBride Committee was formed in 70s, we don't see many English native speakers realizing this problem...

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According to UNESCO estimates, 'more than two thirds of printed materials are produced in English, Russian, Spanish, German and French.' When we consider that some 3500 verbal languages and some 500 written ones are estimated to exist in the world, this fact might strike us as at least emblematic of some sort of cultural imperialism. The paradox might then be that the mere fact of writing in one of these dominant languages reproduces this imperialism. This may be so, not just in the rather loose sense that writing in English somehow adds to the total amount of English texts filling up the global bookshelves. The more significant point is that the thoughts I have on the subject of cultural imperialism will be fed by texts either originating in English or translated from a (probably) European language. There may be discussions of cultural imperialism written in Quechua or Guarani, but I don't know of any. My ignorance here is the central issue for, however well intentioned, I will produce a text which excludes these possible nfluences and so in a real sense 'silences' certain voices.
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【Article】”日本”を報ずる Reporting about Japan

【雑誌記事】仁井田益雄.1981.「”日本”を報ずる:共同通信の対外サービス」.『新聞研究』.360巻.44-47頁.

流石に出てくる例が古いのを感じるのですが、それでもあまり笑えません。
私自身2000年にギリシャの選手から、「日本は今でも天皇が全て独裁体制で決めていて、天皇はスーパーリッチなんでしょう?」と言われました。なんでもギリシャのテレビ局でやっていたドキュメンタリーを見た・・・と。反論してもテレビ局と私じゃ権威が違うらしく相手は聞く耳ないしね・・・。

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 日本が強力な国際通信社を持たず、日本のニュースがほとんど外国のメディアによって伝えられているということは、外国に向かって自己主張はもちろん、必要に応じて反論する手段を持たないのと同じである。欧米諸国が貿易不均衡是正を叫んで、いいたい放題の対日批判や言いがかりをつけてきても、どうすることもできない。欧米の通信社から対日批判のニュースは洪水のように日本に入ってくるが、日本からの反論や主張は雨だれ程度にしか外国の新聞に届かない。
 外務省の天羽情報文化局長は、最近ある新聞とのインタビューのなかで、「イルカ、防衛、自動車などの問題を外人記者にまくしたてても、どうも日本人がいいたいこと、向こうに都合の悪いことは思ったほど載らない。取捨選択のところで関所に会ってしまう。生殺与奪の権を彼らに握られている格好だ」と語っている。
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紙面に載るのは、災害、動物虐待、女性差別、会社人間といった日本の悪い面やエキゾチックな点ばかりで、しかも日本の実情をよく知らぬ外人記者が興味本位に大げさに書きたてたものが多い。日本への誤解がますます増幅されるわけだ。
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 外務省が一九七八年の暮れに日米民間調査機関に依頼して英、西独、仏、伊、ベルギー五カ国で実施した世論調査では、西独で「日本は共産主義か独裁」とか「日本は核武装している」といった驚くほど誤った認識が持たれており、今日でもこのような認識は基本的に変わっていないようだ。
 この調査では、回答者のほとんどが、日本についての知識を自国の新聞、ラジオ、テレビを通じて得たといっており、報道の仕方によって、いかに誤ったイメージを人々に植えつけるかということを認識させられた。
 数年前、欧米での反日でもにまで発展したイルカ事件についていえば、壱岐のイルカ退治は昔からずっと行われていたことであり、国内では小さな出来事だったのに国際的な騒ぎになったのは、外国の報道機関が現地取材もせずに、日本の報道やテレビに主観的な解説を加え、漁民の立場を無視した一方的な記事を流したことに主たる原因があった。
 「日本人は西洋人の目から見ればウサギ小屋程度の家に住んでいる」と論じた一九七九年の欧州共同体(EC)秘密文書にしても、日本人の住宅観にたいする無理解が底流にある。たしかに今の日本の住宅は狭すぎるし、多くの日本人が不満を持っているのは事実だが、日本人が冬の寒い日に四畳半の部屋でコタツに入りながら酒をチビリチビリやるときの快適さなど全く彼らの理解の外にあるにちがいない。EC報告に限らず、外人記者が日本の住宅問題を取り上げる場合、ほぼ同じような視点でしかとらえていない。
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 さて、外国のマスメディアによる日本像のわい曲を少しでも是正し、日本の実情を正しく伝えるのが日本の通信社の対外部門の役割だが、なにせ英文で記事を書かなくてはならないので、いろいろな難関にぶつかる。まず言語の問題、さらに思考の違い、制度や習慣の違い。日本語は英語とは全く異なる言語なので、直訳がきかないし、辞書を引いても適訳がないことが多いので、英訳するに当たっての苦労話はたえない。
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【Article】NIIDA, Masuo. 1981. Reporting about "Japan": External service of Kyodo Press. Newspaper Research. Vol.360. pp.44-47.

The examples here are a bit old of course. But shocking part is that many of them are still relevant... I met Greek debaters in 2000 who told me that Japan is under dictatorship by the emperer even now and he must be super rich... mmm... They told me that they learned so through a documentary program on Greek TV channel. No matter what I say, the TV channel is more trustworthy for them and didn't mean anything... Oh, well...

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Japan doesn't have any international news agency and most of the Japanese news are conveyed to international community by the foreign media. This means that Japan has no means to rebut when it is necessary. Western countries claim trade deficit and unfairness and they criticize Japan with unfounded accusations. But Japan can do nothing about it. News bashing Japan reach Japanese like a flood but the refutations from Japan rarely reach foreign newspapers. It's like a flood versus dew drops.Mr. Amou, the Information and Culture Commissioner of Ministry of Foreign Affairs recently said in an interview by a newspaper. "Although we refute back very hard on the issues like dolphines, defence policies and automobile, things that are not preferable for the foreign correspondents appears very rarely on foreign media. They are eliminated in the early stage. It is almost like foreign correspondents hold a life or death authority over Japanese."
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The things appear on the foriegn papers are natural disasters, animal abuses, gender inequality, workaholic life style...etc. that project negative or exotic aspects of Japan alone written by foreign correspondents who don't know about Japan but with exaggerations and wild sensationalism. This is how Japan is even more misunderstood by international community.
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Tuesday, April 25, 2006

【Article】国際情報交流 International Exchange of Information

【雑誌記事】永井道雄.1983.「国際的な情報交流に果たすべき日本の役割」.『新聞研究』.Vol. 382.pp. 59-66

うーん・・・まったくです、って感じ。これが23年前の記事なんだからやんなっちゃいますよね...

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 私は一九七七年にユネスコにマクブライド委員会が設置された時、マクブライド氏を含めた十六人の委員の一人として参加した。マクブライド委員会については、既に報告書も出されているが、最初の重要な争点は、発展途上国と先進国との間に十分なコミュニケーションがない、特にコミュニケーションがインバランスであることに対する発展途上国側の大きな不満であった。
 発展途上国は現在百か国を越え、軍事的、経済的、文化的な面で世界への影響力が大きくなってきている。それ故彼らは、従来のような欧米中心の、あるいはソ連を加えてもヨーロッパないしアメリカ中心のコミュニケーションの流れだけに従属せず、むしろそれを逆流させる形のコミュニケーションを要求したのである。
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 まず、こうした状況の中で、コミュニケーションについて日本を先進国とみるか、発展途上国とみるかについてである。現在、日本は経済的側面から見れば、世界のGNPの10%というシェアを持ち、後で述べるように、科学技術研究費も膨大である。そういう点で、日本を発展途上国というのは無意味である。しかし、日本が西洋諸国との間に均衡ある自由なコミュニケーションを開発するために相当な努力をし、成功したかというとそうではない。(中略)では、”入超問題”をどうしたらよいか。非常に大きな問題であるが、端的に言うと、受信だけでなく、送信を行わなければならない。そして、受信と送信の両面を含む「交信」が、欧米諸国はもちろん、ソ連や中国、発展途上国との間に必要とされる。(中略)しかし、これは言うはやさしいが、行うとなると極めて難しい。なぜならば、これは、日本人だけの心構えやシステムを変えることによって達成されるものではないからだ。なにぶんにも、日本から送信する時に、受信側が本当に受信する気持ちになるかどうかという問題を含むわけだから、難題である。
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【Article】NAGAI, Michio. 1983. Japanese role in international exchange of information. Newspaper Research. Vol.382. pp.59-66

【Comic】ポーの一族 Poe's Lineage


【漫画】萩尾望都.1972-1976.『ポーの一族』.小学館.

しばらくお堅いのが続いたのでちょっと息抜き。

とうとう読みましたー。森博嗣氏大絶賛ということで何年も前から気になっていたのにまだ読んでいなかった一品です。ていうかお耽美な感じがしてちょっと好みじゃないであろうと想定していたわけです。

読んでみて、やっぱお耽美なのヨね(笑)

けど確かに、バラバラのお話が全体として一つに再構成されていく様は森作品のルーツと言われればそうかな、という気もしました。

【Comic】HAGIO, Moto. 1972-1976. Poe's Lineage. Tokyo: Shogakukan.

Read eventually.

Because Mori Hiroshi (my favorite novelist) has been writing at a lot of places that he thinks this is fantastic work, I was interested in this for years. But it looked aesthetic and I'm not a big fan of aesthetic works. I think that's why I hadn't read it before.

After reading it, I now know that it is indeed very aesthetic. :p

But indeed it is an interesting work in terms of its story structure. Although each short story does have completed story, when it gather togather, it become to form a longer, bigger story as a whole. That part is indeed similar with Mori Hiroshi's works. :)

【Article】対外情報不均衡 Imbalance of Information Trade

【雑誌記事】堀川敏雄.1982.「日本の国際通信社論と対外情報不均衡の現状及び対策」.『拓殖大学海外事情研究所報告』.16巻.137-166頁.

昭和56年の自民党の提案というのに衝撃。

今年国会で話してたNHKの国際化の話と同じやん!!
25年前から(四半世紀だ!)何も変わってないってこと・・・?
うう・・・ちょっと虚しい・・・。

NHKの国際放送番組審議会へのリンクはこちら

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自民党平泉委員会の提言については、まず以下に全文を掲げる。

 昭和56年7月6日
 国際放送・通信政策に関する提言
 自由民主党政務調査会国際交流特別委員会

 本委員会は,半年間にわたり,日本の国際放送.通信体制に関し,審議を重ねて参りましたが,現状が極めて憂慮すべきであるとの委員会の一致した認識に基き,次の通り報告および提言を行うものであります。

(1)国際放送・通信体制の現状
  日本は情報の輸入超過国である。


  • 1日に70万語のニュースを輸入し、2万5000語しか輸出していない。
  • 国際放送の実施時間も日本は週259時間に対し,米816時間・ソ連2020時間・英国716時間と格段の差がある。
(2)指摘された問題点
  世界の現状は,超大国,限られた先進国による情報の寡占状態であり,国際社会において日本は極めて憂慮すべき状況にあることが,関係者各位により,異口同音に指摘された。

(3)なされた提言
A.日本の立場,考え方を海外に周知徹底させるための海外広報戦略を確立し,それに基いて各般の抜本的な施策を推進すべきである。
B.国際放送の拡充・強化
 現行のNHKによる実施には制度上の問題があり,飛躍的拡大は困難である。また,放送衛星の実用化に備えて今からソフト面の充実をはかるべきである。
C.国際通信社の機能を強化すべきである。
 共同通信・時事通信をはじめ,一部有力新聞社よりも努力は重ねているが,海外マスコミに対し,より一層の発信機能の強化が望ましい。

(4)結語
  1)外務・郵政両省において,本件に関する基本的政策を確立すべきである。
  2)当面必要な経費を調査費として57年度予算に計上すべきである。
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【Article】HORIKAWA, Toshio.1982.The present condition and provisions of arguments for an international news agency in Japan and imbalance of information trade.Takushoku Univ. Research Institute of Foreign Affairs Report.Vol.16.pp.137-166

It's so shocking to read the LDP's proposal in 1981.

There's no difference from the discussion at Diet this year!!
Meaning nothing has really changed in the last quater century...??
uuu...saddening...

Link to the NHK's International Broadcasting Program Committee is here.

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Here is the full text of the proposal by LDP's Hiraizumi Commission.

July 6th 1981
Proposal on International Broadcasting and Telecommunication
Special Committee on International Exchange
in Liberal Democratic Party's Policy Research Council

This committee has discussed on issues of international broadcasting and telecommunication for a half year, reached a consensus that the current situation is extremely serious and hope to submit the following report and proposal.

(1) Current situation of international broadcasting and telecommunication
Japan is a country with unfavorable balance of information trade.

- It imports 700,000 words of news and exports 25,000 words everyday.
- International broadcasting by Japan is only 259 hours/week while that of USA is 816 hours/week, that of USSR is 2020 hours/week and that of UK is 716 hours/week.

(2) Problem
This committee heard the following voice with unison by everybody with concerns.
They said current situation of the world was an oligopoly by very limited developed countries with super power and Japan was in an extremely serious situation.

(3) Proposal
A. Should establish a external PR strategy to inform Japanese position and ideas to international society and design drastic policies based on it.
B. Should expand and strengthen international broadcasting
Current one by NHK is facing a systematic difficulties and it is difficult to expand it explosively. And should prepare for the coming age of satelite broadcasting.
C. Should strengthen the function as international news agency
Japanese news agencies like Kyodo Press and Jiji Press are making enourmous effort comparing to the major Japanese newspapers. However, a lot stronger function to send messages abroad is needed.

(4) Conclusion
1) Both Ministry of Foreign Affairs and Ministry of Postal Office should work on the fundamental policies on this issue.
2) The budget of 1982 should include the impromptu reseach cost on this issue.
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【Book】考える道具 Zeno and The Tourtoise

【本】ファーン,ニコラス.中山元訳.2003.『考える道具』.角川書店.

哲学史を平易な言葉と直近の例でザザーッとお浚いしている本。ただ著者自身のカラーがかなり出ている。全体としてはあまり読み易くない作品。原本を読んだ方がかえって分かりやすいかも。

アナロジー、アレゴリー、比喩については卑近で分かりやすい説明だが、プラトンとはあまり関係ないような気がする。
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優雅な類比に魅惑されると、あるものと他のものが、必ずしも真理とは限らない。だからこそ、裁判の世界はもちろんのこと、西洋の哲学の伝統ではアナロジーより、論理的な推論が重要であると強調してきたのである。そしてアナロジーには主に、説明の役割をゆだねてきた。(中略)アメリカの哲学者のヒラリー・パトナム(一九二六―)は、パソコンが、コンピュータ・プログラムを動作させるハードウェアであるのと同じように、脳は意識という「ソフトウェア」を動作させる「ハードウェア」と考えてはどうかと提案している。このアナロジーはそれだけではなにも証明していない。脳がほんとうにコンピュータのように動作しているかどうかは、まだ証明の必要があるからだ。それでもこのアナロジーで考えると、本来は理解しにくいプロセスがどのように動作するのか、少し理解しやすくなるだろう。類比は理解の助けになる。だが、それだけのことだ。
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アリストテレスは人間の特性の中で、人間だけに固有なものが、人間の機能だと定義した。(中略)人間だけに固有で、ほかの生物にはないもの、それは理性の能力である。切るという機能を知らずには、ナイフを理解できないし、シイの樹に成長するという目的を知らずには、ドングリを理解できない。同じように、人間だけに固有の機能と、それによって人間が実現できる目的を調べなければ、人間を理解することはできない。この目的、すなわち人間の他のすべての目的がこれを実現する手段にすぎないような最終的な目的を、アリストテレスはエウダイモニアと呼んだ。このギリシア語は、幸福と訳せるだろう。アリストテレスにとってはエウダイモニアとは、理性に従って行動することである
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 世界を知覚すること、それは世界を変えることだ。これがドイツの哲学者イマヌエル・カントの洞察の要だ。(中略)
 カントは、一八世紀の哲学の二つの流れの間に新しい道を拓くことを望んでいた。一方の合理論者たちは、理性は感覚の助けなしに、世界を理解できると主張していた。他方の経験論者たちは、すべての経験は経験のうちにしっかりと根差したものでなければならないと考えていた。(中略)ヒュームは、知覚できる世界の知識は、感覚以外の手段では獲得できないことを指摘した。(中略)
 カントはこのような考え方は「神秘的」なもので、新しい形而上学をもちこむことになると批判した。人間が感官を通じて対象を知覚するのは事実だが、人間の目や耳が、対象の真のありかたを伝えていると考えるのは間違いだと、カントは指摘する。人間が感官で知覚するすべてのもの、そして人間が理性で理解するすべてのものは、感官でうけとった際に、知覚が処理を加えているのである。この処理において、ぼくたちの経験には、人間が知覚する対象の生のデータではなく、対象には含まれていないある要素がつけ加えられる。(中略)
 知覚においては、人間の器官の機能が媒介する。だからぼくたちは、知覚される以前の物自体、物そのものを認識することはできない。人間にふさわしい形で作り直された印象を、うけとっているにすぎないのである。人間には、知覚したものを処理する能力があるので、知識というものが可能になる。しかしすべての機能には制約がつきものだ。(中略)すべての知識には、媒介作用のために、ある<色>がついているというだけだ。ほかのどんな知覚システムにも、同じような限界がある。(中略)
 カントは人間の知覚には生まれつき、バイアスがかかっていると指摘したが、これは人間の知覚に、とても厳しい基準をつきつけたことになる。
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 ぼくたちは、二つの対立する見方が衝突すると、片方が完全に正しく、もう片方はまったく誤っていると考えがちだ。ところが議論というものは、正しい要素も、正しくない要素もどちらも少しずつ含んでいるものだ。(中略)それまで認められていた信念、システム、生き方に異議が提起され、争いのうちから、両方の最善の要素を含む新しいものが誕生する。しかし<綜合>というこのプロセスによって生まれた新しい信念、システム、生き方にも、遅かれ早かれ、ふたたび異議が提起され、文化的な衝突の歴史において、新しい一里塚となる。人間の歴史はこのようなサイクルによって発展すると、ヘーゲルは考えた。ヘーゲルはこのプロセスを弁証法と名づけている。そしてこのプロセスの最終的な目的は、完全な自由を実現することにあると考えた。
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 弁証法は、人間の生活のすべての領域にみられる内的な矛盾や対立を手掛かりにして、考察を進める。ヘーゲルは、すべての進歩は対立する矛盾を通じて実現されると考える。そして人間は、矛盾を次々と解決しながら、完全な統一体である絶対精神の実現に向けて進歩するというのである。
 弁証法は定立(テーゼ)、反定立(アンチテーゼ)、綜合(ジンテーゼ)という三つの段階で進む。定立というのは、ある観念や態度や文明や、歴史のうちの運動などである。この定立はそれだけでは不完全なものであり、遅かれ早かれ、これに対立した反定立が登場する。定立と反定立のどちらにも部分的な真理が含まれているので、この対立の結果、もっと高次の段階に、両方の真理を含む綜合が形成される。
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【Book】Fearn, Nicholas. 2001. Zeno and the tourtoise: How to think like a philosopher.

【Book】弁論術 PHTOPIKH

【本】アリストテレス.戸塚七郎訳.1992.『弁論術』.岩波書店.

じゃじゃん。今更ながら基本的な本登場。

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弁論術の定義と領域

それでは、弁論術とは、どんな問題でもそのそれぞれについて可能な説得の方法を見つけ出す能力である、としよう。なぜなら、このことは他のいかなる技術にも見られない仕事であるから。というのは、他の技術はどれも、その技術に属する固有の問題についてのみ教えたり説得したりできるのであるが(例えば、医術の場合なら健康的なものと病的なもの、幾何学の場合なら量に本来帰属すべき諸性質、算術なら数、についてそうであるし、その他の技術や知識についても同様である)、しかし弁論術は、言ってみれば、どんな問題が与えられても、それについての説得方法を見つけ出すことができるように思われるからである。それゆえ、われわれもまた、弁論術が技術としての機能を発揮する領域は或る特定の種類に限られているのではない、と主張するのである。
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弁論術の説得の三種

 だが、言論を通してわれわれの手で得られる説得には三つの種類がある。すなわち、一つは論者の人柄にかかっている説得であり、いま一つは聴き手のが或る状態に置かれることによるもの、そしてもう一つは、言論そのものにかかっているもので、言論が証明を与えている、もしくは与えているように見えることから生ずる説得である。

 ところで、(1)「人柄によって」というのは、論者を信頼に値する人物と判断させるように言論が語られる場合のことである。つまり、人柄の優れた人々に対しては、われわれは誰に対するよりもより多くの信を、より速やかに置くものなのである。このことは一般にどんな場合にも言えることであるが、とりわけ、確実性を欠いていて意見の分かれる可能性がある場合にはそうする。だが、この信頼も、言論の内容によって結果されるべきであって、論者はこれこれの人間である、と先入観を抱くことによって結果するのであってはならない。すなわち、弁論の技術を講ずる二、三の人々は、論者の人柄のよさは言論の説得性にとりなんの足しにもならないとして、これも弁論の技術に含めることはしていないが、事実は彼らの言うのとは違い、論者の人柄は最も強力と言っても良いほどの説得力を持っているのである。

 これに対し、(2)「聴き手を通して」というのは、言論に導かれて聴き手の心が或る感情を抱くようになる場合のことである。なぜなら、われわれは苦しんでいる時と悦んでいる時とでは、或いはまた好意的である時と憎しみを抱いている時とでは、同じ状態で判定を下すとは言えないからである。そして実にこのことが、われわれに言わせれば、今日の弁論技術書の著者たちが唯一の目標として研鑽に努めている点なのである。だがこれらの点に関しては、感情について述べる時に詳細に説明されることになろう。

 また、(3)「言論そのものによって」説得がなされるというのは、個々の問題に関する納得のゆく論に立って、そこから真なること、或いは真と見えることを証明する場合を言う。

【Book】APIΣTOTEΛOΓΣ, PHTOPIKH. Oxford University Press.

hasn't reach me, yet.














【Book】Aristotle. 2004. translated by Roberts, M. Rhys. Rhetoric. Kessinger Press.

A very classic work for debating.

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Rhetoric the counterpart of Dialectic. Both alike are concerned with such things as come, more or less, of both; for to a certain extent all men attempt to discuss statements and to maintain them, to defend themselves and to attack others.
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Ordinary people do this either at random or through practice and from acquired habit. Both ways being possible, the subject can plainly be handled systematically, for it is possible to inquire the reason why some speakers succeed through practice and others spontaneously; and every one will at once agree that such an inqujiry is the function of an art.
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Of the modes of persuasion furnished by the spoken word there are three kinds. The first kind depends on the personal character of the speaker; the second on putting the audience into certain frame of mind; the third on the proof, or apparent proof, provided by the words of the speech itself. Persuasion isachieved by the speaker's personal character when the speech is so spoken as to make us think him credible. We believe good men more fully and more readily than others: this is true generally whatever the question is, and absolutely true where exact certainty is impossible and opinions are divided. This kind of persuasion, like the others, should be achieved by what the speaker says, not by what people think of his character before he begins to speak. It is not true, as some writers assume in their treatises on rhetoric, that the personal goodness revealed by the speaker contributes notheing to his power of persuasion; on the contrary, his character may almost be called the most effective means of persuasion he possesses. Secondly, persuasion may come through the hearers, when the speech stirs their emotions. Our judgements when we are pleased and friendly are not the same as when we are pained and hostile. It is towards producing these effects, as we maintain, that present - day writers on rhetoric direct the whole of their efforts. This subject shall be treated in detail when we come to speak of the emotions. Thirdly, persuasion is effected through the speech itself when we have proved a truth or an apparent truth by means of the persuasive arguments suitable to the case in question.
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Monday, April 24, 2006

【Book】ことばの認知科学事典 A Companion to the Cognitive Science of Language

【本】辻幸夫.2001.『ことばの認知科学事典』.大修館書店.

認知言語学キーワード事典とはカバーしている範囲が微妙に違う。用途は同じ。

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ビアリストック(Bialystok: 1987a, 1987b)やガランスボスとハクタ(Glambos and Hakuta: 1988)によるとバイリンガルはモノリンガルよりも言語の認知的制御能力にある程度すぐれている可能性がある。いくつかの実験では,バイリンガルが文法の誤りや単語の意味理解の深さなどによりいっそう認知的能力の高さを示した。ただ,2言語の相互発達に好影響を及ぼすためには,それらの2言語がある程度発達している必要があるという事実も発見されている。コミュニケーションの際にバイリンガルの感受性がより強いことも発見されている(Genesee, Tucker and Lambert: 1975)。

【Book】TSUJI, Yukio. 2001. A Companion to the Cognitive Science of Language. Tokyo: Taishushokan.

The area this book covers is a little different from the one that "An Encyclopedic Dictionary of Cognitive Linguistics". Basic fanction is pretty same.

Sorry, haven't translated the quotation, yet.

【Book】言語と脳 Language and The Brain

【本】オブラー,ローレイン・ジュァロー,クリス.若林茂則監訳.2002.『言語と脳: 神経言語学入門』. 新曜社.

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 二言語使用者に関する最も寛容な定義はおそらく「ある一つの言語話者でその言語以外の言語を話せる人」というものであろう。この定義は二ヶ国語を両方とも同じくらい流暢に話せる人にぴったりであるが、第二言語もしくは外国語を一学期より短い期間だけ学習したことがあるような人も含んでしまう。(中略)より厳密な「二言語使用者」の定義には「二つの言語を母語話者なみに操る人」というものがあるが、もちろんこの場合は、学習初期段階にある学習者は除外される。また、第二言語で難なく理解することができる力はあるが、発話はできないという人も除外される。さらに、この定義では、流暢に話せるが「外国語なまり」がある人も、二言語使用者には含まれない。
 二言語使用者の定義におけるこういった二つの極端な形は、いずれも十分とは言えない。これはおそらく、どちらにおいても定義の判断基準を言語の操作能力の度合いに頼っているためである。より直感的に魅力的な「二言語使用」の定義では、最も重要な要因は、二つの言語を通常「使用していること」だと考える。(例: Francois Grosjean, 1982)
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【Book】Obler, Lorine K and Gjerlow, K. 1999. Language and the Brain. Cambridge: Cambridge University Press.

Sorry, haven't read in English, yet!!

【Book】関連性理論 Relevance

【本】スピルベル,ダン・ウィルソン,デイドル.1999.『関連性理論(第二版): 伝達と認知』.研究社.

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人間の認知過程は、可能な限り最小の労力で可能な限り最大の認知効果を達成するような仕組みになっているということを論じる。これを達成するために各個人は入手可能な最も関連性のあると思われる情報に注意を集中しなければならない。伝達するということは、ある個人の注意を喚起することである。よって、伝達される情報が関連性のあるものであるということを含意することになる。
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 談話の局面ごとに、聞き手は違った想定の集合に注意を集中させている。
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【Book】Serber, Dan and Wilson, Deirdre. 1995. Relevance: Communication and Cognition, Second Edition. MA: Blackwell Publishing.

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Human cognition process, we argue, are geared to achieving the greatest possible cognitive effect for the smallest possible processing effort. To achieve this, individuals must focus their attention on what seems to them to be the most relevant information available. To communicate is to claim an individual's attention: hence to communicate is to imply that the information communicated is relevant.
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【Book】ご臨終メディア Media in deathbed

【本】森達也・森巣博.2005. 『ご臨終メディア』.集英社.

まとまりがない対談形式のものだが、読みやすくはある。

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森巣: そこで、二人の主張の差異がどの辺りに存在しているのかと考えますと、森さんは、最終的には情動だということをおっしゃっている。私は、情というのは、いろんな条件づけによって変わりうるものであり、最終的には論理ではないかと考えている。

 結局、社会をまがりなりにも持ちこたえさせているのは、論理じゃなかろうか。論理がなくなりゃ、なんでもありの世界になって、力の強いものがやり放題の社会となる。
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森: つまり時事的な事実などこの世界に無限にあるわけで、今朝僕が混雑した山手線で、化粧の濃い気の強そうなキャリア・ウーマンの足を踏んでしまいにらまれたことは、間違いなく「時事的な事実」だけど、少なくとも伝達される側にとっては、何ら価値などない情報です。

 たとえば自衛隊派遣の問題とか、年金改正の問題とか、あるいはカードを使った新手の詐欺が横行しているなどの情報は、誰もが伝えられることに価値を見出す情報です。ところがたとえば、・・・・・・レッサーパンダが後ろ足で立ったとか、元アイドルタレントの誰かが二度目の離婚をしたとか、このレベルになると、情報の価値の判断は簡単ではありません。レッサーパンダなどはほんのトピックスのつmのりが、予想外に大きな反響があったので雪だるま式に膨れあがったケースだし、元アイドルタレントの離婚についていえば、知らない人にはまったく価値がないけれど、ファンにとっては金を払ってでも知りたい情報です。
 時事的な事実が内包する価値のボーダーライン領域における情報について、伝えるに足るかどうかの判断は、とても非論理的な基準で行われます。つまり情報の質を最終的に判断するのは客観的な論理ではなく、主観的な情動なのです。
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森: 文化や習慣全般は、ある意味で洗脳です。(後略)
森巣: 誰もが実は「洗脳」されているということが、ちっともわかっていない。教育というのは「洗脳」です。メディアも本質は「洗脳」なのに。
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森: ニュースは視聴者が視聴者が知りたいことを優先すると定義すれば、視聴率でニュースの項目を決めることは、正当なんです。でもその結果、タマちゃんがパレスチナ情勢より重要なニュースになってしまうわけで、報道機関としてのテレビの悩ましいところですね。

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森巣: 言語の壁で守られているのですよ。「石原は極右ではない」というごまかしもそう。本来の資本主義の論理からは逸脱している。これも戦後民主主義の成果です。一つは、ものを考えない人間の量産。もう一つは、外国語をしゃべれない人間の量産(笑)。
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森: でも同時に、なぜメディアが逮捕は大きく報じてもその不起訴を報じないかといえば、その情報に対してこの社会が欲情しないからです。
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森巣: 視聴者が欲しいものを、メディアは作っていく。でも、その視聴者が欲しいと思うものを作ったのは、実はメディアでしょう。
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【Book】MORI, Tatsuya and MORISU, Hiroshi. 2005. Gorinju Media [Media in deathbed]. Tokyo: Shueisha

Sorry, haven't translated into English yet!!

Friday, April 21, 2006

【Book】知性について Die Kunst, Recht zu behalten

【本】ショーペンハウエル,アーサー.細谷貞雄訳.1961. 『知性について 他四篇』.岩波書店.

ラテン語が多すぎる。でも丁寧に読むと、アホみたいに生真面目なところが結構ウケる。真面目すぎて途中で可哀想に思えます。 だって・・・暗い。

これまた和訳がまだ手元に届いていないので、引用は英語と原文である独語のみで。 「論理学と弁証法の余論」より。









【Book】Schopenhauer, Arthur. translated by Saunders, T. Bailey. 1896. The Art of Controversy. Whitefish: Kessinger Publishing.

Too much Latin in a book! But after reading through, found many parts that actually made me smirk. He sounds sooo serious. I even felt a bit sorry for him. It seems he was unhappy all the time.

Again, because the Japanese translation hasn't reached me yet and the quotations are only in English and German.
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BY the ancients, Logic and Dialectic were used as synonymous terms; although logizesthai, "to think over, to consider, to calculate," and dialegesthai, "to converse," are two very different things.
The name Dialectic was, as we are informed by Diogenes Laertius, first used by Plato; and in the Phaedrus, Sophist, Republic, bk. vii., and elsewhere, we find that by Dialectic he means the regular employment of the reason, and skill in the practice of it. Aristotle also uses the word in this sense; but, according to Laurentius Valla, he was the first to use Logic too in a similar way. Dialectic, therefore, seems to be an older word than Logic. Cicero and Quintilian use the words in the same general signification.
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Our innate vanity, which is particularly sensitive in reference to our intellectual powers, will not suffer us to allow that our first position was wrong and our adversary's right. The way out of this difficulty would be simply to take the trouble always to form a correct judgement. For this a man would have to think before he spoke. But, with most men, innate vanity is accompanied by loquacity and innate dishonesty. They speak before they think; and even though they may afterwards perceive that they are wrong, and that what they assert is false, they want it to seem the contrary. The interest in truth, which may be presumed to have been their only motive when they stated the proposition alleged to be true, now gives way to the interests of vanity: and so, for the sake of vanity, what is true must seem false, and what is false must seem true.


【Buch】 Schopenhauer, Arthur. 1658. Die Kunst, Recht zu behalten. Frankfurt: INSEL.

(Logik und Dialektik)

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Logik und Dialektik wurden schon von den Alten als Synnonyme gebraucht, obgleich λογιζεσθαι, überdenken, überlengen, berechnen, und διαλεγεσθαι, sich unterreen, zwei sehr verschiedene Dinge sind. Den Namen Dialektik (διαλεκτικη, διαλεκτικη πραγματεια, διαλεκτικος ανηρ) hat (wie Diogenes Laertius berichtet) Plato zuerst gebraucht: und wir finden, daß e rim Phädrus, Sophista, Republik Buch VII usw. den regelmäßigen Gebrauch der Vernunft, und das Geübstein in selbigem darunter versteht. Aristoteles braucht ταδιαλεκτικα im selben Sinne; er soll aber (nach Laurentius Valla) zuerst λογικη im selben Sinne gebraucht haben: wir finden bei ihm λογικας δυσχερειας, i.e. argutias, προτασιν λογικην, αποριαν λογικην. — Demnach wäre διαλεκτικη älter als λοφικη. Cicero und Quintilian brauchen in derselben allgemeinen Bedeutung Dialectica [und] Logica.

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Die angeborne Eitelkeit, die besonders hinsichtilich der Verstandeskräfte reizbar ist, will nicht haben, daß was wir zuerst aufgestellt, sich als falsch und das des Gegners als Recht ergebe. Hienach hätte nun zwar bloß jeder sich zu bemühen, night anders als richtig zu urteilen: wozu er erst denken und nachher sprechen müßte. Aber zur angebornen Eitelkeit gesellt sich bei den Meisten Geschwätzigkeit und angeborne Unredlichkeit. Sie redden, ehe sie gedacht haben, und wenn sie auch hinterher merken, daß ihre Behauptung falsch ist und sie Unrecht haben; so sol les doch scheinen, als wäre es umgekehrt. Das Interesse für die Wahrheit, welches wohl moistens bei Austellung des vermeintlich wahren Satzes das einzige Motiv gewesen, weicht jetzt ganz dem Interesse soll wahr scheinen.

【Book】ソクラテスの弁明 ΑΠΟΛΟΓΙΑ ΣΩΚΡΑΤΟΥΣ


【本】プラトン.田中美知太郎・藤澤令夫訳.2001.「ソクラテスの弁明」.『ソクラテスの弁明ほか』.中央公論社.

ロゴス至上主義っぽいソクラテスさんのお言葉。こんなに内容だけを吟味してくれ、表現は度外視してくれと頼んだのにやっぱり死刑になってしまったのですね・・・それを衆愚と言い切ってしまうプラトン氏はちょっと困るけど、哀しむ気持ちもわかるかな・・・

以下引用。但し原文の方はアクセント記号なし。打ち方が分からなかったから・・・スミマセン。

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και δη και νυν τοντο δεομαι δικαιον ως γε μοι δοκω, τον μεν τροπον τμς λεξεως εαν – ισως μεν γαρ χειρων, ισως δε βελτιων αν ειη – αντο δε τοντο σκοπειν και τοντω τον νουν προσεχειν, ει δικαια λεγω η μη. δικαοτου μεν γαρ αυτη, ρητοροσ δε ταληθη λεγειν.

以下、日本語訳。
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どうか、言葉づかいは、たぶん、下手な言い方をしているところがあるかもしれないし、まんざらでもないところもあるかもしれませんが、あっさり見すごしておいてください。そしてただ、わたしの言うことが正しいか否かということだけに注意を向けて、それをよく考えてみてください。なぜなら、そうするのが裁判をする人の立派さというものであり、真実を語るというのが弁論するものの立派さだからです。


【Book】Plato. 1995. ΑΠΟΛΟΓΙΑ ΣΩΚΡΑΤΟΥΣ. Platonis Opera, Tomus I. Oxford: Oxford University Press.

It seems Socrates logos is paramount. Although he beg the judges to consider only the contents of his speech not the manner, he was sentenced death. We can't perpetuate that it was due to mobocracy like Plato did. But can't stop feeling sympathetic to his indignation...

Well, this photo is not toumusI but III and the following is a quotation but without accent marks. Couldn't type them.

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και δη και νυν τοντο δεομαι δικαιον ως γε μοι δοκω, τον μεν τροπον τμς λεξεως εαν – ισως μεν γαρ χειρων, ισως δε βελτιων αν ειη – αντο δε τοντο σκοπειν και τοντω τον νουν προσεχειν, ει δικαια λεγω η μη. δικαοτου μεν γαρ αυτη, ρητοροσ δε ταληθη λεγειν.

English Translation from http://classics.mit.edu/Plato/apology.html
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Never mind the manner, which may or may not be good; but think only of the justice of my cause, and give heed to that: let the judge decide justly and the speaker speak truly.

【Book】人間悟性論 Human Understanding


【本】ロック,ジョン.加藤卯一郎訳.昭和15.『人間悟性論』.岩波書店.

「人間を理解すること」についての本じゃなくて、「人間の持つ理解能力について」の本。何、どっちも同じ?スミマセン。全4巻に及ぶ大著。英語の本はずばり624頁あるのだ。きっちり読んだのは3巻(言葉)と4巻(知識と意見)です。

しかし邦訳本が届いてみてビックリ!奥付が昭和15年ですよ。横書きタイトルが右から左に書いてあります。うひょー。古い!まあいっか、と開けてみて該当箇所を必死に探したのですが・・・ない。ないぞ。おかしいな、ないぞ。

で、判明しました。丁度ここの部分だけ削除して訳してるの!!!そんなのあり??(さてはラテン語が分からんかったな)しっかりしてくれ、加藤卯一郎さん!!

というわけで以下、稚拙ながら私自身で少しずつ訳していくことにします。

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4種の議論形態

この項目を終わりにする前に、ある4種の議論形態について吟味するのも一興だろう。この4種の議論形態とは、他者と論争する場合に、賛同の広まりや、相手を黙らせるとまではいかなくとも、少なくとも畏怖する気持ちを利用するものである。

恥じらいに関するもの

無知に関するもの

人柄に関するもの

判断に関するもの
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【Book】Locke, John. 1995. An Essay Concerning Human Understanding. NY: Prometheus Books.

This is not a book about "understanding human" but "ability of human to understand things". What? You don't distinguish them? ...okay... me neither. sorry! :p This is a very thick book with four books conbined and 624 pages in total. The parts I read through were BkIII(Words) and BkIV(Knowledge and Opinion).

Because the Japanese translation hasn't reach me yet, quotation is only in English.

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Four sorts of arguments.

Before we quit this subject, it may be worth our while a little to reflect on four sorts of arguments that men in their reasonings with others do ordinarily make use of to prevail on their assent; or, at least, so to awe them as to silence their opposition.

Ad verecundiam.
The first is, to allege the opinions of men whose parts, learning, eminency, power, or some other cause, has gained a name and settled their reputation in the common esteem with some kind of authority. When men are established in any kind of dignity, it is thought a breach of modesty for others to derogate any way from it, and question the authority of men who are in possession of it. This is apt to be censured as carrying with it too much of pride, when a man does not readily yield to the determination of approved authors, which is wont to be received with respect and submission by others, and it is looked upon as insolence for a man to set up and adhere to his own opinion against the current stream of antiquity, or to put it in the balance against that of some learned doctor, or otherwise approved writer. Whoever backs his tenets with such authorities thinks he ought thereby to carry the cause, and is ready to style it " impudence" in any one who shall stand out against them. This I think may be called argumentum ad verecundiam.

Ad ignorantiam.
Secondly, another way that men ordinarily use to drive others, and force them to submit their judgements and receive the opinion in debate, is to require the adversary to admit what they allege as a proof, or to assign a better. And this I call argumentum ad ignorantiam.

Ad hominem.
Thirdly, A third way is to press a man with consequences drawn from his own principles or concessions. This is already known under the name of argumentum ad hominem.

Ad judicium.
Fourthly, The fourth is the using of proofs drawn from any of the foundations of knowledge or probablility. This I call argumentum ad judicium. This alone of all the four brings true instruction with it, and advances us in our way to knowledge. For, (1.) It argues not another man's opinion to be right, because I, out of respect, or any other consideration but that of conviction, will not contradict him. (2.) It proves not another man to be in the right way, nor that I ought to take the same with him, because I know not a better. (3.) Nor does it follow that another man is in the right way because he has shown me that I am in the wrong. I may be modest, and therefore not oppose another man's persuasion; I may be ignorant, and not be able to produce a better; I may be in an error, and another may show me that I am so. This may dispose me perhaps for the reception of truth, but helps me not to it; that must come from proofs and arguments, and light arising from the nature of things themselves, and not from my shamefacedness, ignorance, or error.
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【Article】口のない兎 A rabbit without voice

【雑誌記事】堤富男.1981.「口のない兎の国・日本:日本の情報輸出を考える」.『通産ジャーナル』.Vol.14, No.4.pp.132-138

永井さんの比喩を転用したこのタイトルは、80年代に多くの知るところとなりました。

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 通商摩擦の原因が彼我の情報ギャップである――といわれてから久しいが、未だにこの点について大きな改善がみられない。
 アフリカの砂漠からアメリカのロッキー山脈の山の中までの世界の各地にラジオ、テレビ、自動車などの日本製品を売り続けてきた日本人は、はたして日本のことをどれだけ海外の人に話してきたのであろうか。
 答えは、誰の目にも否定的である。
 この原因としては”口は禍いの元””沈黙は金なり”という哲学に根ざす日本人の引っ込み思案の国民性や外国語を使用する機会の少なさからくるランゲージ・バリアー(言語障壁)が指摘されるのが通例である。
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 日本国民に対して、外国のニュースを要領よくまとめて提供している日本の新聞社も、日本関連ニュースを海外に送信することは、原則としてやっていない。また英字新聞についても後で詳述するが海外で直接販売されているのは少なく、まして外国の通信社や新聞社に生のニュースを売るのは、いずれにしても本務ではない。(中略)要するに、④および⑤の直接情報輸出のケースを除いては、いずれも在日の外国マス・メディアの支局・特派員が鍵をにぎっていることが理解されよう。(中略)ただ、このルートがわが国情報輸出のメイン・ルートであるべきか否かについては、議論の余地は多い。
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 日本人は、これまで国際社会を生き抜くために海外の情報をとることには大いに努力してきた結果、海外からの情報は、洪水のごとく流れ込んでいる。この点では、「耳の長い兎」であったのかもしれない。(中略)しかし、日本の商品が世界中に流れるようになった現在、情報をとるだけで自分の説明をしない国――口のない兎の国――では最早生きて行けないのではないか。(中略)「しゃべらざる、伝えられざる、理解されざる」の現代版”三ざる”を放置しておいたことが、今日、日本が貿易摩擦に悩む遠因ではなかったか。

【Article】TSUTSUMI, Tomio.1981.A Rabbit without Voice, Japan: Thinking about exporting information from Japan. MITI Journal. Vol.14, No.4.pp.132-138

Borrowing the metaphor that Nagai-san used, this title became widely known in 1980s.

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It has been long since they started saying that information gap between countries is the cause of trade friction. But we have not seen any significant progress on this matter yet.
Japanese people have been selling their products such as radios, televisions, cars and so on everywhere in the world, from a desert in Africa to Rocky Mountains in USA. But how much have they talked to people abroad about themselves?
The answer is obviously negative for anybody.
It is usually the case that they find an explanation in national character as shy one based on the philosophy represented by proverbs like "Silence is golden" and "Talkativeness brings troubles" and the language barrier due to the lack of opportunities to speak in foreign languages.
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Although Japanese newspapers efficiently summarise news coming from foreign news agencies for Japanese readers, they essentially don't send Japanese news to other countries. Few of their English-language newspapers (circulating inside Japan) are directly sold abroad and selling news directly to foreign news agencies or newspapers is not their job anyway. (L.O.) In short, it is not difficult to understand that except the direct information export through the route #4 or #5, foreign correspondents staying in Japan hold the key of information from Japan. (L.O.) But there are much room left to debate whether the route through foreign correspondents should be the main one for this country's information export.
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As a result of enormous efforts by Japanese to get information abroad for the survival in international society, information coming in is causing a flood nowadays. In this sense, Japan might has been a rabbit with long ears. (L.O.) But now, after Japanese commodities became to circulate all over the world, is it possible to survive remaining as a country that receive information but don't explain about itself; a rabbit without voice? (L.O.) "Can't speak, can't get across and can't be understood" is contemporary version of "three monkeys of can't see, can't hear, can't say". And we have neglected this situation. Isn't it why we now have to suffer for trade frictions?

Thursday, April 20, 2006

【Article】現代新聞の二つの顔 Two faces that contemporary newspapers show

【雑誌記事】永井道雄.1961.「現代新聞の二つの顔:イギリスの新聞の教えるもの」.『新聞研究』.Vol. 118.pp.7-11

Toseishaの由来である、”耳の長い兎だが、口が小さい”という比喩を言い出した永井さん。この61年の記事はイギリスの新聞の歴史背景とジャーナリズムについてまとめたものである。結論は以下の部分に集約されていると思う。

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 自由主義国の新聞は、法律ではなく読者の支持によって、自由と独立を確保するほかはない。そのかぎりでは、新聞の自由は、大学、裁判所、議会などがもつそれよりも、はるかにもろく弱いものであり、そこには商業主義への堕落の危険さえ含まれている。しかし、それだけに、新聞が真の言論の自由を確立するときには、それは読者の自発的意思にささえられる。

【Article】NAGAI, Michio.1961.Two faces that contemporary newspapers show: What British newspapers tell us. Newspaper Study. Vol. 118.pp.7-11

The origin of the name of this blog, Toseisha is a metaphor that Mr. Nagai first used, i.e. "Rabbit has long ears but small mouth". This article in 1961 briefly summarise backgrounds and the sprit of journalism of British newspaper industry. His conclusion is in the following paragraph, I suppose.

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Newspapers in liberal countries secure their freedom and independence based not on laws but support by their readers. In this sense, freedome of newspapers is much more fragile than academy, courts or parliament and it always faces the risk of tokenism. But that is precisely why we can say that if newspapers enjoy free speech in true sense, there is voluntary support by their readers.

今そこにある謎 A mystery lies over here

昨日の段階でまだRSSの設定が未解決・・・だと思って家路に着いたのですが。
今見るとちゃんと作動してるみたいですね・・・どういうこと?
まあ、とにかく良かったです。

amateurdebater様、助言本当にありがとうございました!!!
頂戴したリンクを延々辿って、やってみたけど上手くいかなかった・・・
と思ったら大逆転、上手くいっていたようです。amateurdebaterさんのおかげです。

さて、次なる問題。
私は読書感想文を一日に何個もアップするのです。
これは実は読んだ文献の検索を効率化するというのが主目的だったりします。

が。
これってMIXIみたいなSNSではどう表示されているのでしょうか?
「最新日記」欄が私のアホな本リストで埋め尽くされてしまったりしているのでしょうか?
(それとも一人につき一項目しか通知しないのでしょうか?)
もし私の日記がよそ様のリストを独占して汚染してしまう状態なら、
元の設定に戻したいと思います。

MIXIユーザの方で、一人の人が短時間に複数投稿した場合、
どのように表示されるのかご存知の方いらっしゃいましたら、
どうぞ教えてくださいませ!!!

Yesterday, when I went home, I thought the setting of RSS didn't do well.
But now it seems working... how come...?
Anyway, glad to know it's fine now.

Thank you very much for advises, Mr.amateurdebater!!
I tried the link you gave me yesterday and somehow thought that it didn't work...
but it seems I was wrong. It's all thank to you, amateurdebater-san!

Now, next problem.
I update my blog which is actually a pile of reviews as you see plural times per day.
This is actually to make it more efficient to track back the articles I read for my research.

But.
How is this displayed on SNS like MIXI?
Am I dominating the list of "latest blog" of others with my stupid list of books?
(Or it's showing only one post per person?)
If so, I hope to return the setting back to the original one so that I won't pollute others' pages.

If you know how it is displayed, will you please tell me??

Wednesday, April 19, 2006

【Book】開かれた社会とその敵 The Open Society and Its Enemies


【本】ポパー,カール.内田詔夫・小河原誠訳.1980.『開かれた社会とその敵 第一部』.未来社.

この本を読むと思う。開かれた社会というのは壮大な幻想なのだろうか。だって世界中必死に探しても本当に開かれた社会が見つからない。開かれた社会もまた、絵に描いた餅、ポパーの言う天国だろうか。

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以下では、呪術的ないし部族的ないし集団主義的な社会のことを閉ざされた社会とも呼び、また諸個人が個人的決定に直面する社会を開かれた社会とも呼ぶことにしよう。
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ソクラテスは自分の人格の高潔性を汚すことを拒んだ。プラトンは自分の非妥協的な画面消去の主張にもかかわらず、一歩進むごとに自分の高潔性を汚す道へと追い込まれた。彼は自由思想や心理の追求と戦うように強いられた。彼はうそつき、政治的奇蹟、タブーによる迷信、真理の抑圧、そして最後には残忍な暴力を擁護するよう追い込まれた。ソクラテスの人間嫌いと言論嫌いへの警告にもかかわらず、プラトンは人間不信と論証の恐れへと追い込まれた。彼自身が僭主制を憎んでいたにもかかわらず、僭主の助けを当てにし、最も専制的な手段をも擁護するように追い込まれた。彼の反人道的な目標のもつ内在的論理、権力の内在的論理によって、彼は知らず知らずのうちにかつて三〇人政治家たちが行き着いたのと同じ地点に追い込まれたのであり、後には彼の友人のディオンや他の数多い僭主である弟子たちも同じ地点に追い込まれたのである。彼は社会を押さえつけることには成功しなかった(はるか後の暗黒時代になってはじめて、プラトン-アリストテレス的本質主義の魔力によって、社会が押えつけられたのである)。その代わりに、彼は自分の呪文で自分自身をかつては憎んでいた権力に縛りつけることに成功したのである。
 こうして、われわれがプラトンから学ぶべき教訓は、彼がわれわれに教えようとするものとは正反対のものである。それは忘れてはならない教訓である。プラトンの社会学的診断は卓越していたが、彼の推奨した治療法は彼が戦おうとした悪よりも一層悪いことが彼自身の展開によって証明される。政治変化を阻止することは治療ではなく、幸福をもたらすことはできない。われわれは主張されているような閉ざされた社会での無垢と美に戻ることは決してできない。われわれの天国の夢を地上に実現することはできない。われわれが一旦自分の理性に頼り批判の力を使用し始めるならば、また一旦個人の責任の要求、およびそれとともに知識の進歩を助ける責任を感じるならば、われわれは部族の呪術への盲従の状態に帰することはできない。知恵の樹から食べた者には、天国は失われたのである。われわれが部族制の英雄的な時代に帰ろうとすればするほど、ますます確実に異端審問、秘密警察、ロマンチックに空想されたギャング行為に到着する。われわれは理性と心理の抑圧に始まって、人間的なものすべての最も野蛮で暴力的な破壊で終わらなければならない。調和のとれた自然状態への復帰などというものはありえない。もしわれわれが引き返すならば、われわれは道のり全部を行かなければならない――われわれは野獣に帰らなければならない。(中略)だが人間であり続けたいと望むならば、そのときには唯一の道、開かれた社会への道があるのみである。われわれは安全および自由の両者のための良い計画を立てるために、持ち合わせの理性を用いて、未知と不確実と不安定の中へ進み続けなければならない。
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【Book】 Popper, Karl Raimund. 1945. The Open Society and Its Enemies Volume1. NY: Routledge

I wonder. Is the open society another grandest castle in the air? No matter how hard we try to find it, we can't see it anywhere in the world. Is the open society also the heaven that Popper talks about...?

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In what follows, the magical or tribal or collectivist society will also be called the closed society, and the society in which individuals are confronted with personal decisions, the open society.
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Socrates had refused to compromise his personal integrity. Plato, with all his uncompromising canvas-cleaning, was led along a path on which he compromised his integrity with every step he took. He was forced to combat free thought, and the pursuit of truth. He was led to defend lying, political miracles, tabooistic superstition, the supression of truth, and ultimately, brutal violence. In spite of Socrates' warning against misanthropy and mislogy, he was led to distrust man and to fear argument. Inspite of his own hatred of tyranny, he was led to look to a tyrant for help, and to defend the most tyrannical measures. By the internal logic of his anti-humanitarian aim, the internal logic of power, he was led unawares to the same point to which once the Thirty had benn led, and at which, later his friend Dio arrived, and others among his numerous tyrant-disciples. He did not succeed in arresting social change. (Only much later, in the dark ages, was it arrested by the magic spell of the Platonic-Aristotelian essentialism.) Instead, he succeeded in binding himself, by his own spell, to powers which once he had hated.
The lesson which we thus should learn from Plato is the exact opposite of what he tries to teach us. It is a lesson which must not be forgotten. Excellent as Plato's sociological diagnosis was, his own development proves that the therapy he recommended is worse than the evil he tried to combat. Arresting political change is not the remedy; it cannot bring happiness. We can never return to the alleged innocence and beauty of the closed society. Our dream of heaven cannot be realized on earth. Once we begin to rely upon our reason, and to use our powers of ciriticism, once we feel the call of personal responsibilities, and with it, the responsibility of helping to advance knowledge, we cannot return to a state of implicit submission to tribal magic. The more we try to return to the heroic age of tribalism, the more surely do we arrive at the Inquisition, at the Secret Police, and at a romanticized gangsterism. Beginning with the suppression of reason and truth, we must end with the most brutal and violent destruction of all that is human. There is no return to a harmonious state of nature. If we turn back, then we must go the whole way --- we must return to the beasts. (L.O.) But if we wish to remain human, then there is only one way, the way into the open society. We must go on into the unknown, the uncertain and insecure, using what reason we may have to plan as well as we can for both security and freedom.