Tuesday, November 27, 2007

[Article] 思考のダイナミックな性質の解明へ向けて

1970年代以降の認知科学における思考研究のレビュー。
とてもよくまとめられているので参考にすることも多い。

スピーチ・コミュニケーション学と認知科学は1980年代に袂を別ったのかな…とか思ったり。それが現代にまた融合できそうな感じ?70年代の両者はあまりにゴルギアス的…?

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2節では、思考がその内容に依存しない形式的なルールに基づくという立場を取り上げる。しかしこの立場が実証的にも理論的にも支持されないことから、領域依存の知識を活用した過程として思考を捉えるアプローチが現れる。(中略)しかし、知識依存のアプローチだけでは我々人間の行う柔軟な思考をうまく説明できないことが明らかになり、1980年代中盤から知識の柔軟な利用や獲得を可能にするメカニズムの研究が現れる。(中略)さらに拡大、発展し、人間の思考のダイナミズムがより、詳細なレベルで明らかになってきたことを述べる。
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思考がルールに支配されているという見方はきわめて常識的なものである。さらに、このルールが形式的である、すなわち問題内容に依存しないのであれば、少数のルールにより数多くの問題に対処できるので大変に効率がよい。形式的なルールを問題に当てはめて、それを求められる形に変形するという考えは、Aristotle以来、論理学の前提になっている。(中略)1970年代あたりまでの認知的な思考研究もこの枠組を保持していた。多くの研究は三段論法や条件文推論などの演繹的推論を題材として、いかなる条件下で人間が論理的な推論を行うことができるのか、人間がおかしやすいエラーはどのようなものか、そのエラーはどのようなルールによるものなのかが研究の対象とされた。
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また認知科学のパイオニアであるNewellとSimonは、問題解決一般に適用可能な理論を提案した(Newell&Simon, 1972)。そのモデルとなるGPS(General Problem Solver)において鍵となるのは、手段-目標分析とサブゴールストラテジーである。手段目標分析は、現在の状態とゴールとの間の差を評価し、その差を最も減少させるオペレータを適用するというものである。また、サブゴールストラテジーは、適用しようとするオペレータが直接適用できない時、それが可能になるような状態をサブゴールとするというものである。問題が適切な形で与えられている限り、この二つは問題のないように依存しない汎用のルールであると考えられる。
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Sunday, November 18, 2007

愛すべき者達 The Lovable

はふう.
シーズン真っ盛り.

高校生たちは全国大会にむけてスパートしてるし,
大学生たちは世界大会に向けて練習中だし,
社会人たちは忘年会に向けて余念がないし(って,おい).

色々な世代・専門・熟練度の人々の試合を日替わりメニューのように見ている中で,
私にとって「愛すべきスピーチ」とは何か,改めて考えさせられます.

ユーモラスなスピーチ?
真っ正直にガチンコにかみ合ったスピーチ?
華麗で秀逸な修飾に溢れたエレガントなスピーチ?
皆さんにとってはどんなでしょう?

私の答えは随分前から決まっているのですが,
その言葉を私に教えたコーチの性格のためか,
口にするのが躊躇うような代物でして・・・
なんでもっとマシな表現を教えてくれなかったものか,
何とか上品に同じことを同じインパクトをもって伝えられないものかと
模索している次第です(笑)
困ったことにオリジナルが相当言い得て妙な言葉なので対抗馬が見つかりません.

まあ,その・・・・・・・・・・コーチの表現を借りると・・・・・・
「インテレクチュアル・オーガズムをくれるスピーチ」ということになります.
(あーあ,書いちゃった.何か大きな越えてはならない壁を越えたような気がします)
(ちなみにこの表現はTではなくてPコーチのものです.いかにもでしょ?)

でも実際あるんですよね,
頭の芯がジーンとするような,
「あぁーーーーーー,そうだったのかぁーーーー」
と得心する瞬間って.
しかもその後その感動の余韻が長く続いたりして.
で,確かにそういう瞬間を求めて懲りずに足を運んでいるような気がします.

ハラハラ息をつめるような巧みで気迫のこもった鍔迫り合いも楽しいし,
ダイナミックなどんでん返しが続くガチンコ対決にも血が沸くわけですが,
「あぁーーーーー,そうだったのかぁーーーー」は身も心も蕩ける感じ.
そのアーギュメントに恋してしまいますね(笑)
そういうアーギュメントを自分に複数回聴かせてくれた選手のことは,
生涯嫌うことが出来なさそうな気さえしますし,
多少次のディベートが下手でもまた足を運んで聴きに行こうと思わされます.

ここ最近やたらと「勝つこと」に拘ったスピーチを聞き続けて,
ちょっと心配になりました.
あの「ジーン」をちゃんと皆経験できてるのかな・・・
あの恍惚感を知らずにトロフィーのためにディベートしてるなら勿体無い気がします.
(ってこの台詞怪しげな愛の伝道師みたい・・・)
コーチや教員側の方が,良質な議論を味わう恍惚感の存在自体知らなかったり,自身経験なかったり,学生に伝えようとしてなかったりするように見えると・・・「勝つことが全て」的な応援をしていると・・・すごーーーーく,不安になってしまいます.

確かに聴衆に恍惚感まで抱かせるようなアーギュメントというのは
そう頻繁にお目にかかるものではありません.

まず,幾ら目新しくて感心するような議論でも,
そのディベートでイレレバントなら恍惚感は得られません.
つまりちゃんとクラッシュ(crashやcrushではなくclash)していることが前提になります・・・
clashしてないとcrushしようがない,みたいな・・・(笑)
なのに,そもそも上手くclashしてる試合自体なかなかお目にかかれなかったりします.
なのでクラッシュが期待できない大会を審査するのは本当に辛いです.
10中8,9駄目だろうと思いながら1時間ジッと聴かなきゃいけないわけですから・・・
(これがそもそも論題がclashしようがないようなものだと怒り心頭です.
これじゃ出るホームランも出ないじゃん!!!みたいな・・・)

clashの仕方はTが散々教えてくれているわけですから,もう今更でしょう.
教わっても実行に移せない私達が情けないだけ.

ではcrushは・・・あの「ジーン」はどうやって出来ているのか.
私としては,「試合の中の重要な局面において,以下のどれかが高い妥当性をもって提示された場合」ではないかと思います.(以下の「新しい」は「聴衆がそれまで知らなかった」の意)

1. 新しい情報/事象
2. 事象の新しい解釈
3. 事象同士の新しい関係性(因果関係とか類似性とか・・・)
4. 旧知だが忘れていた1-3の再発見

で,番号が大きくなるほど,「ジーン」とする割合が大きいような気がします.
これを聴かせて貰えると百万回見たことある論題でも「今日来て良かった!!!」と心でガッツポーズです.

何とかこれが3回に1回くらいできる「ヒット・メーカ」になりたい!!
聴衆をあの知的な恍惚感で酔わせるようなスピーカになりたい!
聴衆に「今日来て良かった!」と思ってもらいたい!!

・・・わけですが,これはホント相当な精進がないと難しいように思います.
・・・それでもたまにそういう人がいるから辞められないんですよねー・・・はふう.

自分のスピーチが小器用になっていくとき・・・
思い出したい情熱です・・・

浅田真央ちゃんがパリのショートプログラムで,
1位になったにもかかわらず,ミスをしたことで悔し泣きしていました.
あの気持ちが分かる気がしました.
勝つことよりも,観客を魅せることに成功するほうが,達成感が大きいように思います.

でもその情熱が過ぎるとはた迷惑なスピーカになってしまうことも・・・
いわゆる・・・紙一重っていうんですか・・・?頓珍漢っていうか・・・?
躍動感と恍惚感と精密さへの驚嘆を観衆から引き出すには
不可能なほどの完璧さと大胆さが同時に求められます.
それを狙うばかりに分に過ぎた賭けをしてしまう場合もあります.
私はこの失敗がとっても多い.(最近少し良くなりましたけど)
そしてこの手の失敗は傍目には相当イタイ・・・
いつぞや書いたとおり,私はどこまでもキャンデローロ型なんですよね・・・
自戒しておかねば・・・

Tuesday, November 13, 2007

トード島の騒動 Sick Puppy

2002年の世界大会決勝戦.
私にはいつまで経っても分からない一文が.

Debating is really a "Sick Puppy", isn't it?

というものなんです.
ちなみにDLOの冒頭の台詞です.

他にもangry young manというフレーズが頻繁に使われたりしていて,
そういう言い回しに凝るタイプのスピーカだということは良く分かるのですが・・・

で,ですね・・・どうやら2000年に出版されたアメリカの小説,Sick Puppyから来てるのではないかと思いました.邦訳は『トード島の騒動』.しかしこのフレーズが英語圏のコンテクストで何を意味するのかがなかなか分からないんです.せめて邦題が原題に基づいてれば想像できるのに・・・小説のあらすじを読んでみても<病気の子犬>が何を表すのか全然分かりません.

聴衆の中には洒落た言い回しに惹かれた人も多いのかもしれませんが,書き起こし作業に四苦八苦させられる私としては本当にありがたくないことです.ああ,また一冊読まなきゃいけないのだろうか・・・(Catch22も同じような経緯で読んだ私です)

日本人なら「世界の中心で愛を叫ぶ」とか「三丁目の夕日」とか「踊る大捜査線」とかいった有名どころを多少パロディされても出典がすぐわかるもの.同じように英語圏にも似たような時代の「常識」があります.しかしこれはその特定言語権に住んでいないとキツイ.日本で売れてる芸人の名前さえ分からない私にどうやってアメリカの流行を熟知しろと?

ホント,百万回言ってるような気もしますが,言葉の壁の大きな部分はメディアの壁だと思う私です・・・

誰かSick Puppyの端的な意味が分かる方いらっしゃいましたら,是非是非教えてくださいませ.

Friday, November 09, 2007

迷惑メールお詫び Apologies for the spam mail

・・・私のアカウントからShelfariなるサイトのお知らせが来た,という方・・・

ごめんなさい!!!!

ある友人からのメールを開けたらWebが立ち上がりまして・・・
丁度動画処理中だったためかPCがフリーズしまして・・・
あれぇ?とか言って適当にマウスを動かしていたら
そこにあったボタンを押してしまったようなんです.

したらGmail上のアドレス全てに問答無用でInvitationを送りまくっているらしく・・・

本当にごめんなさい!!
(ていうか研究室や世界大会のMLにまで流れまくって大大大迷惑です・・・(涙))

しかも一度で終わりだと思ったら,どういうわけか再び同じく全てのアドレスに一斉インビテ送信されているらしいのです・・・もう・・・なんなの・・・・・・助けて・・・・・・

調べてみたところ,割と名のあるサービスらしいのですが,
それにしては異様なほど悪質サイト的・・・・・・

対策として,出来てしまったらしいアカウントを削除,
あーんど,FAQにある「私に送らないで」サイトにアドレスを入れてみました.

この状態で2日様子を見て,3回目が送られてしまった場合には
専門の方に相談することに致します.

とりあえずそういうわけですので,大変恐縮ですが,
私からの件のメールは無視・削除して下さい!!!

迷惑かけてごめんなさい!!!!!!!

Thursday, October 18, 2007

桃色吐息 make me sigh in pink delight

先日テレビで「日本の女性は歳をとるのが上手ですよね」
と言っている人がいて,ちょっとなるほどなぁー,と思いました.
確かに海外は皺が深くて必要以上に老けて見える女性が多い気がします.
湿度が違うからかしら?日本は『温暖湿潤気候』と習ったかも.
けど夏は温暖ていうより亜熱帯だし,冬は湿度も足りないですよね・・・
日本よりずっと『温暖湿潤』な感じのする熱帯の人達も早く老けるみたいですしね.
やっぱり経済力と努力の問題かしら・・・?

母が高橋真理子が好きで,最近放映された特集番組を食事中に流しておりまして・・・
で,代表曲『桃色吐息』を歌っているところをぼへーっと見ながら食べていたんです.
バックに流れるペドロ・アンド・カプリシャス時代の映像と今の映像を見比べながら,
若いときの髪型の方が似合ってたかなぁ・・・とか漠然と思いました.
が,直後に大体中間的な歳の時の映像が混じってびっくり!!全然違うじゃん!
いやはや,今の少し日に焼けた肌と明るい髪色の組み合わせの方がずっと良いわ!
そっか,ペドロ時代のファッションは加齢に向かなかったのか・・・うーん勉強になりました.

ところで,「桃色吐息」の英語版が「make me sigh in pink delight」だって知ってました!?
なんかぜーーーんぜん雰囲気ていうか意味ちがくありません??
勝手に溜息吐いてるんじゃなくて吐かせてる人がいるんだ??

で,思い出したのが・・・
「なんで恋愛がうまくいってる時は仕事が手につかなくて,
うまくいってない時は仕事がはかどるんだろう」って台詞.

あはははは.確かにね.
さしずめ,うまくいってる時のぼへーっとしてる感じが桃色吐息か.
じゃあ確かに犯人がいるわなぁ(笑)

真面目な時と「ゆるモード」の時の落差が激しいと言われる私は
自他とも認めるハイパー・ツンデレさんなんですが,
「ゆるモード」と「桃色吐息ぼへー」は違うものだなぁと思います.
でも「ゆるモード」の快適さに勝るものは少ない・・・
えてして「桃色吐息モード」はストレスも多く仕事もはかどらない・・・それは困る・・・
うーん・・・・・・って馬鹿なこと悩んでないでさっさと今週の分書かな・・・

そう言えば最近,…

ここから後の部分3パラグラフほど,期間限定表示でした.
うふふ.読んだぞーっていう方,お留め置きくださいませネ☆

Wednesday, October 17, 2007

When sophists were not sophistry...

日本語版がつけられませんでした・・・
この語感は出しにくいですよね・・・

先日,「ディベータは畢竟ソフィスト」と自虐ネタが会話に上りました.
最近このネタに過敏になっている私.ぐずぐず考えています.
で,田中美知太郎の『ソフィスト』を読み返しています.

スポーツとかだとよく「心・技・体」って言いますよね.
ディベートならさしずめ「心・舌・脳」ってとこでしょうか・・・
ソクラテス(プラトン)による舌と脳の分離よりも,
舌と心,脳と心の関係の方が長い葛藤の歴史を持っているようです.

そしてこれまで何度も何度もここにも書いてきたように,
頭良いヤツが良いヤツとは限らないし,
強いディベータが良い人とも全然限らないんですよね・・・
なんでこんなヤツがって思うような酷薄なヤツが勝ったりするんです.
「優しくなるためにディベートするんだ」がモットーの私ですが,
「学べば優しくなれるわけでない」のも
「トップ・ディベータが優しいやつとは限らない」ことも分かっているつもりです.

田中さんはGorgiasとProtagorasの違いについてかなり頁を割いて言及しているんですが,要はこの舌を鍛えれば脳や心も鍛えられると考えた節のあるProtagorasと舌だけ分離していた節のあるGorgiasって感じでしょうか.

ここら辺を読んでいると,自分自身がぐーらぐら揺らぐのを感じます.
所詮舌のみ,と割り切っていたGorgiasに潔さを感じたり,
Protagorasの夢見がちな想いに引きずられたり・・・

けどやっぱり私はProtagorasの方が近いのかなぁ・・・
つまりは地に足のつけず大風呂敷広げる詐欺師ってとこかぁ・・・
結局cleverな人がゲームに勝つのを黙って見てるしかないなんて情けないですね.

それでも私は大仰で技巧に凝ったGorgias的表現より,
シンプルさに徹しきったProtagorasの方が好きです.
そういうとこ,福沢諭吉の平易な言い回し志向に近いのかもしれません.
考える楽しさを知的挑戦の幸せを,一人でも多くの人と共有出来た方が良いに決まってる.

大学でディベート始めた時,たかが18や19なのに,
スーツ着込んで大学のバッジを胸につけて,
いかにも「背負ってます」って顔でディベートするコミュニティが本当に嫌だった.
大学毎に閥を作って帰属意識を煽る人たちの気持ちが全然分からなかった.
議論することにそんなにがちがちに構えてしまっていては,
本当の意味で議論を身近に大切にする文化が根付かないだろうと思いました.
今でもジーンズにTシャツで気取りなくディベートする方が気持ちよいと感じます.

そういうところ,ヒッピーなNDTのコーチ陣を思い出したりもします。
彼らの純真なリベラルさに心が洗われるような気がすることがあります.
先日某大会に学生さんたちがかかりきりだった時,
丁度全米ディベート協会の元会長が来日中で私ご案内役をしていました.
この先生がまたすっごく心根の綺麗なリベラルなんですよね・・・
ホントああいう方があの年齢でいるってことに救いを感じます.

今回読み返していて一番心に残ったのは,demagogos(デマゴーグ)とtheatrokratia(劇場政治)の部分です.シュラクサイへの遠征をアテナイがどういう経緯で決めたかというところです.この下りはファシズムや日本の戦前戦中を彷彿とさせます.思うに雄弁者を詭弁家と警戒する心が社会に蔓延するのは,過った戦争の後,というのが定番なのかもしれません.詭弁に踊らされないよう真の雄弁者を育てようと決意できなかった弱さの歴史でもあるように思います.デマゴーグとならない,心の洗濯をしてくれるような人達がマイノリティでい続けた歴史です.

"Man is the measure of all things"と言ったのはProtagoras.
自分の研究とあいまってちょっとジーン・・・と来てしまう言葉です.
この言葉が冒頭を飾る彼の著書の名は『真理』.
なんて美しい言葉の連環かと不思議に思うほどです.
まだProtagorasのように夢をみていたい・・・
「知らないで論ずるのではなく,できるだけ何でも知って,何でも論じよう」
とする心は,やはり美しいように,私はまだ思っています.

・・・というわけで勉強勉強!

Monday, October 15, 2007

夢の遠慮 restraint in a dream

気管支炎をひきまして・・・
各方面に多大なご迷惑をおかけいたしました・・・ゴホゴホ
まだ本調子ではありませんが,明日から復帰する予定です.
薬が効いて助かりました.熱は下がりました.

薬で眠っているときに沢山夢を見たんですが,結構リリカルなのもありました.

中学のときから好きな絵が一枚ありまして・・・で,気がついたらその絵に流れている川のほとりにいた・・・と.ね,リリカルでしょ?(笑)ここで誰かにばったりーとかだともう♪I know you, I walked with you once apon a dream...の世界でしょ!(笑)(分からない方に解説しますと,ディズニーの『眠れる森の美女』のテーマソングです.とーぜんyouは王子様なわけですが,何故か王子よりその馬の方がキャラが立ってるんですよね(笑)誰だああいいう設定にしたのは…)

会うには会ったんですけどね.
しかも憧れの君に・・・かの川のほとりで・・・
しかしそれが・・・その・・・イソクラテスでした.
(真面目に,どうよ,自分.なんでそこで哲人(?)よ.)
しかも・・・自分はイソクラテスの妹でした.なんて微妙なポジショニング!
自分自身がイソクラテス役ではなく,恋人とかライバルとかではなく妹・・・
何か微妙に遠慮した配置でスタートです.

しかしそこからの展開がもうめくるめく面白かったんだわー!!!
どうやら私は相当笑かす脳内脚本家を飼っているようです.

ちなみに兄の友人役でアンティポンという名が出てきたので,
どうやら自分で夢だと分かっていた模様です.

笑かすネタの一つで,「実は自分が『両論』の著者だった!」というのがある(笑)のですが,トドメが「しかも元ネタがPros & Consだった!」という・・・あははははははは.どっちが先よ!しかも盗作!あはははは.遠慮するにしてもなんて微妙な遠慮の仕方・・・

はた.

このブログ読んでも自分以外には意味がすっごく不明なのでは・・・(というか自分にも不明)
夢で遠慮するくせに現実の世界で遠慮が足りない・・・私らしさを直さないとです・・・

Saturday, October 06, 2007

[Book] 現代日本の開化 Civilization of Modern Japan

[本] 夏目漱石.1911. 『現代日本の開化』.和歌山市での講演.

高校三年生の現代国語の授業で扱った作品.
最近思い出すことが多いのだけど,その部位を忘れてしまうのでここにメモ.
つい先ほど書いた『言論と日本人』の最後の引用と関係深し.

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この圧迫によって吾人はやむを得ず不自然な発展を余儀なくされるのであるから,今の日本の開化は地道にのそりのそり歩くのでなくって,やっと気合いをかけてはぴょいぴょいと飛んで行くのである.(中略)あたかも天狗にさらわれた男のように無我夢中で飛び付いていくのです.(中略)これを一言にしていえば,現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるということに帰着するのである.
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[Book] NATSUME, Souseki. 1911. Civilization of Modern Japan. (a lecture in Wakayama city)

[Book] 言論と日本人 Speech and Japanese

[本] 芳賀綏.1999.『言論と日本人: 歴史を創った話し手たち』.講談社. (1985年に三省堂刊行の『言論100年 日本人はこう話した』を底本としている) 最近読んだ本のアップを怠っていたので色々たまってしまっていますが,とりあえずここから. 感想は・・・「面白かった!!!」「後半,現代に近づくとともに笑えなくなった」「ディベートについては著者は不勉強かもしれないと思う」てなところでしょうか. 四つ目の引用(ヤジに関する部分)に大爆笑しました.あはははははは.ちなみに「hear, hear」は今に通じるけど,「shame」にあたるのは「ノウノウ」だったという記述も.もう有り得ないほど笑いました. 最後から二番目の引用は,底本が1985年に書かれたということを思い出す部分.しかしNAFAの設立は1983年だし,朝日討論会だけに言及しているところがちょっと寂しい.ちゃんとリサーチしたのかなぁ・・・と,そう思ってしまうと他の部分もやっぱり話半分に評価してしまう私です.ディベートについて本を書いている人の殆どが,ディベートコミュニティの出身者じゃない・・・ように思えてちょっと反感も抱きます. あと結構気になるのは,最後の引用.この人は典型的な『脳と舌を分離』したレトリック観の持ち主のよう.けど,「ロゴス」は「言葉」を意味したと言う人もいるくらいで,本来のレトリックはロゴスをも含んでいた筈ではないか,と思います.イソクラテスやプロタゴラス関連で前にも書きましたが,本来「よく話すこと」と「よく考えること」は同一に扱われてきたきらいがあります.私も脳と舌はつながっていると考える側です.少なくともアリストテレスの『弁論術(レトリカ)』にはロゴスが内包されているわけで,この方のような語の用法は誤解の元ではないかと思います. ------------------------------------------ 近代の夜明けとともに日本社会にも「言論」が登場した. 夜明けを導いた先覚者の一人,福沢諭吉は,新たな国づくりのために”演説”をしようと呼びかけた.それは「音声言語による公的コミュニケーションのすすめ」であり,文筆によるのと並んで,肉声で語る言論活動をすすめたものだった. ------------------------------------------ 言論の自由が謳歌される現代日本は,しかし,言論に迫力なく話法に格調なき社会である. ------------------------------------------ なるほど”演説”など見たことも聞いたこともなかった明治の民衆が,それに刺激されて巻き起こした興奮状態は想像に難くない.しかも,かれらは聞くための訓練など出来ておらず,そこへもってきて”演説使い”たちの話が難しいとあっては,内容の理解などおぼつかないものだった. ------------------------------------------ やや時期がおくれて明治二十二年十月,新潟県中蒲原郡酒屋村で行われた改進党の演説会に際しては,ビラに,「傍聴諸君のヒヤヒヤの程偏に奉希候」と書き添えられたほどで,「ヒヤヒヤ!」などの景気づけのための動員は,むかしから行われていたことがわかる.(中略)当時はヤジ要員も水準が低かったから,演説を聞いていても内容が理解できず,どこでヤジっていいかわからないことさえあった.(中略)このように,「ノウノウ」や「ヒヤヒヤ」は,一種の流行であった.(中略)政談演説会ならともかく,地方議会の傍聴人までが「ノウノウ」や「ヒヤヒヤ」をやってみたがって,議場をさわがせる事態が生まれてきた.(中略)聞き手としての修練を積む機会のなかった人々を相手に,内容・表現ともに難解な演説をぶちまくっても,知的理解を得ることはむずかしく,いきおい,情動的な反応ばかりが強く出てくることになったのだろう.(中略)福沢は,講釈師や落語家の話し方に学べと言い,軽妙洒脱なスタイルで演説せよとおしえたが,そこまでわかった先覚者は少なかったのではなかろうか. ------------------------------------------ 戦後日本で,にわかに評価の高まったものは”言論”であり,きびしく排斥されたものは”暴力”である.しかし,言論の権利は定着したが,内容・表現をあわせて言論の質は高まらなかった. ------------------------------------------ 当時(masa注: 昭和四十年代か?)モーニングショー形式の視聴者参加番組の成功に味をしめていたテレビ局は,今度は若い視聴者をあつめた討論番組を好んで企画したが,どぎつい言い合い・怒号を売り物にしようとする意図もあり,論理は無視して刺激の強さを第一とする奇形討論の風を茶の間に送り込んだ.後に,その傾向は,「朝まで生テレビ」という識者・ジャーナリストらの討論番組の中の,かなりの出演者に受け継がれ,呼び声の高まってきた「ディベート」については反面教師の役を演ずる番組にさえなった. ------------------------------------------ 戦後早々から朝日新聞社は「朝日討論会」を催し,地方予選から全国大会にかけて学生(三人で一チーム)同士の討論の場を広く提供した.参加者は,政治・外交・経済から文化・風俗にわたる多様なテーマについて立場を明確にしなければならず,知的内容を磨き討論技術を競う試練の場であった.が,いつしか学生たちの討論のエネルギーがおとろえたのか,「ディベートの時代」のかけ声にもかかわらず,催しが廃止されてすでに久しい. ------------------------------------------ 「言論の自由」が謳歌される時代に,かえって言論が内容(ロジック)・表現(レトリック)共に貧困化し衰退したのは皮肉と言うだけではすまない現象だが,もう一つ,日本人にはまだ真の言論の自由の精神が定着していない.この事態も深刻である.(中略)いま二十一世紀の入り口に立って,「自立」の精神に裏打ちされた自己表現を福沢がすすめた初心に立ち返り,明快なロジック(考え方)と洗練された日本語のレトリック(語り方)による言論を闊達に開花させることこそ,新しい世紀に求められるべき人間回復-ルネサンスのために不可欠の営みである. ------------------------------------------ [Book] HAGA, Yasushi. 1999. Speech and Japanese. Tokyo: Kodansha.

Friday, September 28, 2007

イソクラテスに恋して In love with Isocrates

かーーーーーー,かっこいい!!!!!!

彼の反戦スピーチ「平和について」(On Peace)の熱さにもーメロメロです.そして彼の議論における倫理観にもうヘロヘロです.かっこよすぎでしょう!!!!!

ああ,ついうっかり読み返してしまってジーン・・・だめだ・・・抜けられないぃ・・・

昨晩からL氏と「ディベート聖人」というお馬鹿なネタで盛り上がった(?)のですが,私的には聖人になって欲しい人第一位がイソクラテスですね.プラトンと対立しきりだったというイソクラテス.ソクラテスの死に異様なほど嘆き悲しんだというイソクラテス.「ソクラテスの弁明」を後世に伝えてくれたプラトンには恩義は感じるものの・・・それでもやっぱ私はプラトンよりイソクラテスが好き!!!

なんだって彼は日本で(海外でも?)こんなにマイナなんですかね.何故?どうして?メチャメチャかっこいいーーーーのにいいいいいいいいい.どうして学校はプラトンやアリストテレスを教えてイソクラテスは教えんのじゃーー.理不尽だーーーー(?)

ちなみに声が小さく度胸もなく,ゆえに自分でスピーチすることはなくひたすらスピーチ・ライターを務めたというイソクラテス.イマイチ自分のカリスマ性を信じられない人だったらしい.けどまあ確かにそういうのって向き不向きありますからね.カリスマを悪用する人よりよほど良いかもしれない.でも世の中似非でもカリスマがモテるもの.幸せな人生送れたのか気になるところです.

ソクラテスは恐妻家だったとか.彼の外見ははっきりきっぱり「ぶ男」とあちこちに書かれ,妻に怒られても折檻されても凝りもせず仕事もせずしゃべくっていたのだとか.

はて,イソクラテスはどんな外見だったのでしょうね.とりあえずソクラテスほど明確に容姿に問題があったとは書かれていないわけなんですが・・・

ぶ男でも頓着せず「おんもでゴー」.最後の裁判でも堂々たるスピーチをかましたソクラテス.
そこまで壊滅的ではなかったのに自信が持てず生涯裏方に徹しカリカリ書いてたイソクラテス.

なんとなくお日様のもとで明るいヘチャムクレ的ソクラテスに対し
イソクラテスは陰鬱な青白いもやしっ子な感じ・・・を思い浮かべますけど・・・
陰鬱なオドオド君にはたしてこんな文章が書けるものなのか・・・
なんだか全然イメージが収斂しません.
プラトンの『パイドロス』ではソクラテスに絶賛されてますしね.
崇高なとか高貴なという言葉で評されるイソクラテスはオドオド君的印象とは遠いです.

第一彼の書くスピーチは・・・威風堂々かっこいいいよおおおおおおおおお.

詳しい引用は過去ログ↓参照どうぞ!もうしびれちゃうから!!
http://toseisha.blogspot.com/2006/06/book-1isocrate-discours.html

それはともあれ,私のこういうフェチはそろそろどうにかしないとね・・・

Friday, September 21, 2007

語感 Word Texture

次の予定まで中途半端に手が空いたので,書いてしまおうかなぁ,と思います.

総裁選候補者討論の進行の仕方が米国のに近くなっていてちょっと面白く思いました.比較的質問もストレートだし,返答のほうも安倍さんみたいに暖簾に腕押しまくり気分を味わわず済みました.ただ質問が片方の候補しか答えようのないようなものが続くのは避けて欲しい気がしました.

途中,「世論調査の結果,麻生さんは女性に支持者が少ないようですが,何故だと思われますか」という質問を受けた麻生氏.「いやぁ.モテないってことですかね.そんなの私に聞かれても分かりませんよ」という返事.

・・・それはちょっとビミョー.

私生活の色っぽい話で「モテるモテない」と「政策が女性に評価されるされない」はぜーんぜん違わない??それをまるで同じことみたいにさぁ.女はセックスアピールで政治家選んでるとでも言うのか,ばかやろーーぉ.

なんていうか,「男女共同参画関連のマニフェストを精査したいと思います」とかさぁ,「女性の方に不評な政策をヒアリングして改善したいと思います」とかさぁ,言いようあるでしょ,他に.ていうか70過ぎと60過ぎの爺様たちにモテ度調査だと思われる有権者の清き一票って何なのよ.

ま,それはおいて置いて...

「思想は言葉に宿るから」と書いてくれたのはmasashi氏でしたよね.うん,良い表現ですね.ホント,言葉には心が乗りますよね.外国語だと難しいのは,乗せる心と乗り物が合っているのか確証もてないところってありますよね・・・

漱石の「現代日本の開花」って高校で読まされた時,たしか,天狗のように飛び跳ねている日本はそのツケをいつか払わされるのだろう,みたいな部分があって,ピンとこなかったのを覚えています.最近少し分かるような気がしてきます.

さて,

先日のJPDUTの論題について,他の方の書いていることもささーっとあちこち読ませて頂きました.具体的にはAsh君,ひさま,manoloさんあたりです.割と共通している部分もあり,個人差の多い部分もありだったようですね.あと山に入った後の論題リストも見ました.

んー,で,結局,一番問題に感じたのはR5のWTOかなぁ・・・
safe(ty)の独特の語感が,日本語と英語で違うのではないかな.

私語源関係はあまり詳しくないのですが,safeとsaveって多分関係の深い語ですよね.
safeにはsaveの語感が付きまとっている気がします.safety-netもsafeguardも,零れたものを掬い上げるイメージがあると思います.アスレチックで高い棒をつたう時に,万が一落ちても最低限の安全が確保されるように下に網が張ってあったりするの,ああいうの,セーフな感じですよね.

このセーフは自由と切り離せない関係にあると思います.

基本的にアスレチックではスリルと冒険を自由にめいっぱい体験することが良しとされます.経済でも極力自由な挑戦・競争が良しとされます.消費社会も基本的には消費者自身の自由な選択に任せるのが良しとされます.

ただ,その自由な選択が,選択した本人を大きく傷つける場合があり,極端な場合には救済措置(safety-net/safeguard)が必要になります.破産手続きや米国産牛肉が輸入制限されたり,EUが遺伝子組み換え食品を拒否したり,フランスや韓国,中国が外国映画の輸入を規制したりするのは,基本的にこうした考えに則っています.バッド・チョイスの場合も死なないようにしてくれるためのものです.自国民各人の自由な判断に任せると,国民に大きな危害を生む可能性があるために,最低限の安全を確保するため自由を国が制限することになります.アスレチックから墜落して死ぬ自由や死のリスクを現実に感じてゲームする自由は制限されています.これが基本的にsafeguardの概念だと思います.

然るに,動物虐待を伴ってできた商品(化粧品だか薬品だかムームーだかなんだか知りませんが)自国民・自国産業・自国文化にデトリメンタルである可能性を立証できなければ,WTOはsafeguardの発動を認められないわけです.

最近なんでも貿易といえばWTOを守護にしたMotionにしてしまいがちに見えますが,それはちょっと困ったことです.WTOは魔法のランプではありませんし,何よりWTO独自の方針とか政策とかは基本的にないはずです.どっちかって言うと裁判所みたいな機構だと思った方が良いでしょう.ですので,WTOが動物虐待を伴ってできた商品を締め出すべき,みたいな決定は行いません.加盟国の何処かがした場合,WTOはそれがルールに則っているかどうか裁定する場所です.

safeguardの場合は,加盟国が「この商品を輸入するとうちの国民がこういう危険性に晒されるからうちは輸入できんわ」と証明すると,そのsafeguardをとってもルール違反とは看做されないわけです.

safeguardがそういう仕組みだから,ケアできない問題があるわけです.safeguardは輸入国の安全は守れますが,生産国の問題には対処できないのです.だからfair tradeという動きがあるのだし,product not processの原則が時に批判されるわけです.生産国側の悪行(劣悪な労働環境,環境に悪い生産方法,動物虐待も含めた倫理上の問題などなど)は,大変重要な問題ですが,safeguardという「消費者のバッドチョイスによって消費者自身を危険に晒してしまうことから守る」システムとは関係ないのです.

なので,「そのsafeguardを動物虐待のケースに当てはめればよいだろ」というわけにはいきません.全然別物です.生産者の悪行へのおしおきは,何らかの形でWTOがfair tradeにシフトすれば可能かもしれないけど,safeguardのシステムとは全く別のものです.

今回の論題は,
- WTOがsafeguardを使うことはない(あくまでも加盟国が使う)のだが,論題はWTOが主語
- safeguardは輸入国のドメスティックな被害を根拠に設定されるものなのだが,論題は動物虐待という生産国側の問題が対象
- WTOにはproduct but not processの原則があり,現行のsafeguardもprocessの部分には立ち入らないことになっている(遺伝子組み換え食品のときに同一のproductかどうか散々論争になったとおり)が,論題はprocessに関するもの
というようなわけで,やはりどう考えてもsafeguardというwordingは選手にも審査員にも論題を意味不明にしていたと思います.

動物虐待を伴って生産された商品を締め出すディベートがしたければ,論題はfair tradeに関するwordingが望ましかったでしょう.

WTOを魔法の小槌のように扱う最近の傾向全体の問題なのかもしれないけれど,国際大会でも良く出てくる機関なので正確に理解して,来る世界大会でも良い議論を展開してもらいたいと思います.

Tuesday, September 18, 2007

half way up the hill

Akira君の日記へのコメントから自分ところへ戻ります.
長くなりすぎてしまってあちらには投稿できないので.

日曜日,JPDUTの審査をしてきました.
で,論題のレベルがここ一年低下しているのが心配になりました.
ここ数大会は,他の国際大会のあからさまなコピーが多く,
しかも時宜を逸していたためイマイチ・・・と思っていたのですが,
今回は別の問題でした.コピーではなかった.確かに・・・割とクリエイティブでした.
けどなぁ・・・

1. THBT countries engaging with human right abuses should not host Olympic.
2. THW support affirmative action for women-only corporations.
3. THW give citizens the right to vote against a candidate in an election.
4. THW prosecute copyright abusers without official claim by copyright holders.
5. THBT WTO should use a safeguard against cruelty toward animals.

まず一試合目の.
二年半前ならいざ知らず,この期に及んで今更中国から取り上げるべきだ,と言っている人はまずいないと思います.その意味ではすごく時宜を逸したもの.ただ,あとでH君に「今後のホスト,という意味でもよいですし」と言われ,なるほど,と思いました.というのもIOCの2016年候補地立候補の締め切りが9月13日だったばかりなので,そこに中国と同じような問題児の影があれば・・・と思ったわけです.
しかしですね,よく考えてみると2016年の候補地はBaku, Cicago, Doha, Madrid, Prag, Rio and Tokyo. このうちどの国が中国のような批判を受けているのか,と考えるとちょっとねぇ・・・ じゃあ,もう具体的にどことかいうのはなしにして,漫然とIOCが立候補の際に満たさなければならない基準として設けるべきだって話にするのか,ということになるんですが・・・それだって何だか具体性を欠いた曖昧としたディベートになりそうですし,そこまでして今議論すべき深刻さがないような気がします.
「もし,将来,サウジアラビアとかが誘致してきたら・・・」という「もし」「たら」の架空ディベートになってしまうでしょう・・・?

では2試合目.
これはねぇ・・・とりあえず日本にはwomen-only corporationsなんて公式にはないはずですよねぇ.
現在は性別,年齢,出身などを理由に就業の機会を奪ってはいけないことになっている筈では.
年齢のしばりはまだ色濃く残っていますが,それでも年齢すら随分緩和されてきたはず.
「うちは男性は雇いません」って公言しちゃったら処罰の対象では?
「平等に就業機会を与えたにもかかわらず,応募者の性別が偏っていたなどの理由により,結果的に女性ばかりになった」というのはありなのだろうと思いますけれども.
けど,この論題では公的補助を貰うために「うちは女だけの社です」と登録しなければならないと思われるので,いったいどうやって機能するのか不明.男性であることを理由に就業を断るのはあり,というように変えるのでしょうか.そこら辺を曖昧にしたまま試合が進行すると,否定側の言うことがあまり残されておらず,どんな理念対立を想定して論題をセットしたのかよく分かりませんでした.また,women-only corporationsという架空の存在に対する架空の支援について議論しているので,メリットもデメリットも相当フィクションの世界にぶっとんでおり,議論の評価が大変困難でした.
もう一つはaffirmative action. http://en.wikipedia.org/wiki/Affirmative_action
ほとんどのチームが税制上の優遇や補助金にセッティングしたようですが,affirmative actionと聞いて真っ先に思い浮かべることというのはそういうのではないような・・・なんだかもう少し良いwordingがあったのではないかと思います.

さて3試合目.
これはねぇ,私結構好きでした.面白い,と思ったの.
問題は相手が19歳とかなのでねぇ・・・どう考えても玄人好みなこの論題は荷が重かったのでは.この論題で良い議論をできる選手はそうそういないと思うのです.何といってもポジティブ票とネガティブ票の性格の違いを明確にするのが若い選手には難しい.私は3年生と4年生が組んでる熟練チームが肯定側の試合を見に行きましたが,にもかかわらず論理性は散々でした.
「盲目的な支持者が影響を与えていて良くない」という現状分析なのですが,
「盲目的に嫌っている人が影響を与えるのはかまわない」のか全く説明してくれないので,
何がどう違うのか全然わかりませんでした.
私だったら,divisiveすぎる候補者が消えるからuniterが当選する,とか言うかな・・・
「現状だとブッシュとか小泉とか敵が多い人が選ばれちゃうから国内の統一が図れない.
もう少し調整系で無難なやつを選ぶには,たとえ支持者数がそこそこでも敵の少ないやつが良い.」みたいな?どっちかって言うと米大統領選を彷彿としますね.ヒラリーとかanybody but bushキャンペーンとか.まあそれだって話を掘り下げるのは相当大変だろうと思います.

4試合目.
この論題何してほしかったのかなぁ・・・prosecuteと言っている以上刑法ですよね.著作権違反が刑法上は親告罪だったとして,立件しないことを選ぶ被害者ってどのくらいいるのでしょうか.プロセスとしては,
①警察が捜査・摘発する
②被害者と思われる人に確認を求め,被害届を出すかどうか決めてもらう
③被害届を受理した場合は立件準備開始
となっているのかと思うのですが,②の段階で被害届を出さない方を選ぶ人ってどういう人でどの位いるのでしょうか.それが分からないと肯定側としてはどうしようもないですよね.最近何かそれで問題になったケースありましたっけ??

随分前,ライオンキングが公開された頃には,ジャングル大帝のコピーだと批判されましたが,手塚治さんの遺族が訴えないことを選んだためそのままになった,とかいう話だったと思います.そういうケースが刑事裁判でも沢山あるんでしょうかね?あまり想像がつかないのですが・・・民事裁判だったらわかるんですけどね.訴訟するのが億劫だと言うこともあるかと.けれど刑事裁判だと証拠の収集などコストは全部国(警察・検察)がかぶってくれるわけで,断る理由がよくわかりません.ライオンキングの件も民事だったと思います.

これまた肯定側が架空の存在の架空の問題について議論していて,もう溜息が出るほどファンタジーの世界でした.

5試合目.
ワーディングが良く分からない.
WTOのセーフガードって?あの食品とエンタメ産業に許されてるやつ?
自国民・自国文化の安全性に著しい危害を伴う可能性がある場合は,
安全弁として輸入を制限して良い,ってやつ?
・・・動物虐待とどう関係あるんだろう・・・??
たとえばうちの部屋では肯定側が英国の狐狩りで獲った毛皮の輸入を数量制限するとかいう珍妙なケースにセッティングしていてワンダーでした.そもそもイギリスの狐狩りはスポーツであって毛皮の輸出目的なのかとか,狐狩りが問題なのは絶滅の可能性があるから,と肯定側が言ってしまっては虐待のモーションとの関係は何処に行くのかとかいうマイナな突っ込みもついしてしまいたくなります.
が,何より,たとえばフランスがその問題の毛皮を現在輸入していたとして,フランスは自国の何が危機に瀕するからセーフガードとして輸入制限を設ける,と言うことになるのか?
これがwordingが動物虐待でなく絶滅危惧種だった場合は,環境に国境はないから,何処かの国のecodiversityの危機は他所の国にとっても危機,とかいう怪しいリンクが成り立つのかもしれませんが,それならワシントン条約で良いでしょう.
うーん・・・何をさせたかったのか・・・不明です.

そういうわけで,今回の論題は散々だったような気がするのです.
あれじゃ実力の発揮しようがなくてディベータが可哀想じゃないかなぁ・・・
ていうか何でもっと時宜性の高いものを素直に持ってこないのかなぁ.
架空の問題について議論する前に現実にcontroversialなことを議論する方が先じゃない?
2年前や3年前は論題の選考が随分良くなってきたとホクホクしたのですが,
なんだか最近変な方向に向かっているようで心配です.

なあんて話を審査員室でしてるとですね,「masakoいちいちうるさいよー」ってことになるのかと思うのですが,その後たらたらと飲みに行った先で,それは私がいつまで経っても先生気分になれず,現役気分でいるからだという指摘を受けました.先生気分で審査員をすれば選手の成長につながりにくい論題だろうと議論がへたくそだろうと腹は立たん,とおっしゃるわけです.けれど私の場合,自分自身がまだ山に登りきってなくて,一所懸命皆と一緒により良いディベートを模索しながら登っているつもりだから,自分が選手として参加しているかのように腹を立てるのだろう,と。

なるほどね.

確かに,私にはいつも「まだ山の中腹気分」がある気がします.
もっとディベートのこと知りたい,もっと良質な議論を目指したい,もっと社会貢献につながるディベートを模索したい,と欲求は果てしなく続きます.
私はNさんやHさんのように,人に教えてあげる,人の荷物を軽くしてあげる側になかなか立てません.
私自身が必死こいて山登っているから自分の荷物で精一杯で人の荷物まで持てないの.
その代わり,いつまでも他の現役ディベータの皆さんとは「仲間」の関係で同じ土俵にいるつもり.
なので,せっかくここまで登ったと思ったのになんで逆戻りするんよー!と仲間に腹が立つわけです.

確かに人が私に求めていることとは違うのかもしれない.
でもね,そればっかりは変えられないかな.
私はいつでも,もっと良いディベートを追求していたいです.

日曜日は,帰りに「成蹊」の由来となる故事の話がでました.
割と素敵なお話だったので,興味のある方は調べてみてはどうでしょう.(^v^)
それで慶應義塾とかだともっと沢山あるし認知度高いよね,という話にもなったのですが,
そうですね,上のような私の態度は丁度慶應の『半学半教』の精神に近いかもしれない.
慶應では先生は「福沢先生」ただ一人なのだそうで・・・
教授は大学側には「君」づけで呼ばれ,大抵の学生には「さん」づけで呼ばれます.
基本的に教員も学生も,本来は互いに教え教えられる,共に学ぶ仲間,ということなのですよね.
学問の高みを共に目指す仲間として,切磋琢磨しあう場としてキャンパスを見ています.
私はディベート界をそういう風に見たいのだろうと思います.
その意味で私は,critic judge,学び続ける審査員でありたいのだろうと思うのです.
日曜日のような架空の世界に半分いってる論題が出ると,
「この論題で私やディベータ達に一体このラウンド何を学べって言うのよ!」と腹が立つわけです.
審査しに行くとき,私は学びに行っているのであって教えに行っているのではないのかも.

でもそもそも,Wさんが仰るように,いつも新しい学び・気づきがあること,それによって自分の考えが修正されること,それがディベートの根源的な価値だと思います.だから私に限らず,本来ディベート界こそ,常に『半学半教』でなければならない筈だと思うのです.

Thursday, August 09, 2007

韓流にハマっている母が,オールインを観ながら振り返って曰く,
「ご縁がありますね,の『縁』って英語でなんていうの?」

ちなみに母は英文科卒です。。。。

はて,何ていうんですかね・・・
fate? ちょっと違いますよね。
問題のシーンらしきイ・ビョンホンの台詞の部分を見せられましたが
イマイチはっきりしませんでした。
イ・ビョンホンの発音がおかしいのか,それとも私の語彙に問題があるのか。
『フィニッティ』(おそらく名詞)と『フィニット』(おそらく動詞)と聞こえたのですが・・・
fateだとnの発音が入らないですものね・・・ふむむ・・・
finiteだと限界とかいう意味になってしまう上,発音もファイナイトになる筈だし・・・

ふ.ふ.ふ。

今日は凄い凄い凄い『ご縁』を実感しました。

6年も前に一度会っただけのユーゴスラビア(当時)の友人に再会しました。
一度会っただけとはいえとても印象が強くて,どうしているかなぁとは思っていたんです。
海外の友人との友情って何なのさ,と考え込んだ時ふっと思い出す人です。
というのは,会った時,二人とも英語が下手だったの(笑)
それなのに仲良くなったんですから不思議でした。
今はセルビアとなったベルグラードに戻っているそうで,
元気にやっていると知って凄く凄く凄く嬉しいです。

あーんなに前のことなのに,二人とも覚えてたなんて凄いですよね。
確か最終日のパーティでは夜中まで一緒に踊った挙句ガールズトークに入りました。
何で数日間で突然あんなに気があったのかな・・・とにかく何故だかすごーく盛り上がった。
また会える機会があったら,もしかしたら凄く仲良くなれるかもしれないな,
なぁんて思ったりします。でもあんなに短い時間であんなに意気投合したのですから・・・

彼女と撮った写真は長いことお気に入りの一枚でした。
彼女はドレスで,私は着物で,もうハチャメチャに踊り狂っている写真です。
あれどこにいったかなぁ・・・探してみようかな・・・

Sunday, August 05, 2007

Why does counter warrant counter?

(Sorry! Japanese only, today!)

ついさっきまでデロデロに疲れていたんですが,ふっかぁーつ!
相当寝不足で眠いはずなのにおかしいなぁ・・・

で,復活してすぐ気になることがこれ,というのに自分の病的偏愛を感じます。

甲子園中W氏にわからないわからない,と言った私。
何がってResolution focusのジャッジさんでcounter warrantは
採らない(歓迎しない)方がいるのが分からんのです。
不完全燃焼なのでこんなところで解消します。
異論反論大歓迎です!!

私もともとはresolution focusでして……
でもってalternative justificationもcounter warrantも評価の対象内にしています。

何故,というと以下のような例でいかがでしょうか。

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(1) 「改革続行!」と言われたら……

例えば直近の参議院選。
安倍さんが「改革を支持するかどうかの選挙です。
私の改革を支持する方は比例代表で自民党に投票してください」と言ったとします。

ここ(A)で「自民党を支持する」がresolution,「改革を支持する」がplanの関係です。
(Topicalかどうか,という話はちょっと置いておいて下さいね……)

で,ここで更に安倍さんが「皆さん改革の必要性はご存知のはずです。
特に経済改革はしっかり成功しています。景気が回復し始めて嬉しい,
こういう改革をこれからも続行して欲しい,と思う方は多いと信じています」
とか言ったとする。

今度(B)は,「改革を支持する」がresolution,
「経済改革を支持する」がplanの関係です。
入れ子状態になりました。

またまた更に,「経済改革が素晴らしい証拠は公共事業の削減です。
私は無駄な公共事業を削減することで経済回復の一歩を踏み出しました。
皆さん公共事業を削減を続けるべきだと思われる方,清き一票をお願いします」
……と言ったとする。

これ(C)で「経済改革を支持する」がresolution。
「公共事業の削減を続けることを支持する」がplanの関係になります。

入れ子にまた入れ子,ロシア人形状態です。

このように入れ子状態を形成できる,ということはplan支持がresolution支持の根拠になっていることを示していると言えるので,resolution focusの人的にはしっくりくるのではないでしょうか。

さて下から,(C)のディベートから見てみましょう。

ここで公共事業削減のDisadvantageを提示した場合(建設業者の苦難とか),
これは普通のnet-benefitの話です。

しかし,公共事業の削減はまあ良いとして,他の経済改革,
例えば農業改革で大規模農家だけを補助するようにしたことや,
大企業の法人税を引き下げしたこと……などはplanの外だから関係ないでしょうか?
公共事業削減さえnet benefitialなら,経済改革は是とされるでしょうか?

私なんかは,無駄な公共事業は減らして欲しいけど,
小規模農家切捨ては良くないような気がする……
企業の法人税も下げないで欲しい…という場合なのですが,
この場合も私は「経済改革を支持する」に票を投じなければならないでしょうか?

このように,肯定側(与党側)が限定したエリアではない(公共事業以外の)部分,
そこからDisadvantageを出すタイプの議論もcounter warrantと呼ぶことがあります。

私はResolution focusな限り,あくまでも「経済改革を支持するか」を決める票。
私は公共事業以外の経済政策も考慮の対象になるように思います。

(B)のディベートも同様です。
私は経済改革や行政改革は高く評価しているかもしれないけど,他の教育改革や憲法改正や司法改革は気に入らないかもしれない。その場合も,経済改革には賛成だからといって改革全体に賛成だと言えるでしょうか。

(A)のディベートの場合,私は改革路線自体は高く評価しているかもしれないけど,
安倍政権の年金問題への対応や人事や自民党の派閥のあり方なんかが気に入らないかもしれない。
その場合でも,改革さえ支持するなら私は自民党に票を入れるべきでしょうか。

小泉さんが「郵政選挙だ!」と叫んだ(やたらと狭いplanに設定した)時,民主党ほか野党は「国政議員選挙は単一の政策に対する国民投票じゃない」と反発しました。それで対抗して福祉の話や憲法の話を持ち出してきたわけですが,皆さんどう思われましたか?あれは丁度counter warrantを出した状態ではないでしょうか。

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(2) 憲法改正!と言われたら……

ちょっと違った例で逆転さえしてしまうケースも考えてみます。
国民投票方が可決されました。
これで3年以降後なら憲法改正案が提出されるかもしれません。
どこかの政党が「9条を変えることに賛成なら賛成票を投じてください!9条が最も重要な変更点です!」と叫んだとします。

その時の国民投票で,皆さんは9条の部分だけを重視して投票されますか?
それとも全体を見て決められますか?
伊藤真さんの「憲法の力」によると憲法改正においては肯定側のburden of proofがずっと重く,一項目でも気に入らなければ弾くべきなのだそうです。これなんかは,counter warrantが一つでも成立すれば,Resolution全体が肯定側よりだったとしても,否定側が勝つというものです。(Stock Issueっぽいのでしょうか)例えば,24条の改変に反対ならば,9条の評価に関係なく反対票を投じる,というわけです。

それがresolution focusの意味ではないかと思います。
国民投票における有権者の票が決めるのは
「9条を変えるべきか(planの是非)」ではなく,
あくまでも「憲法を変えるべきか(resolutionの是非」のはずです。

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(3) 『パーラ』だと違う

*カッコつきで『パーラ』としているのは,クドイようですが,
日本での『パーラ』という呼称が間違って使われているためです。
殆どのアメリカ人も間違って使っております。カナダ人は間違っていない。
『パーラ』は即興性のディベート全体を指す言葉ではありません。
North AmericanやCanadian, Asians, Australasiansなどはパーラではありません。
イギリス由来の4チーム対抗のもの(British Parliamentary/大学生の世界大会の形式)
のみが本来Parliamentary Debateと呼ばれます。例えば豪亜大会を『パーラメンタリー・ディベート』と呼ぶとオーストラリア人や東南アジア人は目を白黒させるものと思われます。豪亜大会ではThis Houseという文言を使用しないのもParliamentを模していないのですから道理です。

とにかく・・・

即興性のディベート,特に国際大会の形式では,resolution focusの立場もplan focusの立場もとりません。極めてbest policyに近い立場を全部のジャッジがとるようにインストラクトされます。(コンディショナルなプロポーザルを複数出す事は禁じられていて,各サイド1政策『セット』ずつしか提示できないので,best policyというよりもbetter policyといった感じに見えますが・・・まあ,それもやっぱり基本的な考え方はbest policyでしょうか。ただ更にclashを創ることを奨励する為に捻りが加わっているので,NDTスタイルの方でbest policyで審査されている場合でも多少訓練は受けてから審査されることをおススメします)

ですので,本来Resolution Focusの私も国際大会ではbest policyの立場に則って審査します。例の捻りが効いていることもあり,counter warrantもalternative justificationも採りません。国内の即興性ディベートが国際基準に合わせていくことに賛成なので,国内でも即興性の場合はbest policyで審査しています。『パーラ』での私の方が見慣れているわ,という方の場合,上記の話はその方たちのスピーチには当てはまりませんのでご注意下さいませ。

……でも最近国際大会での審査歴が長くなってきて,染まりそうな私です。
その内NDTスタイルでもbest policyのmasakoになるかもしれません……

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以上が私のcounter warrantの理解なのですが,いかがでしょう。
この手の議論が大好きなので,異論反論苦情,大歓迎でございます。
そうした議論の中で学んで私の意見が変わる可能性も開かれております。
W氏がライブ解説で仰っていたとおり,「それが議論する価値」だと,
私も思います。Wさん,ライブ解説,格好良かったです!
サラッと良いこと言うからニクイですね!!

Saturday, August 04, 2007

君は美しい You're beautiful

明日・明後日はディベート甲子園の審査員をすることになっています。
普段夜更かしな私ですが,今晩はもう寝ます。
本当は豪亜大会のRound6の論題についても少し書いたのですが,
英訳が間に合わないのでまた今度投稿いたします。

中学生や高校生の試合は,議論や技術が荒削りでも
時々ハッとさせられることや,お腹の底からカラッと笑えるような楽しいことがあります。
彼らのディベートは洗練されてはいないんだけど,何故か美しいとさえ感じることもあります。

議論するのを楽しむ気持ち。
その純真さは世界チャンピオンのそれを遥か上回って,
私を原点に引き戻してくれるような気がしてきます。

You're beautiful, you're beautiful...ってあの曲誰のでしたっけ?
明日は久々,エネルギーチャージです!!

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Tomorrow and the day after tomorrow, I'm going to judge the high school national.
I usually sit up till late and keep writing things but tonight, I go to bed immediately.
Actually wrote some about the motion of Australs Round 6.
But couldn't finish translating it to English today and so, will submit it sometime later.

School debates do not promise me depth of arguments or tactical clashes.
But they sometimes make me realize something I have been forgetting or laugh with joy.
Their debates are not necessarily sophisticated but somehow I feel them beautiful.

To Enjoy arguing.
Their pure fascination looks a lot more beautiful than that of World champions.
They bring me back to the place I started loving debating when I feel lost.

"You're beautiful, you're beautiful..."
Can't remember whose song it is...
Tomorrow, I'm charging my energy and love. :)

Saturday, July 28, 2007

千島の謎 QF: Mystery of Kurile Islands

(English version is following the Japanese one)

準々決勝. 論題がなんとロシア!(Yes!!Finally!)
That we should suspend Russia's G8 membership pending democratic reforms
和訳すると,「民主化が遅れているロシアのG8参加権を停止するべき」ですかね・・・?

そういうわけでロシアの政治について聞けるという活気的な試合でした.
皆普段あんまりロシアについて勉強してないから,
こういう機会に勉強する切欠を貰うのは良いと思います.

まあそれは良いのです.
審査結果に影響しないようなマイナーな例だったのですが,否定側がチョロっと言いました.

"Russia and Japan are disputing over Kurile Islands"

......???
なにぃ?

ロシアと日本はいつから千島列島をめぐって領土問題を抱えているのですか・・・?
(Kurile Islandsの和名は千島列島ですよね?)
いや,より正確には,ロシアと日本は「今でも」千島列島を取り合っているのですか?

・・・謎です.

私が小学生の時は,日本はサンフランシスコ条約で千島列島は放棄したが,
北方四島(国後島,択捉島,色丹島,歯舞諸島)は放棄していないはず.
よって今もロシアが占拠,返還を要求中,と習いました.

教科書の表記は流石に多少日本よりの解釈ではあるだろうと思いましたが,
うーん・・・・・北方四島は英語で何ていうんだ??

日本側の解釈はここで読めます.
(某スキャンダル以来このトピックは外務省よりウィキペディアを読むことにした私)

詳しい年表はこちら.(1956年に注目.びっくり)

ロシア側に近い解釈はこちらで読めます.

……結論.
1) とりあえずKurile Islandsと呼ぶのが絶対に間違いとは言えない.
2) が,ロシア側の主張をベースにした呼称になるので公平とは言い難い.
3) 現状のままだと,これについて英語でディベートするのはかなり困難.
4) 上のサイトにあるようなことを英訳した方がいい.(面倒臭い)

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Quarter Finals got very refreshing motions.
On Russia!!! (Yes, Finally!!)
Motions of the round I watched was...
That we should suspend Russia's G8 membership pending democratic reforms.

Because it seems debaters are not encouraged to learn about Russia much,
I was glad that at least Australasians took an action to do something about it.
So, I was fully enjoying the round hearing about Russian politics.

But there was a very mysterious statement by the negative team.
It was a merginal example in the round and didn't affect my decision much.
But they said "Russia and Japan are disputing over Kurile Islands"

......?? Really??

Since when Russia and Japan are disputing over Kurile/Chishima?
(Kurile in Russian and Chisima in Japanese)
Or more correctly are Russia and Japan "still" disputing over Kurile/Chishima?

While my primary school days, I was taught that Japan gave up Chisima(Kuril) Islands after WW2, but didn't abandon the Northern Territory (Kunashiri Island, Etorofu Island, Shikotan Island and Habomai Islands). And so, Japan is asking Russia to give them back.

I did assume that textbook is based on a biased point of view towards Japan.
But say, how do we call the islands of Northern territory in English to begin with?

So, I looked up.

You can read Japanese version of interpretation here.
(Hey, wikipedia's summary is better than MOFA's now... after that scandal...)

For further chronological table, look at an article here.
(And pay attention on year 1956!!! WOW??? Did you know that???)

And for Russian version interpretation, read here.

To conclude,
1) It is not absolutely incorrect to call them as a part of Kurile Islands.
2) But calling them Kurile already makes you take a biased position towards Russia. (a bit similar to Dokdo/Takeshima issue but this one is even more complicated because Kurile and Chisima may not mean same islands although there are overlaps)
3) So, at this moment, it is difficult to debate on the territorial issue between Russia and Japan in English, the third language.
4) Somebody gotta translate sites above into English. (What a bother...)

Friday, July 27, 2007

決勝を消化する Digesting the GF

遅くなりましたが,宣言どおり「じゃあ否定側は何て言えば良かったんだろう」コーナーへ.

うーん・・・難しいですけど・・・

1. 自閉症を治すのは非常に困難である
2. 治療がかえって患者の負担を増やす
3. 社会からの排斥につながる怖れがある
4. 同じ財源を自閉症のまま社会に受け入れることに使った方が良い

という構成でどうでしょう?
(3に例のフーコーチックな部分を採り入れてみました)

1-3を第1弁者,4のプランだけは第1弁者が軽く触れておいて,
何故自閉症との共存が可能であるかを第2弁者が詳しく述べるという分担でどうかしら.

As I promised, I thought over what kind of alternatives neg could run for.
How about the following?

1. It is extremely difficult to "cure/normalize" autism
2. Treatments rather burdens patients and families heavier
3. Normalization pressure may merginalize autism from society
4. It is better to utilize the same financial source for building social infrastructure to accept autistic ones as they are

What do you think?
(I put the Foucaultistic part into 3)

Perhaps, the first speaker would explain 1-3 and the counter-proposal for 4.
And the second speaker would elaborate how society can coexist with autism and accept autism warmer without normalization.

Thursday, July 26, 2007

[Book] 敗北を抱きしめて embracing defeat

[本] ダワー,ジョン. 2004. 『敗北を抱きしめて(増補版)』. 岩波書店.
[Book] Dower, John W. 1999. Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II. The New Press.

しばらく前の『スター☆スタジオ(Inside the Actors Studio)』のゲストがサルマ・ハエック(Salma Hayek)だった。知的な受け答えとチャーミングさに私はすっかりファンになってしまった。瞳の輝きも生き生きとした表情も気さくさも凄く素敵な女性だ。ラティーノであることが格好良いことになる前の米国で、彼女が女優として活動することがどう難しかったか、英語の訛りがどれだけハードルを上げたかについて聴衆から質問が飛んでも、あっけらかーんと笑いながら答えていく。知的で芯の強い女性だなぁと感心してしまった。

ただ一つ、私には頷けない返答が終盤にあった。それは、「正しければ、必ずそれがいつか「ついに(eventually)」認められて生き残る。」というもの。「正義は勝つ」ってわけだ。 私はそうは思わない。

世の中には正しかった者が死に絶えて忘れ去られたような戦いが沢山ある。
ICJをはじめ世界中が正義はニカラグアにあったと認めても、彼らの破壊された国も経済も人の心も見捨てられたままだ。何の償いもされずただ無視されている。正義の鉄槌だった筈のコソボ空爆が大して正義に適ってはいなかったとわかってセルビアの死者は蘇るのか。絶滅した原住アメリカ人の部族は正しくなかったのか。タリバンに破壊された仏像はいつか遠い将来「ついに」その姿を取り戻すのか。

馬鹿を言って貰っては困る。彼らは正義の下に消えたのではないし、彼らにはNemesisすら微笑んだとは思えない。実に「憎まれっ子世にはばか」っているではないか。正しい者が汚泥と屈辱の中で死に絶えることは確かにある。ざらにある。だからこそ人は今この一瞬の自分の判断を大切するのではないだろうか。

「正義はいつか勝つ(だから今を耐え忍べ)」なんて、
メロドラマティックに酔いしれるのも説教たれるのも無責任極まりないと思う。
村女を火あぶりにして、生きていられたら無実だと言う魔女裁判のようなものだ。
正義は約束されていないからこそ追い求める意味がある。

が、困ったことにディベート仲間にこの手の説教を喰らう頻度は非常に高い。
確かに私はイラチだと思うが15年で遅々としか進まなければ苛立って何が悪い。
一体なんだって未来は薔薇色だと信じられるのか。根拠は何なのだ。
(特にT、読んでるか,ちくしょー。)

大の大人が「正義は勝つ」と言う時のあの途方もない単純さは何なのだ。
Hope is not a strategyって誰の台詞でしたっけ?とにかくその通りだ!!

ことによると、何が正義なのか、を一義的に決めることはできないという良心(その良心は大変尊いと思う)が、母なる自然に任せて生き残ったのが正しいものなのだとか、歴史が裁くのだ、とか思わせるのかもしれない。もしそうならすっとこどっこいな話だ。いつから自然淘汰は倫理と関係があるのだ。(Tよ,君の大好きなクジラは倫理的に腐敗していて邪悪だから絶滅の危機にあるのか?)

ダワーのこの本は誠実な本だと思う。特にその冒頭の「日本の読者へ」の文章を読んで、私は上下2巻にわたるこの本を読む気になれたと思う。


ただ,日本の近代化(特に明治維新)の解釈については異論を唱えたい.明治維新が日本の伝統を捨て軍事に傾倒させた,と言われればまあそうかもしれないが,当時の日本を取り巻いていた状況を忘れているようにも思う.幕府が士農工商エタ・ヒミンの身分制度の基に統治していた時代のほうが「美しかった」とか言うのであれば,下らないの極地だ.ラスト・サムライの世界へ行って来いって感じ.(あの映画はそこら辺苛々しますよね.あれじゃモデルにされた西郷隆盛が可哀想)

ところで,近代日本にとって不平等条約の要は『関税自主権』と『治外法権』だった。私は最近、こういう単語が出てこない大学生と過ごしている。数学や国語力の低下が問題となっているが,できれば社会科教育も改善して欲しいと思う(英語力は急激に上がっていますけどね.凄いですよね).コソボ独立,スーダンやソマリアへの武力介入,南太平洋諸国の治安,日本の憲法論議,米イラン外交・・・国家の主権について語らなければならないディベートは広範にわたる.しかし治外法権という言葉に首を捻る人と国家の「主権」について議論するのは骨である。

Tuesday, July 24, 2007

バイバイ,エンジェル Bye-bye, Angel

笠井潔の同タイトルの小説を読んだ時,その青臭さに溜息をついた時,一体私はどんな貌をしていたのだろうと薄ぼんやりと思う.真面目に考えること自体不可避的に青臭いのさ,と言われればそんな気がしてくる.LBとかそういう風に考えているのかな.彼は読みにくいからな,何とも言えないけど.

今日の試合は投票義務化と階級別相撲.
「この道ーはー,いつか来たみーち」
の割りに意外に楽しかった.
とりとめのないくだらなさ7割,真面目3割くらいが丁度良い.
普段の私なら逆の配分好みかな.
そしてそれはまだまだ青臭いかも.

ルムンバの叫びを1/4くらい観た.
1/4で止めたのは作品が気に入らなかったからではない.
すっかりのめりこみ始めたところで外野に負けた.
外野の野次が私の気力をすっかり薙いだ頃,残ったのは
「コミュニケーションとは何か」という学部1年の授業のような問いだったように思う.

コミュニケーションとは何なのか...
教授が板書した『他者』と書かれた円を思い出す.
ああ,どうも抽象化されていけない.
半分酔っ払った頭ではあるけど,書いておきたいような気もする.
酔ってる時の常で他人様の目に触れることをイマイチ考慮しきらないで書いているので申し訳ない.純備忘録的.

何が問題なのかズバッと書くのは難しいけど,
つまりはコミュニケーションの価値とフェアネスの問題だと思う.

まず師弟関係.
Yちゃんの件に関しても思うのだが師弟のパートナーシップというのは
どこまで「パートナーシップ」と呼べるのか.
師弟関係で捉えること自体がBBの言うとおりinsulting!とも言える.
それは・・・・・・うん,私自身そう感じたものなぁ・・・・・・
これまでに具体例として引き合いに出たのはMNだったわけだが,
もっとコミュニティ全体に一般化して議論すべきか.
Yちゃんのような例はどこに位置づけられるのか.
ていうかTはいつになったらこの師弟関係で捉えること自体が本末転倒という話を分かってくれるのか.いい加減苛々するーっつーの.何年同じこと繰り返し議論してんのさ,あたしら.

次,ちくしょう,またか.言語の壁問題.
友情に国境はない・・・ような気がする.
しかし言語の境はあるような気がする.
恋愛に言語の壁はない・・・かどうかLと春先ラブ・アクチュアリィ観てて話になったけど,あたしゃもういっそないような気がします.・・・が,友情にはある気がする.
違いに価値があるとかいう正論ぶちかまされて腹が立つのは地に足がついてないように思うからか.

細かいことを言えば,誰かに代弁/代表してもらうんじゃない,
自分で自分を代表しろ,と言われた時のあの突き上げるような無常感.
何故いまもって共有できないのか理解に苦しむ.矛盾してないか,それ.
理解し合う日はないのだと一方で言い,もう片方で違いを理解することが価値だと言い.
何故それが強者の狡さだと分かって貰えないのだろうか・・・

負担の分配について.
愛は労働を無料で提供させる魔法の呪文だと言ったのはO教授.
あの授業面白かったなぁ.
友情を,大雑把に言って愛情の一種だと考えて,
友情の「ために」コミュニケートする,というのはアリだろうか.
あるいはコミュニケートすること自体が核となる友情というのはアリだろうか.
・・・アリかもしれないな.世間一般での友達関係はそういうものなような気がする.
しかしそれは愛情・友情においては構造的に強者が有利ということか.
フェアネスの議論とはほど遠いな・・・

結局,コミュニケートする・しないことによる損得は両者にあったり一方にあったりしても,
する・しないを選ぶスイッチはいつも弱者の側にある.
弱者は不公平な喧騒と静寂の死(あ,いえ,本当の死じゃなくて比喩的なね.言語の死滅とかね)を選ぶことができる.死は常に弱者にとって魅力的な復讐手段になる.歪んだ愛情でも唯一希望を持つ道になる.私がTに対してこれを切り札として使いたい誘惑に駆られるのはLBやLPにも当てはまるか.…当てはまらないな….何故当てはまらないのか.友情関係の種類と質量のどっちに起因するのか.あ,考えるとやな感じ….幼稚だなぁ,自分.

・・・今読み返して思ったけど,酔いが冷めてから読んだら自分でもわからんわ,おそらく.これ.
まいったな,言語化しにくいからって与太話になっちゃいかんな・・・具体的な話は明日にまわそうっと・・・おやすみなさい・・・

Saturday, July 21, 2007

選挙広報を読んで Reading Election Publicity

特定の支持政党を全く持たない私にとって悩ましい季節がやってきました.
あーーーー選挙まであと一週間くらいかぁ・・・
比例代表もあるということは政党の方も選ばないとですよねぇ.やれやれ.
とりあえず配布された選挙公報を読んで・・・と.

・・・・・・・・・・・・?

・・・いつから選挙公報は笑いをとるものになったのでしょうか?
可笑し過ぎるだろう,これはいくらなんでも.

■地区候補編■

- 鈴木信行(維新政党「新風」公認・41歳・男性)
・・・まず「維新政党」って何?江戸時代なの?これから明治なの,ねぇ.
それって民主主義は何処行っちゃうの,陛下にお出まし願うの,ねえ.
極めつけがデカデカと横書きされたスローガン.
「めざせ核武装!美しい国より強い国!」
・・・・・・・・・すみません,入れられません・・・.

- 和合秀典(新党フリーウェイクラブ・65歳・男性)
誰だろう・・・こんな党あったっけ・・・と思いながら本文へ.
「首都高の無料化の波を全国へ」
・・・あっ!!!あの高速料金を踏み倒す奇妙なテロの犯人!!!!
・・・ていうか法を破って反省の色なし・・・という人が法律作る側に回って良いの??
つうか高速料金をただにすれば皆が大移動を開始,通勤圏内が百キロになるって・・・
それが本当なら大渋滞では・・・?ていうか誰が百キロ毎朝運転したいの・・・?
ごめんなさい,とても入れられません・・・

- 神田敏晶(無所属・45歳・男性)
無所属か.気持ち的には楽だな.で,政策は・・・?
「インターネットによる選挙を今すぐにでも解禁!」
・・・・・・.え,あの,他のことは・・・?
参議院って選挙のやり方を考えるところだったの・・・・・・?
ここはバングラディッシュ?
税制・経済・福祉・教育・憲法など主要トピックをバッサリ切り捨てIT化に特化.
うーーーん・・・・・・
政府のIT化諮問委員会に入っていただくとかならまだしも参議院は違わないですか.
・・・ごめんなさい,やっぱり入れられません.

- 中村慶一郎(国民新党公認・73歳・男性)
私・・・国民新党には入れられません.いや,ホント.
まあでも一応読んでみるか・・・.
「5ない主義: ウソをつかない,威張らない,政治資金をごまかさない,
ポストを追わず求めない,贅沢をしない」
・・・・・・小学校の学級委員長選挙じゃないんですから・・・・・・
「私の好きなこと: 新聞・雑誌・本を読むこと,各地の仏像を拝むこと,テレビで大相撲を見ること」
・・・・・・あの・・・お年寄りのお見合い用自己紹介じゃないのですから・・・・・・
ごめんなさい.やっぱり入れられません.

- すずきかん(民主党・43歳・男性)
うーん・・・標語自体はどれも結構まともなんだけど・・・
・・・民主党かぁ・・・・・・.小沢さんじゃなければなぁ・・・・・・.
(憲法関連ですっかりフリップフロッパーのイメージが着いてしまったし)
あと政策の説明がやけに抽象的なので空約束にならないかと不安.
まあ,しかし今までの中では比較的まとも.
民主党なのがまだひっかかるので保留.

- マタヨシ光雄(世界経済共同体党・?歳・男性)
世界経済共同体党って何・・・?と思いつつ本文へ.
「神とは,宇宙万物そして人類を創造し,天国と地獄も創り・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?
ちょっと目が虚ろになってしまったので後半へ飛んでみる.
「真実・心理・正義の唯一神又吉イエスに,日本の政治を任せよ」
・・・・・・・・・・えっと,又吉さんってばイエスでかつ絶対神なんですか・・・?
あの・・・えっと・・・「父(神)と子(イエス)と精霊って別々では」とか
細かく突っ込むほど動揺しちゃいますよ?
・・・・・・無理です.ゴメンナサイ.ていうか心臓に悪いです.

- ドクター中松(無所属・?歳・男性)
あははははは.まだ出てるんだぁ.
小学生の頃選挙カーが塾の近く走ってたなぁ.
どれどれ・・・
「日本を救うには,改革ではダメで,抜本的にやり直す「政治の発明」が必須です.それは私にしかできません.現在筋トレで五十トン持ち上げる体力を持っています.」
・・・・・・・・・あの,五十トンって・・・・・・?
ていうか政治の発明とどう関係が・・・
ていうかそれ,人間じゃないですよね・・・?
「日本の良さを世界にPR.・・・ハリウッドの『ドクター・中松ストーリー』映画で日本の良さを世界中に知らせます」
・・・・・・・・・それ,日本の良さじゃなくて中松さんの良さですから.
ていうか参議院の審議と全然関係ないですから・・・
政策説明はどれもこれも抽象的過ぎて却下です.
ごめんなさい,入れられません.

- マック赤坂(日本スマイル党・58歳・男性)
・・・・・・スマイル党?なんだか嫌な予感がするなぁ・・・
「スマイルパワーにより美しい日本人を再生しましょう」
・・・・・・・・オノ・ヨーコさんの「念力で世界を平和にしましょう」の仲間?
「プロフィール: ネイルサロン・エステサロンを経営.美容研究家」
・・・・・・美しい日本人って容姿の美しさだったの・・・・・・?
えっと・・・参議院って国民の美容問題も審議すんの・・・?
あの,なんか色々混乱したんで無視してもいいですか・・・ごめんなさい.

・・・なんかそろそろ読むの疲れてきたなぁ.
普通の本を読むときにはないこの疲労感は一体何・・・・・・

- 沢田哲夫(無所属・76歳・男性)
「混迷時代に救世主出現!!
社会科学的頭脳の遺伝子を持った男・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・.
もう突っ込む気力すら残りません.

無理,ホント,無理.
どうしてこういうネタとしか思えない候補者が8割なの?

しっかし,男性の平均寿命が78歳とかの時に
平均寿命に近かったり過ぎてたりする候補って多いんですね.
健康面で大丈夫なのかなぁ.議員さんの仕事って本来凄く忙しいものでは?
あと女性もやっぱり少ないですね・・・18人中5人かぁ・・・

上に挙げていない候補者は他に11人いますが,
突っ込みどころは上ほど凄くないが
(東條さんの「教育:皇室を中心に愛と祈りの中に」は唖然ですが)
政策の具体性はイマイチだったり,
やたら個人の体験に偏っていたりというのも共通.

とりあえず上の「すずきかん」さんを含め保留者3名から選ぶしかなさそうです.
ああ,気が重いなぁ・・・
とりあえず8割の「問題外」候補者がいなければ
もっと実のある比較が出来るような気が・・・します.

Friday, July 20, 2007

임진강,臨津江,イムジン河, Imjin River

久しぶりにドキュメンタリー『38度線』を観ました.企画・製作は韓国国防部というこの作品,私は結構勉強になって好き.このDVDもかなりの回数観ています.SBSで放映された原題は『休戦線を語る』だったとか.ハングルでどう書くのか知りたいです.

観ている途中で母が突然唄を歌い始め,一体何ごとかと思ったら,イムジン河と聞いて同タイトルの昔流行った歌を思い出したのだそう.そのメロディがあまり綺麗なのでちょっと調べてみました.どうやらそもそもは北朝鮮の歌で,日本語版は放送禁止になったもののようです.

放送禁止になった経緯がWikiに割と詳しく載っていました.日本のフォークグループが朝鮮学校の友達から教わった曲を和訳して歌ってレコードまで出してしまったという話に当時の著作権への意識の低さを感じます.

そもそもの原詩と訳詩を対応させて載せているのは下のサイト.
http://protestsongs.michikusa.jp/korean/imjin-river.html

ハングルでの歌声が聴けるのは以下のサイトだが歌詞がどれなのかは私には分かりません.
http://blog.daum.net/jesong21/4161075

DVD『38度線』の中で,日本軍の降伏があと2ヶ月早かったら分断されなかった,あと2ヶ月遅かったら分断されたのは朝鮮ではなく日本だった,というシーンがあり考えさせられます.あちらから見るとそういう風に見えるんですね,なるほど・・・.そういうお互いの視点ってお互いに勉強できると良いですよね.教材ももっとあると良いのに.

同じくドキュメンタリー映画『送還日記』(原題:송환,英題:Repatriation)も凄く観たいのですがまだ観れていません.うぬぬ・・・
http://www.cine.co.jp/soukan/index.html

WSDCでは観光ツアーでDMZにも行ってきたそうで.私は遅れて着いたので行き損ないました.行きたかったなぁ.また折角韓国に友人を持つ機会が与えられているのですから,できるだけ話を聞いておきたいなぁと思いました.今回の豪亜大会では怠け者だった自分を反省です.

Thursday, July 19, 2007

believing in it?

豪亜大会も終盤,Tと「ディベートをまだ信じるか」という話をしました.
同病相哀れむというか,ディベート教に入信したのが正しかったのかという
かなり根本的な疑問を今更語り合ういい歳になった二人・・・良いのかそれで.
(そして気がついたら周りに日本人勢ぞろいしていてビックリしました.全員集合.
何か妙な哀しさの中の嬉しさを感じました.説明しにくいけど.
しっかし皆Tが好きなんだねぇ・・・(ほくそ笑み))

そもそもバンクーバ直後に
「信じていける自信なくなってきた.
だってsilver tongueな奴の殆どは外道だもの」
と涙をポロポロ零して弱音を吐いたのは私です.
その時Tは「そんなことない」と言いました.
(しかも「俺は?」とぬかしました.笑.あんたどんだけ自信家なのよ;笑)
けど今回は流石に少し違ったみたいでした.
「ずっと,『ディベートは知る努力と考える努力と,愛する努力をすることだ』と
思ってきたけど,Dみたいな人を見るとそんなの嘘っぱちだなぁって思い知らされるなぁ」
と言う私に深く頷くTでした.

今回むこうは丁度バンクーバの私みたいな状態なんだろうな.
裏切られた感も一入だったろうと思うと,何だか申し訳なくなりました.
Lに言った私の言葉は本心です.彼は正当な報いを受けていないと思う.
「あんなに彼方此方出向いて良かれと思って頑張って,
自分が皆の助けを必要とする時は誰もstand byしてくれないなんてなぁ」
という言葉が胸に沁みました.しかも良いことをしようとしたのにね・・・・・・
正しいことを雄弁に説いたところで,人の決定が違うことに支配されているなら,
一体何のためにディベートなんてするんですかねぇ・・・
でも今回の件は私は最初から悲観的だったので,あんなに忠告したのに
予見できなかったTのナイーブさも驚きでした.余計せつないですね.
(ところでSはTが政治家になりたいんじゃないかなんて言ってましたけど,
そうですかねぇ.ていうかもしそうなら私は止めます.絶対向いてないって!!)

「少なくとも『競技』としてのディベートからはmove onするべきかなぁ」
というのが今回の共通見解だったようです.
むこうは難民に無料のディベート教室を開講してあげたりする中に,
私は子供たちの思いやる心を育てるためのディベートを模索する中に,
あざといゲームと化した競技ディベートに疲れた心を逃がしているのかもしれません.
どちらの活動も競争が小さい分,議論の技巧が犠牲になります.
競技ディベートのまがりなりにも世界最高峰と呼ばれるものを目にしてしまった私たちが,
果たしてそれで満足できるのか,競争を取り除くことが本当に答なのか,まだわかりません.
高校の時から,「勝つことよりも大切なことがある」と言い続けてきた私には,
これは馴染みのジレンマです.けどTには違う.他人事ながら心配です.

そんなことを考えながら飛行機に乗って帰ってきたら,
masashiさんのブログとDr.Epitaphさんのコメントを目にしました.
相変わらずお二人とも良いこと書くなぁ・・・(メソメソ)
昨晩は友人Jと同じようなことが話題になりました.
あっちはまだ信じるバイタリティありそうだったな.
どちらもあまりにタイムリーでせつなくなりました.

さて,明日の私は何をどれだけ信じられるのかな・・・

Tuesday, July 17, 2007

決勝を咀嚼する More on GF

1.一線のありか

なんで否定側が「一線越えている」と感じたのかを考えてみました.
どこにその「一線」があるのかな...と.
それで,人間に優劣をつけているところがアウトだったのだと思いました.

「障害があろうと,何か別の挫折をしようと,才能があろうがあるまいが,
人間は人間.命の価値は測れないし変わらない.平等に尊ばれるべき」
という形での自己肯定なら「障害(優劣)ではなく個性」という否定側主題との整合します.

が,「自閉症児の方が天才で優れているんだ.彼らが進化の最先端なんだ.
我々は彼らを羨むべきなんだ」的な方向に行くと,本末転倒です.
結局「どちらがより正しいのか」「どちらがより優れているのか」という話になってしまいます.
じゃあ他の皆をより優れている自閉症児に近づける(矯正する)べきなのか,
ということになると,「障害(優劣)ではなく個性」という主題と大きく矛盾してくるわけです.

そういうわけで,あの否定側のスタンスは戦略的にも致命的だったと思います.

2.閑話休題(国際大会の審査について)

審査員同士の投票後の話し合いでは,言葉の壁もあり(最近masakoは英語に困ってないと言われる度に居心地が悪くなる私です.壁は明確にあるのです)上手く説明できなくて苛々しました.が,前回書いたようなことが言いたかったのです.でも言葉の壁があるからこそそれでは不十分だと思います.もう一歩踏み込んで,今回書いたような形で即座に伝えられるように自分の思考力(特にスピード)を磨かないといかんなぁ,と思いました.まだ解り難い,という話もあるかもしれませんが少なくとも自分の頭の整理は今回の方がついています.

ところで決勝リーグの審査員をするというのは別に大して楽しい仕事ではありません.漫然と観客席で聞くよりは真剣みを持って聞くので理解度はあがります.だから自分の勉強の機会としては費用対効果が上がり嬉しいわけですが,まあその程度のことです.あとは他人からの評価が高かったという嬉しさでしょうけど,ぶっちゃけ「俺を決勝に残せ」的圧力をかける人もいて,もうそこまで行くとただのエゴです.私の場合,EFL(English as a Foreign Language)の審査員が豪亜大会の決勝戦を任されたのはおそらく史上初,ということでそういう自分の中でのちょっとした達成感はありましたが,これも今となっては最重要項目ではないように思います.

ではEFLの審査員にとって,現在の最重要課題と言える事は何なのか.

もちろん予選通過者をコンスタンスに出していくことは,ディベート界の中では意味があります.
予選通過審査員は「EFLは知性に問題があるわけではないのだから,語学さえ努力すれば良質の審査とパネルの多様性確保でコミュニティに貢献できる」という顔役を果たします.

けれどもっと大切なのは,ディベートという特殊なセッティングだけでなく,交渉やディスカッション,はたまた社交におけるコミュニケーションでも知識人として伍していけるという自信と自負心の形成,EFLの知性に対する他者の信頼を勝ち取っていくことではないかと思います.これは目に見えない風評の形で作られるので,より難しい課題でもあります.

そういうわけで,緊張するのは予選の審査ですが,それも豪亜大会の予選ではありません.EFLな審査員が一番神経を使う審査は世界大会の予選の審査だと思います.

何故か.理由は複数に及びます.

なんと言っても合議制であること.4チーム対抗なので合議しなければならない内容がかなり多岐且つ詳細に渡り,しかもバイナリーではないこと.そして豪亜大会に比べ,より人種・文明・宗教間対立が厳しいこと.更にEFLへの風当たりが厳しいことなどが挙げられるでしょう.(ちなみに女性であることが不利に働く可能性が高いのも豪亜大会よりも世界大会だと思います)

そして予選中は特に,こうした審査団の議論の過程がつぶさに選手・同僚もしくは部下(パネル)・上司(チェア)に観察され,常に明晰さと妥当性を採点され続ける(実際にフィードバックの点数が審査員としての昇進・降格となって反映される)ことになります.予選通過「圏内」(当選確実者ではない)の審査員は特に,こうしたテストを何重にも受けることになります.EFLや非西欧人種,自分の審査経歴をよく知っている副審査員長(つまりコネ)がいない人などは更に厳しいチェックを受けることになり,同僚や上司が意図的に配置されることも多くなります.

この状態で英語ネイティブの審査員に自分を婉曲的に認めさせるのにはかなり技術を要します.人格的なバランスを保ったまま,全く関係ない事柄を和やかに議論しつつ,目立たぬよう且つ確かに話をリードし,結果として同僚・上司・部下に「こいつ頭良い!」という強い印象を与え・・・られなければボツ,ということ.(スタート地点が悪いので,ミスしなければ良いわけではなく,積極的にプラス点を稼がないとダメ)これはディベート自体の技術よりも相当社会で使える技術だろうと思います.母語でだって難しいのに,丁寧語や敬語,婉曲表現から端的な表現,ユーモアまで駆使して社会的コミュニケーションを英語でとらなければならないわけです.ホント,選手やってる方が何ぼも楽です.(外務省や企業の研修に使えば良いのに,と本気で思います)

まあ,そういうわけなので,豪亜大会の決勝戦ごときで「上手く説明できない」とか言ってる場合ではありません.より速くより鋭く思考し,より平易に時にはより華麗に英語で表現できなければならない.数ヵ月後に一度リハビリした方が良いような気がします.

さて,言葉の壁の話が出たところで次へ.

3.置き換え

今回の論題は自閉症児についてだったわけですが,
世の中には程度の差こそあれ「障害」がありふれているように思います.

例えば自分の身に置き換えると「言葉の壁」はディベータとしての私にとって障害です.
同時に,日本語文化・メディアから得たユニークな視点がある,という意味で個性でもあります.
しかもその個性はしばしば他人には単に妥当性を欠いているだけに見えがち・・・
そう考えると何だか今回の決勝戦の内容とダブってきます.

自閉症の経験も身体上の障害の経験もありませんが,
EFL(English as a Foreign Language)としての自分に置き換えて,
肯定側・否定側の両主張をフェアだと感じるかどうか考えてみたいと思います.
直接体験がない以上間接体験(読書やヒアリング調査)と想像力で補うしかありませんので.

*勿論これは実際の決勝戦の審査内容には全く関係しなかった部分です.

肯定側は,個人の負担がきつすぎる,公的助成を与えるべきだ,というスタンスでした.
EFLとしての参加者は,なるほど相当きつい負担を強いられています.
英語自体を学ぶのにかかる労力もさることながら,メディアの壁を越えるのが一苦労です.
そのための金銭的負担も時間的負担も相当のものです.
また,確かに大会側から色々助成を受けています.
論題をプロジェクターで出すようにされていますし,
電子機器の使用禁止の中で電子辞書だけは例外となりましたし,
論題に分からない表現があれば副審査委員長に尋ねて良い事になっている場合もあります.
更にEAL(English as an Alternative Language)の決勝戦も設けられています.

さて対する否定側は,公的助成を与えると個性を否定してしまう,というスタンスでした.
論題をプロジェクターで出してあげたり,不明な表現の問い合わせを許したり,EAL決勝を開くといった救済措置を与えると,EFLに「正常化」しなければというプレッシャーを与えてしまう.また,EFLであることの素晴らしさを否定してしまう...本当はEFLの方がENLよりも天才的で特別なのだ・・・

・・・・・・うーーーーん・・・・・・

どうですかねぇ・・・それは・・・

そもそもEAL救済措置がなかった頃も「英語力を上げなければならない」「訛りを取り除きたい」「自然で伝わりやすい表現にしたい」といった『正常化』圧力はめいいっぱいあったような気がします.確かにノーマライズという表現は不穏当ですが,自分の英語をノーマライズしたいという言い方はギリギリ受け入れられていると思いますし,現実だと思います.また,EAL救済措置ができる前にEALが大切に尊重されていたかと聞かれれば明確にノーだと思います.社会の理解は放っておけば上がるというものではありません.社会構造も変えずに救済措置も与えずに「EALを尊重すべき」と言っても,現実偏見に満ちた屑ジャッジにばかりあたれば「尊重」もへったくれもありません.何よりも3キロの辞書を持ち歩くのも,論題が書き落とせずに試合会場に行くのも悲惨の極致.「そんな助けはEFLの自尊心を傷つけるから要らない」とか言うEFLがいたら「いっぺん死んで来い」ってな気分です.

ではEALは特別だENLより優れていると思うか,と聞かれればイエスと答えたい誘惑があるのも確かです.外語で知的活動を全うできるようになるには大変な努力を要します.だからこそ犠牲に見合う「特別さ」があると思いたいものです.また,バイリンガルはモノリンガルより接する情報の幅が広い分視野も広い,というのは有得ると思います.ただそちらはマルチリンガリズムであってEALとENLの対比ではありません.(ENLにも他の言語ができる人はいるだろうし,EALがバイリンガルレベルの情報収集能力を英語で持つとは限りませんので)だから冷静に考えるとノーかな.

結局,
①EALの視点はENLのそれと平等に尊重されるべき,
②社会構造がそれを許さないならアファマティブ・アクションも時には必要,
という結論に.

つまり自分の身に置き換えても否定側の議論には納得できません.

じゃあ否定側はどういうスタンスをとるべきだったのか・・・
次回はそれを考えてみたいと思います.

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1. Where was the border?

I wondered why I felt the negative "stepped too far in to that nonsense" and thought over again where the line was. And then, found that the assumption of the negative was that there are superior people and inferior ones at the end of the day. I probably found that part contradictory with other arguments from the negative. "With or without disability, coming a different sort of cropper or not, being gifted & talented or not...regardless all of such, life is life. Value of life is not measurable and should be eaually respected. " If the negative was affirming the life style of autism in that approach, I probably felt consistent with their stance that "it's not a disability but a difference." However, when they said that autism is a frontier of evolution and they are more genius than we are, it sounded a bit oddly contradicting with their stance. It sounded as if there were, at the end of the day, superior persons and inferior ones. Then, the negative claim that we shouldn't reform people didn't sound real either. So, I think those sub-arguments from the negative was strategically damaging.

2. Intermission (adjudicating international tournaments)

When we had some chats among adjudicators after voting and stuff, it was difficult for me to fully explain the things I wrote in the last post. (I feel extremely uncomfortable whenever someone says masako doesn't have language barrier anymore. I DO. I DO. I DO. How do they know what I really want to say?? So, annoying...)

Anyway, because I have the language barrier, I think I need even more effort to sharpen my ideas. What I wanted to say right after the round was like the last post. But that's not enough. I should have stepped further and gotten ready to express the above in this post IMMEDIATELY. (You might think it's not still clear enough but for me, at least, clearer and structured comparing to the last one) I really need to improve my speed of my thought precisely because I'm suffering for the language barrier.

Okay, let's move to the language barrier thing.

3. Are the arguments applicable if we replace autism with EAL?

The topic we got this time was about autistic children. But there are many sorts of "barriers" in our life everywhere. For example in my case, the language barrier is clearly a "disability" as an international debater/adjudicator. At the same time, I probably have very unique and different perspectives that I gain from Japanese language, media and culture. So, yes, my diability can be a difference. Moreover, that difference is often seen as "irrelevance" at international tournaments and diminished. I'm strongly encouraged to "normalized" my ideas and language by the tournament structure.

Perhaps, it become to sound similar to the content discussed at the grand final?
I don't have an experience as an autistic or any other physical disability.
But hope to imagine how they would feel with applying the arguments to issues as an EFL(English as a Foreign Language). When I don't have a direct experience, I believe it is important to try indirect experience (reading, hearing) and utilizing imagination.

Obviously, this part did not affect my decision over the grand final in any way.

The affirmative said that the burden on individuals (autistic kids and their families) is away too heavy and they should be supported by public fund. Hmmm... EFL participants do suffer for the burden. Learning English itself is an enormous suffer. But overcoming the media difference (= "normalizing our ideas") is even more painful. Financial burden, time we have to spend, tears and toils are indeed huge. And yes, we do have some sort of "support" by tournaments. They are now showing the motions in written form on projectors, we are now allowed to use electronic dictionaries, in some cases, we are even allowed to approach DCAs to clarify terms in motions.
And yes, there are EAL(English as an Alternative Language) Finals. I don't think they are enough "support" but let's assume they are.

Then the negative's stance was that such supports rather deminish our difference that we should rather appreciate to begin with. If they show motions on projectors, clarify terms in motions or provide EAL finals, then the tournament rather pressure EAL debaters to "normalize" them further. And they also deny how EALs are wonderful while EALs are more special and genius than ENLs.

..............hmmmmmmmm.....i...don't know...

The problem is such a "normalization" pressure was heavy even before such remedies. 9 years ago, EFLs were feeling that they have to improve their English, to ease their accents, to gain more "natural" expressions in English as heavy as today. Sure, the word "normalize" sounds very offensive. But that was and is the reality, is it not?

Further more, if somebody ask me whether our own perspectives were respected when we did not have such remedies, I would definitely say NO. Social awareness does not rise only with leaving alone. Our ideas and perspectives were ignored or deminished when we did not have the remedies, too. And what should we do if we have to face linguicism or judges without cultural awareness? Who can make sure the things would go fair? And we bring 3kg dictionaries everywhere without knowing the motion we should debate on and no insentive like EAL award was given after such tears and toils. If somebody who says we should reject such remedies and go back to that time, I wish that person was dead.

Sure, even with remedies, things are not fair at all. Why the hell do we have to express ourselves in a language we don't feel familiar at all? Why do we have to spend enormous amount of time to become communicable to English speakers while they don't make any effort to communicate us? What sort of fairness is that? Shouldn't we be appreciated exactly because of our difference? Shouldn't they know that Japanese language has unique, beautiful and rich ideas? I agree. Sure they should.

But does that mean we shouldn't get any help in communicating in English because it makes us abandon our uniqueness and Anglonize us too much? So, should we prefer not having communication with non-Japanese speakers at all in order to preserve our uniqueness? Should we keep silence until English speakers eventually become to respect our insights? (Does such a day really come someday in future? They might realize after minor languages extinct.)

Now then, how would you answer if somebody asks you whether you think EALs are more special and superior to ENLs? It's very attempting question, isn't it? Yeah, I wanted to answer Yes, if I could. Becoming intellectual in a foreign language requires pains and toils. And such experience make us feel wanting to believe that we got something special in return. But it doesn't necessarily mean we do get something special. Sure, we probably gain wider perspectives than monolingual ones because we can access wider information. But it's more about multilingualism and nothing to do with comparison between ENL and EAL. Some ENL people do have decent second languages. Some EAL speakers are not fluent enough to gain quality information in English. So, if I was asked such a question, I would have to say NO.

So, at the end of the day, I think...
1) Opinions and ideas of EAL should be equally respected (=linguistic rights)
2) If the social structure doesn't respect their liguistic rights, some affirmative actions are needed.

This is how I feel when I apply the arguments of GF to my own personal experiences.
And still feel difficult to nod for negative's argument.

hmmmm...

Saturday, July 14, 2007

今年の決勝戦 On Grand Final This Year

台風4号にビビり外出を控えたものの,関東地方はあっさり通過.
明日からは安心して出かけられそうですね.
とりあえず重曹が欲しい.

今回の豪亜大会は,肩の力を抜いて楽しむことだけを重視しました.
バンクーバのような打撃を受けるのは御免蒙りたかったので,
審査委員長団には申し訳ないけど,何も期待しないことを第一信条としたのです.
何も期待すまい,たとえタブも論題も外語性も何もかもが,
これまで築いてきたと思っていた相互理解を裏切ろうとも,
大好きな友人の表情に私が見たくないものを見たとしても,
眉一つ動かすものか,軽蔑しても詰るものかと思って参りました.
そう思わなければならなかったことは残念だけど,漸く現実的になったとも言えます.
他人様より成長に5倍ほど時間がかかる私です.
(その分老けるのも5倍遅ければ良いのにな・・・)
でもお蔭様で久しぶりに伸び伸び楽しめました.
そんな覚悟をしたのが申し訳ないほど審査委員長団も頑張ってくれていました.
最後は自分でも期待していなかった決勝戦ジャッジに選出され華も持たせて貰ったし.

さて,その決勝戦について忘れない内に書こうかな.
論題は「政府は自閉症正常化のための治療費を負担すべきである」でした.
(That governments should pay for treatments that seek to 'normalise'autism.)
肯定側にオーストラリアのクイーンズランド大学,
否定側はニュージーランドのヴィクトリア大学でした.

結果から言うと,この決勝戦は6-3で肯定側の勝ちでした.(9人ジャッジ)
私はマジョリティの肯定側ボーターでした.
ま,それはどうでも良いのですが,この票の割れ方が興味深いものでした.
肯定側に入れた6人はアジア人(内一名はマレイシア在住のイギリス人),
否定側に入れた3人はオーストラリア人(全員白人)だったのでした.
で,人種で分かれた,という話になるわけです.

実はその前の準決勝では,「闘鶏廃止」の論題で5-2で肯定側が勝ったのですが,
この時も白人勢が全員肯定側投票で,マレイシア人1名と私も肯定側ボータ.
否定側にはアジア人2名が入れていました.
で,この時「人種で分かれなくて良かった」という副審査委員長の言葉に,
「masakoはかなり白っぽいぞ」という微妙なジョークまで飛び,
いまだ残るアジア対オセアニアの構図を思い出させたのでした.

その後でこの決勝戦でしょ?
微妙ですよね.ただの偶然だったとしても.
試合の内容を加味するともっと微妙なんだな,これが.

肯定側の主張は単純で,いかにコミュニケーション能力が生活の基盤となっているか,自閉症というコミュニケーション『障害』がいかに子供の才能を開花させる上で困難をもたらすかというのを中心に据えていました.また,その上で家族の負担の大きさも語り公的負担の必要性を訴えました.

対する否定側の主張は,自閉症は『障害』ではなく『個性』であるというものでした.いかに政府による「改善治療」が社会のはみ出し者を訴追・矯正する道具となるかという話もあり,ミシェル・フーコーを彷彿とさせる内容ではあるのですがちょっと荒削りな印象でした.更に間に挟まった「自閉症は人間の進化型である」とか「自閉症は天才になれて素晴らしい」とかいうひたすらビミョーな議論がかなりフーコー的な部分の現実味を台無しにしてしまってSF化していました.政府が金を出せば「正常化」しなければならないというプレッシャーを与える,という議論も第3弁者から提示されましたが遅すぎた上に粗さが残ったと感じました.

その後,主に『障害』と『個性』の線引きを巡り熱いバトルが交わされたわけですが,ケース・セッティングについての不合意や,自閉症患者に天才が多いかどうかといったサブな論点が妙に時間を喰ったこともあり,今ひとつ議論が収斂しきらなかった印象が残りました.

さて,投票後話を聞いてみると,結局否定側に投票した審査員はフーコー的な部分を高く買ったようなんですね.つまり『正常化』を強いる事は暴力的だという発想なわけです.彼らが頻繁に例として挙げるのは「聾唖者コミュニティには豊かな表現や文化が存在するにもかかわらず社会はそれを無視しがちである」という話です.それが,彼らは『障害』を負っているのではない,賞賛すべき豊かな『個性』を授けられたのだ,という話につながるわけなんですが・・・これが「『個性』を『病』として迫害するのは未熟で野蛮な社会である」という感覚と相まって,件の「アジア対オセアニア」の構図をやっかいにします.つまり「アジアはまだ充分に文明化されていないからこうした人権問題に理解が薄い」という見下す気持ちを否定側投票者が抱いているのではないか,という憶測が生まれるわけです.これが邪推なのかはたまた的を射た推測なのかは私には分かりませんが後味が悪いのは確かです.

さて,このブログでフーコーを検索して下されば分かると思いますが,私はフーコー大好きなんですよね.その著作は殆ど読みましたが,中でも『精神疾患と心理学』は好著だと思うんです.その私が,それでも首を傾げてしまう「単純さ」がこの否定側論者にはあったように思います.皆さん如何思われますでしょうか.

随分前のことになりますが,一時期『五体不満足』という本がベストセラーになったことは覚えてらっしゃる方が多いのではないでしょうか.読んで感動されたという方も多いでしょう.「障害は個性」と言い切る乙武さんのポジティブさには私も生命の力強さを感じましたし素直に凄いなぁと思いました.同時に,その後「障害があるからこそ僕はこんなに特別なことができる.僕は他の人より優れている」というような意味の発言をテレビで観た時は,かえって悲痛さを感じてしまったのを覚えています.

「『障害』者は自分をもっと肯定的に受け入れるべきだ.素晴らしい『個性』を授かったとむしろ感謝すべきなのだ」というような発言を耳にすると,ちょっと怖くなります.フーコーの言う社会による矯正と似た構図が見えるように思います.弱者に対して「助けが欲しいなどと甘えるな.それはお前の精神がたるんどるからだ」と更に鞭打っているように思えるのです.私には大変グロテスクで不健全な発言であるように思えます.心頭滅却すれば火もなんとやらの世界のナンセンスさを感じます.否定側の「自閉症は進化の最先端でクールだ」という話はその一線を越えてしまっていたように思いました.

そんな中,「聴覚弱者が補聴器をつけるのは何故だ.目が悪ければ眼鏡をかけないか.自閉症であることを誇りに思えるのならそれでいい.でも辛い,助けて欲しいと思う時は気兼ねなく助け(ここでは政府による金銭的助成)を求めて何が悪いのか.否定側こそ自閉症児を特別視して檻に入れている」という肯定側の意見が私には素直に受け取れました.

以上が私の感想なわけですが,こうした問題に十分な知識があるとは言えません.自分の受けた印象が果たして実際に『障害/個性』を持つ方たちにとってのものと合致するのか,ご本人たちの意見を聞ける日があったら,とつくづく思いました.

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Hope to write down about the Grand Final before I start forgetting things.
Motion was "That governments should pay for treatments that seek to 'normalise'autism."
The Affirmative was University of Queensland (Australia).
The Negative was Victoria University (New Zealand).

Result was 6-3 for the affirmative and myself voted for the affirmative.
The result itself was not very surprising but the way we splitted was a sort of interesting one.
All the Asian judges (a British person who lives in Malaysia inclusive) voted for the affirmative while all Australian judges voted for the negative.

Now, the claims from the affirmative was pretty straight. They mainly explained that autism is a sort of communication barrier and how much that barrier is damaging their life style and possibilities in the society. They also said that the burden(time, money and mental stress) that their family have to bear is heavy and public support is necessary.

The negative, on the other hand, said autism is not a "disability" but a "difference". They explained how "normalization" opresses and reforms anybody who is different from majority of the society. This part reminded me Michel Foucault a lot but sounded a bit rough. The major problem was lack of reality in middle reliever arguments saying "autism is a frontier of evolution", "autistic people are genius and wonderful" and so on. It sounded a bit off the point as well as SF taste and damaged the reality of the Foucaultistic part, I felt. The third speaker came back to the social oppression issue and developed how state funding on "normalization" pressure the autistic ones and their family even if they don't wish to normalize them. But it sounded a little late and also sounded rough yet.

Later, both teams argued over border between disability and difference. But some disagreements over case setting and sub issues like whether autistic people tend to be genius or not consumed unproportionately long time and I got an impression that major clash was not fully argued out.

In conversations after voting, it sounded to me that the adjudicators who voted for the negative bought the Foucaultistic arguments by the negative. In short, it sounded that they thought "normalizing" somebody is a violent method to oppress minorities. One of them sited an example of deaf community with rich literature and culture and being ignored by the wider society.

Now, if you search Foucault on this blog, you'll probably find that I'm actually fond of theories of Foucault. In fact, I read most of his works and my favorite is "Maladie Mentale Et Psychologie". But even I could not nod for the negative's arguments in that round. And I guess the reason was a sort of simplicity in negative's approach.

It's while ago when the book by Mr.Ototake, "Gotai Fumanzoku [Dis-able-bodied]" became a best seller. I'm sure many of you were moved by it. His positive attitude to assert that his disability is his identity made me feel strength of human being and impressed much. At the same time, when he said on TV that his disability made him so special and superior to others, I rather felt heart-rending. When somebody says that "disable" ones should rather appreciate their identity as a gift, it rather scares me. It sound exactly like an opposite side of coin of Foucault. It rather pressure the weaks that asking for help from the society shows their lack of strength to believe in themselves and it's their fault. To me, it sounds more like whipping the weaks and grotesque. The argument by the negative that autism is a frontier of evolution and super cool made me feel that the team stepped too far into that nonsense.

Then, when the affirmative came back and said, "What's wrong with guide dogs for blind? What's wrong with getting glasses when you have poor eye sights? If they are proud of their autism, that's fine. But if they need a help, why not?", it sounded a lot easier for me to swallow.

So, this is roughly what I found in the round but I don't think I have enough level of understanding of the issue. Wish if I could have chance to hear how people with disability/difference feel about this topic.

FYI, I wrote more comments and analogy with EAL issues in the next post!

Wednesday, July 04, 2007

From KL

Sorry, have to write in English. Can't find any computer that can read or write in Japanese.

I'm now attending Australasian Intervarsity Debating Championships in KL. The host institution is UiTM and its main campus is huge. I've been healthy and well so far. I'm going to drop by Korea for World Schools Debating Championships on the way back to Japan.

So far, Australs is going fine. This time, Japan has extremely small contingent and I'm free from any pressure at all. For the first time in the last 8 or 9 years (after Manila Worlds. I was a first timer and had no idea what i would be going to persue later back then), I'm purely enjoying the tournament and that's very good. :)

I'm eager to know how's WSDC going but found no update so far.

Will be back on 12th. :)

Sunday, July 01, 2007

夏到来 summer has come

どわーーー.
前回の書き込みから一ヶ月も開いてしまいました.
いつの間にか暑くなってるわ・・・

今日から高校生チームはソウル入り.
明日・明後日とスパーリングして本番を迎えるはずです.
準決勝からしか見れない私は遠い地で応援するばかりです.
がんばれよーーーー.

はてさて,豪亜大会のほうは明後日からです.
今回はマレイシアが会場です.
I大のチームはもう現地入りしたはずかな.
私は明後日です.
はあ・・・しっかし準備の出来具合ゼロ!ホントゼロ!!
だから明日は戦争です.えらいこっちゃ.

何より気になるのはパソコンの不調.
ちょっとSPSSのグラフを弄っていると突然の強制終了.
それが1度じゃないとちょっと気になります.
困ったなぁ・・・長時間労働で熱が上がりすぎるのかも?

それから読まなきゃと思ってる本が多いのにどれもこれも重い!
背筋が筋肉痛です.肩に痕が残るほどカバンの紐が食い込むし.
四次元ポケットが欲しい・・・

まあ,騒いでみても暑いものは暑いわけですから,
カリカリせずに健やかに過ごせますように・・・

Wednesday, May 30, 2007

スマイレージ Smileage


1万ヒット記念 第二弾。
(あ、ちなみにヒット数は過去1年ほどです。gree時代のとかは入ってないのでそちらを読んで下さった方はノッカンでごめんなさい)

サウンド・オブ・ミュージックの「私のすきなもの」風コレクション、『スマイレージ(Smileage)』(笑)。その内静物写真ものから3点、自画水彩・パステル4点公開です。

1. ホッとかふぇ。
これはつい最近入ったカフェで出てきたラテ。
ハートが書いてあるのはよく見るけどこれはお上手。
坊やの笑顔がホッコリさせてくれる愛らしさ。
飲むのがとっても勿体無かった・・・

2. 祝福のきゅーぴー
これは友人Kの結婚式でカーテンにぶら下がっていたもの。
実は私からのプレゼントだったので、飾ってくれてとっても嬉しかった。
キューピーも二人の幸せにニッコリです☆
笑窪ができて可愛いでしょう?

3. 一瞬歓喜
名探偵ポワロが気持ちを落ち着ける作業としてやっていたの。
トランプでタワーを作っているんです。
ようやく三階建てが完成した時大歓声を上げて映したもの。
直後に崩壊しました(涙)
次回は四階建てに挑戦します☆


4. 三分だけ待って
我が家で重宝している砂時計の役目は一つだけ。
紅茶の蒸らし時間です。
イラチな父でさえ砂が落ちるのを大人しく待ちます(笑)
それだけですごぉく美味しくなるので、
待つ時間もすいーとです。

5. 満腹な仏様
私は特定の信仰を持たない不信心者です。
が、それでも法事だとか修学旅行だとか、
知らず知らず仏教や神道には触れる機会多いですよね。
宗教というより文化的な意味で。
不信心のせいなのか、
私の描く仏様は大抵「おなかいっぱい。もう食べれにゃい」
とでも言うような表情をしています。
それが私の極楽浄土のイメージなのかしら・・・
我ながら自分の食欲が心配です。

6. ありえなくてもいい、かな
花が椿なんですよね。かたち。
けど水は冬っぽくない。
我ながら辻褄の合わないヘンな絵です。
水の波紋も綺麗じゃないし。
でもこの色の組み合わせが好きなんです。
だからまあ良いや、と思って。


7. 空じゃなくてもいい、かな
色々と模索している時は、
飛ぼうとしているのは分かっていても、
一体全体何所を飛ぶことになるのか見当もつかなかったりして。
でもま、そういうのも良いのかな、と。
真っ青な空を真っ白に飛ぶのでなくても、
なんだかわけのわからない不透明な所を進むのも、
それはそれで意義深いことかも、
とか最近思います。

というわけで今回のスマイレージ展しゅーりょーーー。

Tuesday, May 29, 2007

[Article] 評論家としてのジャッジ Judge as "critic of argument"

English version follows Japanese one.
But before that...

[Anouncemnt: 10000hits anniversary event]

The hit counter of this blog is approaching to 10000. So, special event!!
The first person who send me a question after 10000hits via e-mail or message application on SNS(mixi, Gree or facebook) will receive my honest answer to it. :)
I have no idea whether anybody on earth is interested in such an event but oh well... I like this sort of nonsense. :p

[お知らせ: 1万ヒット記念イベント]

このブログのヒットカウントが1万に近づいて参りました。で、記念イベントです。
1万ヒット後最初にメールもしくはSNSのメッセージ機能で質問を下さった方に、
記念して質問の如何に関わらず必ず正直なお返事をすることに致します。
一体全体そんなことに興味のある方がいらっしゃるものか分かりませんが、
そういう飲み会ゲームじみたことが嫌いではない私なのです。あはは。

さてさて、本題。
最近アップをさぼりがちでしたが、久々にディベート関連論文についても書いてみたり。

[論文] バルスロップ, V.ウィリアム. 1983. 「評論家としてのディベート審査員: 先験的視座へ」. 『米国討論学会誌』. 20巻夏季号. 1-15頁.

プリミティブながら大変興味深い論文。

今のところtabula rasaに対応する形でcriticという言い回しをしているのはこれが最初のもの。ですが、traditional interpretation of this imageというくだりがあるので、どうやらもっと前からあるもののよう。どなたかもっと前に出ているものをご存知でしたら教えてくださいませ。ちなみに、注にUlrichのIn Search of Tabula Rasaという1981年の発表が挙げられていて羨ましい限り。くぅー、私も生で読みたかったな、それ。どっかで手に入らないかしら。

eticとemicという語の感触は、どうやら元のPikeの論文を読まないとしっくりこなさそう。やれやれ、また読むものが増えてしまいました。Leffの使い方が私には本来と逆に思えるのですが・・・どういうことかしら・・・おかしいな。でもまあ、Leffの言い方だとPolicy/NDTのジャッジはよりeticであり、Parliはemicであるかのように読めます。で、Balthropのはその丁度逆化のよう。うーん・・・これは原文読まないとな。


それにしても、1978年ごろを皮切りに「Judgeとは」論が急激に過熱するわけですが、どうも現代の理論は発散してしまって根本が80年代から前に進んでいないように思えます。みんな諦めちゃったのかな。そんなことでいいのかー。

Although I had been too lazy to update my reading in two languages for a while but here it is. :)

[Article] Balthrop, V. William. 1983. The Debate Judge as "Critic of Argument": Toward A Transcendent Perspective. Journal of the American Forensic Association. Vol20, Summer. pp.1-15

Primitive but very interesting.

This is the first article which uses "critic" in realation with "tabula rasa" in debate adjudication as far as I have found. But there is a line that "Traditional interpretations of this image," there gotta be something previous. Please tell me if you know any earlier works on "critic perspective" in debate adjudication. By the way, in a footnote, he mentions about a paper presented at the Speech Communication Association by Ulrich in 1981 (title: In search of tabula rasa) and I wish if I could read it myself.

I'm not quite sure about nuance of "etic" and "emic" yet and probably need to read Pike's work for that. Especially how Leff used these terms make me feel puzzled. Aren't they originally opposite...? Leff's way of explanation sounds that Policy/NDT style adjudication is more etic and Parli is more emic. And Balthrop's one sounds exactly opposite. I really should read the original text...

Although "who's judge?" and "what judging is about?" type of discussion got enormous heat since roughly 1978, it seems to me the current theories lost the focus and are not moving forward from the ones in 80s. I guess studies on paradigms should remain as a hottest issue even now though... It somehow looks as if scholars are tired with digging that issue.

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Alone among most popular paradigms in its efforts to derive standards for evaluation from each individual approach is tabula rasa. "It is," wrote Ulrich, "an approach to judging that emphasizes the desirability of having debate rules evolved from each individual debate instead of being imposed upon a round externally by the judge."
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Saturday, May 26, 2007

時代遅れ behind the times

昨夜ろくに食べなかった母が薬の飲みすぎで胃が痛いというので、
消化の良いものをということでポトフを昼ごはんに鍋一杯作りました。

私は大変ずぼらなので、フライパン一つ、鍋一つで済む料理が好きです。
シチュー類はその時々で色んな材料を楽しめるのも魅力ですよね。
加えて、祖母が大連育ちだったこともあって、我が家の場合は
所謂「家の味」は味噌汁ではなくてポトフにあります。
祖母のは少しロシア風だったとか。母のはちょっとアイリッシュな感じです。
アレンジしだいで色んなバリエーションがあるのも楽しいですね。

そんなわけで私もポトフは得意料理。そもそも失敗しにくい料理ですけど(笑)
私流は、最初にオリーブ油で唐辛子とにんにくをじーっくり炒めるのがコツです。
今日は、ジャガイモ、人参、玉葱、しめじ、茄子に生ソーセージを入れました。

何しろ鍋いっぱいに作ったので、昼に食べて残った分を夕飯にしてしまえ。少し足りないようなら後で少しだけ材料を足そう、と思ったわけです。で、「帰りに材料を少し買い足してくるから沢山食べて良いわよ」と食べ始めた母に言い残して出かけました。

閑話休題。

先日、片桐直樹監督の『戦争をしない国 日本』というドキュメンタリー映画を観ました。
地域の集会施設で40人くらい集まっていらしたでしょうか。
私はこの監督の作品は他に見たことがなかったし、よく知りもしなかったわけなんですが、折角すぐ近所で観れるのだからというわけで出かけました。

結論から言うと、全く好みではありませんでした。
政治的な色としてはかなりC党かS党との関係が濃厚とみました。
別に左っぽいからとか護憲派が嫌というわけではありません。
先日毎日新聞のコラムで「消極的護憲派」と称している精神科医がいましたが、 私は自分を同じくくりに入れています。

記事の精神科医は斎藤環さんという方なのですが、以下のような部分があります。

「身近な人を死なせたくない」という切実な心情からは、改憲、護憲どちらのロジックも引き出せる。ただ私には改憲派のあおる危機感が「改憲ファンタジー」にしか見えない。
(毎日新聞、5月13日日曜日、2面、『時代の風』 「後ろめたさ」こそ倫理だ、より)

私はこの部分にまったく同感です。
脅威を無視しろとか誇張しろとか嘘だとか言うつもりは全くないんです。
世の中物騒だから万が一の備えはしっかりしないとね。
一般家庭でさえ地震や強盗侵入のリスクを見積もって備えるくらいですからね。
ただ、改憲論者の議論展開や見せ方がね、あまりにも子供っぽく思えるのです。
なんか戦争や防衛にロマンを感じ過ぎているのではないか、と勘繰るわけです。

「軍人は小児に近いものである」と言ったのは芥川ですけど、巷に溢れる改憲主義はその耐え難い幼児性という意味で芥川の言うところの軍人的に思えます。芥川の言うとおり、「英雄らしい身ぶりを喜んだり、いわゆる光栄を好んだりする」心理は、耐えようもなく小児的に見えます。

最近連発されている映画群(「男たちの大和」だの「亡国のイージス」だの「日本沈没」だの「硫黄島~」だの)にうっとりする人たちがいるということが私には鳥肌ものなわけです。製作面でも、ああいう映画にロマンチシズムを盛り込もうとする会社の気持ちって分からない。生理的に嫌。観て喜ぶのは動物的に思えるし、作って喜ぶのは動物的なまでの商業・拝金主義に見えます。とても知性を感じられない。芥川は更に容赦がなくて、「機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見うる現象である。」とまで斬って捨てています。

戦争物以外で、似た「生理的にぞわっと来る映画」群を私は「時代遅れの男になりたい」シリーズと呼んでいて(『時代遅れの男になりたい』っていう歌知ってます?)、その手の映画が好き、と言われた瞬間にその男性が恋愛対象外になります。理屈じゃなくて本当に受けつけなくなっちゃうの。生理的にぞわって来るの。で、その問題の映画は「シェーン」、「カサブランカ」などいまだ人気の高いラインアップなので困ったものです。

先日IDC7中に、RとLが「シェーン」の話で盛り上がりまして、
(「シェーン、シェーン、帰ってきて!カムバーック、シェーン!!」
ってラストシーン知ってます?)
私が「シェーン」が好きな男って嫌い、と言うと理由を聞かれました。

私の答えは、「『ロンリー・ウルフ』に憧れる人に限って自分は友達づきあいが良くて守りに入った『ファミリー・ガイ』なのよ。実現するつもりも度胸も理念もこれっぽっちもない癖に妄想の中で恍惚とする姿が生理的に嫌。」というものでした。(レイプもののポルノが好きな恐妻家とかさ想像するだに陰湿で女々しくて嫌でしょう?ってちょっと違うかな。)

・・・・・・Lにゲラゲラ笑われました。
はいはい。どうせあたしゃ融通の利かない女ですよーだ。

ちなみにグレー・ゾーンに位置するのが「紅の豚」。
(金曜ロードショーでやってたみたいですね)
あれが好き、と言われたらかなり微妙です。
かなりカサブランカやシェーンに近いですよね。
時代設定も第二次大戦直前あたりでしょう?
ストーリーも美女を袖にして孤独で無茶な生き方を通す、『男のロマン』と。
「俺は所詮家庭には収まれない男なのさ」って感じ?
エンディングがぼかしてあるのが救いかな。
うーん・・・・・・まあ、あそこまでは許せるかも。
ファンタジーだという割りきりも比較的明快なので。
(『カサブランカ・ダンディ』って歌知ってます?「ボーギー、ボギー、あんたの時代は良かった。男がピカピカの気障でいられた」って歌うの。ああいう風にあけっぴろげに言われると何か許せるでしょう?)
うーん・・・・・・でもやっぱり微妙。

まあ、とにかく、改憲派の多くがシェアしているように見えるその恍惚感が、
あまりに、あまりに時代遅れに私には見えます。
やたら「サムライ魂」とか連呼するスポーツ中継も大嫌い。
どうして「昔気質の侠/時代遅れの男」にそこまで恍惚とできるのかも謎だけど、
それに「愛国ファンタジー」が絡むともう手に負えないグロテスクさ。
その悪趣味な懐古趣味がきぼちわどぅい・・・・・・

さて、問題は・・・『戦争をしない国 日本』もタメを張れる懐古趣味ぶりだったのです。
労働者とか婦人とか学生とか「国民の怒りが爆発」とか・・・言葉遣いからして「ノン・ポリ/しらけ世代」と言われた今の学生の両親くらいの歳の人にさえ「古い」と言われそうな感じ。それはないだろ、と言うくらい一方的な事実認識に一方的な主張。ディベートで言うところの「エンゲージメント」(これが議論を深めるための鍵)しようという気が全く認められない感じ。そういうプロパガンダ方式も、やたら時代遅れな感じ。「改憲ファンタジー」に張る「護憲ファンタジー」。

今日は偶然後輩のYちゃんと9条の話になりまして、
ホントせめてディベータは「現代的なあっぷ・とぅ・でいとで理性的・現実的な」議論を
したいし観たいものだよなぁ・・・・・・とつくづく思いました。
理念面もね、きちんとエンゲージした上で掘り下げないと・・・・・・。
まあつまりは質の高いディベートをしたいってことで難しいのは同じなんですけど。
問題は現代のあっぷ・とぅ・でいとな若者達はあんまり背景知識がない、
・・・・・・ゆえにそもそも意見があまりないみたい。
しらけ世代Jr. 達は元祖に輪をかけて凄いです。
それはそれで・・・・・・感心しないな。
人間無知な事柄に関しては騙され易いですからね。
最近改憲も護憲も極端な意見の人の中にはティーンが多いというのもわかります。
思春期って妄想がちですからね。半分ファンタジーの住人よね。
どうせなら趣味の良いファンタジーに耽ってもらいたいものですが。

さてさて。

帰り道。
駅から母に電話で「どのくらい残ってる?どのくらい買い足せば夕飯に足りる?」と訊くと、
彼女は歯切れの悪い様子で・・・

「残ってない」

・・・・・・。
は?
鍋一杯分が・・・・・・?

・・・・・・誰の胃が痛いって?
鍋一杯食べきる病人が何所にいるんだっての!!

シチューよ、シチューよ、帰ってきて!
カムバーック、シチュー!!

(あ、このオチ駄目ですか?)

Thursday, May 24, 2007

すいーと・じんじゃー・みるく Sweet Ginger Milk

いやー、ハシカ大流行ですねー。
できるだけ学校にいる時間を短縮しようと思ったのですが、
案外手間取って帰宅してみたら……

母が発熱中。
……もしかしたら自宅の方が危険。

ところで、母は料理に創意工夫を凝らす人です。
良く言えば独創的。悪く言うと無難な品が作れず奇をてらいすぎる。
嗚呼今までの呪われた料理たち……
セロリ、インゲン、そしてモロヘイヤの入った自称「タイカレー」。
ヨーグルトと餡子を混ぜた「ヘルシースイート」。
何故か強烈な生臭さを伴う「かけそば」。
関連商品(?)「ミート・うどん」にその後南アフリカで再開してしまうことを子供の頃の私は知らなかった…そうして私は食の細い子供時代に……(ナチュラル・ダイエット?)実話です。

そんな母も料理教室に通うようになり料理の腕も飛躍の進歩を遂げました。積極的に美味しいと言いたい料理の割合は急激に上昇しました。(惜しむらくは私が下宿に出る前に習って欲しかった。何故子供が育ちきってから習うのだ……)しかし彼女の冒険心が消えたわけでは……そう、なかったのです。けれど私には彼女を責められない……今回は私もその一端を担ってしまったからです……

今回のテーマは、ずばり『マ・カ・オ』。

とあるテレビ番組でマカオ料理特集をしてたんですよね。
その中の「ジンジャー・プリン」なるものに二人して目を惹かれたわけです。
曰く、「生姜の絞り汁に砂糖を溶かし、温めた牛乳を注ぐだけでフッルフル」。
なにぃー?生姜にそんな効果が??とビックリ仰天したわけです。
確かにテレビ画面に映されたプリンは杏仁豆腐のようにフルフルでした。

早速キャッキャ言いながら二人して生姜を大量に摺り、
更にキャイキャイ言いながらその汁を搾り、
そしてできたのは……

なまあたたかい甘辛い牛乳……
……ちょっと部分的にどろーり。

…………。
ちーん……。
…………。
…どこまで待っても固まらないし!!

シクシクシク。

我が家には、どろりとした甘辛い牛乳が……途方に暮れたのでした。
これが昨日のこと。

ちなみに母、先ほど起きてきまして、
「パパ帰ってきたら、あれ飲ましてあげて」

…………。
それで良いのか……本当に……
自分の下宿生活の間に犠牲者の名が変わったことを静かに悟った私でした。

Tuesday, May 22, 2007

性悪女の癒し方 regresa a mi

数ヵ月後の案件についてメールを書いていて自分の性悪さを再確認。
こんなこと相手に言っても仕方ないというか脅迫じみてるよなぁ・・・
と思いつつ、ここは脅迫してでも裏切られるのは御免なのよ、と割り切ってもみる。
その癖、自分はいつでも裏切るわよ、と匂わせている・・・

どんだけ性悪やねん。(ていうか我侭なだけ?なお悪い・・・)
女に限らず、やっぱり裏切られた経験は人を性悪にしますよね。
(自分はひと様に裏切られた感を与えないように気をつけないとね・・・)

返ってきた返信が「正直でいてくれてありがとう」
・・・・・・うわ。や、ホント自分の性悪さが際立ちます・・・
どんだけ良い人なの、それ。礼を言ってどうすんのよーーー!!!
(それとも何かの嫌味なのか・・・?)

はああ(脱力)
まったくこの人には勝てんわ・・・・・・

ま、じゃあ即この相手を信用する気になるか、というと
そうもいかないのが哀しさですね。前回の裏切りの傷がまだ痛みます。
(あ、ちなみに上記はすべて色気一切なしの話なんですけどね)

regresa a miは、春先に母がはまっていたIl Divoの曲名です。
本日やたらとそれが頭に流れ続けています。
ていうか連続で聴かされすぎて頭にこびりついている・・・
何故か歌ってしまうCMソングのようです・・・ちょっとイヤ。
しかしその陰鬱さが妙に先ほどのメールのやり取りなんかと合っている。

Una vez mas tocar tu piel y hondo suspirar
Recuperemos lo que se ha perdido

って。・・・うーん・・・うん。
時間が経てばまた、人間不信は終わりを告げて、
ちゃんと友人を信用できる日が戻るのでしょう。

だから今日だけはもう一度だけ、
ちょっと溜息つかせて欲しい。性悪でいさせて欲しい。
明日は良い友人に戻れると・・・思うから。たぶん。いや、きっと(汗)

閑話休題。

今日は一日facebookのサーバがダウンしている模様。
全体のじゃなくて私がのっかってるネットワークのが。
おかげでどうやらメッセージが数件届いているらしいのにアクセス不可。
該当する方いらっしゃいましたらごめんなさい。

そもそもメールの返信は更に怠りがちな私。
不義理もはなはだしいわけですが、ウェブメールの使い方が悪いのか、
「後で返信しなきゃ」と思ってたメールがどんどん行方不明になるんです。
もうほっくり返すのが嫌になってしまってどんどんずんずん溜まっていく。
ああ・・・何故世の中の皆様はもっときっちり管理してらっしゃるんでしょう。
その管理能力の5分の1で良い。分けてもらいたい・・・
ていうかうちのキャンパスが外部からメールサーバにアクセスさせてくれればもっと楽なんだけど・・・セキュリティのためかさせてくれないので・・・慣れないウェブメールを使うことに・・・いや、やっぱり自分が悪いんですが・・・

なーんて、こんな憂鬱そうなことを書いていても
所詮私は部屋でアホな踊りを踊ってしまう道化なお調子者。
フレンズを観ればジョーイを可愛いと思ってしまうし(あの役者バカに見せるの天才的ですよね)、初恋は「忍者ハットリ君」だし(えーええ、いまだに親戚中に言われます)、同年代の友人と会うとボケ専門だし(最近ディベート関連の人にツッコミに分類されビックリ)。
とにかく、性悪気取ってみたところでやたらとおめでたくって底の浅い性悪なわけです。
まあ、だからこその「正直でいてくれてありがとう」なわけで・・・(あのやろー・・・)
全く悩むだけ阿呆らしいというものです。

美味しいココアの一杯もあれば癒されてしまうお手軽な性悪女なのです・・・やれやれ
はぁあ・・・ココアおいちい・・・(@^-^@)
もう今日はいーや。

Monday, May 21, 2007

[Book] ジュリアス・シーザー Julius Caesar

[本] シェイクスピア.1599. 中野好夫訳.1951.『ジュリアス・シーザー』. 岩波書店.

こちらは行きの飛行機で読みました。
英語で読んだら何故か喜劇に思えてしまったので日本語で読んでみました。

ちゃんと悲劇でした。
よかった・・・。

まあ、とにかく例の演説ですが、やっぱりアントニウスはわざと自分を「口下手」と演出していますね。なかなか狡猾です。最初から相当自分の演説の技量に自信を覗かせているにも関わらず、聴衆の前ではまるで真逆かのように振舞う。大した悪人煽動家ぶりです。やっぱり西洋でも口下手は同情を引き易いってことなんでしょうかね。そして弁舌さわやかな方が胡散臭く思われやすい。でも現実は真逆でブルータスの方がよっぽど口下手だ・・・恐過ぎないですか、この話。

しかし誰だ、「ディベートは結局のところ西洋的だ」なんてのたまって私を涙させたのは・・・ホント思い込みって恐ろしい・・・口下手な振りした饒舌な悪人が世にはばかるのは何所も同じなんですなぁ・・・まともな言論教育を受ける必要があるのは日本人だけじゃないよねー・・・・・・日本の場合苦手意識が必要以上に壁を作っているとは思いますけれど。(ちょっと今日は色々と考えさせられるメールが数件届きました・・・ホント、どうやったら素直に人の言葉を疑わずに聞ける幸せを享受できるのかなぁ・・・)

結局このお話では明確な善人キャラはいないように見えます。シーザーでさえ、キャシアスを嫌った理由は彼が痩せているから、という理不尽ぶりです。ブルータスもアントニウスもキャシアスも、全員ある程度(ていうか、かなり)汚れている。が、全員純粋な悪人でもない。・・・・・・なんだか現実的過ぎてかえってグロテスク。お話の世界を楽しむのが難しいのは私だけでしょうか・・・?

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アントニー: 
これ、この傷口、物言わぬ口ででもあるかのように、
真赤な唇を開いて、私のこの舌に代って訴えてくれと叫んでいる
----------------------------
アントニー:
では、大急ぎで帰って、この椿事を伝えてくれ。
いまやローマは哀悼の都、危険に溢れた巷なのだ。
オクティヴィアスどのにとり、まだ安全な広間ではない。
急いで行って、そう伝えるのだ。いや、ちょっと待て。
いまこの遺骸を広場へお移しするから、それまでは行ってはならぬ。
そうだ、それでは一番やってみるか、
果たして俺の演説で、この凶悪犯人どもの残虐行為を、
市民どもはどう考えるようになるかだ。
その結果次第では、お前往って事の次第を
オクティヴィアスどのに伝えてもらいたいのだ。
-----------------------------

アントニー:
ああ、理非分別の心よ!お前はあの獣の胸に逃れ走って、
人間はすべて理性を失ってしまったのか。許されよ、
いま私の心はすべてあの棺の中、シーザーの許へと飛んでしまったのだ。
戻ってくるまで、しばらく待っていただきたい。
市民一:
彼の言分にも、どうして道理はあるようだな
-----------------------------
アントニー:
諸君、私は諸君の心を盗もうとて来たわけでない、
私はブルータス君のような弁舌の徒でもないし
諸君もご承知のごとくただ一介の無骨の野人、
要するに友を愛するというにすぎん。(中略)
人々の血を湧かせるなど、私には才知もなければ言葉も知らぬ
さらに能力、行動力、弁舌、説得力、ともになに一つ持たぬ私に、
どうしてそんな芸当などできようか。ただ率直に語るだけのこと。(中略)
もし私がブルータス、そしてブルータスがアントニーならば、
あるいはこのアントニーが諸君の心を煽り立て、
シーザーのこの傷一つ一つに、ローマの石を暴動に決起させる、
そうした舌を与えることもできようが。
一同:
そうだ、暴動だ。
市民一:
ブルータスの家を焼き討ちしよう。
------------------------------------
召使:
ご主人のお話じゃ、ブルータスさま、キャシアスさまには、
まるで狂人のように馬で城門から立ち退かれたとか。
アントニー:
さては知らせを受けたと見えるな、どんなに俺が
市民どもを焚きつけたか。
-------------------------------------
注から
ブルータスの演説が理智的で冷たく、群集の心理を少しも知らぬ学者的演説であることに注意。それに反して次のアントニーのそれが、どこまでも感情に訴え、卑近で、具体的で、巧みに群集の低い知性と天邪鬼心理をとらえていることに注意。シェイクスピアが前者を散文で書き、後者を無韻詩形で書き分けていることも、なんでもない工夫だが見のがせない。
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解説から
例の有名なブルータスとアントニーとの演説を挙げてみる。この二つの演説は、往々にして拙劣作者に見られるような、作者シェイクスピアみずからがやたらと顔をだして行う演説ではなく、両者それぞれがいわば事故の宿命的性格をどうしようもなく露呈させながら述べるという、ある意味ではシェイクスピアの劇詩人的才能を最もわかりやすく、また鮮明に示している有名な演説だが、それがなんと「プルターク」によると、わずか次のような簡単な記述にすぎないのだ。すなわち、ブルータスのそれは、「ブルータス伝」に、
 彼等(市民)に対してブルータスは、その好意をかちえ、同志の行為の正しかったことを言い、彼等に対してキャピトルから降りてくるようにと叫んだ。
とある、ただそれだけなのだ。他方またアントニーの方は、「ブルータス伝」と「アントニー伝」との双方に出るが、しかしそれとて前者では、
 その後シーザーの遺骸が市場へ運ばれて来たとき、アントニウスはローマ古来の慣習に従って、故人をたたえる葬送の演説をした。そして彼の言葉によって、市民の心が故人への哀悼に動くと見るや、彼は雄弁を揮って彼らの心情をいよいよかきたてた。そして鮮血に塗れたシーザーの外衣を手にし、これを市民らの面前に拡げて、そこにつくられた多くの刃の痕を指し示した。すると群集はたちまち激昂と暴動にかわり、もはや彼らの間に秩序を維持することは不可能となった。
 「アントニー伝」もまた大同小異だが、
 そこでシーザーの遺骸が埋葬の場所に運ばれてくると、彼は葬送の場において故人をたたえるというローマ古来の慣習にしたがって、シーザー賞揚の葬送演説をした、彼は市民達がシーザーのこと、とりわけ賞揚の言葉を聞きたがっているのを見てとると、その演説の中にいとも悲しみにみちた言辞を交え、種々の事実を加えることにより、彼らの感情をはなはだしく哀悼、憐憫の情へと動かした。しかも最後には結論として、全群集を前に徒党たちの刃によって至るところ刺し貫かれた故人の上衣を拡げて見せ、暗殺者たちを残忍、極悪な殺人者と罵倒した。これらの言葉によって、彼は市民たちを烈しい激昂にまきこんだために、彼らは直ちにシーザーの遺骸を運んで、市場においてこれを焼いた。
 後にも先にもこれだけである。この素材からしてシェイクスピアが、いかに鮮烈な対照的個性的な二つの演説を仕上げているかは、原作の同じ部分とゆっくり比較対照して読んでもらいたい。
 ただここで一つ問題は、上でもちょっと触れたアピアーヌスの『内乱史』である。これにはかなり長くアントニー演説の内容が述べられている。それによると(後略)
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Friday, May 18, 2007

不審者 suspicious person

肘と膝が痛いので、あっちぶつけてもこっちぶつけても涙目な今日です。
病院では小さな子供のように「痛かったよねー、もう大丈夫だからねー」と言われ、
おとなしくコクンと頷いてしまう情けなさっぷりです。
しかし顔にあった小さな傷は跡形もなく消えました。すごーい。
しかもやったことは傷パワーパッドとかいう絆創膏を3日間貼っておいただけ。
市販薬も 飛躍の進歩 ありがたや (字余り)・・・なーんつって。ひひひ。

問題は目。あんまり治っていないと言われショック。
やはり私の目薬の落とし方に何か抜本的な問題でも・・・
いつまでコンタクト入れられないんだろうー・・・困ったなぁ・・・
買い物するにも街中歩くにも、やたら顔を近づけて確認している怪しい人です。

この上ハシカにでも感染した日にはえらいことになってしまいます。
病院めぐりにもマスクを装着、更にUVサンバイザーで武装した私を、
小学生中学年くらいの女の子が不安そうに見上げています・・・
確かに背後に立っていると変質者みたいだろうか・・・
ごめんねー、怖いよねー、おねえちゃんすぐどっか行くからねー。
(ていうか外しなさいよ、という話も・・・)

さて、現在わたくしお話を伺える広島県出身の方を探しております。
ご協力いただける方いらっしゃいましたら、是非ご一報くださいませー。

Thursday, May 17, 2007

月の雫 water from the moon

しばらく前に壊した眼鏡のバランスを微妙に保って作業中です。右目はもうあんまり痛くなくなってきました。素人の当て推量ですがあと二日くらいで随分良くなるのでは。怪我の方は・・・なんだかよく分からない感じ。これは良いのか悪いのか、どうなんだろう。

さて、

セリーヌ・ディオンの曲でこういうタイトルのがあったんですけど、あの音域の広い声をがなるようにして「do i gotta get water from the moon?」と尋ねる部分が妙に印象的でした。一体water from the moonというのがどういう訳に相当するのか分からなかったわけなんですが、「月に存在するとか存在しないとか言われている(多分存在しない、というかあまりに少量なので蒸発してしまっている)水」のことなら、ちょっとかぐや姫めいています。蓬莱の玉の枝や燕の子安貝と張り合うのに「月からの水」ではちょっと味気ないので、月の雫と訳してみました。フルセンテンス訳すと「あなたに愛されるためには月の雫でも必要なの?」とでもなりますでしょうか。

先週末は、ええ、その・・・、結局アジア大会(元祖の方です)に顔を出してきました。2年前の分裂以来あまり良い印象がなく、正直失礼したいと思っていました。が、開催地が韓国ということで、韓国との関係を悪化させすぎるのは避けたい・・・というジレンマの結果でした。特にJが熱心に誘ってくれたこと、Lが日本に教えに来てくれた直後だったこともあって、全く顔を出さないのでは義理が果たせないなぁ、と思った結果でもありました。それで、2年前の新・アジア大会見学の時と同じく「短期見学者」の立場を採ることでまあなんとかお茶を濁そう、というわけだったのです。

3年前まで、アジア大会は他に類を見ない暖かい大会でした。「アジア」という言葉が必要以上に他の地域(特にオセアニア)への対抗心を助長することは好ましくないことでした。しかしそれを補っても尚あまりある魅力を持つ大会でした。大会の間中、皆笑顔で茶化しあったし、子供のように戯れていました。国籍は殆ど意味を持たなかった。誰もが「気がつくと全然別の国の会ったことのなかった多国籍の人たちに囲まれていた」という状態をしばしば経験しました。

今の両アジア大会はツンドラ地帯のようです。もう片方のアジア大会を意識するあまり、どんどん政治性が増してしまっている。特に元祖アジア大会は一部のディベート以外の理由で投票する汚職審査員が大きな顔をしている。あれは酷い。その上お互いに不信感が渦巻いている。「俺達の脚を引っ張った奴が見つかったらこっそり教えてやるよ。もしかしたらよく知ってる近しい奴かもしれないと思うよ」という某選手の言葉に、大会の絶望的なまでの腐敗を見ました。それは世界大会が今も昔も政治的であるのとは全く別次元の話です。笑いあっている友人同士が、相手に暗闇でグサリとやられるのを恐れているなんてあんまりだ。「あの素晴らしい愛をもう一度」ではありませんが、あの暖かいアジアを取り戻すにはそれこそ「月の雫」でも必要なのかもしれません。 おかげですっかり私は「内向」モードで非社交的に過ごしてしまいました。とは言っても夜の飲み会はそれなりにあちこち顔を出しておきましたが。

ところで日本の選手の社交の仕方は少し方向を変えたようです。社交的な人と社交的でない人の2種類しかいなかった以前とは異なり、現在は3種類に分かれるようです。①社交的でない人、②特定の国の人とだけ社交的な人、③様々な国の人と社交的な人。どうやら新規参入大学には②が異様に多い。まあ分からないでもありません。ただ、いわゆる「肝」の飲み会に行くと、顔を見る日本人は2人とかでした。まあ、正味二日(3晩)しかいなかったのでたまたまなのかもしれません。

試合の感想は、まあ後日に譲ることにして、今は3晩それぞれの記録を一応残しておこうかな。

最初の夜はあちこちの人と再会を祝っておしゃべりをしました。韓国・マレイシア・シンガポールを中心にあちこち回りました。雨降ってたから、それぞれ皆各寮舎に分かれて集まっていました。マレイシアチームと飲んでいるときに、「ねえ、どっかタオルが手に入る場所知らない?」と訊いたら、「やたら小さいのなら参加者キットに入ってるよ。でもマッジ小さいよ」という返事が返ってきて盛り上がりました。その後カルチュラルナイトでそれが替え歌になっていて思わず笑ってしまいました。

次の晩は、なんだったかな。ああ、ウォッカ・パーティだとかで、屋外の寒い中皆でアホな話題で飲みました。ていうかウォッカ飲むのは普通ミキサー必要じゃない?寒いからってストレートで注ぐのやめて下さい、マジで。どこの人が多かったかなぁ。韓国系と東南アジアが多かったかな。その内ペルー出身の方が郷土舞踊を教えてくださいましたが、最初から実技編だったため、基本のステップをちゃんと覚えられませんでした。残念。

最後の晩は、意味不明などんちゃん騒ぎでした。でも主要キャラ勢ぞろいでした。ああいう飲み会こそ日本人も沢山参加して欲しいのだけど、いたのはI大のT君とG大のAちゃんだけでした。うーん、残念。そういえば韓国勢が外国人講師達以外殆どいなかったので、おそらく日本人や韓国人は別に集まっていたのでしょう。韓国のチームは夜のうちに帰ってしまった人も多かったし。中国勢も少なかったですね。うーん、それ以外はほぼ全ての国が揃っていました。歌を歌いだすわ、意味もなく笑い出すわ、その内何故か飛び入りのファイアー・ショー(!!)が始まるわ、ヘンな集まりでした。皆にやたら「masakoはもう来ないんじゃないかと思ったよ。来てくれてよかったよ」と言われ、切なくなりました。ごめんね、みんな。みんなのことは大好きなんだよ。私が非社交的に見えたなら、それは大会の腐敗を憂いているから。腐敗した大会の性質は変えなくちゃ。今、ギリギリのところだよ。みんなだって気がついてる筈だよ?・・・でも、あの場にいた人たちこそが暖かさを保とうとしている「実情と背景を知っている」良識派なのに、彼らとの交流も敬遠しようなんて確かに了見狭かったかもしれない。その後、気がついたら何故か英語村の職員達まで飲み会に混ざっていて、私達はデトロイトやニューヨーク、トロントの人たちとまで入り混じって飲んでおりました。あれは一体何だったんだろう。バンブー・ソージュー・マジック??

どの晩も私は梨花女子大のチームと同室させて貰いました。これが皆素晴らしく可愛いんだ!!その内の一人と北朝鮮の話になって、凄く感銘を受ける話を聞けました。今度アップしたいと思います。

まあ何にしても今年一押しの大会はオーストラルエイジアンです。
一人でも多くの選手が参加できると良いなぁ、と思います。

・・・・・・でも、そうね、まだ月の雫も探し続けてしまうかもしれないな。
誰もが微笑み交わしたあの素晴らしい愛を夢見てしまうかもしれないな。
でも、それには、Do i gotta get water from the moon? :p

Wednesday, May 16, 2007

[Novel] イナイ×イナイ Peekaboo


怪我による発熱と右目の不具合により、現在体調わろし。
ディスプレイがろくすっぽ見えていないため、変換等に間違い多い可能性あり。ご容赦くださいませ。

[小説] 森博嗣. 2007. 『イナイ×イナイ』. 講談社.

飛行機で読みました。
以下ネタばれあり。お気をつけをば。

椙田さん一体次回から何ていう名前で登場するつもりなんでしょう。
今度の新しい名前が更に別の短編とリンクしてたりしそうで、なんともやれやれ複雑な様相を呈してまいります。

どうやら次の予定作もこのXシリーズのようですが、Gシリーズってどうなるんでしょうか。あっちが出たりこっちが出たりするようになるわけでしょうか。更に面倒でややこしくなっていきます。このすっきりしない感じをいつまで引きずることになるのか・・・やれやれです。しかし読んでしまう私。

結局萌絵ちゃんは東京で働き始めたようですし、椙田事務所が東京にあるようでもあります。依然犀川先生が名古屋にいるのだとすると、これからは東京と名古屋の話がパラレルで展開されるんでしょうかね。妙に対称的ですしね。わいわいがやがやなGの学生軍団と椙田事務所の二人はちょっと雰囲気似ているし、鷹知さんのポジショニングが赤柳さんに相当するのかな。ほぼ関わらない人物として西には犀川先生、東には萌絵ちゃん。よくわからないのが椙田さんのポジション。彼に相当するGのキャラクタは・・・国枝先生?はたまた四季博士?あ、でもGには度々各務さんと思しき人が出てきていますから、やっぱり彼女かな。うん、その方が面白いですね。

話の展開の仕方も妙に似ていますよね。GとXのどちらも、S&MやVの時のような明確な謎解きをしてくれない。分かったようで全体像の見えない薄ぼんやりした締りのない終わり方です。VやS&Mよりも時系列的にも後を扱っていることもあってか、より現代的、不確実性の時代に突入しつつあるようですね、この作品群も(笑) しかしすっきりしない。イラチな私的にはフラストレーションの溜まる展開です。

ところで萌絵ちゃんの働き出した大学名は、Gの通りなら東京の私立W大ですよね。Xでは椙田さんが「古い大学で、金持ちの学生が多くて、卒業生ができるだけ沢山死んでいる」と表現していますね。・・・早稲田か。早稲田ですよね(笑)うちの大学といい、早稲田といい、こういうおちょくられた理由でフィクションに登場する率がやたら高いですが、著者が卒業生だったりするんでしょうかね。森博嗣さんは名古屋大の教授ですが、建築が専門だそうですよね。早稲田は建築が有名ですしね。もしかしたらそうなのかな?

ああ、薬が効いてきて眠くなってきました。
今論文読み始めたら途中で寝てしまうかもしれないなあ・・・どうしよう・・・

Wednesday, May 09, 2007

最後の一人 the last one

IDC8終了後講師を成田に送る道すがら、言葉の話になりました。確か私が「もしあなたに子供がいたら何語で教育を受けさせたいか」と聞いたことから始まったような気がします。

日本で暮らしている限りはあまり考えることのないこの疑問ですが、今回のように民族的にはタミル語が母語だが中等教育まではマレー語で受け、高等教育以降は英語主体、というような多言語混合な人を見るといつも疑問に思うことです。どの言語が母語か、と訊いた場合とは別の返答があったりして興味深いです。

英語というのがスレッシュの回答で、私としては疑問が残りました。だってさ、そうやってタミル語やマレー語が死滅する可能性を加速させることに感傷はないのかしら、と思って。どうやらスレッシュはとってもプラグマティックなようでしたが、私にはそこまでさっぱり日本語を切り捨てることは到底できないなぁ、と思うのです。そんな風に駄々を捏ねたところで、いつか将来日本の子供たちも生存のために日本語を捨てる日が来るのでしょうか。

昨日何気なくテレビをつけたら岸恵子が出ていました。
娘が日仏ハーフで英国人と結婚したとか。
孫達は父親とは英語で、祖母とはフランス語で話すのだそうです。
で、日本語はこれからなのだとか。
・・・・・・まあ二の次でも勉強してくれるだけ有難いのかな?
しかしどうやら十歳過ぎているようなのでどの位流暢になるかは疑問な気もします。
なんか言葉の運命ってハードボイルドですねぇ(笑)

もし私が世界で最後の日本語話者になったら・・・・・・最後の一人だったら。
何を日本語で言っても解する人が世界中に誰もいなかったら・・・・・・
私よりも年下の人で日本語しかできない人が沢山いる以上、
ほぼあり得ない想像ではありますが、やっぱり哀しい気がします。
ネトルの言うことは正しい。言語は好き好んで自殺などしない、と私は思ってしまうのですが。

さて、今日はひょんな理由からシェイクスピアの『Julius Caesar』を読んでいます。
論文に引用されている箇所のチェックをしないといけないんです。
古英語は苦手なのでやれやれです。読んだのは当然、

Friends, Romans, countrymen, lend me your ears;

で始まるMarcus Antoniusの有名な演説です。

この演説を読むと、「日本の演劇でこんな風に大衆に語りかけるシーンってあんまりないよなぁ。西洋はスピーチを重んじる文化圏だなぁ」と思いそうになるのですが・・・・・・Antoniusは同じ演説の後半でこんなことも言っています。

I am no orator, as Brutus is;

は?

ていうかこれだけえらい演説かましておいてなんだそりゃ。なめとんのか。
挙句の果てに、

For I have neither wit, nor words, nor worth
Action, nor utterance, nor the power of speech,

ときたもんです。
で、直後に民衆が「うおー、ブルータスの家を焼き討ちだー」と叫ぶ。
えええええーーーー!???
・・・・・・ていうか、えええええーーー!???

で、思うのですが、何だかんだ言って、あっちでもsilver toungueは多少敬遠されるんじゃないですかね。下手するとsophistの汚名を受けかねない。それで、「あっしは語る言葉も持たない無骨物で・・・学のある言い回しの一つもありやせんけど・・・あっしの心が言ってるんでさ・・・あんかたぁ、良い方だったって・・・よよよ・・・」とやると実は日本と同じように結構ウケる。・・・・・・のかな????スーパー・パゴールの世界。・・・・・・ていうか本人極めて饒舌なだけにそれってかなり悪辣な煽動家ぶりに思えますが・・・・・・(汗)

正直読んで困惑気味な私です。
何これ?どう解釈すれば良いの?
うーーーん・・・・・・困ったなぁ・・・・・・(途方ーん)

私は例えば伊勢物語だの為朝物語だのを読めば、その心情分析にある程度自信を持つわけです。それは全く根拠のない自信で、当時の人の風俗に無知な私はとんでもない勘違いをしている可能性が高いわけですけれども、それでもJulius Caesarを読むときほどには惑わない。勧進帳で弁慶の飛び六方を見ればそこに必死に主君の後を追いかける家来の誠実さを見るし、那須与一と言われれば海上の船に掲げられた扇の絵面がサッと頭に浮かぶ。そういう傍若無人ぶりというのは、時に間抜けであっても、やはり芸術を楽しむ根底にある。しかもそこには自分で認めたくないほど、内と外の区別がある。

結局そういうことなのではないのかな、と思うのです。

私は特定の文化背景を5世紀頃のものから「これがあなたのよー」と刷り込み教育された。小学校の頃は鎌倉が近いですから源平の話とか静の舞とかよく聞かされました。そんでもって奈良・京都あたりには必ず修学旅行で行く。(うちは高校時代更に遡って出雲も行かされました。)それが私を言語について保守的にさせるのではないでしょうか。私にやたら感傷を抱かせる。

マレイシアの人は、どうやらマレー語の古い文学を学校で教わっていない様子です。タミル語ともなったら尚更でしょう。だからこうした言語の保護に執着が薄いのではないでしょうか。や、わかりませんけれども。

実は結構欧米の人にも言えるのかも。最近ラテン語を教える中等教育は少ないみたいですね。一番古いもので、シェイクスピアを1作品か2作品、高校で読むかどうかってところのようです。それ以前のものはなし。(それって私達が『忠臣蔵』より昔のは知らないわ、っていうのと同じような感じじゃありません??そう考えると凄いです。) ギリシア・ラテンの文学(日本での漢詩にあたる?)なんてぜーんぜんみたいですね。

以前山手線に乗っていて、『AIDA』の宣伝が中吊りされてたんですよね。それでその時いたコーチ達が、「一体全体Australasians Intervarsity Debate Association以外にAIDAって略称になる言葉があんのか」って笑い転げてたんですよ。

いや、あれはビビリました。
・・・・・・それ、略称じゃないだろ!!!

そう、オーストラリアから来ていたコーチたち、確かこの時は4人でしたが、誰もAIDAがギリシア悲劇を基にしたオペラだと知らなかったんです。
(・・・・・・私は最初にディベートの方のAIDAを聞いたとき、 「なんでよりにもよってそんな悲劇的な名前つけんだろう・・・」と思いましたが、つけた人達が劇のAIDAを知らなかっただけなのね・・・・・・)

言語(とそれに伴った歴史・エピソード・芸術など)によるアイデンティティというもの自体、ひょっとしたら彼らにはあまり馴染みないものなのかもしれません。それはそれで幸せなのかもしれません。

「地球上で自分がこの言葉の最後の話者になってしまったら」

そういう想像は、皆さんに恐怖感を抱かせますか?
後の世代にも漢文や古文を学んでもらいたいですか?
それが単なる感傷だとしたら、感傷を捨て実用的な教育をする方が建設的だと思いますか?

ちょっと考えてしまいます。

Tuesday, May 08, 2007

[Novel] 魔法飛行 L'Envolée magique


[本] 加納朋子. 2000. 『魔法飛行』. 東京創元社.

ふっかーつ!
忙しすぎた日々もあともう少し・・・・・・だと良いなぁ・・・
流石にちょっと体力的にへばり気味ですが、ま、がんばります。

『魔法飛行』は加納朋子の小説の題名ですが、
シャガールの絵のタイトルからとられたものです。
絵のほうは私にはちょっとハテナ・マークが残りますが、
小説のほうは目茶目茶ストレート・フォワードです。
ヘンなカタカナ語を使うと文章が不気味です(笑)

この小説は真っ直ぐすぎて気恥ずかしく、でもたまに開いてしまいます。
お話自体は小説家志望の女の子と謎の人物との手紙によるやりとりという、
他の加納作品同様割と地味な設定です。
けど書いてあることは異様に大きいです。
そのことが、嬉しい時と腹立たしい時とあるんですね。

そういえば最近広い空を見ていないかもしれません。
家の近くは立て込んでいる上並木があるので空があまり見えないんですね。
うーん・・・久しぶりに『宙の名前』でも開けてみようかな。ってそれじゃダメか(笑)

ところで今年は日本から初めて高校生の世界大会(World Schools Debating Championships)へ参加するチームが出ます。昨年末の全国大会で優勝したチームで、女性2名男性1名の3人チームです。これがまた利発で大人びた皆さんで・・・・・・私が高校生の時は断じてあんなに落ち着いていませんでした(汗)練習の様子を見ていても成長が速いので、私までワクワクしてしまいます。彼らを間近で見れるのは、ちょっと「空を見る」行為と似ているかもしれませんo(^v^)o ただ国際大会の厳しさも分かるだけに緊張もします。今まで彼らの先生役を務めてくれたローランドもスレッシュも、自分のことのようにドキドキしてくれているようです。でもいくらドキドキしても「楽しんできてくれますように」と祈ることくらいが私達にできる精一杯です。私達の大会ではなく彼らの大会ですから。ううー、それでもやっぱりドキドキします(笑)

いかんせんバンクーバー以来、何だかどう頑張ってもどうにもならないんじゃないかと暗くなりがちな私ですが、高校生の初世界大会チームを見たり、ちょっと遠ざかって十年前の大会を振り返ったりすると、何だか少しは救われる気持ちになります。牛歩の如し・・・だけど前進してるの・・・かな・・・?まあ、ボイジャーよりは分の良い夢を見てる筈なのかな。しかし夢が実現するのをこの目で見るためにはどんなに長生きしなきゃいけないんでしょう、私・・・・・・(苦笑)気分が少しは好転したこと・・・悔しいからティムにはまだ教えないどこうっと(笑)


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 文字とは所詮記号であり、文章はその羅列にすぎない。世界だとか人間だとか自然だとかいった、形の定まらない奇妙なものを、記号の中に封じ込めることはなんて難しいんだろう。
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「地球で一番大きな手紙ですね。異性人に宛てた」
 考えていることが口に出て、思わずそんなことを言っていた。卓見さんはぱちりとまばたきをしたが、それから白い歯を見せてにかりと笑った。先刻見たばかりの、お菓子をもらった子供たちの笑顔によく似ている。
「うまいことを言うね。手紙ならさしずめ、ラブ・レターってやつかもな。<おおい、我々はここにいる。こっちを向いてくれ>ってね。パイオニア十号だって彼らへの手紙を積んでいたし、ボイジャー一号と二号だってそうだ」(中略)
 私が首をかしげたのを、別な意味にとったのだろう、卓見さんはふいに生真面目な顔になった。「もちろん、実際に宇宙人がそのディスクを手にする可能性なんて、万にひとつもないだろうさ。ボイジャー二号が一番近い恒星に接近するのは、四万年後の話だからね。その次となると、十四万七千年後、さらに次は五十二万五千年後だっていうんだからさ、確かに首をかしげたくなるのも無理はないよ。夢みたいに気の長い話だからね。だけどだよ、夢は未来につながっていた方がいいに決まってる。そう思わないかい?
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 今の子供たちの多くは、ひょっとしたらまるで空を見ないんじゃないかって気がすることがある。それはひどくつまらない、そして恐ろしい想像だ。空を見ようとしない人間に、進歩なんてないと僕は思うから。そして進歩のないところには、未来などないとも思うから。
 だから君の物語に登場したような少年たちの存在を知ることは、僕にとって嬉しい驚きだった。
 君が出会った子供たちは、紛れもなく小さなライトであり、ロベールの子孫であり、モンゴルフィエの弟子たちだ(航空史上に、揃って彼らが兄弟でその名を連ねていることは、いかにも面白い符号だね)。ライト兄弟が飛行機で、そしてロベール兄弟やモンゴルフィエ兄弟が気球で空を飛ぼうとしたように、少年たちは彼らのやり方で、空に近づこうとした。凧や風船などといった、魅力的な小道具を使ってね。
 大空に対する、限りない憧れ。自由に空を飛びたい、という気持ち。それは人間の最も純粋で真摯な願いだとは思わないかい?
 そして、大気圏の彼方、遙か宇宙の果てに同胞を見出そうという気持ちもまた、そんな願いの遠い延長線上にあるんだろうと思う。
 我々が銀河系内で唯一絶対の存在であると自惚れて、安心していられる連中はいい。彼らには、見えない相手に向かって数限りないラブ・コールを送り続ける人間の気持ちなど、決して理解できないだろう。遠い宇宙に向けて、「ハロー」と通信を送ってみる。呆れるほどに長い時間をかけて、それが見知らぬ星の、まだ会ったことのない誰かの許へ届く。そしてその誰かから、ふたたび長い長い時間をかけて、彼らの言葉で「ハロー」という返事が返ってくる・・・・・・。
 それがどれほどに深い意味を持つことなのか、空を見ようとしない人たちには到底理解できないだろう。
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 彼女の思いは、作品のキーワードにもなった言葉、<魔法の飛行>に、最もよく表れている。どうもどこかで聞いた言葉だと思っていたら、マルク・シャガールのリトグラフの中に、同じタイトルの作品があるんだよ。知っているかな?実にロマンチックな絵だよ。愛する恋人の許へ、ピンクの花束を抱えた男が宙を飛んで会いにゆく。女性の目は驚いたように見開かれている。だが、彼女の手はすでに、男を迎え入れるように相手の方に伸ばされている・・・・・・。
 人から人へ向かう心というものは、魔法の飛行そのものだと思わないかい?二人の間に横たわる時間や空間、それに考え方や価値観の相違、様々な実際面での問題―そういった諸々のものを、ときに人はなんて軽々と飛び越えてしまうんだろう。
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