Monday, April 30, 2007

沈黙の罪 To sin by silence

To sin by silence when we should protest makes cowards out of men.
(Ella Wheeler Wilcox)

映画『JFK』の冒頭に掲げられる引用です。

昨夜NHK総合で21:00から放映された「日本国憲法 誕生」という番組を見ていて、数年前公開された極東委員会の資料も紹介されていました。それを見ながら母が、友人の中に公開されたその日に件の資料を閲覧しに行った方があると言います。なんでも、さぞや学者や報道陣が殺到しているであろうと思って行ってみたら日本人は誰一人閲覧希望に来ていなかったと憤慨されていた、というのです。

全くじゃないですか。
なんて酷い話だろう。
そんな大切な日に駆けつける人がないとはどういうことか。
この国には1億人もいるんじゃなかったですか?
学者は、報道者は、外交官は一体どこへ行ってしまったのか。
その方の嘆きもご尤もなことと思いました。

JFK暗殺に関する記録が公開される日は、どれだけの人がその資料を求めて駆けつけることになるでしょうか。(そういえば長崎市長の暗殺は結局動機不明のままなんでしょうか)

さて、沈黙の罪。

無知が罪だといったり、沈黙を罪だといったり、やたら罪深くて忙しいことだとお思いでしょうか。
いや、まあ、でも茶化さないで話しまして、確かに沈黙することも罪だと思います。
沈黙は無知を生みます。だから罪深いように思います。

例の「日本国憲法 誕生」ですが、よく煩型の人達がケチをつけなかったものだ(ほら、圧力かけたのかけなかったのとよく世間で話題になるじゃないですか?)と感心するくらい、政治的なメッセージが明確なドキュメンタリーでした。

憲法だの歴史教科書だの安全保障だのの話というのは、やはり日常では敬遠される話題ですね。なんだってそんなきな臭くて色気のかけらもないような話題を持ち出さなきゃいけません?十年前は今よりもっとずっとタブー視されていたような気がします。私の記憶は薄ぼんやりしているわけですが、湾岸戦争も拉致問題もそ通過していなかったそのまた十年前はもっとだったのではないでしょうか。

二十年前私は小さな子供だったわけですが、祖父が黙って海を見ているときや大叔父の墓に向かっている時には、尋ねたい言葉を呑み込んだものでした。黒かったはずの祖父の瞳が薄暗い日の海のようにブルーグレーに見えたものでした。(今では後悔しています。たとえ傷を抉ってでも、たとえ自分が幼すぎると引け目を感じたとしても、それでも訊いておくのでした。)

タブー視した気持ちもわかります。
心情としてはほじくるのが躊躇われる話題だし。
理性的にはきな臭いし。
右だの左だのレッテルを貼られたくなければ黙っているのが賢明です。

でも・・・・・・
声が上がるべきだった曲がり角を、もう何度も曲がってしまったんではないでしょうか。
それは自衛隊の活動が拡大されたからとか憲法の改正が議論されているからとかではなくて。

私達があまりに無知だから。

ろくすっぽ議論せずに黙り込んでタブーをタブーのままにしてきたから、
だからこんなにも無知になったんではないでしょうか。
臆病のために沈黙してしまった罪がふくれあがりすぎてしまったのではないでしょうか。
こんなにも無知で許されるのでしょうか。

2300万人が亡くなったと言われる惨禍から学ぶことを疎かにするのなら、
惨禍を減らすための叡智を必死に探すことなく、
万が一にも歴史を繰り返したなら、
その罪はどんなに深いでしょう。
その時には、それは曽祖父母たちの罪ではなくて。
その時には明確に私達の罪なのでしょう。

資料公開日に誰も閲覧に行かなかった。
それが「この国のかたち」なら、私はそのかたちが嫌いです。

皇室を批判するコメディアンが嫌がらせを受け、
受勲を辞退するノーベル文学賞受賞者が脅され、
ビラを配る市民団体が警察に拘留され、
政府の外交方針と異なる発言をしたコメンテータが更迭され、
靖国参拝に反対した議員の実家が放火され、
反戦を訴える地方自治体の首長が暗殺される。
それらに揺さぶり起こされることのない社会。
それが「この国のかたち」なら、私はそのかたちが嫌いです。

自分だって臆病者だから、発言する怖さはわかります。
自分の無知は自分を余計に臆病にさせます。
でもだからこそ、臆病心と闘って発言する人たちの苦難に敏感でありたい。
彼らを守るための声は挙げたいと思います。

いついかなる時でも、言論の自由は社会の命綱だと。
戦後の混乱の中にあった民間の憲法研究会。
言論封圧の中で投獄された言論人たちの集まり。
その質の高さに目を見張る時、
"I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it"
という言葉が心に甦る気がしました。

今日は二人、後輩が一緒に勉強しに来てくれました。
いつか彼らの声が必要とされる時、声を持つ人で居てくれますように。

JFK暗殺の資料公開は2029年です。
極東委員会の資料は・・・・・・もう公開されています。



追記: 靖国合祀問題の資料が4月18日、国会図書館のホームページで公表されました。
http://www.ndl.go.jp/jp/information/news.html#070418_01

Saturday, April 28, 2007

弱点 Weakness

昨日に引き続きだらだらしたことを書いてしまうことにします。

最近どうにも気になることがあります。
意識しなくても結局毎回同じことを感じてしまう。試合を見ると。
現在の日本の選手の弱点には明確な共通点があると思う。

それはレレバンス。

どうして?ホントに。
8割から9割の試合がイレレバントなセッティングで始まってしまうため、
最初の2スピーチを聞いた時点で大変苦痛な試合になるんです。
また、8・9割の選手があまりにイレレバントで場外になるので、
無難で妥当なことを言えれば勝ててしまう。

つまらん。

まともな試合になった上で、面白い試合とそうでない試合があるわけで、
それ以前にまともなクラッシュのない試合が多すぎて上手下手を話す段階になかなかならない。
一体どうしたわけでしょう。

(実はもっと深刻なことに、審査員や観衆がイレレバントさに気がつかないで平然としていることさえあるようになり始めたような気がします。これは真面目に不味い気がします。)

先日日曜日に大会に行って、確か4試合ほど見たわけですが、
上手い下手の話に持ち込めるのは決勝戦のみでした。
おっかしいなぁ。2年ほど前はもう少し平均値が良かったような気がするのですが・・・

中津燎子が『英語と運命』の中で、主催しているコミュニケーションの塾について書いています。
日本人の特に大人は、どんなに一生懸命トレーニングしてもらっても、
ダイレクトに返事をすることができるようにならなくて、
何故かズレてしまうのが治らなかった、と。
最初わざと誤魔化しているのかと思ったがそうではないらしい。
あれは日本人の奇妙な病気だ、と。

最近本当にそういうのって本当なのかも、と思ってしまいそうです。
だってオカシイでしょ、どう考えても。
いわゆる「とんでもケース」の割合がありえないほど高いもの。

で、一体この奇病の発生源は何なのだろう・・・と考えて、
とりあえず数種に分類してみました。
それぞれに典型的だと思った事例を添えてみます。
現実にはそういう「は?」と思わされるセッティングが数知れずあって疲労感がたまります。

(1)英語力の問題(・・・なのか?)というパターン

THBT all you need is love. (2月にあった大会の決勝戦の論題です)
って言われて体罰を持ってきたケースも明らかにわざと真っ芯外したとしか思えなかった。
(loveって言われてtough loveと定義しようっていうのもひねてるけど、
all you need is なら「さえあれば」と取るのが普通なので、
たとえtough loveとするのをありとしても「体罰『さえ』あれば良い」としないといけないわけです。
あの決勝戦のケースは「時には体罰もあって良い」という設定なのでイレレバントの極地です。
マライア・キャリーがAll I want for Christmas is you.と歌った時に、
「時にはあなたも居てくれて良い」と訳したんじゃロマンチックもへったくれもないじゃないですか。)

おそらく世界大会のEFL決勝戦もこのパターン。
lift sanctionと言われて制裁を解除するどころか更に厳しい措置を採ってしまったケース。
話題になった爆撃ケースです。
よしんばliftを「下げる」ではなく「上げる」に解釈してしまったのだとしても、
普通爆撃はsanctionとは言いません。

これは英語力の問題・・・なんですかねぇ・・・???
まあlift sanctionの方はそうなんだろうと思います。
また、本人達も「やらかしてしまった!」と言っていたので別に問題ない気がします。
まあ、そういう事故ってありますよね。緊張してると特に。

けどall you need is loveはねぇ・・・
なんだか選手も聴衆もケースがイレレバントだと思わなかったみたい。
どういうことなんでしょう・・・・・・?
中学英語の構文なので冷静に考えれば流石に分かりそうなもんです・・・
とするとやっぱり「何故かつい真っ芯を避けてしまう」病なのでしょうか・・・?

(2)論題を丸無視してしまうパターン

こないだの日曜日だと、conciencious objectorの試合もこれでした。
THW legalize conscientious objectors in the armed forces.
私が見たのは何故か「韓国のエリート/特殊技能者一割に兵役免除」というケースでした。
(ちなみに1割には遠く及びませんが現在でもあるシステムなので、
そういう意味でも駄目なケース・セッティングです。理念上の対立が全くないです。)
これは特殊技能者なら自動的に免除されてしまうようなので、
objectorとはまーーーーったく関係ありません。何なんだ、一体。

他にセッティングした本人に聞いたものだと、
THBT teachers should tell students “Thou shalt not commit adultery”.
を、学校でのコンドーム配布というケースにしたとか。
コンドームの使用と不倫がどう関係あるんだ?????
なんなんだ!一体???

こういうのは何なんですかね・・・?
どう考えても本人達も「ちょっとズレテルかも?」という認識はあったのではないかと思うのですが、なんで敢えてそういうセッティングを出してしまうのでしょうか・・・?やっぱり「つい真っ芯を外しちゃう」病?

ちょっと気になるのは、両方とも同じ大学が肯定側だったことです。
なんとなく練習のしすぎで、自分達の知っているケーシングに無理矢理こじつけてしまおうとしているのではないかと思います。練習でやったことのあるのでないと出せない、というのでは歌舞伎の世界です。時事性や社会性を重視するディベートでそんなことをされては意義がふっとんでしまいます。うーん・・・大丈夫かなぁ・・・

(3)ディベート自体への理解に問題があるパターン

先ほどのall you need is loveの試合の否定側がまるっきりこのパターンでした。
NAFA系の大会で出すなら問題ないが、いわゆるパーラで出すのには全く適さないケースでした。
というのは、「叩いちゃまずい。怒鳴りつけよう」というセッティングだったんです。

なんだそりゃ。

この試合を決勝戦で見てしまうというショックを受けて以来、
機会あるごとにパラダイムのレクチャーをしてまわっているのですが、
つまるところパーラメンタリー・スタイル自体への理解が浅いということなのだろうと思うのです。
パラダイムを理解していない。

パーラメンタリー(通常パーラメンタリーと言えばBPのことで、AAやNAは含まれません。が、何故か日本では誤用されたまま即興性のディベート全体がパーラと称されているままです。ここでは敢えて誤用のまま用います)スタイルは、基本的に比例代表選挙をモチーフにしています。

たとえば自民党が「憲法を改正すべきだ」と言ったら、民主党は「改正するべきでない」と言わなければなりません。自政党の独自性・差別化を押し出さなければ有権者がその党に票を投じる理由ができないんです。なので、民主党に「僕も改正すべきだと思うんだけどぉ。。。ここの部分のこことここらへんはちょこっと変えたほうが良いんじゃないかな、と思うんだけどぉ」とか言うオプションはありません。分かりにくいからです。とにかく立場のコントラストを明確にすることが至上命題です。クラッシュを創出して始めてディベートが始まります。

尻をひっぱたくか怒鳴りつけるかでは、両方とも「tough loveを与えるべきだ」という立場になってしまうので論外です。パーラのパラダイムでは、それではディベートになりません。

・・・・・・ここら辺の「ポリシーの影響を奇妙に受けたパーラ」という独自の事情を抱える日本では
ある程度仕方ないのかもしれませんが、まず決勝戦でみたくないし、パーラしかやっていない大学に見せられるのはあんまりな気もします。やっぱり、流石にファイナリストは自分達のスタンスがなんかズレてるというのは分かっていたのではないかと思うんです。でも「何故か真っ芯を避けちゃう」病??なんでしょうか・・・・・・?

(4)イシュー選択に問題があるパターン

これが異様に多いです。
感覚的には失敗する試合の5割はこのパターンではないかと思います。
スタンスまではまあ多少クラリティに欠けるが何とかなった・・・その後。
「そこじゃねーだろ!!!」と叫びたくなるような議論が飛び出してくるパターンです。

こないだの日曜日だと、THW ban face veils in school.と言われて、
学校での苛めの問題を延々と語るとか。
いや、そこじゃないだろ!!の極地でした。
救いは、否定側がちょっと具体性に欠けてはいたものの割りと方向がまともだったこと。

同じ日、この直後、THW prohibit any kinds of pornography on the Web.
の否定側が失業問題について熱く語ってしまうのを見てしまいました。
いや、ホント、そこじゃないだろ!!
実はこの試合は肯定側も「未成年者の視聴を防ぐため」というのがメインで、
これまた、そこじゃないだろ!!という気持ちが拭えないものでした。
わざわざ「any kinds of」とまで入れているのだから、相当クラシックなそもそも論を期待していたはずです、論題選考した人は。それをそんな小さなグループに落とし込まれては・・・・・・もう何なのさ。
まあそれでも否定側よりはずっとマシでしたが・・・

同じようなパターンで、一年前の東工大杯の決勝がありました。
Japan should have real armyと言われて、
「自衛隊を日本軍と変名する」というケースを出してしまった肯定側。
いや、真面目に、そこじゃないだろ!!!!
なんでそうやってわざわざ真っ芯外すわけ??

(5)知識に問題があるパターン

これは海外でもみかけるので、日本特有ではないと思います。
が、日本ネタでこれがあると眩暈がします。

そう、これが今年の東工大杯の域内共通歴史教科書の試合ですが、
これはいつかまとめて書くことにしたいと思います。

とりあえず、ルシアに「日本人だって日本のこと全然知らないジャン」と言われて
ぐうの音も出ませんでした。
これまで「日本人が馬鹿で無知なわけじゃない。大会でのトピックが日本人に親しみの薄いものに偏っているだけだ。我々の地域のものを出してくれれば質の高い試合を提供できる」と、論題の地域代表性の重要性を話して回ってお願いしてきていただけに大打撃でした。ホントまいった。

だってさ、セルビアやソロモン諸島についてのディベートでちょっと知識が足りなくてしくったセッティングしちゃったとしても、「日ごろ触れる日本語メディアにほとんど出てこない」という構造的な問題があるけど、歴史教科諸問題で「情報の取得に困難がある」というのは無理じゃないですか。それで同じようなレベルの試合をしてしまっては・・・・・・正直お天道様に顔向けできません的な気持ち。もうティムとかにお願いできないよ・・・・・・はあ、ホント、あの試合は困りました・・・

まとめ。

ディベートにおけるレレバンスというのは、つまりは「空気を読む」ことだと思います。
つまり日本のディベータには空気を読めない人が異様に多い!!!
「空気を読む」ことが一般的に日本的とされていることを考えると何だか奇妙な気がします。

たまにやってしまうのは仕方ないと思うんです。
私も何試合か忘れられないアホなセッティングをしてしまった経験があります。
(具体的にはICUTの決勝のクォータ制を出すべきところでワークシェアリングを出しちゃったのとか、IDC3の決勝の否定側で温暖化をインパクト・ターンしちゃったのとか・・・)

しかしですね、現在のパーセンテージは異常だと思います。
ホント、なんなのだなんなのだなんなのだ。どうしてしまったのだ。
こないだの日曜日は実に4試合中3試合(伝聞のものを含めると5試合中4試合)、
最初の2スピーチで「論外ラウンド」になってしまったわけですから、
どう考えても異常だと思うわけです。

・・・・・・Dynamics of DebateだのResponssivenessだのはディベートの命です。
それが欠けてしまってはディベートにならない・・・
そもそもクッキー・カッターだのプリンシプルだのというのが流行ったのは、
Dynamicsを確保するためなわけですが、言葉ばかりが独り歩きしている印象があります。
どうやったら日本のディベートコミュニティに魂が甦るのでしょう・・・
とりあえず論題をきっちり読め、必要なら声に出して読め、って感じ?

・・・うーん・・・・・・ちょっと愚痴っぽくなっちゃった。
きっと自分で読み返してもやな感じの文章だ。
次回はもっと明るく書きたいと思います。

Friday, April 27, 2007

雷蔵 Raizo

すっかり間があいてしまいました。
前回書いたのはいつだったっけ・・・・・

やれやれ、何だか最近嵐のような日々です。

IDC8、やることになりました。
5月の3日~5日です。
(一日3000円です。参加を検討される方は是非ご連絡ください)
ていうかホント今回はもう無理かと思いました。
何がって自分が。擦り切れそう。神経とか日程とか色々。

まあでもスレッシュが来てくれるのは楽しみです。ちなみに彼も同期です。
アジア大会は1999年のチュラAsianが初めてだったんですよね、二人とも。
当時のビデオに映っているのを発見してしまいました。ひひひ。ノスタルジー。
その後のマレイシアの興隆の種を蒔いたのは他ならぬこの人だったな、と思います。
彼が始めてのアジア大会で、ビッドの呼びかけに「はい」ってその場で手を挙げたんでした。
あれは今考えても凄い度胸だったと思います。思い切りの良い人で行動力も半端じゃなかった。
その後何かと話題のコーチたちを雇い入れ、チームメイト達を増やしていき・・・・・・
本当にアジア大会開いちゃうわ、自分の大学を押しも押されぬアジア有数のチームにしちゃうわ。
今でこそ有名なあの某大学(マルチメディア大ヴォイスの初代なんですよー)ですが、
全ては彼とガラージュの二人から始まったんですよね。
そういうこと本人は吹聴しないけど、だからこそ同期としては尊敬してしまいます。
私にとってはちょっとした地上の星です。

2001年の豪亜大会で「日本のチームが勝てないのは何故だと思うか」と聞くと、
他の人が皆「ちょっと運が足りなかっただけさ」とか「わからない」とか誤魔化していた時に、
スレッシュは「英語だろう・・・。いや、ちゃんと見てみないと一概には言えないな。でも英語なんじゃないかと僕は思うな」と言ってくれました。この率直さと誠実さに胸を打たれ、以来ファンになりました。当時の日本人選手団の様子は今とは全然違いました。あの時にあれだけ誠実な言葉をくれたのは彼が最初でした。2002年のアジア大会で彼がベストスピーカに選ばれた時は嬉しかった。

その後もやっぱり私は変わらずこの選手のファンでした。2002年8月のIDC1で一人講師が突然来れなくなった時には一時はまだ若かったスレッシュに代わりを頼もうと思ったほどでした。その後ようやくその夢が実現して来日してもらえたのは2004年でした。嬉しかった。

政治に出てこない(そういうポリシーみたい)ので知る人ぞ知る影の英雄って感じで、
結局アジア大会のベストスピーカとして有名なのでしょう。
UTMaraをあそこまで育てたこともこの人は本当にひけらかさない。
アジア大会があんなことになってしまった時も、彼の言葉は暖かかった。
そういう誠実さとか選手への真摯さとかいったことの価値が分かるようにしたいと思っています。
それが末永くこのコミュニティで続けていくための唯一の羅針盤だと最近つくづく思うのです。

今回も実は急なお願いで査証の申請など凄く大変だったのに
快く引き受けてくれました。優しさが目にしみます・・・

会えるのは久々です。2005年以来?丸二年も会ってないんですね。楽しみです。

タイトル?全く意味なしです。

Monday, April 16, 2007

[Article] パラダイム評価の危機 The Perils of Assessing Paradigms

[論文] ザレフスキー, デイヴィッド. 1982. 「パラダイム評価の危機」. 『米国討論学会誌』. 18巻冬季号.141-144頁.

すぐ前のローランドの記事に対するザレフスキーからの短い返答です。
このザレフスキーという人は大変面白い人のようです。日本ではハイポの提唱者として有名ですが、そもそもの問題意識は「何のために討論するのか」だったのだろうと思います。彼は競技としての討論しか見えなくなっていく同輩達に警鐘を鳴らしたかったのではないかと思います。ハイポはそれくらい、サイド間の均衡とかフェアネスとかを度外視しているように見えて、それだからこそ面白いと思います。魅了される人が出るのも分かる気がするのです。

[Article] Zarefsky, David. 1982. The Perils of Assessing Paradigms. Journal of The American Forensic Association. vol.18, Winter. pp141-144

This article is a direct and rather short respond from Zarefsky to Rowland's article right before. Zarefsky seems a very interesting person. In Japan, he is well known as an advocator of Hypothesis Testing Paradigm. But it seems to me, his main target was to question the goal of debating. While many fellows were increasingly narrowing their perspective to one for the contest debate (for example, Rowland's justification of his standard was the format of contest debate itself and it is indeed, I think, weak.), Zarefsky wanted them to realize what is the core value of debating. At least, he thought trophies were such a trivial part of debating as a whole. I guess, that is why, Hypothesis Testing Paradigm ignores the balance and fairness between sides of debates to a surprising extent. Regardless the "practicality" of this paradigm, I think his words are worth listening and no surprise at people being attracted by his words. Yes, I find him very charming. :) Although I disagree with Zarefsky on his statement that "a paradigm can be discredited only through ad hominem arguments." (I don't think the discussion over paradigms should be shut down simply because I feel that's the most exciting beauty of debating!!), I still find him very lovely.

--------------------------------------------
But if the starting point of analysis were the contest debate then the inquiry into paradigms would be trivialized.
--------------------------------------------
But the analogy is weak, because the goals of argumentation are themselves is doubt.
--------------------------------------------
Paradigms cannot be assessed against the goals of an activity when the goals themselves are in dispute.
Nor does Rowland's decision to focus specifically on contest debate help here. He asserts, "The ultimate goal of debate is to teach people how to argue effectively." But this statement conceals more than it reveals. What does " argue effectively" mean? If it means "successfuly," then the statement means little more than that the goal is to teach people to win arguments. If it means "realistically," then the goal is to model arguments on those in the public forum. If it means "creatively," then the premium is on novel arguments. If "analytically," then the goal stresses formal and informal reasoning. The point is that we really cannot say with anything approaching the agreements one finds in sience, just what the goal of argumentation and debate is. And without agreement, we cannot evaluate paradigms reliably to see how they function in achieving the goal. The paradigm and the goal are bound up together.
--------------------------------------------
But each of Rowland's other four standards is flawed. The "fairness" standard assumes that the starting point of analysis is the competitive debate activity;
--------------------------------------------
Within one paradigm, "justification" arguments are strong; within another they are irrelevant. Asking questions about an opponent's evidence counts as clash within one paradigm; within another a counter-argument is requirred. Terms such as "weak argument" and "clash" are hortatory, but what they mean depends on the paradigm one assumes. Hence they are not paradigm-free standards which can be employed in comparative assessment of paradigms.
--------------------------------------------
Probably my strongest disagreement is with Rowland's fifth standard, that the paradigm "should operate within the current form of deate." I do not champion innovation for its own sake, and I think that most current paradigms do fit within debate's current form. But to make of that correspondence a standard is to commit a multitude of sins. It trivializes the choice of paradigms by making the contest activity the starting point for a theory of argument, rather than the other way round. It ignores the adaptability of contest debate formats and procedures - "the current cross exam debate format" has not been in continuous use, and no debate format is set in stone. It treats "the current form of debate" as monolithic, ignoring the rich variety of formats and procedures. And it means that the inevitable changes in format will be made randomly and in response to fads, rather than in a systematic way to bring contest debate closer in line with a paradigm of general argumentation.
---------------------------------------------
Rowland correctly states my belief that "the form of debate should be shaped to the paradigm," but adds, "The search for a more perfect format for debate is certainly a laudable goal, but it is not relevant to the point at issue." The point at issue, though, is not experimentation with formats; it is the establishment of a principle of hierarchy.
---------------------------------------------

[English vocab for masako]
peril, adherent, induce, assent, probative, conducive, slippage, moot, antecedent, hortatory, set in stone, monolithic, fad, exalt, put the cart before the horse, tenable, formidable,

Sunday, April 15, 2007

[Article] パラダイム評価の基準 Standards for Paradigm Evaluation

[論文] ローランド, ロバート C. 1982. 「パラダイム評価の基準」. 『米国討論学会誌』. 18巻 冬季号. 133-140頁.

基本を網羅した好著。

ディベートのパラダイムについてこれから勉強し始めよう、という方にはこれをおススメします。それか、アーリックの『教育ディベートの審査』のどちらか。両方とも大変わかりやすく概観を提示してくれます。

[Article] Rowland, Robert C. 1982. Standards for Paradigm Evaluation. Journal of the American Forensic Association. Vol 18, Winter. pp 133-140.

Covering the major paradigms and their basic studies.
This is something I recommend to read for somebody who is about to start learning about debate paradigms. Or Ulrich's "Adjudicating Academic Debate". Both of them give us good grasps.

-------------------------------
The choice among paradigms is now the dominant theoretical issue in debate. Not only do disputes over debate theory increasingly focus on the contest among debate paradigms, but specific debate theories and tactics are often understandable only within the frame of reference provided by a paradigm. And in many cases, the justification for a theory or tactic comes from a paradigm or model of debate.
-------------------------------
In addition, scientists operating within different paradigms often perceive very different realities, even when looking at the same data:
-------------------------------------------
Not only do debate paradigms provide the standards by which judges evaluate debates, but paradigms actually determine what the judge perceives.
-------------------------------
The argument is the same, in each instance, but the way that the judge views it is governed by the decision paradigm.
-------------------------------
Here Zarefsky borrows Johnstone's use of the term ad hominem to suggest that the world views flowing from competing paradigms are so different, while still internally consistent, that no real argument can take place among the proponents of the different debate models. Kuhn makes a similar argument when he claims that the proponents of competing scientific paradigms often cannot understand each other because they see the world in such different terms.
-------------------------------

Saturday, April 14, 2007

[Article] 理性から感性へ From Logos to Pathos

[論文] バーブリア, ミッチェル.1997. 「社会心理学における理性から感性への移行と学術議論: 説得の社会学におけるポストモダンとポジティビズムの融和」. 『アーギュメンテーション』. 11巻.35-50頁.

残念ながらこの論文はしっくりきません。

コミュニケーションの困難さは、確かに「世界観」の違いに起因するのでしょう。けれど、それはロゴスとパトスの分類とは全く関係のないところにあると思うのです。

私達が一つの「事実」をめぐって議論する時、その過程(理由付けや例示)で必ず他の事実を巻き込みます。そうした事実に関しても同意できない時、世の中はどうやって事実認定をするのですか。確かに説得力かもしれない。けれど説得されるマジョリティが信じるサブ事実には根拠も何もなく、単なる刷り込みがものをいっているのではありませんか。

「ああ、この人と話しても無駄だ」と思われる瞬間、ありませんか。
あれは、議論の前提となる予備知識もあまりにかけ離れていて、とても一つの議論に終わらないために諦めているのではありませんか。
世の中にはそういう関係が山ほどある。母語が違うなら尚更です。
少数者の言葉は静かに、水面下で、音も立てずに殺されていくのです。
表面的には議論を尽くされた上での結論として、大事に扱われる「事実」が、真実を嫌うのです。
言葉の、コミュニケーションの暴力性とはそういうものだと思うのです。

[Article] Berbrier, Mitchell. 1997. From Logos to Pathos in Social Psychology and Academic Argumentation: Reconciling Postmodernism and Positivism in a Sociology of Persuasion. Argumentation. vol.11. pp.35-50

I regretfully admit that I have to disagree with this article.

The reason why interpersonal/intercultural/interlinguistic communication is difficult might be indeed because of the differences of "world view" but not necessarily pathotic difference alone. They can be as much as logical.

When we argue upon a piece of fact, we inevitably involve other "facts" in reasoning and providing examples. When we do not agree on such either, the disagreement becomes a lot more complex. Our "world-view" is formed based on huge accumulation of "facts". When the audience have particular bias on such fact judgements for sub-reasons and sub-examples, it is only and violently decided by audience's bias. It's nothing to do with "logos" "pathos" distinction, I suppose.

I wonder...

...if communication just kills weaks softly in this silence, why do we wish to communicate this hard......? Where should we refind our enthusiasm after this futility?

[Abstract of the Article]
This paper argues that one can empirically test, via positivist methods, the post-modern attack on positivist epistemologies: Postmodern perspectives hold Knowledge and Truth to be intersubjective, consensus-driven social construction. But traditional scientific approaches to knowledge, exemplified here byh the cognitive social psycology of persuasion, seem pblivious to this and continue to detach the study of attitudes, beliefs, and emotions from that of knowledge, facts and reason. Abandoning these artificial distinctions in both epistemology and method woud enable this social psycology, reconstituted as a Sociology of Persuasion, to contribute greatly to illuminating the process of Truth and Knowledge construction in social interaction. Moreover, this would facilitate academic engagement in civic discourse.

--------------------------
In this paper, I wish to argue that if we are to understand each other, if we are to engage in interpersonal or intercultural communication, we must recognize the intersubjective bases to our truths and attend to the effective bases of knowledge. There is a role in civic life for academics (such as social psychologists) who take 'beliefs,' 'attitudes,' and 'knowledge' as their subject matter, but this role is dependent upon the recognition that knowledge is not a matter only of logical inference and reason (logos) but of persuasive rhetorical strategies aimed at aligning emotional ties to world-vies (pathos).
--------------------------

[English vocab for masako]
epistemology, intersubjective, exemplify, oblivious, pastor, align, murky, dialogic, inference, adhering, creed, sterility, esoteric, vibrant, myriad, dichotomy, preclude, nominalism, epitomize, deviance, snub, reifying, chasm, voluminous, scrutinize, cogent, disjunctive, spurious

Friday, April 13, 2007

[Article] 市民社会における意見表明の役割 The Role of Advocacy in Civil Society

[論文] ゾンペッティ, J.P. 2006. 「市民社会における意見表明の役割」.『アーギュメンテーション』.20巻. 167-183頁

一応一日に一論文読むことにしています。
知らない/自信のない単語は全て英英辞書の意味を書き写すので、
たった一つの論文を読むのも午前中いっぱいかかることもあります。
そんでもってパソコンの前で読めるときは忘れないようにこうしてメモを残します。
で、今日の分はこれ。
何だか暑苦しい文章でしたが何とか完読。
大上段に構えすぎた夢言はしばらくいいです……うっぷ。
暑苦しいっちゅうねん。もう少し具体的に書いて欲しいな。
特にthird spaceの説明がムッチャ胡散臭い。

[Article] Zompetti, J.P. 2006. The Role of Advocacy in Civil Society. Argumentation. vol20. pp167-183

My daily quota now is to read an article per day.
Because I look up every English word that I'm not confident about its meaning and write down whole definition of it, it sometimes takes a couple of hours in the morning.
And this is what I read this morning......
daaaa.... too much idealism in a day!
away too fishy......
wish there was explanation how we should create such "third space"...

------------------------------
Civil society for contemporary society should embrace the concept of the third space, as discussed by Bryant (1993), Cohen and Arato (1992), and Hauser and Benoit-Barne (2002). The third space envisions civil society as an autonomous sphere, separate from governmental or economic influence. The third space minimizes the amount of undue influence that can emanate from the state or the market. (p.180)
------------------------------
However, assuming there are enough citizens who have the ability and willingness to engage in civil society, how could their participation be improved? How could civil society be more influential in its relationship to the state and market? How can citizens feel more secure and enthusiastic about their participation? I believe that the skills of advocacy can help answer these questions. (pp.180-181)
------------------------------

[English vocab for masako]
resuscitate, ushering, theorize, cohesive, flourishing, burgeon, clamoring, deterioration, emulate, reinvigorate, notwithstanding, brute, harbinger, advent, proselytize, suffice to say, transpire, leverage, vis-a-vis, despotism, foster, third space, emanate, coercion, salient, populace, panacea, collusion, acrimony

Thursday, April 12, 2007

[Article] 言葉の泉に毒を盛る Poisoning the Well

(English version is following Japanese one)

[論文] ウォールトン, D.N. 2006.「言葉の泉に毒を盛る」.『アーギュメンテーション』.20巻.273-307頁

ていうかこっちは逆。和訳できません。
"Poisoning the well"にあたる言い回しが思いつきません。なんだろう。
argumentum ad hominem(これも和訳が思いつかない。人格攻撃?ちょっと違うか…)の一種で、「誰かが発言する事前にその人の信用を落としたり、特定の意味に解釈させやすくしておく」ことを指すようです。特定の民族(ユダヤ人や朝鮮人)が井戸に毒を盛ったという噂によって起きた迫害と関連している可能性もありますが、元々ニューマンが使った部分の説明で「Kingsley had poisoned the well of discourse」という用いられ方をしているので、まあ「言葉の泉に毒を盛る」という訳にしてみました。

内容は大変興味深く読みました。特に出てくる具体例がどれも示唆深かったように思います。

ディベートでは、私達が何者であるかは議論に影響しないのだと繰り返し教わるわけです。特に審査員を務めるときは、できるかぎりこうした「言葉の泉に毒を盛る」行為の影響から自由であろうと努めるわけです。しかし現実の社会は違うのでしょうか。また違うべきなのでしょうか。わかりません。私は、実社会でもディベータとしての信条をそのままにしていたい。けれど最近(特に例のバンクーバー以来)少し混乱気味です。

[Article] Walton, D.N. 2006. Poisoning the Well. Argumentation. vol.20. pp.273-307

mmm... this one is opposite. I can't translate this to Japanese.
What's Japanese word for "poisoning the well"??
It's a kind of argumentum ad hominem but points only ones done preemptively.
mmm... for now, I just translate it as "Kotoba no Izumi ni Doku wo Moru" considering the Newman's usage of this phrase.

The content of this article is very interesting. I especially enjoyed examples.

In debating, we are repeatedly taught that it doesn't matter who we are, that argumentum ad hominem should not be awarded. We especially try to avoid to take "poisoning the well" type of "fallacy" in count when we adjudicate. But is "real world" outside of debating different? And should it be different? I don't know. I hope to stay consistent. But I'm recently(especially after Vancouver) a bit confused on this.

(followings are citation from the article)
---------------------------------
The poisoning the well type of argument can be very dangerous. It can shut down a discussion by disqualifying one arguer from putting forward any argument, no matter how good it is, or how much it based on good evidence, simply because any argument he puts forward will always be seen as simply reflecting this same bias. His (or her) arguments will always be seen as biased and one-sided, and therefore limited and unconvincing. If disqualified as arguments that only promote or advocate an interest, pushing ahead covertly for gains for an interest group, they can be discounted, even though they may have merit, and be worth considering. (p.276)
----------------------------------
The attack can be based on several grounds. One is an allegation that the arguer has a character that is ethically bad in some respect, for example that he is a liar. Another is that his personal circumestances are in conflict with his argument. Another is that he is biased - for example, it might be argued that he has something to gain by taking the view he does. (pp.278-279)
----------------------------------
And indeed, if a person has a bad character for veracity, for example a witness in a criminal case, then attacking that person's character in order to make his or her testimony seem less plausible toa jury can be a reasonable form of argument. For example, in legal argumentation, it can be admissible as evidence for an attorney cross-examining a witness to attack the character of the witness for honesty. Because this type of argument is sometimes legitimate, it is something of a misnomer to call it the "abusive" ad hominem argument. In Aristotle's Rhetoric (Garver, 1994), argument from ethos (character) was regarded as highly important in public speaking, and in rhetoric of all kinds, and was recognized as a legitimate kind of argumentation. (p.286)
----------------------------------
In the bias type of attack, the arguer is said to have a personal bias, often in the form of a financial interest or something to gain. For example, suppose a speaker in an environmental debate, who has played down the damage of acid rain in the debate, is shown by her opponent to have ties with a large industrial corporation. This corporation may have much to lose by costly environmental controls that might be placed on industrial pollution. (p. 287)
-----------------------------------

[English vocab for masako]
irreducibly, presupposition, innuendo, smear, perverse, stalemate, deteriorate, forestall, construe, taint, argumentum ad verecundiam, diffident, retort, contend, close off, tu quoque, veracity, whiff, lingering, misnomer, adept, virtue

[Comic] 愛すべき娘たち All My Darling Daughters

can't translate this into English...just can't.
writing about politics, economy and stuff is not difficult.
but don't know how to express my feelings in English yet...
hopefully someday... :)

[漫画] よしながふみ.2003. 『愛すべき娘たち』.白泉社.

傑作。

最終話まで含めて5人(一応雪子を中心としてその周囲5名)の女性達が出てくるわけですが、どれも唸らされるくらいドラマチック且つありそうな話(第二話を除く)。それぞれの心情に共感してしまう(またまた第二話を除く)だけに話に入り込みます。しかしホントよくできてるなぁ・・・

以下、ネタばれにつき注意。

第一話。
雪子の母、麻里の八つ当たりの仕方がうちの母にそっくりでビックリ。ここまで理不尽な人が他にも沢山いるのか・・・・・・そうかぁ・・・・・・・私もがんばろーっと(苦笑)

第二話。
これだけは全然わからん。パスです。

第三話。
うーーーーーーんんん・・・・・・これは凄い。ずーっと、たおやかな美人なのに何故か恋愛の縁が少ないという不思議な子のお見合いの模様を追っかけていくわけですが、ここまではありきたり。途中に、「あれ、ってことは・・・」と思わされつつ、最後の台詞にノックダウンされました。お祖父さんの素性はそうかな、と思ってたのよ!しかし彼女の進路と合わせた後の雪子の台詞「そうね、でも、彼女の中では矛盾はなかったのよ」。うーーーーーんん・・・・・・思想ってそんなものだよねぇ・・・・・・とつくづく。

第四話。
牧村の挫折もせつなければ、佐伯の孤独感もよくわかる。女友達ってこういう淋しさといつも隣り合わせだよね・・・。佐伯の「ううん、いいの、それは。とにかく牧村がいましあわせでいるなら、それでいいの・・・」にノックダウンされました。あるよなー、こういう感覚。友達に理想押し付けてもしょうがなくて、幸せでやっててくれることの方が大切だよな、って思う瞬間あるなぁ・・・。しっかしいやーーー、話の構成も表現もため息が出るほど上手。

最終話。
これはちょっとお手軽。でも気持ちはわかるけど。ここに来て突然麻里の夫が格好良くなる。なんだか最後を一人でかっさらっていってズルイ感じ(笑)雪子、負けるなよ(笑)

うーん、こうしてみると私が主にノックダウンされたのは三話と四話みたい。
いや、しかしよくできてるなぁ・・・この作家さん凄いですね。

[Comic] Yoshinaga Fumi. 2003. All My Darling Daughters. Tokyo: Hakusensha.

Omnibus consisted with 5 stories about 5 women surrounding Yukiko.
Each story (except the second story) is very easy to make readers emphasize.
Both story structure and artistic expression are awesome.

Wednesday, April 11, 2007

[Article] ウクライナ大統領選討論 Ukranian Presidential Debates

(English version is following Japanese one.)

[論文] ベノイト, ウィリアム L. ・クリュコフスキー, アンドリュー A. 2006.「2004年ウクライナ大統領選討論の機能分析」.『アーギュメンテーション』.20巻.209-225頁.

結構衝撃的でした。
どこがって背景説明が!!

何だか雑誌やメディアで当時聞いたのとずいぶん違うぞ。あれえ??

まず最初から両候補に不正行為が指摘された、と。(ユーシェンコも最初から不正してたの?)
で、10月の第一回選挙(24候補)でロシアと欧米で選挙速報の結果が矛盾したが、結局得票数が多かったのはヤヌコビッチの方だとあります。(あれえ?日本では逆で報道されませんでした??)
更に11月の第二回選挙(決選投票)の結果「も」ヤヌコビッチが勝ったと。
最後12月の三回目の選挙では「国際」監査官や「国際」報道者が大量に入国し、
ユーシェンコが勝利、と。(つまりこの「国際」(=西側)オブザーバが
何らかの役割を果たしたのではないか、と匂わせます。資金面の援助を示唆してるのでしょうか?)

この見方だとユーシェンコはかなりきわどい人物です。善玉とは言い難い。
何せこの後武力というか政府施設を封鎖するというやり方で
ヤヌコビッチ側の最高裁への提訴を押し切っているわけですしね。
かつ、本論での議論分析では、ユーシェンコの方がヤヌコビッチよりもネガティブ・キャンペーンに手を染めていた、という結果になっているんですよね……

結局どっちが正しいのかは私には分からないわけですが、
おそらくウクライナの人のオレンジ革命に関する心情は複雑なのではないか、と推察。
直接会ったときにゆっくり慎重に聞いてみてから考えた方が良い、と今のところは思います。
(ただし、私が以前行ったのはキエフなのでユーシェンコ陣営と報道されている地域です。
ちなみにキエフは美しい都市です。夢見るように美しかった。)

しっかし、うーん……真剣にロシア語を勉強したくなってきました。
ディベート自体はウクライナ語とロシア語の二言語で行われたということで、
よしんばスクリプトを手に入れられたとしても私には読めないです。
こういう東欧出身らしき人が英語で論文を出してくれて初めてこういう情報を得るというのではねぇ。
あまりに偏った情報量になってしまいますし、こうした著者への負荷が過重になります。

英語圏のメディアだけ読むのは本当に危険ですねぇ……。世界観が染まってしまう。
特にこういう東西の利権が対立する時は本当に危険ですね。
佐藤優の本にも他の「実はロシア側が正しかった」ケース(チェチェンのこととか)が
例として出てきましたけど、そもそも異論があるということ自体が報道されないわけですから
怖いですよね。

それにしてもこの著者の出身地が結局どこなのか気になります。
所属はアメリカの大学で名前は東欧系みたいですが。

[Article] Benoit, William L. and Klyukovski, Andrew A. 2006. A Functional Analysis of 2004 Ukranian Presidential Debates. Argumentation. vol.20. pp 209-225.

Shocking!
What was shocking?
The context part!!

Stories there sound a lot different from what I read and heard back in 2004 on media in Japanese and English.

At the end of the day, it is simply impossible for me to conclude which is correct.
Only thing I see is that perhaps Orange Revolution is a very complex and sensitive issue for Ukranians than I thought. Hope to hear more from them when I get next chance to visit.
(But last time I visited Kiev and the city is largely Yushchenko's side.
Besides, Kiev was beautiful. Wonderfully beautiful...)

I seriously wish if I could read Russian.
It seems that the debates was done in two languages i.e. Ukranian and Russian.
So, even if I manage to get the script of the debates somewhere, I can't read it.
Then, I have to rely on people like the authors of this article who can write in English and have extensive knowledge or background in the region.
The bias of information quantity is inevitable and that burdens these people too much.

It's such a risk to read English media alone......
It becomes so difficult for me to have meta-approaches to issues...
Especially when Western Europe and Eastern Europe have clash of interest, media that I access automatically decide the side I take.
I remember Sato Masaru was writing some examples where Western major media was disinformed for politial bias and actually what Russia said was right (such as relationship between terrorism and Chechnya).
And it is scary to know that the media that I access daily don't report even the fact that there are other opinions.

Wonder where the authors are from after all.
Where did they get this extensive knowledge and language of Ukrain?
It seems they belong to American universities and their names sound East European to me.

[English Vocab for masako]
acclaim, unitize, vehement, unicameral, suffrage, manipulate, despair, tongue-tied, utterance

Tuesday, April 10, 2007

[Article] 批評の論理 The Logic of Critique

Before that... その前に…

I've just started Facebook and have no idea in which language I should write this blog from now. As long as this blog has been updated at Mixi and Gree (both are SNS in Japanese) alone, it was fine to keep this blog monolingal not really bilingual as its original aim. But now hmmm... I don't know... let's see... I'll try writing in two languages. Let's see how it goes.

Besides, today, I attended a meeting of the new project that I belong to from this school year and found colleagues there really really nice people. I'm very much relieved now. Hope some of them read similar journals and exchange some ideas.

Facebookなるもの(海外のSNS)を始めました。友人がアップしてくれた写真を見たかったためです。しかしここで問題が。MixiやGreeにだけこのブログがフィードされている分には日本語オンリーでかまいませんが、あちらにもアップされるようになった今、一体私は何語でこの日記を書けばいいのでしょうか・・・・・・とりあえずしばらく二ヶ国語ブログに挑戦してみます。後は様子を見てから、ということで。

ちなみに本日、今学期から所属するプロジェクトの会合に出ました。皆さん良い方ばかりですっごく安心しました。がんばるぞー。同系統の論文誌を読まれる方がみつかったら尚ありがたいのですが。

Okay, here's what I read today. :)
というわけで読んだ論文の感想です。

[論文] イランダスト, ヘンガメー. 2006. 「批評の論理」.『アーギュメンテーション』.20巻2号.133-148頁.

critiqueとcriticismの違い、critiqueとevaluationの違い、opinionとargumentの違い、positionとopinionの違いなどなど、かなりマニアックな定義に関する論文。

正直そこに厳密性を求めることの意義に疑問を感じます。一般人にはそんな違いわかりゃしないので、議論学の専門家同士で話す時にどう用いようと、日常での遣い方にどうせ引きずられてしまうような気がします。だって通じない言葉や誤解を招きやすい語彙は普通避けたいじゃないですか……

まあでも、面白いことは面白いですが。

たとえばcritiqueは否定的な意味に限らないよりニュートラルな語だが、criticismはより否定的な意味に遣われる、ということのようですが・・・・・・さしずめ日本語なら前者が「評論」や「批評」を意味するのに対し、後者は「批判」って感じ?

確かに、よくカントのThe Critique of Pure Reasonが、純粋理性「批判」と訳されるのに違和感を感じるので、厳密にはその通りなのだろうと思います。あとディベート限定だとCritique Perspectiveも元々のコンセプトはもっとずっとニュートラルな印象です。

けど、元々は良い意味だったソフィストという言葉が一度「詭弁家」という意味で定着してしまったが最後良い意味で使えなくなったのと同じように、今更Critiqueは必ずしも批判(というか反駁?)を意味しないと叫んでも無駄なのではないかと思います。

まあディベート馬鹿にはおかまいなしに楽しめる論文です。
読みたい方はこちら

[Article] Irandoust, Hengameh. 2006. The Logic of Critique. Argumentation. Vol.20 No.2. pp.133-148.

First half of this article is trying to emphasize the differences between critique and criticism, critique and evaluation, opinion and argument, position and opinion etc...

To be honest, I don't see why it's important to distinguish them this carefuly. Vast majority of people don't use those terms "accurately" anyway. How can argumentation scholars alone use them for different meanings from the definition shared by public? Nobody wants to use terms which are clearly missleading, I suppose. Away too big discrepancy.

Well, I still enjoyed reading this though.

For example, it seems that the author thinks when criticism is usually negative, crituque is still neutral. It might be the difference between hihan and hihyo/hyoron in Japanese.

Indeed, when Kant's The Critique of Pure Reason is translated as "Junsui Risei Hihan", I feel some sense of incongruity. Perhaps that is because Kant meant a lot more neutral thing than hihan.

Having said that, when we look at the example of "sophist", it is clear that originally that word didn't have negative image attached. But simply because "sophist" is used a lot for insincere orators who abuse their silver tongues, it is difficult to use that word for original meaning without the negative associations. So, no matter how accurate the definition this article provides is, I guess people would avoid this term anyway.

Oh, well... any articles on debating are interesting for debate nerds anyway... :p
If you like to read the article, here's a link.

Monday, April 09, 2007

[Book] 日本書紀 Nihonshoki

[本] 宇治谷孟.1988. 『日本書紀(上・下) 全現代語訳』.講談社.

うーーーん。。。確かにディベート向きじゃないかなぁ……

-------------------------------------
 夏四月三日、皇太子ははじめて自ら作られた十七条憲法を発表された。
 一にいう。和を大切にし、いさかいをせぬようにせよ。人は皆それぞれ仲間があるが、全くよく悟ったものも少ない。それ故君主や父にしたがわず、また隣人と仲違いしたりする。けれども上下の者が睦まじく論じ合えば、おのずから道理が通じ合い、どんなことでも成就するだろう。(p.92)
-------------------------------------
 三にいう。天皇の詔を受けたら必ずつつしんで従え。君を天とすれば、臣は地である。天は上を覆い、地は万物を載せる。四季が正しく移り、万物を活動させる。もし地が天を覆うようなことがあれば、秩序は破壊されてしまう。それ故に君主の言を臣下がよく承り、上が行えば下はそれに従うのだ。だから天皇の命をうけたら必ずそれに従え。従わなければ結局自滅するだろう。
-------------------------------------
 十にいう。心の怒りを絶ち、顔色に怒りを出さぬようにし、人が自分と違うからといって怒らないようにせよ。人は皆それぞれ心があり、お互いに譲れないところもある。彼が良いと思うことを、自分は良くないと思ったり、自分がよいことだと思っても、彼の方はよくないと思ったりする。自分が聖人で、彼が必ず愚人ということもない。ともに凡人なのだ。是非の断りを誰が定めることができよう。お互いに賢人でもあり愚人でもあることは、端のない環のようなものだ。それ故相手が怒ったら、自分が過ちをしているのではないかと反省せよ。自分ひとりが正しいと思っても、衆人の意見も尊重し、その行うところに従うがよい。
-------------------------------------
 十七にいう。物事は独断で行ってはならない。必ず宗と論じ合うようにせよ。些細なことはかならずしも皆にはからなくてもよいが、大事なことを議する場合には、誤りがあってはならない。多くの人々と相談し合えば、道理にかなったことを知り得る。(p.96)
-------------------------------------

[Book] Ujitani, Tsutomu. 1988. Nihonshoki. Tokyo: Kodansha.

Sunday, April 08, 2007

投票はしたけれど A Vote Without Devotion

都知事選挙(と都議会議員補欠選挙)の投票に行ってきました。

かなり悩みましたが、某大教授に入れました。
補欠選挙は唯一の女性だったN崎さんに入れてみましたが、
どういう方なのか正直あまり勉強しませんでしたので悪い市民です。

何故悩んだのかというと、本当に入れたい人はいなかったから。
まず投票しないのとどちらが良いかを悩み、結局投票することに。
次に白紙票にするかを悩み、結局記名票を投じることに。

それでもって最後に誰に入れるかですが、
石原さんと浅野さんで悩みました。

なんでか。

<石原さんの良い点>
・実行力がある。目標設定が明解。
・治安や災害対策には人一倍張り切ってくれそう。
・地域行政をする分には有能(カラス対策とか道路行政とか環境行政とか)

<石原さんの困った点>
・人種・国籍・性別による差別心が露な発言が多い。
・タカ派。不穏当な発言が多い。
・新銀行東京の赤字が結局どうなるのかよく分からない。

<浅野さんの良い点>
・福祉に関する理解が深い。
(託児所を増やすというマニフェストは東京事情が分かっていると思う。)
・女性の参加促進に積極的っぽい(副知事を女性にするとか)
・情報公開に積極的。

<浅野さんの困った点>
・抽象的で何がやりたいのか焦点がよくわからない。目標も不明確。
・票取り込みのための安易な妥協が多くて都政がスローダウンしそう。
・マニフェストに期日を設けているのは良いが、内容が平凡で新鮮味に欠ける。

というような点を色々考慮した結果・・・・・・
正直、都政という地方行政なら石原さんの方が上手そうではあるけれど・・・・・・

しかし、

とにかく外国人差別発言や女性蔑視発言はもうイヤ!!
ていうか彼が都知事だと知った海外の友人達が口をそろえて、
日本の右傾化は東京を中心に起きているのか、と訊いてくるのももうイヤ!!
ホント、東京のイメージに関わるっていうか・・・・・・
東京都民の意識が彼に代表されると思うと・・・・・・
メガロポリス東京とか言うならもっとリベラルでプログレッシブだと思いたい。

というわけで、うーーーーーんん・・・・・・と散々悩んだものの浅野さんに入れました。

石原さんが外国籍者か女性のせめてどちらかに理解ある言動だったら
石原さんに入れていたかもしれない。
そしてどうせ石原さんになるんだろうなぁ・・・・・・

さてさて結果はどうなるのかなぁ・・・・・・
あと30分ほどで開票速報が始まります。

[Book] 討議倫理 Erlauterungen Zur Diskursethik

[本] ハーバマス,ユルゲン.1991. 清水多吉・朝倉輝一訳.2005. 『討議倫理』.法政大学出版局.

え?我慢するんじゃなかったのか?
ええ、まあ……その……。
本当は『コミュニケーション的行為の理論』を読みたいのですが、こちらで今は我慢(笑)。

ちなみに、討議倫理という言葉はドイツ語ではDiskursethik、英語だとDiscourse Ethics(もしくはArgumentation Ethics)となります。これはディベータの倫理/作法(ディベーターシップ)ではなく、ディベータがどうやって倫理を語るべきか(モラル・アーギュメントの立て方)を指すようです。

学部の頃、KDSの先輩方には「事実は価値を生まず、価値は事実を生まない」と繰り返し教わりました。ハーバマスの「道徳原則は、理性の示す事実性から導かれることはない」という言葉はそれに近い意味なのかもしれません。私自身は最近、価値が<事実>を生んでしまうことも、<事実>が価値を生んでしまうこともあるのではないかと思っています。それは、ポスト・モダンを既に前提とするようになった教育を受けた私には、価値と事実の境界線が見えずらいことにも起因しているような気がします。

Discourse EthicsについてのWikipediaの解説はこちらです。

------------------------------------------
 結局、われわれは、このような(あるいは似たような)道徳原則が単にある特定の文化やある特定の時代の直感にあてはまるだけではなく、一般にもあてはまるということを主張する倫理を、普遍主義的倫理と名づける。道徳原則は、理性の示す事実性から導かれることはない。このように事実性に依存することのない道徳原則の根拠づけだが、自民族中心主義的な誤った判断という嫌疑を晴らすことができる。われわれの道徳原則は、今日の成人した白人の、男性の、市民層のよく教育された中央ヨーロッパの先入観だけを反映しているのではない、ということを証明することができなければならない。私がここで問題にしたいのは、討議倫理がこのような関連の中で提起するさまざまなテーゼを心に留めてもらいたいだけである。つまり、それらのテーゼとはこういうことである――論議に真面目に参加しようと試みる人ならだれでも、規範的な内容をもつ普遍的語用論の諸前提をまずもって暗々裡に承知してかかわらねばならないものだということ。その上で、論議上の行為規範を正当化するとはどういうことかが周知徹底されている場合にのみ、道徳原則は、そのような論議の諸前提の内容から導き出されるものだということが、これである。
--------------------------------------------
形式主義的倫理は、人があることを道徳的観点からどのように考察するかを明らかにする規則をあげる。周知の通り、ジョーン・ロールズは、すべての関与者が相互に、合理的に決意して平等な権利をもった契約のパートナーとして向き合うような原初的状態を紹介する。もちろん、ロールズの例は、事実上受け入れられている現実の社会状態を無視したものであり、「当初に目標とされた根本的一致がフェアになされることが保証されているようなスタートの状態」を想定したものであるのは、言うまでもない。これに対して、G・H・ミードは、理想的役割取得を提唱する。これは、道徳的に判断する主体が、問題ある行為が遂行されることによって、あるいは問題ある規範が発行されることによって被るかもしれないすべての人のその時々の情況に身を置いて考えてみることを、要求するものである。実践的討議の手続きは、この両者の考え方よりも優れている。論議においては、原則的にすべての関与者は自由であり、平等である者として、共同的に心理追求に参加する。その際、よりよき論争のための制約だけが通用するべきである。実践的討議は、論議に基づく意思形成のために要求するところの多い形式である。(中略)他方、われわれの実践的討議の方は、その形式について言えば、すべての関与者が同時に理想的役割取得を行いながらの了解のプロセスとして把握される。したがって、この実践的討議は、それぞれ個々の私的に行われる理想的役割取得(ミードの場合)から、公共的な役割取得、何よりも間主観的に共通に展開される役割取得へと形を変えて行われるものである。(p.9)
--------------------------------------------
言語能力と行為能力をもつ諸主体は、彼らがそのつど特殊な言語共同体の一員として、間主観的に共有された生活世界の中へと発展的に入りこむことによってのみ、むしろ、個体として構成されるものである。コミュニケーション的形成過程においては、個々人のアイデンティティと集団のアイデンティティとは等根源的に形成され、保持される。(p.10)
--------------------------------------------

[Book] Habermas, Jurgen. 1991. Erlauterungen Zur Diskursethik. Suhrkamp Verlag.

Friday, April 06, 2007

[Book] 容赦なき戦争 War Without Mercy


[本] ダワー,ジョン.1986. 猿谷要監修.斉藤元一訳.1987.『人種偏見: 太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』.TBSブリタニカ.(同.2001. 『容赦なき戦争』.平凡社)

ピューリッツァ賞を受賞した『敗北を抱きしめて』と同じダワーの著作。
こちらの方が書かれた時期も扱っている時代も早い。
『敗北を抱きしめて』が戦後の日本に焦点を当てているのに対し、
この『容赦なき戦争』は戦中の日米両国におけるプロパガンダを扱っている。
大変興味深い一冊。沢山の実例を伴っているので説得力もかなりある。
平凡社ライブラリー版への序文は9.11直後に書かれており、
テロと真珠湾攻撃の比較も、流布する言説の比較もなるほど、と読んだ。
何よりも、ダワーの示す絶望と希望の危ういバランスに惹かれずにはいられない。

ちなみに、『敗北を抱きしめて』というタイトルを初めて聞いた時は、
なんて凄いタイトルだろうと雷に打たれる思いだったが、
英語の原題がかなり違う印象で酷くがっかりしたのを覚えている。

今まで私が映像で見たダワーはいつも英語で話していた。
けれど日本側の資料にもかなり良質のものも含まれていて、
ダワーは果たして日本語ができたものかと疑問を抱かせるほど。
それでも私的にはダワーよりもラミスの方が好感が持てます。

とにかくそれでもこの本は一読の価値がある本だと思います。

ちなみに去年と同じこの時期に突然戦後史ブームがやってくるのは偶然ではなくて、
東工大杯でショッキングなラウンドを体験してしまうから。
主催者の論題選択には別に問題はないわけだが、
いかんせん参加者の読書量に愕然とさせられる。
それについてはまた後日書くこととします。

---------------------------------
言葉というものは、重要である。スローガン、イメージ、シンボル、ステレオタイプ、記憶の断片――すべてこれらのことは、自己や他者についての概念を形づくり、私たちの行動に影響を与える。そして言葉はたびたび誤解のもとになり、言葉から生まれた概念はゆがめられ、行動は悲惨で破壊的なものとなる。(p.21)
---------------------------------

[Book] Dower, John W. 1986. War without Mercy: Race and Power in the Pacific War.

Thursday, April 05, 2007

[Book] 日本人の言霊思想 How Ancient Japanese Saw Sacred Spirits in Words


[本] 豊田国夫.1980.『日本人の言霊思想』.講談社.

うーん……。
なるほどなぁ、と素直に感心する部分もあれば、
ええええ、と思うくらい言葉に懐疑的な部分もあり。

しかし日本語はパトス的だ、と書いている人は多いわけですが、
その割りに現代日本のディベータのロゴス狂いは何なんでしょう。
もう少しパトスを利用したって文句は出ないのではあるまいか、と声をかけたくなる程、
禁欲的なディベートをする彼らをどう説明すれば良いのか困ります。

---------------------------------
彼ら古代人にとって、言葉は、現代のある種の人びとが主張するような、単なる媒介、符号物ではなく、もっと人間や事物と切実な関係をもった、生きたものとして感じていたのではなかったか。つまり、彼らにとって、言葉は事物と一体をなすものであった。(p.14)
---------------------------------
 四神出生の章で、イザナギ、イザナミが柱をめぐる時、「陰神先づ喜びの言を発ぐ(発言)」というが、イザナギが泉津平坂で、神聖な場所選定の時のコトアゲは、十二神出生の機縁となった。スサノヲが八岐大蛇を退治して、クシナダ姫と新居の地を決めた時、「吾心清清之」といった歓声のコトアゲ、日神と誓約したスサノヲが、男子を生んだ時の大言壮語のコトアゲ、同じく新羅に下った時「此の地は吾居らまく欲せじ」という意思表明のコトアゲ、大国主命が出雲に国造りする時のコトアゲなど。また『続日本紀』にも「興言して此れを、念ひ」とか、興言して何々と用いられているが(巻三三)、すべて発言に特別の意味を持たせている。ヤマトタケルが伊吹山を征服した時、山中で大きな白猪と出会い、「還りに殺そう」とコトアゲしたため、帰途その猪に大変なやまされた話がある。西郷信綱氏は、このコトアゲについて、『新撰字鏡』に「誇」の字義が「挙言也。伊比保己留、又云太介留。」とあるので、ヤマトタケルという名そのものが、挙言すなわちコトアゲすることをすでに内有していたものといえるわけで、この行為が彼を破局へと導く。(「ヤマトタケルの物語」)といって、タケルの破局の原因としてとらえている。身のほどを忘れた、神(白猪、書紀では大蛇)への挑戦的な放言の災厄というわけである。自己の意志をいい立て、タブーを侵したコトアゲである。ヤマトタケルの東征で、上総に渡海する時の、渡り神の神聖を侵したコトアゲでは、「これ小海のみ、立ち跳にも渡りつべし。」というが、これは暴風を招いてしまった。(p.62)
------------------------------------------------------
の反動ではなかったかと思われる。さきの神功皇后の「コトアゲの阜」の制禁の由来も、やはりそうしなければならない大事件があってのことであったらしい。
 為政者は、批判とか反論のコトアゲを制禁し、服従を要請した。これを封じて「神ながらの道」に服従する人びとを迎えたのである。ところが、言語感覚のひろい視野にあった人麿らによって、遣唐使らの行く文字の国を意識に入れた「言霊の幸はふ国」とか、「神ながら言挙せぬ国」などの語句のある餞詞があらわれている。
 言霊の発揚には、まず何といってもコトアゲが必要であるが、そのコトアゲが制禁を受けるという、このような矛盾と緊張を秘めつつ、ミコトノリやノリトは社会に儀礼化され固定していったのである。(p.65)
----------------------------------
コトムケ
 これは現代風にいえば「説得」のことである。つまり言霊の霊威をもってする積極的な行為で、たとえば『古事記』には全体で一七回もの用例がある。なかに、ヤハスという言葉との連用が六回あって、「言向平和、言向和也、言向和平、言向和而」などと表記している。ここでのヤハスとは、もっぱら言葉をもって融和する、平和にする、帰順させるという意味である。すなわち、コトアゲして説得するという上代的方法である。(pp.68-69)
----------------------------------
 日本語の言語環境は、全く隔絶した閉鎖社会に育まれ、言語体系としての思想や文化への拘束的自覚に乏しく、したがってその言語意識はすこぶるパトス的であった。ここに言霊思想などの特有な言語観も醸成されたとみられる。この環境的特徴についての十分な検討もなかったが、最近この閉鎖性の問題も識者によって大きくとりあげられるようになった。(p.217)
----------------------------------
言葉は厳密に論理的な意味で用いられることは少ない。話し手、受け手、遣い方、構え方などにより、ずいぶん変化が多い。この自在な作用がもつ「論理性の不完全さ」というものも、たとえれば、言葉の魔力のカクレガといえよう。(p. 219)
----------------------------------
 相手を意のままに支配する、言葉の悪用面もあるが、カウンセラーが、言語技術を高度に利用して、クライエント(来談者)を好ましい方向に導くことや、造語とかスローガンによる世論操作も、人びとの心を動かす言葉の魔力の善用であり利用であろう。(p.219)
----------------------------------
太平洋戦争中「言挙げせず」とか「海ゆかば」の歌意の利用、「欲しがりません勝つまでは」、鬼畜米英、一億総決起、八紘一宇、天佑神助などの語句のはんらんは、戦意をあおるひとつの世論の洗脳操作であった。これは、日本人の慣習的な、言葉に呪縛され易い民族性、すなわち汎言語主義的慣習の利用であった。言葉と事実との関係以外のところにおける、一定の方向の力が期待されたものである。(p. 220)
----------------------------------
 民主主義の組織には会議が多いが、その言葉のやりとりは、多分に言語魔術の雰囲気があり、格好の実践の場である。比喩の拡大、焦点のズラシとかボカシ、用語の工夫、情緒に訴えたり、不利益なことはいわないなどのゴマカシ論法は、まったく言葉の論理の不完全性に宿る、魔力の悪用である。(p.220)
----------------------------------

[Book] Toyoda, Kunio. 1980. Nihonjin no Kotodama Shiso [How Ancient Japanese Saw Sacred Spirits in Words]. Tokyo: Kodansha.

[Book] イデオロギーとしての技術と科学 Technik und Wissenschaft als >Ideologie<

[本] ハーバマス, ユルゲン.1968.長谷川宏訳.2000.『イデオロギーとしての技術と科学』.平凡社.

というわけでハーバマスです。
読み返してみても分かりにくいものは分かりにくいです。やれやれ。

平凡社ライブラリーで文庫化されているこの版には、
-労働と相互行為
-<イデオロギー>としての技術と科学
-技術の進歩と社会的生活世界
-政治の化学科と世論
-認識と関心
の五編が含まれています。

私の勉強に関係が深そうなのは最後の二編です。

つくづく思うのですが、この手の本を読むにはギリシャ語とラテン語の理解がある程度不可欠です。もう少し学校でどちらか真剣に勉強しておくのでした。私の持っているギリシャ語辞典は古典を読むのには不向きだし、ラテン語辞典はあまりに語数が足りなくて用を足しません。どうにかしないとなぁ……

--------------------------------
境界線のむこう、不安定と不確定の域を脱した存在を考察するのが論理(ロゴス)であり、こちら側のさりゆくものの領域は臆見(ドクサ)にゆだねられる。(中略)そして理論はその規定にしたがう人間のふるまいのうちに、民族精神(エートス)のうちに、反映する。(p.168)
--------------------------------

[Book] Jurgen Habermas. 1968. Technik und Wissenschaft als >Ideologie<.

[Book] 獄中記 In Jail


[本] 佐藤優.2006. 『獄中記』.岩波書店.

この人の読書傾向の面白さに爆笑です。
やー、面白いなぁ。
そしてこの人の語学の勉強の仕方や、本の読み方には関心しきりでした。
まともに勉強しようと思ったら確かにそういうプロセスは有効そうだな、と。

さて、これで、佐藤優さんのものは
- 獄中記
- 国家の罠
- 国家の崩壊
- 自壊する帝国
- インテリジェンス 武器なき戦争
- 北方領土「特命交渉」
と読み、あとは例の大川周明に関するものさえ読めばとりあえず終了です。
今のところ、「国家の崩壊」が特に面白かったです。

この「獄中記」を読んでハーバーマスを読み返したくなりましたが、
しばらくは我慢しないとです。
他にも現在読みたい本にPhilip ZimbardoによるLucifer Effectもあるのですが、
いかんせん届くのに時間がかかるわ、届いてからも読む時間があるか疑問だわ、参ります。
読みたい本を好きなだけ読める日々……そんな日が来ないものでしょうか……

--------------------------------
 「能動的知性」が徐々に回復しつつあり、週末にハーバーマスの『認識と関心』を二五〇頁程読み進めました。客観的認識などというものはそもそも存在せず、まず、「認識を導く関心(利害)」があり、そこから事実の断片をつなぎ合わせて「物語」を作っていくのが、近代的人間の認識構造であるということを、カント、ヘーゲル、マルクス等のドイツ古典哲学の伝統、パース等のプラグマティズム、さらにディルタイの「生の哲学」やフロイトの精神分析学の成果を消化し、見事にまとめあげています。(pp.69-70)
-----------------------------------------
 ハーバーマスのコミュニケーション論で面白い記述を見つけました。論理的観念と心理は関係がないという点についての考察です。
 ①一つの壺が燃焼中に割れてしまった。これはおそらく塵のせいである。壺を検べて、塵が原因かどうかを見てみよう。これが論理的かつ科学的な思考である。
 ②病気は魔法使いのせいである。ある人が病気である。だれがその病気の原因である魔法使いなのかを見付け出すために、お告げに伺いを立ててみよう。これは論理的であるが非科学的思考である(ハーバーマス『コミュニケーション的行為の理論』上、未来社、92-93頁)(p.95)
------------------------------------------
 実は、日本の外交官が、ロシアで(恐らくはヨーロッパ全域で)良好な人脈を構築できない要因の一つが、教養の不足にあります。本省からの訓令に基づき、案件を処理するだけならば、特に教養がなくとも十分仕事をこなせます。しかし、ロシア人、特に政治エリートは知性の水準が高く、よく本を読んでいます。また、議論については、ソ連時代の「弁証法的唯物論」で鍛えられているので、こちら側も相当準備をしておかないと、相手にされません。(p.116)
-----------------------------------------
 この関連で、ハーバーマスのコミュニケーション論はとても参考になります。同人の用語を用いるならば、「演技型コミュニケーション」に徹することが重要です。被告人が裁判官に対して訴えるという姿勢だけに徹した場合、政治的には負けます。私は裁判官に対して何か主張をするのではなく、傍聴席にいるマスメディアに対して呼びかけます。罪状認否もそのような観点から行うのが妥当と考えています。
 国会の論戦も、相互理解を目指すディベートではなく、あらかじめ立場(役割)を決めた「演技型コミュニケーション」です。政治家としては、鈴木宗男代議士の方がはるかに真摯かつ誠実であり、見識も深いにもかかわらず、世論が小泉潤一郎、田中真紀子、菅直人等になびいたのは、これら政治化が「演技型コミュニケーション」に徹しているからでしょう。(pp.129-130)
-----------------------------------------
 ところで、ポパーの注を読んでいて、プラトンが説得を三種類に分けていたというところが出てきたのですが、一寸面白いので紹介します。
 ①理屈による説得
 ②威圧による説得
 ③贈り物による説得
 この三つの説得はどうも等価値のようです。現在的に考えるならば、②は恫喝による強要で③は贈収賄です。(p.172)
------------------------------------------
 日本の外交官(そしてその集団である外務省)は(恐らく過去五〇年以上戦争のような修羅場をくぐっていないせいかと思いますが)弱すぎます。特に以下の点にその弱さを感じます。
 ①秘密が守れない。口が軽すぎる。
 ②自己顕示欲が強く、組織人として行動できない(その裏返しとして、出世街道から外れると、イジけたひねくれ者になる)。
 ③語学力が弱く、十分な意思疎通ができない。
 ④任国事情や一般教養に疎く、任国エリートから相手にされない。
 ⑤人情の機微をつかむことができず、人脈を作れない。
 ⑥セクハラが横行しているため、女性外交官の能力を活用し切れていない。(p.177)
------------------------------------------
 『コミュニケーション的行為の理論』(下)は、ハーバーマス理論を集大成する部分なので、たいへん難しいです。この部分にはハーバーマスのオリジナリティーが現れています。私自身はハーバーマスの考え方を以下のように捉えています。
 ①資本主義体制(システム)は相当長期間生き残る柔軟性をもっている。資本主義が社会主義に移行するとの仮説は破産している。
 ②このような資本主義体制が自己を維持できる主要因は、これまでのところ資本主義のみが社会的コミュニケーション能力の発展に対応する能力をもつシステムだからである。(p.193)
------------------------------------------

[Book] Sato, Masaru. 2006. Gokuchuki [In Jail]. Tokyo: Iwanamishoten.

[Film] ヒマラヤ杉に降る雪 Snow Falling on Cedars

[映画] ヒマラヤ杉に降る雪.

やっばいです。この作品。
しっかし何もこんなに難解に作らなくてもねぇ。
I loved you. And I didn't love you at the same time. かぁ…
しっかしなんでミヤモトさんとの結婚式が仏式なんですかね。神式ならともかくねぇ。
いや、でも凄いなぁ。もう少し噛み砕こうとか思わなかったんですかねぇ。
絶対難しいよなぁ、この作品。だから売れないんだよなぁ…暗いしなぁ(明るくても困るが)。
You are a hard man to trust, sir. かぁ…
In the name of humanity, do the duty. かぁ…
ていうかイーサン・ホーク、グズグズすんなよぉ。もう最終弁論終わっちゃったジャン。

I'm so grateful for your gentle heart.かぁ……
工藤夕貴は英語の発音が綺麗だなぁ
まあ、良いや。良いもの見ました。
ラビット・プルーフ・フェンスのような勧善懲悪じゃなかったところも好感が持てました。
もう少し売れれば良いのになぁ、この映画。

[Film] Snow Falling on Cedars.

[Book] 裁判官の爆笑お言葉集 Humor of Judges


[本] 長嶺超輝. 2007. 『裁判官の爆笑お言葉集』.幻冬舎.

かなりカジュアルな一冊。
なにぶん裁判員制度と私の勉強の絡みもあり、
最近司法制度には私的関心が高まっているわけですが…
残念ながら新しいアイディアをくれる箇所はなし。
ただ、幾つか確かに笑った発言もありました。
裁判官の知性を疑うものも多少ありましたけれども……。
娯楽として読むには1時間弱で済むお手軽な冊子でした。

[Book] Nagamine, Masaki. 2007. Saibankan no Bakusho Okotobashu [Humorous Statesments by Court Judges]. Tokyo: Gentosha.

Wednesday, April 04, 2007

[Book] 「NO」と言える日本 The Japan That Can Say No

[本]盛田昭夫・石原慎太郎.1989. 『「NO」と言える日本: 新日米関係の方策』. 光文社.

とうとう読みました。ブックオフで450円でした。
何で読もうと思ったかというと2点。

ひとつは、手嶋龍一の「FSXを撃て」で、米議会がこの本にどのような影響を受けたかという行を読んで興味がわいたから。
もうひとつは、先日のクラブコンペで雅子妃の本の邦訳を出版すべきかどうか話した時に、チームメイトのWさんが、この本が粗悪な英訳で出回ったという話をして下さって興味がわいたから。

で、感想ですが、うーーーん・・・・・・盛田さんはともかく石原さんの部分は事実関係の認識に色々問題がありそう。FSXの部分は特に手嶋龍一の書いていることとかなり大きく食い違っています。どちらが正しいのか、と言われると私には手嶋龍一の見解の方がより真実に近そうに見えます。ていうか石原慎太郎の文章は凄いテクノ・ナショナリズムです。よくもまあここまで「日本の技術」とやらに過信できたものだと思います。

ちなみに英訳との比較もしてみましたが・・・・・・確かに劣悪。
たとえば以下最初の引用の「毛色が変わっている」は「髪の色の違う」と直訳されてしまっています。
・・・・・・おい。
「born with a silver spoon in his/her mouth(生まれつき恵まれて)」を
「銀のさじを咥えて生まれた」と訳すようなもんですぞ。
ほかにも「そういう意味では頑固」がただ「頑固」とだけ訳されていたり。
元々かなりブラントなこの文章を、更にここまでケアレスに訳されては目も当てられない。
こんな本をめぐって政治論争になったとはいやはや・・・・・・

とはいえ、面白い部分もありました。

--------------------------------
 ですから私は、石原さんのおっしゃる日本人だからいやなんだ、ということはわれわれの努力によって解消する以外に方法はないと思うのです。「おまえさんたちがわかれ」と言ったところで、彼らはそういう意味では頑固ですから。
 私自身は、おまえはアメリカ国籍だと言われるくらいにアメリカに仲間がたくさんいますし、私もアメリカの中に住んでいて、アメリカの人から自分の仲間だと思ってもらえるくらいになりましたから、割りに何を言ってもそういうことは感じませんが、石原さんの発言のように、彼らには、日本人は毛色が違うためにちょっと何を考えているのかわからないという気持ちはあるわけです。それからもうひとつ重要なことはメッセージのデリバリー(伝達)の方法が違うということです。日本語と英語では構文が違うわけですが、その違いが、話し合う時にも影響してくるのです。
 私は本にも書いていますが、日本人が漢文を読むときにはかえり点をつけていますが、中国の人はまっすぐ読めばわかるわけです。英語にしてもかえり点なしにそのまま読むわけです。つまり彼らとは思考過程が違うわけです。だからいくらいい通訳使っても日本人の思考過程の順番で言うとなかなかわからない。そういう点で、メッセージのデリバリーということに関して日本の思考過程というのは残念ながらマイノリティーですから、大多数の西洋人とコミュニケーションするには、相手のわかるような順番で物を言ってあげないと、何を言っているかわからない。私はレイシャル・プロブレム以前にコミュニケーションの方法という点において、日本は非常なディスアドバンテージ(不利)があることを知っておく必要があると思うのです。(p.55)
-----------------------------------
 グレンの話の最中に私が、日本人側のネゴシェーター(交渉者)のうちで君らは誰を一番評価するか、と質問してみたら、グレンはただちに黒田通産審議官と言った。
 ご承知のことでしょうが、日本の新聞報道などでは黒田審議官の評判はあまりよくない。あの人が出て行くとトラブルが大きくなると書かれている。アメリカ側でも、ミスター黒田は頑固すぎる、などと非難する。しかし、その頑固なトラベルメーカーを実は当のアメリカが高く買っているわけです。彼は、アメリカ側が無理難題を吹っかけていると思うとガンとして譲らない。かたくなで頑固に、言うべき「ノー」を言い続ける。それでは話にならない、とアメリカ側が脅しをかけても、多くの日本人代表みたいにイエス、ハイハイと急にかしこまってしまったりはしない。強大なパワーのあるアメリカという大男が拳固をふりかざせば、小男の日本は沈んでしまうという意識もあってアメリカは難題を押しつけてきます。それでも黒田審議官は、殴るなら殴れ、おまえらのほうが恥をかくぞ、と踏んばってにらみ返してきた。もちろん、やみくもに「ノー」を叫ぶのではなく、なるほどと思わせる理屈を述べてから言う。交渉というのは、こうでなくてはならないのですが、向こうに言わせると日本人のほとんどが何を主張したいのかよくわからない、と指摘します。
 何を言っているのかわからない日本人に、そんなことではだめだ、と強く出ると、イエス、イエスと慌てふためく。そして、そのイエスがイエスのようでイエスでもない。とにかく、日本人は外圧がなければ何もしないと思わせてしまうのだから国民にとってみると、不本意な話です。外圧に弱い日本などというイメージが付きまとっていては外交がうまく運ぶはずがないと思う。
 私はよく言うのですが、各国大使館の人員の半分を民間人にすべきだ、と。経済レベルで激しく実際に外国人を相手にしのぎを削ってきた有識民間人の中には、日本代表として堂々と論陣を張れる方が何人もおられる。たとえば駐米大使として盛田さんに就任してもらう。夢物語で終わらせたくないほど、私は真面目にそう考えるのです。(pp.128-130)
----------------------------------------------
 ビジネスの場合だと、アメリカ企業の社長と交渉するには、トップとトップの一対一で、その場でイエスかノーか、「それなら、こうする」ということを決めるわけです。それがトップ会談です。ところが日本国内だと、ビジネスの場でも実際は会談の前にすべてを決めておこうとする。
 あるとき、日本の大会社のトップが私のところに来られることになった。「それでは二人だけで話をしよう」と思っていると、相手の大会社の社員から、連絡がうちのほうに来て、「今度うちの会長が行きますけど、盛田さんはどういうことを言われるでしょうか?」と尋ねてくる。「うちはこういうことを言いますが、どう返事されますか?」と、みんな返事を決めに来るわけです。私から見れば、そんなトップ会談なら、しなくてもいいわけです。
 そんないい加減な会談ではなく、竹下さんには日本から見たアメリカの現況を正しく伝え、主張すべきことをはっきりと訴えてきてほしいと思う。(中略)
 日本は主張すべきことは堂々としていいと思うのです。日本という社会は長い間「沈黙は金」という教育を受けてきたから、多少何か言いたいことがあっても、じっと我慢をする。我慢をせずに、私のようにすぐ文句を言うと、ほうぼうで叩かれるという運命になります。石原さんも言いたいことを言う方ですから、ときどきいろいろなところでぶつかるわけですが、我慢などという美徳は西欧ではまったく通用しません。
 私は、日本は石原さんが言われたように、大いに言いたいことを、また、言うべきことを言わなければならない。そうでないと、日本のアイデンティティはなくなると思うのです。(pp.138-140)
------------------------------------------

[Book] MORITA, Akio and ISHIHARA, Shintaro. 1989. The Japan That Can Say No. Tokyo: Kobunsha.

I read this book because it is said that the English translation that circulated in US Congress was really a bad translation. And the following is the citations from English version while the above is the same parts from the original text in Japanese.

I would say... indeed it is a very poor translation. For example, "keiro" is NOT about literal color of hair. It's like translating "silver spoon in his/her mouth" as a baby literally holding a spoon in his/her mouth when he/she was born. What kind of translater can translate like this......sigh...... And this became a basis of political discussion??? unbelievable... Language barrier is scary.

http://www.totse.com/en/politics/the_world_beyond_the_usa/japan.html
-------------------------------
Therefore, I think that the only way to erase the perception Mr. Ishihara points to where Japanese are disliked just for being Japanese is to make the above types of efforts. This is because they [Americans] are stubborn and not likely to be induced by saying "you guys change."
I have so many American friends myself that I have been accused of being an American. Since I have lived in America and have been counted as a friend by many Americans, I am not overly sensitive to what is said about me. As Ishihara has said, to Americans, they feel that because their hair color is different, it is difficult for them to know what Japanese are thinking. I think there is another important point. The structure of the Japanese language and English is different, and this affects our discussions together.
I have written this elsewhere in a book, but when Japanese read Chinese, they put in arrows and symbols to change word order, but Chinese read it directly and understand the meaning of the sentence immediately. English is the same kind of language, which is read one word after another. In sum, this means that Americans have a different sequential order in thought processes. Therefore, no matter if you use interpreters, it is impossible to interpret in the same sequential order as the thought processes that that generated the words in Japanese
. Thus, when a message is to be delivered, it is regrettable but true, that the sequential thought process of Japanese is in the minority in the world. When communicating with occidentals, who are in the majority, if things are not communicated in an order they can comprehend, they do not understand what we are saying. It is necessary that we be cognizant of this disadvantage that Japan has in this area.
-----------------------------
In the course of my conversation with Glen Fukushima, I asked whom among the Japanese negotiators he considers the best. He immediately came up with the name of MITI's Kuroda, whom the Japanese press used to criticize for his tough positions. The press claimed that his participation aggravated the problems with the U.S. The Americans criticized him for being stubborn. Strabgely, the American negotiator named him the most effective. He is stubborn and is able to say "no" decisively whenever he should do so. The Americans usually try to overpower negotiations by increasing pressure. But Kuroda does not feel that he must say "yes" to American pressure. America is a giant in many ways, and, in many ways, Japan is a dwarf. This obvious contrast has been exploited by the Americans often in the past.
Mr. Kuroda kept pointing out that irrational pressure is not always the result of reason or logic, and reinforced this position by withstanding increased pressure
. His "no" is not a no for its own sake; he always states his reasons. This is the proper approach and attitude in negotiations. In the past, there have been allegations that Japanese logic and opinions have not made any sense to the other side.
When the opposing side points out that Japanese opinions and demands have no logical basis, all of a sudden the illogical Japanese start saying "yes, yes, yes..." in a panic. But these "yesses" do not necessarily mean yes in the sense of positive assertion. At any rate, the other side then comes to the conclusion that Japan will not take action unless pressure is placed on them. This is a rather unfortunate situation for the people of Japan. The Japanese image of being soft in the face of pressure does not help Japan's diplomatic efforts at all.
I have often suggested that at least half of Japan's diplomats stationed abroad be civilians. Those who are in business and other professions who have dealt with foreigners are in a better position to represent the interests of Japan than are career diplomats. Send Mr. Morita to America as our ambassador: a brilliant idea! But it should not be just an idea.

--------------------------------------------
In negotiations among business leaders, we, top management hold discussions face to face, saying "yes" or "no", or "if you do that we will do this." However, we have a tendency to prepare answers for negotiations even in business world in Japan. Take my case, for example. Once a chairman of a large Japanese firm was vistiting me and I planned to talk to him face to face. Then, someone from that office called us and asked what I was going to talk about when we met. "Our chairman is going to say such and such. How will you respond?" They wanted to prepare all answers beforehand. I do not think we need to have meetings if the content is planned beforehand. I want Mr. Takeshita to say correctly how we, Japanese, see the present situation in the United States and tell them clearly what we want to do. (L.O.)
Because of our historical discipline, Japan has adhered to the principle that "silence is golden," but I believe Japan must insist that the United States do what must be done. An outspoken person like me is easily criticized from every corner and I am sure Mr. Ishihara has had the same experience since he is also very outspoken. But to be silent and to put up with things do not work at all in the West. As Ishihara has suggested, I think we should say what we have to say. If not, I am afraid we will lose our own identity as Japanese in the world.

----------------------------------

事実は小説並みに奇なり? Mysterious as a novel can be?

やれやれ、一ヶ月以上ぶりの投稿です。
丁度一ヶ月、我が家にホームステイしている人がいたこと、
同時期に引越しをしたこと、
とあるイベントを主催していたことなどが重なり、嵐のような一ヶ月でした。
今も片づけをしてはいますが、これから何とか漸く自分の生活を持てそうです。
メールやメッセージを頂いていた方、申し訳ありません。
これから読み始めますので、返信はもうしばらくお待ちくださいませ。

さて、ニュースによれば、海上自衛官がイージスシステムの情報を漏洩したらしいのですってね。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/18568.html
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200703300507.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070401-00000077-jij-soci
しかも配偶者が中国国籍だと報道されています。
なんだかすっかり『ウルトラ・ダラー』(手嶋龍一著)の世界ですね。
しかし何だって機関担当の2等海曹がそんな重大機密にアクセスできたんでしょうか。
協力者でもいたのでしょうか。それともうっかり目に触れる所に置いた人がいるのでしょうか。
同じ船で働いている仲間を信頼せずに仕事をすることなんてできない、
という気持ちがあるのでしょうか。そうだとすると、それは分かるような気もします。

しかしこの事件、記事によってはフロッピーディスクを持ち帰っていた、とあり、
他の記事にはハードディスクを持ち帰っていた、とあります。
それ、普通はかなり違うと思うんですけど。どっちなんでしょうか・・・・・・
そして何故神奈川県警が挙げた事件なのに北海道新聞が一番詳しいのでしょうか・・・
何だか煙に巻かれたような話です。
とりあえずどうなるんでしょう、ミサイル防衛と日米安保。