Tuesday, March 25, 2008

[book] Trotzdem Ja zum Leben sagen それでも人生にイエスと言う

[book] Viktor Emil Frankl. 1994. Trotzdem Ja zum Leben sagen. Tokyo: Shunjusha.

International Bioethics Debate Tournament 2008 @Kyushu Univ.に参加しました。

前日まで東工大杯に出ていたことなどもあり,全く準備できなかった私が,家を出るときに慌てて鞄に入れたのがこの本(『それでも人生にイエスと言う』)と『医者が体験した末期ガンからの生還』でした。高校3年生の時にひょんなことから読んだのですが,今読み返してみると本当に面白い本です。

著者はいわゆるホロコースト・サバイバー。
後にロゴセラピーを開発した医師でもあります。
人が生きる意味について語り,病床の安楽死の是非を議論しているこの本は,実証的なデータは全然なくて,いわゆる自己啓発本的な内容なのですが,ところどころで出てくる強制収容所で見た人々の心のあり方が胸を打ちます。

邦訳の題名は『それでも人生にイエスと言う』。
重い中にも生きる希望が満ちた一冊です。
題名はブーヘンヴァルト強制収容所で唄われた歌の一節のようです。

しかし不思議なもので,こういう本というのは自分や家族に病や死の危険が迫っているときにはまーったく手に取る気になれないもので…全くそういう現実の問題がなかった筈の高校生の時は何故か興味を持ったわけですから不思議です。安楽死のディベートも,一時期家族が病気をしていた時などは試合中にやたら涙が出たり,とにかく避けたくてたまらなくなりましたが,最近また面白いと思えるようになりました。こういう時にこそ沢山「考え溜め」して心と頭の基礎体力アップをしておかなきゃな,と思います。

この本には「人は楽しみのために生きているのではない」という節があって,その直後に「生きることは義務だ」というRabindranath Tagoreの詩の引用が添えられています。また著者は病や死のように避けられない苦悩も人生に意味を与える,とも言うんですね。(ホロコースト・サバイバーにそう言われると重みが違いますよね……)

そんな部分が特に,この本の思想は妙に仏教的だと私が感じた原因かと思います。この著者の講演がヨーロッパの聴衆にどう受け止められたのか興味を持っていました。そこで試合ではこの本の上記の部分を駄目もとで引用してみましたが,予想通り全くウケませんでした。

ところが,なんとこの著者が,審査員にみえていたカール・ベッカー先生の個人的なお知り合いと発覚。更に私の興味を誘いました。しかもベッカー先生の講演では私の大好きなミシェル・フーコーの引用も出てきたりして,もう大興奮でした。調子に乗って先生に沢山質問してしまいました。件の個人主義とは異なる日本の医療環境についても伺ったりしました。いや,これがまたダンディーな素敵な先生で!!ホント,一粒で何回も美味しい大会でした。

後でベッカー先生は終末医療の権威で比較宗教学の権威と発覚。
冷や汗ものですが,でも本当に,こういう機会を頂戴して幸せだったと思います。

全体的に,私は医療の現場を知らないんだな,とつくづく思わされました。
チームメイトのI氏に介護医療や心療について話を聴いたり,ベッカー先生や決勝戦の後の講演を聴いたり,しばらくできなかった安楽死のディベートを一気に4試合して色々考えさせられたり,この本に再会させて貰ったり,本当に貴重な機会を頂いたと思いました。もっと勉強せな!!です!!

主催者の皆様,チームメイトをして下さったI氏,審査員をして下さった先生方,対戦相手の皆様,感想を下さった聴衆の皆様……本当にありがとうございました!!

Monday, March 24, 2008

The Life ざ・らいふ

1. 食生活

土曜日にお好み焼きを食べ,日曜日にもんじゃ焼き…
どちらも大変美味しいお店でしたが,しばらくこの系統は良いかな…
しかも二回とも久しぶりにお会いする先輩達に囲まれてのもの。
特に二回目はあまりの眠気のためワードチョイスを誤るシーンが続き,限界を自覚しました。
しまったと思ったときは手遅れですよね,ああいうのは。ごめんなさい。

しばらく紅茶断ちしていたのは解禁にしました。
我慢は体に良くないかな(笑)と。
でも紅茶があるとつい甘いもの食べてしまうから危険。
福岡土産のスイートポテトの甘さぶりにびっくり。
東京にはあまりない味です。何となくほっくりしました。

2. 衣生活

季節の変わり目は着るものが難しいですね。
昨日は寒くて寒くて参りました。まだ春コートの下シャツ一枚では駄目だったか。
しかしその春コートは複数の方に褒めてもらってちょっと嬉しい。
形が割りと気に入っているのですねー。ただボタンが多くて面倒です。
着脱時のトロトロ具合が,ああ春ボケって感じ。
ひたすらボタンと戦っていると頭だけどこか(眠り)に持ってかれそうになります。

最近とにかく寝不足なので,これ以上暖かくなると危険な気がします。
今以上に眠くなっちゃうし,お散歩したくなってしまう。
デスクに張り付くのが嫌になること請け合いです。
しかし折角冬物しまったのだからしばらく現行のワードローブで済ませたい。

3. ディベート生活

東工大杯は久々に選手でしたがやっぱりリハビリが不十分でした。
せめてもう少し練習しないとねー。まあ気楽に参加できて良かったかな?
論題は何ともいえない感じ。
まあ私が最近富みに勉強不足なので時事性について正確な判断ができないのが残念。
二日目の夕方野暮用で早く失礼したらベスト・ディベータ賞頂戴していたらしいです。
閉会式出られなくて残念でした。

東工大杯後,野暮用がらみで夜更かしし,しかも始発で羽田から福岡へ。
二日間の「生命倫理国際ディベート大会」に参加しました。

・・・なんと選手で。

丁度1チーム足りない,とのことで,全くノープレパで投入されました。
チームメイトをして頂いた石島氏とは当日「お久しぶり!」と感動の再会。
そして1時間半後には大会開幕!(汗)土日月火と寝不足・疲労困憊。死にそうでした。

しかも,東工大杯は即興性の,俗にパーラと呼ばれているもの。
これに対し翌日の生命倫理国際ディベート大会はリサーチ重視の,俗にポリシーと呼ばれているもの。
属性からしてちょっと違う。
けれど両方できるのがウリな私としてはそんなことで四の五の言ってられません。

で,生命倫理は準優勝でした。
うん,我ながら頑張ったのと違う?
両方のスタイルで海外チームと伍せる選手は日本では少ないですし。

しかし久々に(ポリシー的な)ケースを作ってみて(半分くらい人のものだけど),
凄く楽しかったです。ああ,伸ばし甲斐のあるエビが1ACにあるって快感☆
そしてCross-Examinationがたまらない。ゾクゾクする。(あぶない?)
あのゾクゾク感はPOIにはない何かです。柔道の立ち技を決めるような間合いの感覚がある。
静かに静かに意図の見えない単純な質問が続く中で,一気に勝負に出る,牙を剥く瞬間がある。
ドラマチックです。シンガポールのL氏にそれが面白かったと言われてちょっと嬉しかった。

対戦相手は,第一試合が東南アジアチーム,第二試合が米国チーム,準決勝が韓国チームで,決勝が米国チームでした。試合の合間に医療現場の先生方のレクチャーがあって,これがまたずっしり来るんだ,心に。ああ,こうやって勉強するためにディベートしてるんだぁ…ってまたぞろ私のマゾ体質全開。(笑)

さて,ICU杯は審査員でした。論題は微妙。以下同文。
しかし気になったのは,明らかに狡い勝ち方するチーム。
明らかにクラッシュを避けている。
ああいうのに負けちゃいかんぜよ。
特にケースセッティングが狡いのはとても迷惑。
選手も審査員も聴衆も何も学ぶことができない無駄試合と化すから。
他人の貴重な時間と機会を盗んでいるも同然です。
皆勉強しに来ている筈なのに,あんなことして何が楽しいんだろう。
後輩が「勝てるから」とああいうのを真似しないでくれるのを祈るばかりです。

4. 生命倫理-①

ICU杯の準決勝の論題は,「聴覚障害者が,聴覚障害児となりそうな胚/胎児をスクリーンアウト『しない』権利を持つ」というもの。

想定されていたのは体外受精の場合に弱そうな卵子をわざわざ選んで良いか,というもので,イギリスの法律に関連していたようなのですが,実際の試合は全然違うものに。

なんと,スクリーンアウトが『堕胎』と解釈されたんですよね。
そうすると「政府に強制堕胎されない権利がある」という論題になるわけです。
両親が望むなら堕胎してもいいし,『堕胎しなくても良い』,と。

いや,それ当たり前でしょ。

恐ろしく議論不可なセッティングで,普通なら「そもそも現状で強制堕胎してないだろ!どっから来た発想だ!」と否定側が言えば済むんですが,ご丁寧に「一人っ子政策下の中国」にセッティング。無理矢理強制堕胎が現実のものとなっている場所にされてしまったんですね……

いや,誰が,「親が泣き叫んでも無理矢理堕胎させるべし」なんて言えますか……
どんなバイオハザードな胎児なんだよ,って感じ。
その子が生まれると人類滅亡,とかならともかく聴覚障害では無理でしょう……
社会的コストとか言われても,そんなちょびっとの金を惜しんで排除して良い存在では絶対にないもん。

肯定側は明らかに四つに組むのを避けているわけで,
こういう議論することを逃げて勝つ方法ばかり30分間考えている人間がいるのかと思うと気が滅入ります。

ところで論題ですが,そもそも想定されていた,『わざと劣性卵を選ぶ権利』,を議論したなら確かに面白い試合だったかも。聴覚障害者コミュニティ独特の文化を,「保護されるべき文化」と認め,それを「子供に押し付ける権利が親にあるか」,また「貴重な体外受精において成功率の低い卵を選ぶことが倫理的か(ES細胞の研究と同じ倫理問題か?)」という話は相当面白かったろうと思います。是非聴きたかったな。しかしあのワーディングでは駄目でしょうな…。残念。

5. 生命倫理-②

さて,福岡の大会の論題は安楽死合法化でした。
individualismが前提となった政策って現代では凄く多くて,
国際大会ではその点には全く疑問が差し挟まれないわけですが,
生命倫理に関しては「あれ?」って違和感感じることが沢山あるんですよね。
今回もその違和感に悩まされました。

日本では小学校の時から,「人っていう字は人と人が寄り重なってできてる。人は一人で生きてるんじゃない」とか言われたりですね,「お米を粗末にするヤツは目がつぶれる」とかですね,「夕日が背中を押してくる」だの「山の神様がうんぬん」だのと言われて過ごすじゃないですか?八百万(やおろず)の(=どんな些細なものにも)神様がいて,大切にされなきゃいけない,みたいな。「世界は自分に理解できないもの」「理解できなくても正しいもの」みたいな感覚?理不尽さを許す土壌がある気がちょっとします。

どこか「人は生きるのではなく,生かされるのだ」という感覚があるように思える。
今でも患者本人に癌告知するかを家族に選ばせたりする医療のあり方というのは,どこか患者の命の所有者が患者自身だけではなく家族や患者を愛するコミュニティのもの,と考えている節を感じます。
「夜爪を切ると親の死に目に会えない」なんていう迷信も,自分の命を粗末にするな,自分の命は与えた親のものでもあるぞ,っていう感じがする。

また,「人生は楽しむもの」という感覚よりも「人生は耐えるもの」という感覚がありそう。
仏教では四苦八苦というくらいですから,そこからでしょうかね。
苦しみに「捉われない/囚われない」ことが尊いとされる。
自分の命を「他人事」のように扱うことが良いこととされる節,ありませんか?

一方で個人の選択の自由や権利を信じて快楽追求型の現代人的な(=欧米的な?)私がいて,
もう一方では多神教でアニミズム全開な環境で育った耐え難きを耐えちゃう私がいる感じ。
そういう自分の中の齟齬が生命倫理系のディベートでは大きな違和感を生んでいるようです。

樹なつみの漫画「OZ」の以下の台詞とか説明できないんですよね,英語で。
ていうか説明するんだけど,全然分かって貰えないわけ。(誰か漫画丸ごと英訳出して欲しい)

(*「じいさん」は武藤という日系。モンゴロイドだからという理由で孤児だった主人公にも「ムトー」の姓を与えます。「ナインティーン」は「リオン」という科学者に創られたアンドロイドの先を行くサイバノイドの名前です。)
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ナインティーン: 
寒そうですね。横になった方がいいですよ。人間は不便ですね。

ムトー: 
リオンの事だから今に人間そっくりそのままのバイオロイドを造り出すぜ。
その時はそいつも寒さにふるえるさ。
そうなると…何の為の生命(いのち)かわからなくなるなぁ…

ナインティーン: 
もし寒さに震えても,それはプログラムに従っているだけですからね。
しょせん機械(マシン)は本当の意味で感じはしません。

ムトー: 
じいさんならそうは言わないな……

ナインティーン: 
あなたの育ての親ですか

ムトー: 
長年荒野をさまよってたせいか人種的なものか,一種独特の哲学を持ってた。
雑貨をオンボロトラックにのせて売り歩いてたんだが,そいつに名前なんかつけてたんだぜ。
ジェシーなんてな。
ある日ついにそいつが動かなくなった。
じいさんはよくやってくれたと言って泣いた。
おれは内心バカバカしかったが黙って見ていたよ。
でも一緒に悲しいと言ってやれるほど大人でもなかった。

ムトーの回想中のじいさん:
ヨウ(ムトーのこと)…,おまえわしが泣くのをバカみたいだと思うか。

幼い日のムトー:
変は変だよ…。
そんなの…生きてねぇもん。

ムトーの回想中のじいさん:
それは違うぞ。
ジェシーは生きとった。
わしがやさしくしてやりゃこいつもこたえてくれた。
皆神様がおつくりになったものだ。
魂をもたないものなど,生きていないものなどこの大地の上にいない。
土クレも,鉄も,空気も。
生き方が違うだけだ。
わしらにわからんだけなのだ。
聞こえんか,ヨウ。
大地の声が…
語りかけるあの声が---
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この「じいさん」の台詞,めっちゃアニミズムの世界でしょう?
しかも妙に一休さんの世界でもないですか?

個人の権利と幸福の追求を基盤としたスピーチを展開している真っ最中に,
私の中にそれが本当に正しいのか疑問に思う気持ちがいつもある気がします。
「じいさん」と信仰を同一にしているとは言い難い現代人な私ですが,
「じいさん」的な価値観がどこかで刷り込まれているというか。

安楽死の話にしても,件の強制堕胎の話にしても,
海外の友人達の反応と日本の審査員たちの反応には明らかな開きがある。
それで,あれ,自分どっちだろう,それでどっちが正しいんだろうってよく思います。
国際的に認められるためには人権の概念に則った意見を持たなければならない。
けれどどこか,やはり齟齬が埋まらないままです。

いつか,もっと分かりやすく,思い込みから自由になって,
そんな生命倫理の話をできる友人ができたら良いな,と思っています。