Sunday, June 25, 2006

姉妹サイト「兎聲舎時事」開始 Starting Toseisha News

海外ニュースの和訳・日本のニュースの英訳を開始!
といっても短いものだけですけれども。

やってみると案外日本語の語彙の少なさが気になる。
うーん、漸く翻訳コースの人たちの悩みが少し分かるように・・・。

毎日読んでるものの中で短くて、国内では報道されていなさそうなものを少しずつカバーしようと思います。ディベータとしての自分自身のためと、海外事情に興味がある方向け。良かったら覗いてみてください。

[CD] 無尽 NEVER END

[CD] ASKA. 1997. 『NEVER END』. 東芝EMI

ダメだ。一枚で落ち着けない、今日は。
放浪するように他のCDに変えてしまう・・・
とりあえずここらへんで落ち着きたい。
頑張れAska。

男声はバリトンくらいが好きです。
このASKAはちょっと高すぎる。
けどたまに高い声聴きたくなるから不思議。
今日はこれでも良いみたい。
伸びのある声が気持ちいーー。
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夏はシャツを脱ごう 冬は重ね着しよう
風邪をひくのはとても嫌いだな
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ひひひひ。あったりまえじゃーーん。(^-^) どんな歌詞やねーん。

おススメはやっぱり最後の曲。「月が近づけば少しはましだろう」。
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角を曲がるといつも 消え失せてしまう言葉だけど
心の中では 切れて仕方ない

この指の先でそっと 拭きとれるはずの言葉だけど
積もり始めたら 泣けて仕方ない
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そういう時は大いに泣け!!と私は思ふ。

[CD] ASKA. 1997. NEVER END. Toshiba EMI.

Daaa. Can't stay with one today...
Can't stop changing disks one after another.
Hope this one satisfies me for a while.
Aska, I trust you. :p

As for male vocals, I usually like baritone.
ASKA is a bit too high.
But sometimes makes me feel like listening to him.
It seems this fits me today. :)

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Take off shirts in summer.
Put on more in winter.
I don't like catching cold.
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Ahahahahaha. Who disagree with this??? (^v^)

[CD] 1995

[CD] ヒートウェイヴ.1995.『1995』.EPIC/ソニーレコード.

茅ヶ崎行ってきたんだしサザンを聴けよ?ごもっともです。けどサザンは重いもん、今日には。作業はかどらないもん、あんなの聴いたら。もう少し軽快な、のんびりな、けどロックが良いもん。

今日もひたすらExcel作業。早くWordの作業に移りたいのだが・・・。

見つめるー前にー跳んでみようーじゃーないかー
Sweet Sweet Harmony Is My Sweet Sweet Revolution♪

うふふふ。「オリオンへの道」も好き。

7月17日に恵比寿でライヴがあるらしい。
珍しく心惹かれる・・・けど忙しくて無理だろうなぁ・・・。

[CD] Heat Wave. 1995. 1995. EPIC/Sony Record.

You think I should listen to Southern All Stars if I went to Chigasaki? :) ufufu. Perhaps... But they are a bit too heavy for today. I can't work listening to love songs of Southern, you know. Something a bit lighter, relaxing but rock is preferable. :)

Working on Excel sheets today again... Should be moving on to Word though...

"Before staring at it, go ahead and jump.
Sweet sweet harmony is my sweet sweet revolution."

Ufufu. I love "The road to Orion", too. :)

It seems that Heat Wave is having a live performance in Ebisu on July 17th...
Wish if I could come... but probably too busy for doing so...

[Food] ポプス Pops

[Food] Teppan Grill Restaurant & Bar. Pops.

プレゼン明けて幸せーな翌日、友人が車で仕事帰りに寄ってくれて遊びに行きました。久々にまともに外で食事しました(汗)夜なのに海に行きたいという私の願いを叶えてくれた素晴らしい友人に感謝。久々に会えてたっぷりお喋りできたので幸せでした。(^v^)oくだらないことばっかだけど、話したのは(笑)。川口選手かっこよかったねー☆とか。(川口選手のオフィシャルサイトはこちら。1998年の時も彼の吼える姿がかっこよくて印象に残りました。あの頃はまだまだ若さが目立ちましたけど、今はすっかり頼もしい感じですね。今も昔もガッツ溢れる姿には励まされますよね)。アホでたわいもない話が楽しくてついつい午前様してしまいました。

育ったのが湘南の海辺なので、今でも無性に海が見たくなる日があります。海を見ながらほけーっとする時間はホント心が洗われる気がします。1ヶ月に一度くらい、海を見てボケーと半日過ごすような充電日が持てたら良いなぁ・・・強めのお酒つきなら更に頭をリラックスできそうでしゅてき。はふう。

今回行ったお店は海辺も海辺。もっと明るかったらさぞ綺麗だったに違いない。また行きたいなー、と思ったのでここにメモしておきます。お店の人もとってもとっても感じ良かったの。今回は友人が車だったし、私は寝不足すぎて危険だったのでアルコールはなしにしました。次回はお酒も飲みたいナ。

ぐるなびのサイトはこちら。クーポンを持っていくと、デザートがついて、しかも20%オフになるから、是非ともプリントしていくこと。りんごのケーキおいちかった。アールグレイもホッとする一杯でした。

[Food] Teppan Grill Restaurant & Bar. Pops.

Friday, June 23, 2006

[CD] 涙と理由 Tears and Reasons

[CD] 松任谷由実.ティアーズアンドリーズンズ.1992.東芝EMI.

私もご他聞に洩れず、中田(英)選手の涙にすっかり感情移入してしまいました。

一昨夜研究室でのプレゼンテーションが無事終わりました。色々試してみたい分析のヒントも貰えました。ありがたや。早くやってみたいな、とうずうずするところもあったのですが、とりあえず帰って仮眠。

だってブラジル戦前だもーん!!

というわけで2時間程休んで、テレビスイッチオン!直前のサッカー解説番組も観てお勉強しつつ本番のブラジル戦スタート!!

サッカーの事は詳しくない私ですが、やはりブラジルは一枚上手という印象を受けました。

日本チームが守備に回るシーンでは、全体的に自陣寄りに全員が展開していました。これはボールを持っている相手選手に複数の人数で効果的にプレッシャーをかけるためだとか。前半日本が得点するまではその作戦通りに進んでいたように見えました。けれどそれはブラジルチームが故意にそうさせていたのではないかと感じました。ブラジルの攻撃はあまりに精彩を欠いていました。けれど前半の良い感触を感じた日本チームは前半と同じように守ろうと思って後半に入ったのではないでしょうか。

後半、日本チームは前半と同じように間延びを避け、チームでの守備に徹しようとしているように見えました。しかし、それはつまりゴール前の人口密度が高いということ。プレッシャーをかけるべく近くに集まって来た日本選手に、ブラジルのアシストを担う選手のパスがあたって弾かれるようになりました。本来これは良いことの筈。けれどどうも日本選手がプレッシャーをかけて自発的に奪った、というよりも「あたった」ように見えるシーンが多くなりました。しかもどうしたわけか、あたって弾かれた球の行く先にはブラジルのストライカー、ロナウドがいる。まるでパスしたみたいに。

・・・・・・壁打ちの壁扱いされてるんじゃん!!???スカッシュじゃないぞ!

サッカーは前半と後半で作戦を切り替えていくものなのではないかな・・・という印象を受けました。日本のチームはそういう意味でとてもナイーブな感じがしました。裏とか駆け引きとかが足りないような。

ピッチに残る中田選手の涙に打たれました。ああ,頑張ったんだなーって。

FIFAとは比べ物にならない規模の競技ではありますが、一応日本代表選手として戦ってきた身としていろんなことがフラッシュバックしてしまいました。私も沢山泣いたなー。頑張っても他のプレーヤーと意識が同じとは限らない。頑張っても勝てる見込みはなかなか見えない。他の国のチームとの間に大きな壁を感じてもがいてももがいても乗り越えられそうにない(私にとってはそれは言葉の壁でしたけど、サッカーの日本代表にとっては体格差が明確な壁だったかと)。苦しくて悔しいけど毎日ひたすら頑張るしかない。

・・・辛いんだろうな。悔しいんだろうな。

ディベートの日本選手団は、とうとう明かりをみつけました。
頑張ればいつか報われると、2%でいい。信じられたら良い。
というわけで今日はこのCDの最後の曲、Carry onを聞いております。

がんばれ、日本のサッカー。

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もつれそうなストライドに
また絶望が襲いかかる
傷だらけの夢をまとい
打ちひしがれた姿でいい
Carry on ...... Carry on ......

終りのない長い道に
傾いてゆく夏の光
あなたはただ走っている
金の炎が燃える場所へ Carry on
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[CD] Matsutoya, Yumi. 1992. Tears and Reasons. Toshiba EMI.

Wednesday, June 21, 2006

[Book] イソクラテス弁論集1 Isocrate. Discours

[本]イソクラテス.小池澄夫訳.1998.『イソクラテス弁論集1』.京都大学学術出版会.

スリリングでドキドキする文章。
もっと勉強しなければと高揚する気持ち。
イソクラテスという人は、沢山の名演説を「書いた」けれど、
声が小さく小心であるのを気にして自分では話さなかったとか。
そんなの想像できない勢いのある文章です。
果たして小心であってこんな自信に満ちた言葉が紡げるものだろうか・・・
イソクラテスの文章に恋しそうな今朝です。

下の引用、特に最後の部分は、ちょっとチョムスキーを思い出します。

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 まことに、有益な言論を聞いて学ぼうともしないのは、友人の好意を拒むのと同じように見苦しい。好んで寸暇を言論の傾聴にあてるならば、やがて他の人には難解な言葉がよどみなく理解できるようになるであろう
 こうして聞いた言葉は多くの財貨より、はるかに貴重なものであると考えること。なぜなら、一方はすみやかに失われ、他方はすべての時を貫いてとどまるからである。われわれの所有するものの中で唯一、知恵のみが不滅である。何か有用な教えを授けると宣言する人びとを尋ねて、遠路を旅することに怯んではならない
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 世上には言論にひどく反感を抱いている人がいて、哲学する者を罵り、彼らがそのような仕事に励むのは徳のためではなく権勢欲のためだと言う。ぜひとも彼らから聴きたいと思うのだが、なにゆえ一方で雄弁を欲する者をおとしめ、他方で功業を望む者を誉めそやすのか。もし利欲が彼らの唾棄するところであるならば、はるかに多大の利得が言論よりも実業によって生まれているではないか。(中略)徳に背くことなく利得を挙げるならば、その仕事そのものは非難にあたらない。むしろ咎めるべきは、行為において罪過を犯す者、あるいは言論によって人を過たせ、不正に言論を用いる者である。
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 互いに説得し、また欲するところのことについて自分自身に明らかにすることができるようになってはじめて、われわれは野獣の生活から訣別したばかりでなく、集まって城市を建設し法律を立て技術を発明したのであるが、われわれの工夫考案のほとんどすべては、言葉がこれを準備したのである。
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 この言葉の助けによってわれわれは、異論かまびすしいものについて論陣を張り、未知の事柄について考察する。まことに、われわれが他の人びとを説得するために述べる論拠と、ひとり熟慮判断するために用いるそれは同じものであり、多数の会衆の前で弁舌をふるうことのできる者を雄弁家と呼び、懸案をめぐって自分自身を相手に最もよく論議をつくす者を深慮の人とみなすのである。
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 私の見るところ、諸君は発言者を分け隔てず公平に聴くことをしていない。ある者には神経を集中するが、ある者に対してはその声を聴くことすら我慢しない。そして諸君のそういう態度は不思議ではない。諸君はこれまで諸君の欲望におもねる者でなければ、すべて演壇から引き降ろす悪習に染まっているからである。

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 われわれは戦争と平和について討議するために民会に集まって来た。この案件こそ人びとの生活に深甚な影響を及ぼすものであり、これについての審議の正否により、幸不幸が決定するものである。われわれが討議するために集まった議題はかくも重大である。
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 ところが諸君はこのいずれにも等閑にして狂躁をほしいままにしている。われわれがここに集まったのは、すべての発言を聴いて最善の意見を採択すべきだと考えてのことであるのに、すでにいかなる行動をとるべきかは明確に知っているかのごとく、耳に快い煽動家の言葉しか聴こうとしないではないか。しかしながら、いやしくも諸君が国益の追求をねがうならば、むしろ諸君の意見に反対する者の議論に耳を傾けるべきであって、甘言は斥けなければならない。壇上に立って論弁する者のうち、諸君の欲するところを述べる者は、容易に諸君を欺くことができるが、しかし甘言を排して忠告する者が諸君を瞞す気づかいはない。なぜなら、何が有益かを明らかにすることなしには、諸君の意見を変えようとしても到底できるものではないからである。だがその点は措いても、人は過去について判断を下すにせよ、未来について深慮するにせよ、対立する議論を吟味し双方の主張を公平に聴かないでは、事はおぼつかない。
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 私は諸君の見解に反対することの困難を承知している。またそれだけではない。民主制のもとでありながら、ここ民会で「自由な言論」が許されているのは、諸君のためをはかることのできない愚か者のほかになく、また劇場では喜劇作家のほかにない。なんとも恐るべきことに、国家の犯した失態を他国のギリシア人に吹聴する者にはどんな功労者も及ばぬ愛顧を与え、諸君を譴責し訓戒する者には、国事犯を相手にしているかのように不快を隠さない。
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[Book]G. Mathieu et E. Bremond ed. 1929. Isocrate. Discours. vol.1. Paris: Les Belles Lettres.

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I observe, however, that you do not hear with equal favor the speakers who address you, but that, while you give your attention to some, in the case of others you do not even suffer their voice to be heard. And it is not surprising that you do this; for in the past you have formed the habit of driving all the orators from the platform except those who support your desires.

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ウェブログ図書館 Weblog Library

現在申請中。

ちょっとみたら専攻と絡んだ記事が多く掲載されていてビックリ。
これからは定期的にチェックしようかな。

[Book] 第1感 Blink

[本]グラッドウェル,マルコム.沢田博・阿部尚美訳.2006. 『第1感: 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』.光文社.

やたらと売れているようなので期待して読んだのだが、イマイチ。当たり前のことしか書いていない・・・というか古い!!なんだ今更?な内容。しかも分析が全く科学的でない。ひたすらエピソードが並ぶ。ビジネス書としては許されるのだろうか。よくわからないが、一般化に耐える知見は得られない。エッセイなんだか意見書なんだか何なんだかわからない。ありがちで中途半端なアプローチだ。

更に気になるのは、彼の言う「第1感」の概念に一貫性が見えないことだ。ある時は「時間をかけないで行う判断」を、ある時は「言語化されない情報」を、またある時は「偏見を除いたブラインド・テストによる評価」を指している。全然別のことではなかろうか。

ナンセンスな論理(?)展開も多すぎる。下の引用部分の「仕切りのおかげで純粋な瞬時の認知が可能になり」というのは全く意味不明だ。視覚情報の有無と判断にかかる時間は無関係だ。審査員は視覚情報を制限されたのであって、曲の最初の2秒だけを聴かされたという話ではない。「偏見を取り除いて能力を基準に人を評価すること」と「直感に頼って評価すること」は全く別物だ。「直感に頼って評価すること」と「聴覚優位な情報授与」も全然関係ない。(両方とも厳密に言えば関係有る。しかしこんな大雑把な文脈では断じてない。もっとバイオな問題だ)全くナンセンスだ。

それどころかこの本の他の箇所には「ひと目で見抜く力」という見出しの部分もある。人間の顔の特徴は視覚的・直感的には認知できても言語化できない、というくだりもある。仮に下の引用部分で彼の示唆するとおり視覚情報は「時間のかかる情報処理」で、「直感ではない」のだとしたら、これらのセクションはどう解釈すればいいのだ??「ひと目で見抜く」直観力について語っているではないか??矛盾しまくりだ。「直感に頼れ」と言いたいのか「直感に頼るな」と言いたいのかも全く意味不明。

全体的に、思い付きを書き散らした印象が拭えない。関係のある情報とない情報が判然としている。頭が悪そうな文章だ。よほどバカでなければこいうのは書こうと思っても書けないのではないだろうか。はっきりとダメな本。何でこれがベストセラーなんだろう・・・。

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 ジュリー・ランズマンがメトロポリタン歌劇団の主席ホルン奏者を選ぶオーディションを受けたとき、練習用ホールには仕切りが設けられたばかりだった。そのとき、歌劇団の金管楽器のセクションに女性はいなかった。女性は男性のようにホルンを吹けないというのが「常識」だったからだ。だが、そこにランズマンがやってきて演奏した。素晴らしかった。「最終選考で演奏したとき、結果を聞く前に合格したとわかった」と彼女は言う。「最後の曲を演奏したときにちょっと小細工したの。確実に審査員の印象に残るように、最後の高いドの音をかなり長く伸ばしてみたの。審査員は笑い出したわ。必要以上に伸ばしたから」

 だが、合格者が発表されて彼女が仕切りの後ろいから現れると、みんな息を飲んだ。コナントの場合のように、彼女が女性で、女性のホルン奏者が珍しかったからだけではない。男性の演奏と間違えるような力強く大胆に引き伸ばした高いドの音のせいだけでもない。審査員は彼女を知っていたのだ。ランズマンは以前にメトロポリタン歌劇団で代役として演奏したことがあった。だが耳だけで聴く前は、その演奏の素晴らしさにみんな気づかなかった。仕切りのおかげで純粋な瞬時の認知が可能となり、小さな奇跡が起きたのだ。最初の2秒を大事にすれば、いつでも起きる小さな奇跡だ。そうして彼らは、ランズマンの本当の力を知った。
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[Book] Gladwell, Malcolm. 2005. Blink. NY: Little, Brown and Company.

I have absolutely no idea why this book is a best seller. This doesn't make sense at all. This is a very messy book with messy ideas.

For example, the following part doesn't make sense at all. Visual information has no relation with the length you take for making a decision. Making decision in a brief time and doing it based on prejudice are different things. Making decision based on instinct and doing it based on audio information are different, too. It really doesn't make sense...

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When Julie Landsaman auditioned for the role of principal French horn at the Met, the screens had just gone up in the practice hall. At the time, there were no women in the brass section of the orchestra, because everyone "knew" that women could not play the horn as well as men. But Landsman came and sat down and played -- and she played well. "I knew in my last round that I had won before they told me," she says. "It was because of the way I performed the last piece. I held on to the last high C for a very long time, just to leave no doubt in their minds. And they started to laugh, because it was above and beyond the call of duty." But when they declared her the winner and she stepped out from behind the screen, there was a gasp. It wasn't just that she as a woman, and female horn players were rare, as had been the case with Conant. And it wasn't just that bold, extended high C, which was the kind of macho sound that they expected from a man only. It was because they knew her. Landsman had played for the Met before as a substitute. Until they listened to her with just their ears, however, they had no idea she was so good. When the screen created a pure Blink moment, a small miracle happened, the kind of small miracle that is always possible when we take charge of the first two seconds: they saw her for who she truly was.
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Tuesday, June 20, 2006

[CD] 嬉しくて微かで軽いキス Delight Slight Light KISS

[CD] 松任谷由実.1988. 『Delight Slight Light KISS』. 東芝EMI.

はい。音楽を聴いている、つまりは今日もExcel作業です。飽きたーー。ボタン1つで答だけ分かったら良いのになぁ・・・私の仕事は考えるだけ。嗚呼素敵・・・って無駄な妄想してる暇はないちゅうねん。

ユーミンは中学生の頃から好きです。荒井由実時代限定で好きだったんですよね、ずっと。でも最近松任谷になってからのユーミンも良いなぁ・・・と思い始めました。歳相応になったんでしょうか。 このアルバムは両方の雰囲気が混在してる感じがします。

このアルバムに入ってる中で有名なのはやっぱり「リフレインが叫んでいる」でしょうか。こういう曲は荒井由実時代にはなかったですよね。聴くタイミングによっては結構シンクロしちゃうので曲者(笑)やー、優しくするべき相手に優しくできなかったり、明日もあると思って油断してたら突然会えなくなったり。そういうことってありますよね。それが恋人のこともあるし、友人のこともあるし、家族のこともある。離別のこともあるし死別のこともある。どちらにしてもそういう時の涙はせつないですね。愛別離苦とはよく言ったもんだ。「今優しくなれなかったらきっと後悔する」とか「今許せなかったら許す前に会えなくなる」っていう気持ちも胸をキリキリさせる時ありますね。自分の気持ちに上手にウソをつけない自分が情けなくて腹立たしくなる。そういう時に出る涙もありますね。うん、やっぱりこれは良い曲かな。

時期的にはちょっと荒井由実時代風な、4曲目の「誕生日おめでとう」がタイムリーかな。といっても自分の誕生日じゃないですけど(別に色気のある相手のでもありません。ていうか人間じゃない)。何年前だったかな、この時期にカラオケでこのユーミンの「誕生日おめでとう」を歌いました。あの頃既に、きっとこの曲のような気持ちになる日が来るだろうと予感がありました。やっぱりなって思います。今となってはもうこの曲よりも更に執着心が薄い気がします。よく考えたら当たり前ですね。あの頃が夢を見過ぎだったのだなぁーと改めて思います。夢を保つのは凄くエネルギーの要ることで、集団なら尚更ですね。人の夢って書いて「儚い」なんですねー・・・。

このアルバムで一番好きな曲は最後。10曲目の「September Blue Moon」です。メロディも歌詞もとっても可愛いの☆

[CD] Matsutoya, Yumi. 1988. Delight Slight Light KISS. ToshibaEMI.

Monday, June 19, 2006

[Book]認知コミュニケーション論 Cognitive Linguistics

[本]大堀壽夫編.2004.『シリーズ認知言語学入門: <第6巻>認知コミュニケーション論』.大修館.

うーん・・・なんかレトリックという言葉が誤解されていると思うんですよね。以前ご紹介した『レトリック感覚』のような本が国語の教科書に使われているのが誤解が続く元なのではないかとちょっと思います。レトリックを比喩だと思ってるんですよね・・・多分。しかし専門家として本を書く方もそういう理解をしている状態だと本当に何と言ってよいのか・・・

Wikipediaでさえ修辞学は正しく紹介してくれているのですが・・・(但し修辞技法やレトリックは主に比喩についてになっていて非常に中途半端。しかも半保護指定ページのようです。よほど混乱しているのでしょう)。修辞学、修辞法、修辞技法、レトリックなどの語が違う意味で使われたりするのも意味不明です。原語は同じRhetoric(a)の筈ですが・・・英語のWikipediaは、かなりまともな内容です。してみると日本特有の混乱・誤解なのか。

例えば私が自分を修辞学者だと名乗った場合、おそらく大抵の人は小説や詩歌における比喩表現の研究者だと思うのでしょうか・・・うーん・・・ホント困るなぁ。せめて専門家には間違わずに使って欲しいと切実に思います。この本は誤解を助長してしまうと思うのでNGだと私は思うのですが・・・。以下の引用部分は私が勉強した限りでは間違っていると思います。

そしてまたもややたら引用されているのが夏目漱石。佐藤さんと全く同じパターンです。なんで!!??どうして夏目漱石がレトリックの使い手ってことになるの??絶対勘違いしてるよなー・・・。しかも古代ギリシアの修辞学と現代の修辞学は違うっていう説明も佐藤さんの説そのままなんですよね、この本。パクったんじゃなかろーか。ホント。似すぎているでしょう。

確かに修辞学はリバイバルされた後アプローチが少し変化したとは思いますが、あくまでも大衆(受け手)を「説得」するという要素は残ってるはずだと思うんですけど・・・。何故か日本の沢山の人はそこを頑として無視し続けているわけで・・・どうしてなんでしょう・・・。佐藤さんばかりをあまり悪く言いたくありませんが、やっぱり中等教育であんなの一斉に読まされちゃ誤解もしますよね・・・。多分国語の先生たちも彼のちょっと偏った説を信じてしまっているのでしょうし。沢山の人に「レトリック=比喩」と思い込ませてしまった功罪は大きいように思います。教科書認定する人ももう少し考えてから選んで欲しいものです・・・。

例えばアリストテレスのArs Rhetoricaは、どんなに「リバイバル」されたとしても「比喩中心の表現法」とはならない筈だと思うんですが・・・Ars Rhetoricaには三段論法や例示の仕方、証人の扱いなども同じように扱われていて、比喩や装飾的な言葉の利用はあくまでも一部なんですけどねぇ・・・。それもあくまでも説得の手段として登場するのですが・・・。「詩的な表現」の是非についても確かに触れてはいますが、これもあくまで説得に有効かどうかという視点です。詩や演劇自体の研究は全く含まれていなかった筈。先述の英語のWikipediaも、Currentの部分にもinduce coopearationという定義が出てくるのですが・・・。何故日本では鍵だった筈の「説得」が消えてしまったんでしょう・・・。そこが一番重要なはずなのに・・・。「説得」が関係なくなったらもう「リバイバル」ではなくて全くの別物だと思うのですが・・・。

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伝統的なレトリック(修辞法とも呼ばれる)は,比喩を中心とした表現法の細かな分類に専念する傾向が強かった。しかし20世紀に入ってその再評価が始まり,言語学のなかでも,とりわけ認知的アプローチの中で本格的な注目を集めるようになった。(p.137)
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レトリックに対する人間の学問的関心は,古くは古代ギリシアにまで遡る長い歴史をもつ。古代ギリシアおよびローマ時代には,レトリックは法廷や儀式などの場における弁論の技術として体系化された。巧みに演説を行い聴衆を説得するためには,表現をどのように華麗に飾ればよいか,その方法を分類,整理することに修辞学者たちの力が注がれた。また,レトリックは詩や演劇などの文学作品における効果的な技法についての研究でもあった。以来,中世からルネッサンス期にかけて,レトリックは一般教養の仕上げの役割を果たす重要な科目として学ばれてきた。だがその後,近代の合理主義的,実証主義的な思潮が強まるにつれて,レトリックは単なる表現の装飾的な技術と見なされて重視されなくなり,規範的,教則的な性格をもつ学術としてのレトリックは衰退した。

 ところが20世紀,言語学の台頭および隆盛とともに,レトリックは言語研究者により従来とは異なる角度から光を当てられることになる。まず,メタファー表現がもつ意味の特徴に対する考察がなされた。(p.156)
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[Book] Ohori, Toshio ed. 2004. Cognitive Communication. Tokyo: Taishukan.

Sunday, June 18, 2006

分岐点 A fork in the road

さてさてクロアチア戦が迫ってしまいましたが、
今日終らすべき作業が全く終る見込みがなく。
どーーーしよーーー。

1.お持ち帰り作業にしてながら勉強
2.ネット放映している場所を探してながら勉強
3.サッカーはガン無視して作業続行

どーれーにーしーよーうーかーなー。
2番は何かのニュースでBBCがアメリカ進出をかけてやるって読んだんですけど・・・本当かなぁ・・・。違ったら見損なってしまいますな・・・。うーーーんーーーー。

仕方ない、1番にしようかな、体調万全じゃないし。
しかしならば今すぐ出なければ間に合わないな。

別にサッカーファンじゃないでしょ、って言ってしまえばその通りなのですが、いかんせんディベート病を患っているので、ニュース性があるものには反応しちゃうんですよね。困ったものです。

ニュース系の話って、実際には自分には確固たる意見がないことって多いじゃないですか。けどやはりディベート病のため、何でもネタというか肴にして議論するのは大好きです。別に心からそう信じていて意見が固まっているわけじゃなくて、ちょっと頭の体操として議論したい時がある。なんか新しい視点が生まれるかもっていう期待感に胸がドキドキして思わず違う意見を提示してしまう。三度のメシより三時のオヤツより三杯のワインよりそっちが好きっていう・・・。ええ、どうせ病気です。本来のディベートの目的とはズレまくってるし。問題があるから議論するのであって、問題を血眼で探し出してどうする・・・。

しかし一番の問題は、議論すべき問題がないことではなく議論する相手がいないことです。殆どの人は(たとえディベータであっても)、意見を別つの躊躇うんですよね・・・。最初少し議論になっても、凄い急いで収束させようとする。だから多少納得いかなくても良いや、って妥協してしまうみたい。さっさと結論出して終了ー!!みたいな。

つーーーーまーーーーーらーーーーんーーーー。
何回もダイアログしないと深まらないじゃん!!!!
そんなに急がなくったってさー。
もーちょっとそこを堪えてホールドして欲しい。
まるでNAフォーマットみたいだ。
かゆい所に手が届く前に終了ー!なんて・・・
え?今始めたとこじゃん!!みたいな。

同時に闇雲に言い張られるだけでも意味がない。
ちゃんと毎回新しい理由付けなり例示なり整理なりしてもらわないと。

誰か気長に進展する議論してくれる体力のある人はおらんかのう。
しかも相手が一人とかだと自ずと話題が狭まるので複数欲しい。

・・・我侭言うなって感じですね。
さっさと帰ってサッカー観つつ作業しよ。

Thursday, June 15, 2006

[VCD] ホワイト・クリスマス White Christmas

[VCD]カーティス,マイケル.1954.『ホワイト・クリスマス』.パラマウント.

衝撃の事実。

メル・ファーラーってあれでしょ、ホワイト・クリスマスの人でしょ、と思って確かめたら・・・違うんだ!!背丈が合わないなぁ・・・とは思ったんですよ。ホワイト・クリスマスの男優は相方のダニー・ケイより背が低かった筈だよなぁー・・・って。背が高すぎてバレリーナになれなかったオードリーよりこんなに背が高いなんておかしいなぁ・・・と。しかしそうかぁ、別人だったのかぁ・・・。

こちらはビング・クロスビーという名前だったようです。しかし顔ソックリじゃありませんか??でも確かに声が違うや・・・。

・・・まてよ?じゃあ私には同一人物だと思われていたHigh Societyの男優はどっちと一緒だったんだ・・・?と芋蔓式に疑問が。High Societyの人はどうやらビング・クロスビーの方だったようです。つまりあれか、歌えるのがクロスビーなんだな。

ちなみにこのホワイト・クリスマスは16.90RMでした。500円くらい?海賊版じゃなさそうですヨ。凄いですよね。リスニング教材の内フィクションものは東南アジアで買うに限ります(笑)。ドキュメンタリーは東南アジアでは滅多に売っていません。なんでですかね・・・?

ああ・・・Excelの作業本当に飽きた・・・別のことしたいなぁ・・・本も読みたいなぁ・・・

[VCD] Curtiz, Michael. 1954. White Christmas. Paramount Pictures.

Wednesday, June 14, 2006

[VCD] 戦争と平和 War and Peace

[VCD]ヴィダー,キング.1956.『戦争と平和』.パラマウント.

マレイシアで19.90RMだったものです。つまり・・・600円くらい?なんたって長い作品なのでCDだと3枚、DVDでも2枚にまたがります。レンタルするより買うほうが安いという・・・。それで買ったんですが、買ってから随分経つのにこれが観るの初めてです。

オードリーは見分けるの凄く簡単ですが、男優を見分けるのは結構大変です。だってやたら軍服着てる人が多いわけなんです。個性のない名前ばっかだし。ピエールすら怪しいです。一人だけ眼鏡つき黒髪だからオーケーだと思ってたら、眼鏡を外したソックリさんが登場。ブロンドの女優さんも見分けにくい。ていうかこれまたオードリー以外全員ブロンドだし!!顔立も割と似てるのにお化粧がソックリだし。服はどんどん着替えちゃうし。大変失礼ですが胸の大きさで見分けているようなわけで・・・。女優さん方には大変申し訳ないことで。しかし声や顔や演技で見分けられるほど出番ないんですもの・・・。それなのに奇妙な視線を交わすキャラがそこかしこに。なんだなんだ、どうしたんだ。今現在も一人、別人だと思っていたら同じキャラだと判明。同一人物かと訝しく思っていた人物は別人だし。なにぃ。そうすると・・・この人とあの人が従兄妹同士で・・・あっちは兄妹で・・・えっと・・・そうすると恋愛関係になり得るのはこの人と・・・うわ、初っ端からえぐい設定ですな。ええ?その人弟なの?なにぃそっちとそっちも兄妹?奥さん妊娠中なのに酷くない??・・・なにぃ・・・その人は養子なのか・・・それとも父親が違うだけ?・・・あれ?そういう展開に?え、ちょっと待って、その人もう死んじゃったの??ていうかどういうスピード離婚なの、それ!!展開が速すぎです!! うわーーーーーーーー。ピエールのソックリさんコワー!キモー!えええ?オードリーの役も酷い!やー。とにかくややこしい作品ですな。

しかし、メル・ファーラーとオードリーは良い組み合わせですね。普段から仲良かったのかな。演技はイマイチだと思っていたオードリーがそこそこに見えます。ファーラーが上手いってことでしょうか・・・

そうです。私はかの有名な原作を読んでおりません。すみません。

[VCD] Vidor, King. 1956. War and Peace.Paramount Pictures.

Thursday, June 08, 2006

[DVD] DC911

[DVD] ブライアン・トレンチャード=スミス. 2004.『DC911』.91分.

本日のリスニング教材。
軍事用語や政治的に正しい用語を語彙に加えるため。

内容はやっばいです。
こんなのばかり観てたら世界観ゆがんじゃいます。
アメリカの皆さん、こういう映画観て陶酔しちゃダメですよ!!

Outfoxed(ドキュメンタリー映画)によると、
「Fox見ている人の3割はイラクでWMDは見つかった」のだそうです。
メディアのミスリーディングぶり恐るべし。
そこまで常識が違ったら別世界の住人ですよね。
こういう映画観てたらありえないような意見の人が生まれそう。

しかしよくここまで美化できるなぁ・・・
美化っていうか明らかにグロテスクだけど、こういう演出に耐えられる人は、
きっとそのグロテスクさに気がつかないんだろうなぁ・・・。
きっと「USA!USA!」の大合唱のシーンとかで泣いたりするんだ。
恥ずかしくないかなぁ・・・この役者さんたちもよくこんな仕事引き受けたなぁ・・・

[DVD] Brian Trenchard-Smith. 2004. DC911. 91 minutes.

Monday, June 05, 2006

とりあえずノルマ完了 Somehow met a quota

今週末,私には「これだけは絶対やらなきゃダメ!」なことがありました。 それは……結婚式の友人代表挨拶の原稿を書くこと。

もう一ヶ月もああでもないこうでもない考えまして, ネット上の「スピーチのコツ」系サイトも大量にブラウズしました。 しかし書き始めないことには進まないと漸く気がつきました。(いつもここが遅い)

・・・出来は・・・どうなんでしょう・・・。まだわかりません。いやもう,むっちゃ緊張です。ああ,来週の今頃私はまだ生きているだろうか・・・そのくらい緊張してます。

どうも誤解されがちですが私は人前で話すのが苦手です。
苦手だからディベートも始めたんですから・・・
けど今回ばかりは苦手だとか不得意だとか言ってる場合ではありません。
雰囲気を壊さぬように,友人のイメージを損ねぬように,
できれば和やかな場づくりに役立つように・・・とにかく笑顔で。
笑顔,笑顔だよな,やっぱり。 緊張してアルカイックスマイルにならんようにせな。
嗚呼・・・コピーロボットがいて代わりにやってくれたなら・・・
いやいや,こればかりは自分でやらな意味ないじゃないか。

はふう。出来が良いのか悪いのか自分ではよく分からないので,
明日以降色んな人に送りつけて赤ペン先生してもらうつもりです。
それでも不安が残りそうな気もしますが,
とにかく万全を期して,準備しっかり,そんでもって練習もして・・・
ああ不安だ・・・

まあとにかく叩き台ができて良かった。
ホッと一息。アイスクリームでも食べて頭に糖分補給しよっと。

[Book] 脳とコミュニケーション Brain and Communication

[本] ヤクルト国際シンポジウム.1994.『脳とコミュニケーション』.ヤクルト本社.

シンポジウムの講演(予稿?)集。
10年以上も前のものなので,現在では常識となっているものが多い。
けれどそれなりに楽しく読めた。特に表現の仕方に学ぶところが多い。

ちなみに最近,高校で保健を教えてくださった先生のご主人が脳の可塑性についてを書かれていたことが判明。うわー。奥様はおだやかーに笑顔で恐ろしくグロい内容を講義してくださる方でした。最近はどうしてらっしゃるんでしょう・・・・・・お元気でしょうか・・・懐かしいです。しかし今振り返ってもうちの学校の保健の授業は内容が丸っきり生物(しかも人体限定)だったと思います。一通りの臓器を図画できるうら若い乙女達を大量生産して,一体あの学校は何をしようというのでしょう・・・

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 人間の子供は驚くべき早さでコミュニケートすることを学ぶ.これは,言語知覚を支える生来の資質と,知覚システムを母国語へ”調律”させる初期の言語経験への鋭い感受性による.誕生直後は,乳幼児は生まれた国や周囲の言語によらず,世界中の言語で使われている全音声単位を識別することができる.したがって,生まれた頃は”世界の一員”といえる.しかし特定の言語に触れていくうちに,言語に使われてる音の違いを聞き分ける能力は衰える.乳幼児の知覚システムは,”文化に結びついて”くる.大人になるまでに,母国語で区別していない音の違いを聞き分けるのが困難であることに気づく.
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 言葉を通じて他の人々とコミュニケートする能力は人間と動物を区別するものである.このため言葉は神経生物学から哲学まで,幅広い研究分野の対象とされてきた.
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 脳がいかに言葉を”処理”するかについての知識が理解される時,いかに無秩序の脳がこの重要な人間の能力において不完全であるかという洞察が鮮明になるし,また無秩序を扱う新な方法が見つかるかもしれない.
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[Book] Yakult International Symposium. 1994. Brain and Communication. Tokyo: Yakult Honsha.


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Human infants learn to communicate with amazing speed. This is due to both to innate predispositions that support language perception and to a keen sensivity to early language experience that "tunes" the infant's perceptual system to the native language. Early in life, regardless of the country in which they are born and the language they are exposed to, infants can discriminate among all of the phonetic units used in the world's languages. Infants at birth are thus "citizens of the world." However, with increasing exposure to a specific language, infants' abilities to hear differences among the sounds used in language are reduced. Their perceptual systems become "culture-bound." By the time we reach adulthood, we find it difficult to hear differences between sounds that are not distinctive in our native language.
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The capability to communicate with other people through language is an ability that distinguishes humans from other animals. For this reason, language has been the object of study across a wide range of investigative disciplines from neurobiology to philosophy.
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As this knowledge becomes available about how the brain "does" language, insights to how the disordered brain is deficient in this important human ability will be sharpened, and new ways of dealing with the disorders may be discovered.
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[Book] 生体情報論 Bio-Informatics

[本]福田忠彦.1997. 『生体情報論』.朝倉書店.

はい。これも今更ですね。読んでなかったらまずいですよね。
でも一応アップしてみる。

今の主流はもちろん電極を突っ込むような荒っぽいやり方ではないけれど,技術は変化しても成果はそこまで劇的には変化していないような気がする。使われている部位を特定させる方法(fMRIとか)もどんどん使い勝手が向上しているようだけれど、それでも「何処で」考えているかが分かることは「どうやって」考えているかが分かることとは違う。もちろん推理する助けにはなるわけだけれど、やっぱり精神物理学的なアプローチと合わせ技に持ち込む必要がある。だから大勢は今もここに書かれているままなような気がする。遥かなる道のりですね。

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 近年,脳科学は目を見張るような進展を遂げているので,脳の機能についてわれわれはかなり多くのことを把握できたように思われるが,実はそれとてごく一部の機能にすぎない。現在の脳神経生理学の主流は,動物の脳に微小電極を差し込んで個々の細胞の反応を測定するものである。これらの細胞の反応については多くの正確な知識が蓄積されつつあるが,これらは断片的なのであって,百数十億以上といわれる細胞が組み合わされて構成されている脳の神経回路を1つのシステムとして理解することは途方もない課題であり,不可能に近い.(中略)
 要するに,われわれが脳から学ぶ点はデービッド・マーが指摘しているように,脳における情報処理の基本アルゴリズムである.しかし,これをどのように構築するかは人間の独創力にかかっているのであり,その実現は工学技術に委ねなければならない.脳の機能を理解するためには,バイオサイバネティクスの手法を導入するのが有効である.まず脳の機能を限定し,脳と同じような機能を有する神経回路モデルを構成する.その際,神経生理学における知見にのみならず,心理学によって得られた最新の知見もできるだけ忠実に取り入れる.解明されていない部分は仮説をたてることによって補い,全体としての機能をコンピュータシミュレーションによって調べる.誤りがあれば修正を繰り返し行う.
 このようにして脳における情報処理の基本アルゴリズムを明らかにすることができる.
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[Book] Fukuda, Tadahiko. 1997. Bio-Informatics. Tokyo: Asakurashoten.

Sunday, June 04, 2006

[Book] ヒューマンスケープ Humanscape

[本] 福田忠彦・渡辺利夫.1996.『ヒューマンスケープ: 視覚の世界を探る』.日科技連.

いや…本当今更なんですが、一応…。

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 実験はテレビのニュース番組を録画し、出演しているニュースキャスターを被験者がコミュニケートしている相手とみなして,ニュースキャスターが話していることに注意して見るように指示を与え,その際の眼球運動を測定するという方法をとった.
 顔を,右目,右頬,左目,左頬,鼻,口,顎,そしてその他の9部分に分け,それぞれの部分ごとの注視回数を割り出し分析した結果,表Ⅱ.11.1を見てもわかるように,全体的に目を見ることが多いことが明らかになった.
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 刺激として,外国人キャスターの映像と日本語の吹き替え音声により構成されたニュース番組を用いたところ,表Ⅱ.11.4および図Ⅱ.11.3のように,この場面に限って口に視線を置く傾向にある女性でも顔の上半分に視線を移したという結果が出た。人は人の話を聞くときに,耳に入ってくる声と口の動きを一致させることによって理解する,ということをこの結果は裏付けていると言ってよいだろう.
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[Book] Fukuda, Tadahiko and Watanabe, Toshio. 1996. Humanscape: Exploring the visual world. Tokyo: Nikkagiren.

[Book] 理性の復権 Differenz des Fichte'schen und Schelling'schen Systems der Philosophie in zu Anfang des neunzehnten Jahrhunderts

[本] ヘーゲル.ゲオルグ.山口祐弘・星野勉・山田忠彰訳.1985.『理性の復権: フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』.批評社.

ヘーゲルにリベンジです。

……けどやっぱり分かりにくい・・・。

で、ですね、なんで分かりにくいのかちょっと分かりました。「絶対者」が出てきすぎるんです。宗教的な意味でも文化的な意味でも一神教に馴染みがない私にはピンときにくい感覚なんだろうと思います。

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 しかし、常識は思弁を理解しえないだけでない。常識は、思弁について聞き知ると、嫌いもし、しかも、まったく無関心に安住していられなくなった時には、思弁を憎悪し迫害せざるをえない。というのも、常識にとっては、その言葉の本質と偶然的なものとの同一性が絶対的であり、常識は現象形態の諸々の制限を絶対者から分離しえないからである。同様に、常識がその意識のうちで分離するものもまったく対立しており、常識は、制限されたものとして認識するものを、制限されないものと意識の中で合一することができないからである。制限されたものとされないものとは、常識においても確かに同一ではある。しかし、この同一性は、内なるもの、感情、認識されないものであり、語られないものにとどまっている。
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 思弁的な知は反省と直感の同一性として把握されなければならない。それ故、理性的である限り二律背反的である反省の持分だけが措定され、しかもこの持ち分が直感と必然的に関係する場合には、直感について、それが反省によって要請されていると言いうる。しかし、理念を要請することは問題となりえない。というのも、理念は理性の所産、あるいはむしろ悟性によって所産とされた理性的なものであるからである。理性的なものはその規定された内容に従って演繹されなければならない。つまり、その綜合が理性的なものであるような規定された対立項の矛盾から演繹されなくてはならない。要請されうるのは、ただこの二律背反的なものを充填し保持する直感だけである。通常要請されている理念は無限累進であり、経験的なものと理性的なものの混淆である。
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[Book] Hegel, Georg Wilhelm Friedrich. 1801. Differenz des Fichte'schen und Schelling'schen Systems der Philosophie in Beziehung auf Reinhold's Beytrage zur leichtern Ubersicht des Zustands der Philosophie zu Anfang des neunzehnten Jahrhunderts, 1stes Heft.

[Book] 第一次文明戦争 La Premiere Guerre Civilisationnelle

[本]エルマンジュラ,マフディ.2001.『第一次文明戦争: 「新世界秩序」と「ポスト・コロニアリズム」をめぐって』.御茶ノ水書房

最初ちょっと意外でした。
というのは、この本は2003年のではなくて1991年の対イラク戦争について、南北対立が生んだ戦争だ、としているんですね。私が今まで読んだ本は、2003年のイラク戦については否定的でも、1991年のものには比較的肯定的でした。もちろんその後空爆を続けたことや経済制裁には否定的でも、突然隣国を侵略したことは正当化できることではないと思っていました。けれどこの本では例えばいかにクウェートが酷い国かが書かれている。また、いかに欧米の軍がアラブに進出するためにこの戦争を利用したかが書いてある。ちょっと新鮮な視点でした。ていうかかなり際どい。

著者はモロッコの有名な知識人です。

オーストラリアの友人の専攻がポスト・コロニアリズムです。私がたまに読むような中でそれ系の著者リストを送りました。誰かかぶってるかなぁーって思って。そしたらみごとにこの著者ともう一人を除いて反応が返ってきました。省かれた二人は英語圏以外の著者です。・・・・・・ちょっとがっかり。ポスト・コロニアリズム研究してるのに欧米の著者のものしか読んでないの・・・・・?それで良いのかなぁ・・・・・・。

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私は、一九七八年にローマで行われた第一回南北パネルでの報告で、北側は、南側の言語を話せないことはいわずもがなであるが、理解するための努力さえほとんどしていない、と論じた。(中略)
*北側が自分自身のそれとは異なる他の価値体系を把握したり、それらと和解したりすることを妨げている民族中心的な態度から帰結してくる文化的コミュニケーションの危機。端的に言えば、それは北側の文化的傲慢である。
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[Book] Elmandjra, Mahdi. 1992. La Premiere Guerre Civilisationnelle. www.elmandjra.org.

Friday, June 02, 2006

[Book] 考証 福澤諭吉 Ascertaining the historical evidence about Fukuzawa Yukichi

[本]富田正文.1992.『考証 福澤諭吉』.岩波書店.

「アメリカン・デベーション」の噂の少し詳しいことが書いてある。それでも一体誰の書いた何という本だったのかは謎のまま。うぬう。

三田の演説館の話は有名だが、万来舎だの協議社だの猶興社だのというのは知らなかったのでちょっと新鮮。あと擬国会も義塾が最初というのは知らなかった。

しかし・・・紙に書いたものを持ち寄って朗読って・・・どんなに悠長だったのだ・・・すごい忍耐力だ・・・恐るべし江戸時代。

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それらの三田山上における実験試行から生まれて、最も急速に最も広汎に普及したものは「演説」であろう。現在演説と言えば小学生でもこれを知らない者はないが、日本には古来、演説の風習はなかったもので、寺院における僧侶の説法や、寄席講釈場の落語講談のたぐいが、僅かに演説に類するものであったくらいで、口頭で自分の考えを述べて公衆に理解させるということは、従来行われたことはなかったのである。
 もちろん昔でも会議のごときものはあるにはあったが、その場合でも、出席者はそれぞれ自分の考えを紙に書いて持って行き、その場で朗読するだけで、会議の席上で互いに討議をするようなことはなく、説が異なればそれぞれ家に持ち帰って、再び説を作り直して改めて持ち寄るのが一般のやりかたであった。
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 明治六年の春夏のころ、門下の先進生小泉信吉がアメリカ出版の一書を携えて来て諭吉に示し、これは西洋に行われるスピーチ、デベートの法を説いた書物であるが、わが国にもこの法を普及させてはどうかと言ったので、諭吉は一読して直ちに賛成し、早々にこれを翻訳して『会議弁』の一書を著し、その書の方法に従って、スピーチ、デベートの方法の練習を始めることにした。
 この『会議弁』の種本になったアメリカ出版の一書というのがどういう書物であったか、今のところ判明していない。当時のスピーチ練習の仲間の一人であった須田辰次郎は、最初「アメリカン・デベーション」という小冊子によって『会議弁』ができたと語っているが、デベーションということばは英語としてはおかしいので、正確な書名とは思われない。『会議弁』の翻訳も、原文どおりではなく、全く日本流に内容を書き改めてあるので、原著者も原書名も明らかでない。
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[Book] Tomiyama, Masahumi. 1992. Ascertaining the historical evidence about Fukuzawa Yukichi. Tokyo: Iwanamishoten.

[CD] キープ・ザ・フェイス Keep The Faith


[CD] ボン・ジョヴィ.1992.『キープ・ザ・フェイス』.

本日のBGMです。
つまり今日はあんまり頭を使っていません。
再びサルのようにデータ入力です。
飽ーーきーーたーー・・・

というわけで友人に電話して小一時間も愚痴ってみたり。友人、よい迷惑です。ごーーーめーーーんんーーーよーーーー。

このCDは、新潟の六日町のレンタルショップで買った中古品です。(またか!お前は新譜は買わんのか!…買わんのです。音楽が大した地位を築いていないのです。私の中で。優先度が極めて低い。本でさえ古本買ってるのにCDに大枚はたける筈がない)

学部2年の夏。青い空、白い雲、緑の田んぼ。
教習は午後早い内に終って夕方はのーんびり。所謂免許合宿ですな。
自転車に乗って散策したり、ハーゲンダッツを買うことが楽しみだった平和な日々。
夜は宿のご夫婦が差し入れしてくれる新潟の酒利き酒大会。(次の朝運転習うんだっつーの)
あまりに娯楽が限られているためか珍しくCD購入。
ひろーい空の下、自転車こぎこぎこのCDを繰り返し聴きました。

しかしこの人たちはロックなのかしら、ポップなのかしら。中途半端だ。
そして歌詞がベタベタだ。恥ずかしいぞ。
でもまあいいのさ、音楽は頭使わない日用なんだから、私には。
一曲目から五曲目が好き。7曲目のDry Countyも味がある。

さ、さくさくやるぞー。しかし頭を使わない作業ほど疲れるのは何故なんでしょう・・・

[CD] Bon Jovi. 1992. Keep The Faith.

【Book】アフォーダンス Affordance

【本】佐々木正人.1994.『アフォーダンス: 新しい認知の理論』.岩波書店.

アフォーダンス、というと大抵の人はこの短い冊子から入るみたいです。私も学部の頃にこれを読みました。生協で平積みされていたような気がします。なるほど、大変解り易く平易な言葉で書かれています。

もちろん、ギブソンの圧倒的なまでの観測データに触れたければ、この本ではあまりに物足りないでしょう。けれど入門用というか、発想だけ知りたい場合には良いんじゃないでしょうか。

ラディカルなギブソニアンは「脳は体内ではなく環境にある」とまで言うそうですね。うーん・・・まあ確かに行為を環境が誘導している以上、そうとも言えるでしょうか。もちろん合理的に考えて、人間も環境もどちらかが全てを決定していてもう片方はカラッポ、というわけがない。当たり前ですけど。そもそもそこまで行くと内外の区別が難しいわけで、大抵の研究者は内外の情報を同じ平面上でモデル化することに落ち着いている筈です。

認知科学的な分野への影響はもちろんですが、環境と人間の関係に関する抽象的なアイディア自体は何にでも応用してみることができます。哲学以上に哲学的な成果ですよね。そういう仕事ちょっと憧れます。まあとにかくちょっと日常的なことに置き換えて考えみます。

「朱に交われば赤くなる」じゃないけど環境によって自分の行動が決まる面は認知にかかわらず全ての行為に言えそうです。なら、善人になりたければ善行をアフォードされるような環境に身を置くことが理想的だし、識者になりたければ学習をアフォードされる環境に身を投じた方が良いということになりますか。他力本願な話ですけど、わからなくもないです。でも「こうなりたい」と思ったのは自分?でもそれも環境にアフォードされた結果?鶏と卵のようにグルグルして答がはっきりしない。同様に、犯罪者は環境に犯罪をアフォードされたことに。「俺が悪いんじゃない、環境が悪いんだ」!!(サウス・パークでサダム・フセインがそういう歌謡ってましたね。ちなみにアフォーダンスが人気あるらしい日本はじゃあ犯罪者に同情的か…というとそうでもなくて死刑制度健在。)太ったのは太るようアフォードする消費社会のせいだし、恋人に優しくできないのは冷たくなるようアフォードした恋人のせいだし、芝生の上でうっかり昼寝しちゃったのは昼寝をアフォードした芝生のせい。なんだか空が青いのもポストが赤いのも全部環境のせいに。気違いに刃物、無法者にアフォーダンス(笑)

結局重要なのは環境なの、人間なの?

「どっちだって良いじゃん。どっちもだよ、どっちも!!」?
はい、やっぱりそれ正解。研究者も皆結局そう思ってるんですよね。

そういえば最近、「鶏と卵は卵が先」と「識者」による合意が図られたそうですね(笑)
http://cnn.co.jp/fringe/CNN200605260024.html
遺伝学者・哲学者・養鶏家による結論って……
トリビアの泉じゃないんだからさ……って感じ(笑)
しかもディズニーの「チキン・リトル」の宣伝かぁ。企業は真実を買えるのね…(笑)

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 アフォーダンスとは、環境が動物に提供する「価値」のことである。アフォーダンスは良いものであれ、悪いものであれ、環境が動物に与えるために備えているものである。(中略)アフォーダンスは事物の物理的な性質ではない。それは「動物にとっての環境の性質」である。アフォーダンスは知覚者の主観が構成するものではない。それは環境の中に実在する、知覚者にとって価値のある情報である。
 物体、物質、場所、事象、他の動物、そして人工物など環境の中にあるすべてのものはアフォーダンスをもつ。動物ならばそれらにアフォーダンスを探索することができる。
 環境にあるものは、すべてアフォーダンスの用語で記述することができる。
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 椅子は座ることをアフォードするようにつくられている。椅子の本質は「座る」アフォーダンスである。すべての道具は、何か特定のことをアフォードするようつくられている。アフォーダンスをピックアップすることは、ほとんど自覚なしに行われる。したがって、環境の中にあるものが無限のアフォーダンスを内包していることに普通は気づかない。しかし、環境は潜在的な可能性の「海」であり、私たちはそこに価値を発見し続けている。
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【Book】Sasaki, Masato. 1994. Affordance: New Theory of Cognition. Tokyo: Iwanamishoten.

【Book】生態学的視覚論 The Ecological Approach to Visual Perception

【本】ギブソン,ジェームズ.古崎敬訳.1986. 『生態学的視覚論: ヒトの知覚世界を探る』.サイエンス社.

HILOKI氏の日記に書き込みしていて、そう言えばこの系統の本はあんまりここにアップしていないなぁ…と思ったので書いてみます。

アフォーダンスで有名なギブソンのこれまた有名な本です。τの理論が一番有名かな?かなり多岐にわたるデータを用いた方なので一概には言えませんが。実は邦訳の方は持っていないので、邦題は多分これだと思うんだけど…という感じ。なので引用は英文で失礼します。

ギブソンと言えば、しばらく前お隣のブースの会話が聞こえてきてしまったのですが、次のようなことを言ってらっしゃる方がいました。

「日本ではアフォーダンスが凄く人気あるけど、海外ではそうでもない。日本が例外的。基本的にキリスト教国では流行らない理論だ」

うーん…なるほどねぇ…そうかな…?そうかも…?ちょっと断じかねるところですね…。難しい。運命論的な意味あいが嫌われるかしら?

【Book】Gibson, James. J. 1979. The Ecological Approach to Visual Perception. Hillsdale: Lawrence Erlbaum Associates, Inc.


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The theory of information pickup makes a clear-cut separation between perception and fantasy, but it closes the supposed gap between perception and knowledge. The extracting and abstracting of invariants are what happens in both perceiving and knowing. To perceive the environment and to conceive it are different in degree but not in kind. (L.O.)
Knowing is an extention of perceiving. The child becomes aware of the world by looking around and looking at, by listening, feeling, smelling and tasting, but then she begins to be made aware of the world as well. She is shown things, and told things, and given models and pictures of things, and then instruments and tools and books, and finally rules and short cuts for finding out more things. (p. 258)
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What are the kinds of culturally transmitted knowledge? I am uncertain, for they have not been considered at this level of description. Present-day discussions of the "media of communication" seem to me glib and superficial. I suspect that there are many kinds merging into one another, of great complexity. But I can think of three obvious ways to facilitate knowing, to aid perceiving, or to extend the limits of comprehension: the use of instruments, the use of verbal discription, and the use of pictures. Words and pictures work in a different way than do instruments, for the information is obtained at second hand. Consider them separately.
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Thursday, June 01, 2006

【Book】演説討論雄辯美辭法 Dialectic and Retoric in Speech & Debate

【本】遠山淡哉.1903. 『演説討論雄辯美辭法』.求光閣書店.

ぐおおお。びっくり古い本です。いやはや。
明治36年にこんなディベートマニュアルが出版されていたとは・・・。
論題の設定の仕方から会場について、論理面に演出面の討論技術・・・。
今巷に溢れてるビジネス書とそっくりの構成です。
つまり内容は大してよくない(おいおい)
けど現代のものとのギャップはない。
どっちにショックを受けて良いのか謎。
今のが酷すぎると落胆すればいいのか、
昔のものが凄いと感心すればいいのか・・・
両方ともダメだと怒ればいいのか・・・
・・・多分最後のが正解・・・?

最後の12章に載ってる論題の例がこれまた笑える。
曰く・・・
- 節倹と吝嗇との可否
- 鎌足公と楠公とはいづれが国民の儀表とすべきや
- 珠算と筆算とはいづれの便なるや
- 智育、徳育、体育の中いづれを急務とすべきや
- 和洋服いづれの国朝典禮に適ふや
- 鉛筆書と毛筆書との優劣如何
などなどなど・・・

ダメダメな論題ばかりだ・・・。
どこかの何年前かの大会を思い出させる・・・

でもまあ興味深い一品です。

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殊に現行条約にては、敢て最恵国条件とか云うものではなく、所謂対等条約でありますから、権力のなき国と、之有国との交際に於いては、自然権力のある国語を修むるの必要があるが、既に対等の交際を為すに当って、ソー外邦人に屈してセツセツと、彼の国語を練習せんでも宜しからふと思ふ。却て我日本国固有の国語、国文を修め国俗の美を表し、彼をして日本化せしむるの必要が大切であらふ。之を為すも、唯實に言語文字の力であります。されば、私の益々国文の発達を奨励し、自国語を正して後、英語を修めよと云ふ論者であります。
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【】