Wednesday, May 30, 2007

スマイレージ Smileage


1万ヒット記念 第二弾。
(あ、ちなみにヒット数は過去1年ほどです。gree時代のとかは入ってないのでそちらを読んで下さった方はノッカンでごめんなさい)

サウンド・オブ・ミュージックの「私のすきなもの」風コレクション、『スマイレージ(Smileage)』(笑)。その内静物写真ものから3点、自画水彩・パステル4点公開です。

1. ホッとかふぇ。
これはつい最近入ったカフェで出てきたラテ。
ハートが書いてあるのはよく見るけどこれはお上手。
坊やの笑顔がホッコリさせてくれる愛らしさ。
飲むのがとっても勿体無かった・・・

2. 祝福のきゅーぴー
これは友人Kの結婚式でカーテンにぶら下がっていたもの。
実は私からのプレゼントだったので、飾ってくれてとっても嬉しかった。
キューピーも二人の幸せにニッコリです☆
笑窪ができて可愛いでしょう?

3. 一瞬歓喜
名探偵ポワロが気持ちを落ち着ける作業としてやっていたの。
トランプでタワーを作っているんです。
ようやく三階建てが完成した時大歓声を上げて映したもの。
直後に崩壊しました(涙)
次回は四階建てに挑戦します☆


4. 三分だけ待って
我が家で重宝している砂時計の役目は一つだけ。
紅茶の蒸らし時間です。
イラチな父でさえ砂が落ちるのを大人しく待ちます(笑)
それだけですごぉく美味しくなるので、
待つ時間もすいーとです。

5. 満腹な仏様
私は特定の信仰を持たない不信心者です。
が、それでも法事だとか修学旅行だとか、
知らず知らず仏教や神道には触れる機会多いですよね。
宗教というより文化的な意味で。
不信心のせいなのか、
私の描く仏様は大抵「おなかいっぱい。もう食べれにゃい」
とでも言うような表情をしています。
それが私の極楽浄土のイメージなのかしら・・・
我ながら自分の食欲が心配です。

6. ありえなくてもいい、かな
花が椿なんですよね。かたち。
けど水は冬っぽくない。
我ながら辻褄の合わないヘンな絵です。
水の波紋も綺麗じゃないし。
でもこの色の組み合わせが好きなんです。
だからまあ良いや、と思って。


7. 空じゃなくてもいい、かな
色々と模索している時は、
飛ぼうとしているのは分かっていても、
一体全体何所を飛ぶことになるのか見当もつかなかったりして。
でもま、そういうのも良いのかな、と。
真っ青な空を真っ白に飛ぶのでなくても、
なんだかわけのわからない不透明な所を進むのも、
それはそれで意義深いことかも、
とか最近思います。

というわけで今回のスマイレージ展しゅーりょーーー。

Tuesday, May 29, 2007

[Article] 評論家としてのジャッジ Judge as "critic of argument"

English version follows Japanese one.
But before that...

[Anouncemnt: 10000hits anniversary event]

The hit counter of this blog is approaching to 10000. So, special event!!
The first person who send me a question after 10000hits via e-mail or message application on SNS(mixi, Gree or facebook) will receive my honest answer to it. :)
I have no idea whether anybody on earth is interested in such an event but oh well... I like this sort of nonsense. :p

[お知らせ: 1万ヒット記念イベント]

このブログのヒットカウントが1万に近づいて参りました。で、記念イベントです。
1万ヒット後最初にメールもしくはSNSのメッセージ機能で質問を下さった方に、
記念して質問の如何に関わらず必ず正直なお返事をすることに致します。
一体全体そんなことに興味のある方がいらっしゃるものか分かりませんが、
そういう飲み会ゲームじみたことが嫌いではない私なのです。あはは。

さてさて、本題。
最近アップをさぼりがちでしたが、久々にディベート関連論文についても書いてみたり。

[論文] バルスロップ, V.ウィリアム. 1983. 「評論家としてのディベート審査員: 先験的視座へ」. 『米国討論学会誌』. 20巻夏季号. 1-15頁.

プリミティブながら大変興味深い論文。

今のところtabula rasaに対応する形でcriticという言い回しをしているのはこれが最初のもの。ですが、traditional interpretation of this imageというくだりがあるので、どうやらもっと前からあるもののよう。どなたかもっと前に出ているものをご存知でしたら教えてくださいませ。ちなみに、注にUlrichのIn Search of Tabula Rasaという1981年の発表が挙げられていて羨ましい限り。くぅー、私も生で読みたかったな、それ。どっかで手に入らないかしら。

eticとemicという語の感触は、どうやら元のPikeの論文を読まないとしっくりこなさそう。やれやれ、また読むものが増えてしまいました。Leffの使い方が私には本来と逆に思えるのですが・・・どういうことかしら・・・おかしいな。でもまあ、Leffの言い方だとPolicy/NDTのジャッジはよりeticであり、Parliはemicであるかのように読めます。で、Balthropのはその丁度逆化のよう。うーん・・・これは原文読まないとな。


それにしても、1978年ごろを皮切りに「Judgeとは」論が急激に過熱するわけですが、どうも現代の理論は発散してしまって根本が80年代から前に進んでいないように思えます。みんな諦めちゃったのかな。そんなことでいいのかー。

Although I had been too lazy to update my reading in two languages for a while but here it is. :)

[Article] Balthrop, V. William. 1983. The Debate Judge as "Critic of Argument": Toward A Transcendent Perspective. Journal of the American Forensic Association. Vol20, Summer. pp.1-15

Primitive but very interesting.

This is the first article which uses "critic" in realation with "tabula rasa" in debate adjudication as far as I have found. But there is a line that "Traditional interpretations of this image," there gotta be something previous. Please tell me if you know any earlier works on "critic perspective" in debate adjudication. By the way, in a footnote, he mentions about a paper presented at the Speech Communication Association by Ulrich in 1981 (title: In search of tabula rasa) and I wish if I could read it myself.

I'm not quite sure about nuance of "etic" and "emic" yet and probably need to read Pike's work for that. Especially how Leff used these terms make me feel puzzled. Aren't they originally opposite...? Leff's way of explanation sounds that Policy/NDT style adjudication is more etic and Parli is more emic. And Balthrop's one sounds exactly opposite. I really should read the original text...

Although "who's judge?" and "what judging is about?" type of discussion got enormous heat since roughly 1978, it seems to me the current theories lost the focus and are not moving forward from the ones in 80s. I guess studies on paradigms should remain as a hottest issue even now though... It somehow looks as if scholars are tired with digging that issue.

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Alone among most popular paradigms in its efforts to derive standards for evaluation from each individual approach is tabula rasa. "It is," wrote Ulrich, "an approach to judging that emphasizes the desirability of having debate rules evolved from each individual debate instead of being imposed upon a round externally by the judge."
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Saturday, May 26, 2007

時代遅れ behind the times

昨夜ろくに食べなかった母が薬の飲みすぎで胃が痛いというので、
消化の良いものをということでポトフを昼ごはんに鍋一杯作りました。

私は大変ずぼらなので、フライパン一つ、鍋一つで済む料理が好きです。
シチュー類はその時々で色んな材料を楽しめるのも魅力ですよね。
加えて、祖母が大連育ちだったこともあって、我が家の場合は
所謂「家の味」は味噌汁ではなくてポトフにあります。
祖母のは少しロシア風だったとか。母のはちょっとアイリッシュな感じです。
アレンジしだいで色んなバリエーションがあるのも楽しいですね。

そんなわけで私もポトフは得意料理。そもそも失敗しにくい料理ですけど(笑)
私流は、最初にオリーブ油で唐辛子とにんにくをじーっくり炒めるのがコツです。
今日は、ジャガイモ、人参、玉葱、しめじ、茄子に生ソーセージを入れました。

何しろ鍋いっぱいに作ったので、昼に食べて残った分を夕飯にしてしまえ。少し足りないようなら後で少しだけ材料を足そう、と思ったわけです。で、「帰りに材料を少し買い足してくるから沢山食べて良いわよ」と食べ始めた母に言い残して出かけました。

閑話休題。

先日、片桐直樹監督の『戦争をしない国 日本』というドキュメンタリー映画を観ました。
地域の集会施設で40人くらい集まっていらしたでしょうか。
私はこの監督の作品は他に見たことがなかったし、よく知りもしなかったわけなんですが、折角すぐ近所で観れるのだからというわけで出かけました。

結論から言うと、全く好みではありませんでした。
政治的な色としてはかなりC党かS党との関係が濃厚とみました。
別に左っぽいからとか護憲派が嫌というわけではありません。
先日毎日新聞のコラムで「消極的護憲派」と称している精神科医がいましたが、 私は自分を同じくくりに入れています。

記事の精神科医は斎藤環さんという方なのですが、以下のような部分があります。

「身近な人を死なせたくない」という切実な心情からは、改憲、護憲どちらのロジックも引き出せる。ただ私には改憲派のあおる危機感が「改憲ファンタジー」にしか見えない。
(毎日新聞、5月13日日曜日、2面、『時代の風』 「後ろめたさ」こそ倫理だ、より)

私はこの部分にまったく同感です。
脅威を無視しろとか誇張しろとか嘘だとか言うつもりは全くないんです。
世の中物騒だから万が一の備えはしっかりしないとね。
一般家庭でさえ地震や強盗侵入のリスクを見積もって備えるくらいですからね。
ただ、改憲論者の議論展開や見せ方がね、あまりにも子供っぽく思えるのです。
なんか戦争や防衛にロマンを感じ過ぎているのではないか、と勘繰るわけです。

「軍人は小児に近いものである」と言ったのは芥川ですけど、巷に溢れる改憲主義はその耐え難い幼児性という意味で芥川の言うところの軍人的に思えます。芥川の言うとおり、「英雄らしい身ぶりを喜んだり、いわゆる光栄を好んだりする」心理は、耐えようもなく小児的に見えます。

最近連発されている映画群(「男たちの大和」だの「亡国のイージス」だの「日本沈没」だの「硫黄島~」だの)にうっとりする人たちがいるということが私には鳥肌ものなわけです。製作面でも、ああいう映画にロマンチシズムを盛り込もうとする会社の気持ちって分からない。生理的に嫌。観て喜ぶのは動物的に思えるし、作って喜ぶのは動物的なまでの商業・拝金主義に見えます。とても知性を感じられない。芥川は更に容赦がなくて、「機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見うる現象である。」とまで斬って捨てています。

戦争物以外で、似た「生理的にぞわっと来る映画」群を私は「時代遅れの男になりたい」シリーズと呼んでいて(『時代遅れの男になりたい』っていう歌知ってます?)、その手の映画が好き、と言われた瞬間にその男性が恋愛対象外になります。理屈じゃなくて本当に受けつけなくなっちゃうの。生理的にぞわって来るの。で、その問題の映画は「シェーン」、「カサブランカ」などいまだ人気の高いラインアップなので困ったものです。

先日IDC7中に、RとLが「シェーン」の話で盛り上がりまして、
(「シェーン、シェーン、帰ってきて!カムバーック、シェーン!!」
ってラストシーン知ってます?)
私が「シェーン」が好きな男って嫌い、と言うと理由を聞かれました。

私の答えは、「『ロンリー・ウルフ』に憧れる人に限って自分は友達づきあいが良くて守りに入った『ファミリー・ガイ』なのよ。実現するつもりも度胸も理念もこれっぽっちもない癖に妄想の中で恍惚とする姿が生理的に嫌。」というものでした。(レイプもののポルノが好きな恐妻家とかさ想像するだに陰湿で女々しくて嫌でしょう?ってちょっと違うかな。)

・・・・・・Lにゲラゲラ笑われました。
はいはい。どうせあたしゃ融通の利かない女ですよーだ。

ちなみにグレー・ゾーンに位置するのが「紅の豚」。
(金曜ロードショーでやってたみたいですね)
あれが好き、と言われたらかなり微妙です。
かなりカサブランカやシェーンに近いですよね。
時代設定も第二次大戦直前あたりでしょう?
ストーリーも美女を袖にして孤独で無茶な生き方を通す、『男のロマン』と。
「俺は所詮家庭には収まれない男なのさ」って感じ?
エンディングがぼかしてあるのが救いかな。
うーん・・・・・・まあ、あそこまでは許せるかも。
ファンタジーだという割りきりも比較的明快なので。
(『カサブランカ・ダンディ』って歌知ってます?「ボーギー、ボギー、あんたの時代は良かった。男がピカピカの気障でいられた」って歌うの。ああいう風にあけっぴろげに言われると何か許せるでしょう?)
うーん・・・・・・でもやっぱり微妙。

まあ、とにかく、改憲派の多くがシェアしているように見えるその恍惚感が、
あまりに、あまりに時代遅れに私には見えます。
やたら「サムライ魂」とか連呼するスポーツ中継も大嫌い。
どうして「昔気質の侠/時代遅れの男」にそこまで恍惚とできるのかも謎だけど、
それに「愛国ファンタジー」が絡むともう手に負えないグロテスクさ。
その悪趣味な懐古趣味がきぼちわどぅい・・・・・・

さて、問題は・・・『戦争をしない国 日本』もタメを張れる懐古趣味ぶりだったのです。
労働者とか婦人とか学生とか「国民の怒りが爆発」とか・・・言葉遣いからして「ノン・ポリ/しらけ世代」と言われた今の学生の両親くらいの歳の人にさえ「古い」と言われそうな感じ。それはないだろ、と言うくらい一方的な事実認識に一方的な主張。ディベートで言うところの「エンゲージメント」(これが議論を深めるための鍵)しようという気が全く認められない感じ。そういうプロパガンダ方式も、やたら時代遅れな感じ。「改憲ファンタジー」に張る「護憲ファンタジー」。

今日は偶然後輩のYちゃんと9条の話になりまして、
ホントせめてディベータは「現代的なあっぷ・とぅ・でいとで理性的・現実的な」議論を
したいし観たいものだよなぁ・・・・・・とつくづく思いました。
理念面もね、きちんとエンゲージした上で掘り下げないと・・・・・・。
まあつまりは質の高いディベートをしたいってことで難しいのは同じなんですけど。
問題は現代のあっぷ・とぅ・でいとな若者達はあんまり背景知識がない、
・・・・・・ゆえにそもそも意見があまりないみたい。
しらけ世代Jr. 達は元祖に輪をかけて凄いです。
それはそれで・・・・・・感心しないな。
人間無知な事柄に関しては騙され易いですからね。
最近改憲も護憲も極端な意見の人の中にはティーンが多いというのもわかります。
思春期って妄想がちですからね。半分ファンタジーの住人よね。
どうせなら趣味の良いファンタジーに耽ってもらいたいものですが。

さてさて。

帰り道。
駅から母に電話で「どのくらい残ってる?どのくらい買い足せば夕飯に足りる?」と訊くと、
彼女は歯切れの悪い様子で・・・

「残ってない」

・・・・・・。
は?
鍋一杯分が・・・・・・?

・・・・・・誰の胃が痛いって?
鍋一杯食べきる病人が何所にいるんだっての!!

シチューよ、シチューよ、帰ってきて!
カムバーック、シチュー!!

(あ、このオチ駄目ですか?)

Thursday, May 24, 2007

すいーと・じんじゃー・みるく Sweet Ginger Milk

いやー、ハシカ大流行ですねー。
できるだけ学校にいる時間を短縮しようと思ったのですが、
案外手間取って帰宅してみたら……

母が発熱中。
……もしかしたら自宅の方が危険。

ところで、母は料理に創意工夫を凝らす人です。
良く言えば独創的。悪く言うと無難な品が作れず奇をてらいすぎる。
嗚呼今までの呪われた料理たち……
セロリ、インゲン、そしてモロヘイヤの入った自称「タイカレー」。
ヨーグルトと餡子を混ぜた「ヘルシースイート」。
何故か強烈な生臭さを伴う「かけそば」。
関連商品(?)「ミート・うどん」にその後南アフリカで再開してしまうことを子供の頃の私は知らなかった…そうして私は食の細い子供時代に……(ナチュラル・ダイエット?)実話です。

そんな母も料理教室に通うようになり料理の腕も飛躍の進歩を遂げました。積極的に美味しいと言いたい料理の割合は急激に上昇しました。(惜しむらくは私が下宿に出る前に習って欲しかった。何故子供が育ちきってから習うのだ……)しかし彼女の冒険心が消えたわけでは……そう、なかったのです。けれど私には彼女を責められない……今回は私もその一端を担ってしまったからです……

今回のテーマは、ずばり『マ・カ・オ』。

とあるテレビ番組でマカオ料理特集をしてたんですよね。
その中の「ジンジャー・プリン」なるものに二人して目を惹かれたわけです。
曰く、「生姜の絞り汁に砂糖を溶かし、温めた牛乳を注ぐだけでフッルフル」。
なにぃー?生姜にそんな効果が??とビックリ仰天したわけです。
確かにテレビ画面に映されたプリンは杏仁豆腐のようにフルフルでした。

早速キャッキャ言いながら二人して生姜を大量に摺り、
更にキャイキャイ言いながらその汁を搾り、
そしてできたのは……

なまあたたかい甘辛い牛乳……
……ちょっと部分的にどろーり。

…………。
ちーん……。
…………。
…どこまで待っても固まらないし!!

シクシクシク。

我が家には、どろりとした甘辛い牛乳が……途方に暮れたのでした。
これが昨日のこと。

ちなみに母、先ほど起きてきまして、
「パパ帰ってきたら、あれ飲ましてあげて」

…………。
それで良いのか……本当に……
自分の下宿生活の間に犠牲者の名が変わったことを静かに悟った私でした。

Tuesday, May 22, 2007

性悪女の癒し方 regresa a mi

数ヵ月後の案件についてメールを書いていて自分の性悪さを再確認。
こんなこと相手に言っても仕方ないというか脅迫じみてるよなぁ・・・
と思いつつ、ここは脅迫してでも裏切られるのは御免なのよ、と割り切ってもみる。
その癖、自分はいつでも裏切るわよ、と匂わせている・・・

どんだけ性悪やねん。(ていうか我侭なだけ?なお悪い・・・)
女に限らず、やっぱり裏切られた経験は人を性悪にしますよね。
(自分はひと様に裏切られた感を与えないように気をつけないとね・・・)

返ってきた返信が「正直でいてくれてありがとう」
・・・・・・うわ。や、ホント自分の性悪さが際立ちます・・・
どんだけ良い人なの、それ。礼を言ってどうすんのよーーー!!!
(それとも何かの嫌味なのか・・・?)

はああ(脱力)
まったくこの人には勝てんわ・・・・・・

ま、じゃあ即この相手を信用する気になるか、というと
そうもいかないのが哀しさですね。前回の裏切りの傷がまだ痛みます。
(あ、ちなみに上記はすべて色気一切なしの話なんですけどね)

regresa a miは、春先に母がはまっていたIl Divoの曲名です。
本日やたらとそれが頭に流れ続けています。
ていうか連続で聴かされすぎて頭にこびりついている・・・
何故か歌ってしまうCMソングのようです・・・ちょっとイヤ。
しかしその陰鬱さが妙に先ほどのメールのやり取りなんかと合っている。

Una vez mas tocar tu piel y hondo suspirar
Recuperemos lo que se ha perdido

って。・・・うーん・・・うん。
時間が経てばまた、人間不信は終わりを告げて、
ちゃんと友人を信用できる日が戻るのでしょう。

だから今日だけはもう一度だけ、
ちょっと溜息つかせて欲しい。性悪でいさせて欲しい。
明日は良い友人に戻れると・・・思うから。たぶん。いや、きっと(汗)

閑話休題。

今日は一日facebookのサーバがダウンしている模様。
全体のじゃなくて私がのっかってるネットワークのが。
おかげでどうやらメッセージが数件届いているらしいのにアクセス不可。
該当する方いらっしゃいましたらごめんなさい。

そもそもメールの返信は更に怠りがちな私。
不義理もはなはだしいわけですが、ウェブメールの使い方が悪いのか、
「後で返信しなきゃ」と思ってたメールがどんどん行方不明になるんです。
もうほっくり返すのが嫌になってしまってどんどんずんずん溜まっていく。
ああ・・・何故世の中の皆様はもっときっちり管理してらっしゃるんでしょう。
その管理能力の5分の1で良い。分けてもらいたい・・・
ていうかうちのキャンパスが外部からメールサーバにアクセスさせてくれればもっと楽なんだけど・・・セキュリティのためかさせてくれないので・・・慣れないウェブメールを使うことに・・・いや、やっぱり自分が悪いんですが・・・

なーんて、こんな憂鬱そうなことを書いていても
所詮私は部屋でアホな踊りを踊ってしまう道化なお調子者。
フレンズを観ればジョーイを可愛いと思ってしまうし(あの役者バカに見せるの天才的ですよね)、初恋は「忍者ハットリ君」だし(えーええ、いまだに親戚中に言われます)、同年代の友人と会うとボケ専門だし(最近ディベート関連の人にツッコミに分類されビックリ)。
とにかく、性悪気取ってみたところでやたらとおめでたくって底の浅い性悪なわけです。
まあ、だからこその「正直でいてくれてありがとう」なわけで・・・(あのやろー・・・)
全く悩むだけ阿呆らしいというものです。

美味しいココアの一杯もあれば癒されてしまうお手軽な性悪女なのです・・・やれやれ
はぁあ・・・ココアおいちい・・・(@^-^@)
もう今日はいーや。

Monday, May 21, 2007

[Book] ジュリアス・シーザー Julius Caesar

[本] シェイクスピア.1599. 中野好夫訳.1951.『ジュリアス・シーザー』. 岩波書店.

こちらは行きの飛行機で読みました。
英語で読んだら何故か喜劇に思えてしまったので日本語で読んでみました。

ちゃんと悲劇でした。
よかった・・・。

まあ、とにかく例の演説ですが、やっぱりアントニウスはわざと自分を「口下手」と演出していますね。なかなか狡猾です。最初から相当自分の演説の技量に自信を覗かせているにも関わらず、聴衆の前ではまるで真逆かのように振舞う。大した悪人煽動家ぶりです。やっぱり西洋でも口下手は同情を引き易いってことなんでしょうかね。そして弁舌さわやかな方が胡散臭く思われやすい。でも現実は真逆でブルータスの方がよっぽど口下手だ・・・恐過ぎないですか、この話。

しかし誰だ、「ディベートは結局のところ西洋的だ」なんてのたまって私を涙させたのは・・・ホント思い込みって恐ろしい・・・口下手な振りした饒舌な悪人が世にはばかるのは何所も同じなんですなぁ・・・まともな言論教育を受ける必要があるのは日本人だけじゃないよねー・・・・・・日本の場合苦手意識が必要以上に壁を作っているとは思いますけれど。(ちょっと今日は色々と考えさせられるメールが数件届きました・・・ホント、どうやったら素直に人の言葉を疑わずに聞ける幸せを享受できるのかなぁ・・・)

結局このお話では明確な善人キャラはいないように見えます。シーザーでさえ、キャシアスを嫌った理由は彼が痩せているから、という理不尽ぶりです。ブルータスもアントニウスもキャシアスも、全員ある程度(ていうか、かなり)汚れている。が、全員純粋な悪人でもない。・・・・・・なんだか現実的過ぎてかえってグロテスク。お話の世界を楽しむのが難しいのは私だけでしょうか・・・?

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アントニー: 
これ、この傷口、物言わぬ口ででもあるかのように、
真赤な唇を開いて、私のこの舌に代って訴えてくれと叫んでいる
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アントニー:
では、大急ぎで帰って、この椿事を伝えてくれ。
いまやローマは哀悼の都、危険に溢れた巷なのだ。
オクティヴィアスどのにとり、まだ安全な広間ではない。
急いで行って、そう伝えるのだ。いや、ちょっと待て。
いまこの遺骸を広場へお移しするから、それまでは行ってはならぬ。
そうだ、それでは一番やってみるか、
果たして俺の演説で、この凶悪犯人どもの残虐行為を、
市民どもはどう考えるようになるかだ。
その結果次第では、お前往って事の次第を
オクティヴィアスどのに伝えてもらいたいのだ。
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アントニー:
ああ、理非分別の心よ!お前はあの獣の胸に逃れ走って、
人間はすべて理性を失ってしまったのか。許されよ、
いま私の心はすべてあの棺の中、シーザーの許へと飛んでしまったのだ。
戻ってくるまで、しばらく待っていただきたい。
市民一:
彼の言分にも、どうして道理はあるようだな
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アントニー:
諸君、私は諸君の心を盗もうとて来たわけでない、
私はブルータス君のような弁舌の徒でもないし
諸君もご承知のごとくただ一介の無骨の野人、
要するに友を愛するというにすぎん。(中略)
人々の血を湧かせるなど、私には才知もなければ言葉も知らぬ
さらに能力、行動力、弁舌、説得力、ともになに一つ持たぬ私に、
どうしてそんな芸当などできようか。ただ率直に語るだけのこと。(中略)
もし私がブルータス、そしてブルータスがアントニーならば、
あるいはこのアントニーが諸君の心を煽り立て、
シーザーのこの傷一つ一つに、ローマの石を暴動に決起させる、
そうした舌を与えることもできようが。
一同:
そうだ、暴動だ。
市民一:
ブルータスの家を焼き討ちしよう。
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召使:
ご主人のお話じゃ、ブルータスさま、キャシアスさまには、
まるで狂人のように馬で城門から立ち退かれたとか。
アントニー:
さては知らせを受けたと見えるな、どんなに俺が
市民どもを焚きつけたか。
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注から
ブルータスの演説が理智的で冷たく、群集の心理を少しも知らぬ学者的演説であることに注意。それに反して次のアントニーのそれが、どこまでも感情に訴え、卑近で、具体的で、巧みに群集の低い知性と天邪鬼心理をとらえていることに注意。シェイクスピアが前者を散文で書き、後者を無韻詩形で書き分けていることも、なんでもない工夫だが見のがせない。
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解説から
例の有名なブルータスとアントニーとの演説を挙げてみる。この二つの演説は、往々にして拙劣作者に見られるような、作者シェイクスピアみずからがやたらと顔をだして行う演説ではなく、両者それぞれがいわば事故の宿命的性格をどうしようもなく露呈させながら述べるという、ある意味ではシェイクスピアの劇詩人的才能を最もわかりやすく、また鮮明に示している有名な演説だが、それがなんと「プルターク」によると、わずか次のような簡単な記述にすぎないのだ。すなわち、ブルータスのそれは、「ブルータス伝」に、
 彼等(市民)に対してブルータスは、その好意をかちえ、同志の行為の正しかったことを言い、彼等に対してキャピトルから降りてくるようにと叫んだ。
とある、ただそれだけなのだ。他方またアントニーの方は、「ブルータス伝」と「アントニー伝」との双方に出るが、しかしそれとて前者では、
 その後シーザーの遺骸が市場へ運ばれて来たとき、アントニウスはローマ古来の慣習に従って、故人をたたえる葬送の演説をした。そして彼の言葉によって、市民の心が故人への哀悼に動くと見るや、彼は雄弁を揮って彼らの心情をいよいよかきたてた。そして鮮血に塗れたシーザーの外衣を手にし、これを市民らの面前に拡げて、そこにつくられた多くの刃の痕を指し示した。すると群集はたちまち激昂と暴動にかわり、もはや彼らの間に秩序を維持することは不可能となった。
 「アントニー伝」もまた大同小異だが、
 そこでシーザーの遺骸が埋葬の場所に運ばれてくると、彼は葬送の場において故人をたたえるというローマ古来の慣習にしたがって、シーザー賞揚の葬送演説をした、彼は市民達がシーザーのこと、とりわけ賞揚の言葉を聞きたがっているのを見てとると、その演説の中にいとも悲しみにみちた言辞を交え、種々の事実を加えることにより、彼らの感情をはなはだしく哀悼、憐憫の情へと動かした。しかも最後には結論として、全群集を前に徒党たちの刃によって至るところ刺し貫かれた故人の上衣を拡げて見せ、暗殺者たちを残忍、極悪な殺人者と罵倒した。これらの言葉によって、彼は市民たちを烈しい激昂にまきこんだために、彼らは直ちにシーザーの遺骸を運んで、市場においてこれを焼いた。
 後にも先にもこれだけである。この素材からしてシェイクスピアが、いかに鮮烈な対照的個性的な二つの演説を仕上げているかは、原作の同じ部分とゆっくり比較対照して読んでもらいたい。
 ただここで一つ問題は、上でもちょっと触れたアピアーヌスの『内乱史』である。これにはかなり長くアントニー演説の内容が述べられている。それによると(後略)
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Friday, May 18, 2007

不審者 suspicious person

肘と膝が痛いので、あっちぶつけてもこっちぶつけても涙目な今日です。
病院では小さな子供のように「痛かったよねー、もう大丈夫だからねー」と言われ、
おとなしくコクンと頷いてしまう情けなさっぷりです。
しかし顔にあった小さな傷は跡形もなく消えました。すごーい。
しかもやったことは傷パワーパッドとかいう絆創膏を3日間貼っておいただけ。
市販薬も 飛躍の進歩 ありがたや (字余り)・・・なーんつって。ひひひ。

問題は目。あんまり治っていないと言われショック。
やはり私の目薬の落とし方に何か抜本的な問題でも・・・
いつまでコンタクト入れられないんだろうー・・・困ったなぁ・・・
買い物するにも街中歩くにも、やたら顔を近づけて確認している怪しい人です。

この上ハシカにでも感染した日にはえらいことになってしまいます。
病院めぐりにもマスクを装着、更にUVサンバイザーで武装した私を、
小学生中学年くらいの女の子が不安そうに見上げています・・・
確かに背後に立っていると変質者みたいだろうか・・・
ごめんねー、怖いよねー、おねえちゃんすぐどっか行くからねー。
(ていうか外しなさいよ、という話も・・・)

さて、現在わたくしお話を伺える広島県出身の方を探しております。
ご協力いただける方いらっしゃいましたら、是非ご一報くださいませー。

Thursday, May 17, 2007

月の雫 water from the moon

しばらく前に壊した眼鏡のバランスを微妙に保って作業中です。右目はもうあんまり痛くなくなってきました。素人の当て推量ですがあと二日くらいで随分良くなるのでは。怪我の方は・・・なんだかよく分からない感じ。これは良いのか悪いのか、どうなんだろう。

さて、

セリーヌ・ディオンの曲でこういうタイトルのがあったんですけど、あの音域の広い声をがなるようにして「do i gotta get water from the moon?」と尋ねる部分が妙に印象的でした。一体water from the moonというのがどういう訳に相当するのか分からなかったわけなんですが、「月に存在するとか存在しないとか言われている(多分存在しない、というかあまりに少量なので蒸発してしまっている)水」のことなら、ちょっとかぐや姫めいています。蓬莱の玉の枝や燕の子安貝と張り合うのに「月からの水」ではちょっと味気ないので、月の雫と訳してみました。フルセンテンス訳すと「あなたに愛されるためには月の雫でも必要なの?」とでもなりますでしょうか。

先週末は、ええ、その・・・、結局アジア大会(元祖の方です)に顔を出してきました。2年前の分裂以来あまり良い印象がなく、正直失礼したいと思っていました。が、開催地が韓国ということで、韓国との関係を悪化させすぎるのは避けたい・・・というジレンマの結果でした。特にJが熱心に誘ってくれたこと、Lが日本に教えに来てくれた直後だったこともあって、全く顔を出さないのでは義理が果たせないなぁ、と思った結果でもありました。それで、2年前の新・アジア大会見学の時と同じく「短期見学者」の立場を採ることでまあなんとかお茶を濁そう、というわけだったのです。

3年前まで、アジア大会は他に類を見ない暖かい大会でした。「アジア」という言葉が必要以上に他の地域(特にオセアニア)への対抗心を助長することは好ましくないことでした。しかしそれを補っても尚あまりある魅力を持つ大会でした。大会の間中、皆笑顔で茶化しあったし、子供のように戯れていました。国籍は殆ど意味を持たなかった。誰もが「気がつくと全然別の国の会ったことのなかった多国籍の人たちに囲まれていた」という状態をしばしば経験しました。

今の両アジア大会はツンドラ地帯のようです。もう片方のアジア大会を意識するあまり、どんどん政治性が増してしまっている。特に元祖アジア大会は一部のディベート以外の理由で投票する汚職審査員が大きな顔をしている。あれは酷い。その上お互いに不信感が渦巻いている。「俺達の脚を引っ張った奴が見つかったらこっそり教えてやるよ。もしかしたらよく知ってる近しい奴かもしれないと思うよ」という某選手の言葉に、大会の絶望的なまでの腐敗を見ました。それは世界大会が今も昔も政治的であるのとは全く別次元の話です。笑いあっている友人同士が、相手に暗闇でグサリとやられるのを恐れているなんてあんまりだ。「あの素晴らしい愛をもう一度」ではありませんが、あの暖かいアジアを取り戻すにはそれこそ「月の雫」でも必要なのかもしれません。 おかげですっかり私は「内向」モードで非社交的に過ごしてしまいました。とは言っても夜の飲み会はそれなりにあちこち顔を出しておきましたが。

ところで日本の選手の社交の仕方は少し方向を変えたようです。社交的な人と社交的でない人の2種類しかいなかった以前とは異なり、現在は3種類に分かれるようです。①社交的でない人、②特定の国の人とだけ社交的な人、③様々な国の人と社交的な人。どうやら新規参入大学には②が異様に多い。まあ分からないでもありません。ただ、いわゆる「肝」の飲み会に行くと、顔を見る日本人は2人とかでした。まあ、正味二日(3晩)しかいなかったのでたまたまなのかもしれません。

試合の感想は、まあ後日に譲ることにして、今は3晩それぞれの記録を一応残しておこうかな。

最初の夜はあちこちの人と再会を祝っておしゃべりをしました。韓国・マレイシア・シンガポールを中心にあちこち回りました。雨降ってたから、それぞれ皆各寮舎に分かれて集まっていました。マレイシアチームと飲んでいるときに、「ねえ、どっかタオルが手に入る場所知らない?」と訊いたら、「やたら小さいのなら参加者キットに入ってるよ。でもマッジ小さいよ」という返事が返ってきて盛り上がりました。その後カルチュラルナイトでそれが替え歌になっていて思わず笑ってしまいました。

次の晩は、なんだったかな。ああ、ウォッカ・パーティだとかで、屋外の寒い中皆でアホな話題で飲みました。ていうかウォッカ飲むのは普通ミキサー必要じゃない?寒いからってストレートで注ぐのやめて下さい、マジで。どこの人が多かったかなぁ。韓国系と東南アジアが多かったかな。その内ペルー出身の方が郷土舞踊を教えてくださいましたが、最初から実技編だったため、基本のステップをちゃんと覚えられませんでした。残念。

最後の晩は、意味不明などんちゃん騒ぎでした。でも主要キャラ勢ぞろいでした。ああいう飲み会こそ日本人も沢山参加して欲しいのだけど、いたのはI大のT君とG大のAちゃんだけでした。うーん、残念。そういえば韓国勢が外国人講師達以外殆どいなかったので、おそらく日本人や韓国人は別に集まっていたのでしょう。韓国のチームは夜のうちに帰ってしまった人も多かったし。中国勢も少なかったですね。うーん、それ以外はほぼ全ての国が揃っていました。歌を歌いだすわ、意味もなく笑い出すわ、その内何故か飛び入りのファイアー・ショー(!!)が始まるわ、ヘンな集まりでした。皆にやたら「masakoはもう来ないんじゃないかと思ったよ。来てくれてよかったよ」と言われ、切なくなりました。ごめんね、みんな。みんなのことは大好きなんだよ。私が非社交的に見えたなら、それは大会の腐敗を憂いているから。腐敗した大会の性質は変えなくちゃ。今、ギリギリのところだよ。みんなだって気がついてる筈だよ?・・・でも、あの場にいた人たちこそが暖かさを保とうとしている「実情と背景を知っている」良識派なのに、彼らとの交流も敬遠しようなんて確かに了見狭かったかもしれない。その後、気がついたら何故か英語村の職員達まで飲み会に混ざっていて、私達はデトロイトやニューヨーク、トロントの人たちとまで入り混じって飲んでおりました。あれは一体何だったんだろう。バンブー・ソージュー・マジック??

どの晩も私は梨花女子大のチームと同室させて貰いました。これが皆素晴らしく可愛いんだ!!その内の一人と北朝鮮の話になって、凄く感銘を受ける話を聞けました。今度アップしたいと思います。

まあ何にしても今年一押しの大会はオーストラルエイジアンです。
一人でも多くの選手が参加できると良いなぁ、と思います。

・・・・・・でも、そうね、まだ月の雫も探し続けてしまうかもしれないな。
誰もが微笑み交わしたあの素晴らしい愛を夢見てしまうかもしれないな。
でも、それには、Do i gotta get water from the moon? :p

Wednesday, May 16, 2007

[Novel] イナイ×イナイ Peekaboo


怪我による発熱と右目の不具合により、現在体調わろし。
ディスプレイがろくすっぽ見えていないため、変換等に間違い多い可能性あり。ご容赦くださいませ。

[小説] 森博嗣. 2007. 『イナイ×イナイ』. 講談社.

飛行機で読みました。
以下ネタばれあり。お気をつけをば。

椙田さん一体次回から何ていう名前で登場するつもりなんでしょう。
今度の新しい名前が更に別の短編とリンクしてたりしそうで、なんともやれやれ複雑な様相を呈してまいります。

どうやら次の予定作もこのXシリーズのようですが、Gシリーズってどうなるんでしょうか。あっちが出たりこっちが出たりするようになるわけでしょうか。更に面倒でややこしくなっていきます。このすっきりしない感じをいつまで引きずることになるのか・・・やれやれです。しかし読んでしまう私。

結局萌絵ちゃんは東京で働き始めたようですし、椙田事務所が東京にあるようでもあります。依然犀川先生が名古屋にいるのだとすると、これからは東京と名古屋の話がパラレルで展開されるんでしょうかね。妙に対称的ですしね。わいわいがやがやなGの学生軍団と椙田事務所の二人はちょっと雰囲気似ているし、鷹知さんのポジショニングが赤柳さんに相当するのかな。ほぼ関わらない人物として西には犀川先生、東には萌絵ちゃん。よくわからないのが椙田さんのポジション。彼に相当するGのキャラクタは・・・国枝先生?はたまた四季博士?あ、でもGには度々各務さんと思しき人が出てきていますから、やっぱり彼女かな。うん、その方が面白いですね。

話の展開の仕方も妙に似ていますよね。GとXのどちらも、S&MやVの時のような明確な謎解きをしてくれない。分かったようで全体像の見えない薄ぼんやりした締りのない終わり方です。VやS&Mよりも時系列的にも後を扱っていることもあってか、より現代的、不確実性の時代に突入しつつあるようですね、この作品群も(笑) しかしすっきりしない。イラチな私的にはフラストレーションの溜まる展開です。

ところで萌絵ちゃんの働き出した大学名は、Gの通りなら東京の私立W大ですよね。Xでは椙田さんが「古い大学で、金持ちの学生が多くて、卒業生ができるだけ沢山死んでいる」と表現していますね。・・・早稲田か。早稲田ですよね(笑)うちの大学といい、早稲田といい、こういうおちょくられた理由でフィクションに登場する率がやたら高いですが、著者が卒業生だったりするんでしょうかね。森博嗣さんは名古屋大の教授ですが、建築が専門だそうですよね。早稲田は建築が有名ですしね。もしかしたらそうなのかな?

ああ、薬が効いてきて眠くなってきました。
今論文読み始めたら途中で寝てしまうかもしれないなあ・・・どうしよう・・・

Wednesday, May 09, 2007

最後の一人 the last one

IDC8終了後講師を成田に送る道すがら、言葉の話になりました。確か私が「もしあなたに子供がいたら何語で教育を受けさせたいか」と聞いたことから始まったような気がします。

日本で暮らしている限りはあまり考えることのないこの疑問ですが、今回のように民族的にはタミル語が母語だが中等教育まではマレー語で受け、高等教育以降は英語主体、というような多言語混合な人を見るといつも疑問に思うことです。どの言語が母語か、と訊いた場合とは別の返答があったりして興味深いです。

英語というのがスレッシュの回答で、私としては疑問が残りました。だってさ、そうやってタミル語やマレー語が死滅する可能性を加速させることに感傷はないのかしら、と思って。どうやらスレッシュはとってもプラグマティックなようでしたが、私にはそこまでさっぱり日本語を切り捨てることは到底できないなぁ、と思うのです。そんな風に駄々を捏ねたところで、いつか将来日本の子供たちも生存のために日本語を捨てる日が来るのでしょうか。

昨日何気なくテレビをつけたら岸恵子が出ていました。
娘が日仏ハーフで英国人と結婚したとか。
孫達は父親とは英語で、祖母とはフランス語で話すのだそうです。
で、日本語はこれからなのだとか。
・・・・・・まあ二の次でも勉強してくれるだけ有難いのかな?
しかしどうやら十歳過ぎているようなのでどの位流暢になるかは疑問な気もします。
なんか言葉の運命ってハードボイルドですねぇ(笑)

もし私が世界で最後の日本語話者になったら・・・・・・最後の一人だったら。
何を日本語で言っても解する人が世界中に誰もいなかったら・・・・・・
私よりも年下の人で日本語しかできない人が沢山いる以上、
ほぼあり得ない想像ではありますが、やっぱり哀しい気がします。
ネトルの言うことは正しい。言語は好き好んで自殺などしない、と私は思ってしまうのですが。

さて、今日はひょんな理由からシェイクスピアの『Julius Caesar』を読んでいます。
論文に引用されている箇所のチェックをしないといけないんです。
古英語は苦手なのでやれやれです。読んだのは当然、

Friends, Romans, countrymen, lend me your ears;

で始まるMarcus Antoniusの有名な演説です。

この演説を読むと、「日本の演劇でこんな風に大衆に語りかけるシーンってあんまりないよなぁ。西洋はスピーチを重んじる文化圏だなぁ」と思いそうになるのですが・・・・・・Antoniusは同じ演説の後半でこんなことも言っています。

I am no orator, as Brutus is;

は?

ていうかこれだけえらい演説かましておいてなんだそりゃ。なめとんのか。
挙句の果てに、

For I have neither wit, nor words, nor worth
Action, nor utterance, nor the power of speech,

ときたもんです。
で、直後に民衆が「うおー、ブルータスの家を焼き討ちだー」と叫ぶ。
えええええーーーー!???
・・・・・・ていうか、えええええーーー!???

で、思うのですが、何だかんだ言って、あっちでもsilver toungueは多少敬遠されるんじゃないですかね。下手するとsophistの汚名を受けかねない。それで、「あっしは語る言葉も持たない無骨物で・・・学のある言い回しの一つもありやせんけど・・・あっしの心が言ってるんでさ・・・あんかたぁ、良い方だったって・・・よよよ・・・」とやると実は日本と同じように結構ウケる。・・・・・・のかな????スーパー・パゴールの世界。・・・・・・ていうか本人極めて饒舌なだけにそれってかなり悪辣な煽動家ぶりに思えますが・・・・・・(汗)

正直読んで困惑気味な私です。
何これ?どう解釈すれば良いの?
うーーーん・・・・・・困ったなぁ・・・・・・(途方ーん)

私は例えば伊勢物語だの為朝物語だのを読めば、その心情分析にある程度自信を持つわけです。それは全く根拠のない自信で、当時の人の風俗に無知な私はとんでもない勘違いをしている可能性が高いわけですけれども、それでもJulius Caesarを読むときほどには惑わない。勧進帳で弁慶の飛び六方を見ればそこに必死に主君の後を追いかける家来の誠実さを見るし、那須与一と言われれば海上の船に掲げられた扇の絵面がサッと頭に浮かぶ。そういう傍若無人ぶりというのは、時に間抜けであっても、やはり芸術を楽しむ根底にある。しかもそこには自分で認めたくないほど、内と外の区別がある。

結局そういうことなのではないのかな、と思うのです。

私は特定の文化背景を5世紀頃のものから「これがあなたのよー」と刷り込み教育された。小学校の頃は鎌倉が近いですから源平の話とか静の舞とかよく聞かされました。そんでもって奈良・京都あたりには必ず修学旅行で行く。(うちは高校時代更に遡って出雲も行かされました。)それが私を言語について保守的にさせるのではないでしょうか。私にやたら感傷を抱かせる。

マレイシアの人は、どうやらマレー語の古い文学を学校で教わっていない様子です。タミル語ともなったら尚更でしょう。だからこうした言語の保護に執着が薄いのではないでしょうか。や、わかりませんけれども。

実は結構欧米の人にも言えるのかも。最近ラテン語を教える中等教育は少ないみたいですね。一番古いもので、シェイクスピアを1作品か2作品、高校で読むかどうかってところのようです。それ以前のものはなし。(それって私達が『忠臣蔵』より昔のは知らないわ、っていうのと同じような感じじゃありません??そう考えると凄いです。) ギリシア・ラテンの文学(日本での漢詩にあたる?)なんてぜーんぜんみたいですね。

以前山手線に乗っていて、『AIDA』の宣伝が中吊りされてたんですよね。それでその時いたコーチ達が、「一体全体Australasians Intervarsity Debate Association以外にAIDAって略称になる言葉があんのか」って笑い転げてたんですよ。

いや、あれはビビリました。
・・・・・・それ、略称じゃないだろ!!!

そう、オーストラリアから来ていたコーチたち、確かこの時は4人でしたが、誰もAIDAがギリシア悲劇を基にしたオペラだと知らなかったんです。
(・・・・・・私は最初にディベートの方のAIDAを聞いたとき、 「なんでよりにもよってそんな悲劇的な名前つけんだろう・・・」と思いましたが、つけた人達が劇のAIDAを知らなかっただけなのね・・・・・・)

言語(とそれに伴った歴史・エピソード・芸術など)によるアイデンティティというもの自体、ひょっとしたら彼らにはあまり馴染みないものなのかもしれません。それはそれで幸せなのかもしれません。

「地球上で自分がこの言葉の最後の話者になってしまったら」

そういう想像は、皆さんに恐怖感を抱かせますか?
後の世代にも漢文や古文を学んでもらいたいですか?
それが単なる感傷だとしたら、感傷を捨て実用的な教育をする方が建設的だと思いますか?

ちょっと考えてしまいます。

Tuesday, May 08, 2007

[Novel] 魔法飛行 L'Envolée magique


[本] 加納朋子. 2000. 『魔法飛行』. 東京創元社.

ふっかーつ!
忙しすぎた日々もあともう少し・・・・・・だと良いなぁ・・・
流石にちょっと体力的にへばり気味ですが、ま、がんばります。

『魔法飛行』は加納朋子の小説の題名ですが、
シャガールの絵のタイトルからとられたものです。
絵のほうは私にはちょっとハテナ・マークが残りますが、
小説のほうは目茶目茶ストレート・フォワードです。
ヘンなカタカナ語を使うと文章が不気味です(笑)

この小説は真っ直ぐすぎて気恥ずかしく、でもたまに開いてしまいます。
お話自体は小説家志望の女の子と謎の人物との手紙によるやりとりという、
他の加納作品同様割と地味な設定です。
けど書いてあることは異様に大きいです。
そのことが、嬉しい時と腹立たしい時とあるんですね。

そういえば最近広い空を見ていないかもしれません。
家の近くは立て込んでいる上並木があるので空があまり見えないんですね。
うーん・・・久しぶりに『宙の名前』でも開けてみようかな。ってそれじゃダメか(笑)

ところで今年は日本から初めて高校生の世界大会(World Schools Debating Championships)へ参加するチームが出ます。昨年末の全国大会で優勝したチームで、女性2名男性1名の3人チームです。これがまた利発で大人びた皆さんで・・・・・・私が高校生の時は断じてあんなに落ち着いていませんでした(汗)練習の様子を見ていても成長が速いので、私までワクワクしてしまいます。彼らを間近で見れるのは、ちょっと「空を見る」行為と似ているかもしれませんo(^v^)o ただ国際大会の厳しさも分かるだけに緊張もします。今まで彼らの先生役を務めてくれたローランドもスレッシュも、自分のことのようにドキドキしてくれているようです。でもいくらドキドキしても「楽しんできてくれますように」と祈ることくらいが私達にできる精一杯です。私達の大会ではなく彼らの大会ですから。ううー、それでもやっぱりドキドキします(笑)

いかんせんバンクーバー以来、何だかどう頑張ってもどうにもならないんじゃないかと暗くなりがちな私ですが、高校生の初世界大会チームを見たり、ちょっと遠ざかって十年前の大会を振り返ったりすると、何だか少しは救われる気持ちになります。牛歩の如し・・・だけど前進してるの・・・かな・・・?まあ、ボイジャーよりは分の良い夢を見てる筈なのかな。しかし夢が実現するのをこの目で見るためにはどんなに長生きしなきゃいけないんでしょう、私・・・・・・(苦笑)気分が少しは好転したこと・・・悔しいからティムにはまだ教えないどこうっと(笑)


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 文字とは所詮記号であり、文章はその羅列にすぎない。世界だとか人間だとか自然だとかいった、形の定まらない奇妙なものを、記号の中に封じ込めることはなんて難しいんだろう。
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「地球で一番大きな手紙ですね。異性人に宛てた」
 考えていることが口に出て、思わずそんなことを言っていた。卓見さんはぱちりとまばたきをしたが、それから白い歯を見せてにかりと笑った。先刻見たばかりの、お菓子をもらった子供たちの笑顔によく似ている。
「うまいことを言うね。手紙ならさしずめ、ラブ・レターってやつかもな。<おおい、我々はここにいる。こっちを向いてくれ>ってね。パイオニア十号だって彼らへの手紙を積んでいたし、ボイジャー一号と二号だってそうだ」(中略)
 私が首をかしげたのを、別な意味にとったのだろう、卓見さんはふいに生真面目な顔になった。「もちろん、実際に宇宙人がそのディスクを手にする可能性なんて、万にひとつもないだろうさ。ボイジャー二号が一番近い恒星に接近するのは、四万年後の話だからね。その次となると、十四万七千年後、さらに次は五十二万五千年後だっていうんだからさ、確かに首をかしげたくなるのも無理はないよ。夢みたいに気の長い話だからね。だけどだよ、夢は未来につながっていた方がいいに決まってる。そう思わないかい?
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 今の子供たちの多くは、ひょっとしたらまるで空を見ないんじゃないかって気がすることがある。それはひどくつまらない、そして恐ろしい想像だ。空を見ようとしない人間に、進歩なんてないと僕は思うから。そして進歩のないところには、未来などないとも思うから。
 だから君の物語に登場したような少年たちの存在を知ることは、僕にとって嬉しい驚きだった。
 君が出会った子供たちは、紛れもなく小さなライトであり、ロベールの子孫であり、モンゴルフィエの弟子たちだ(航空史上に、揃って彼らが兄弟でその名を連ねていることは、いかにも面白い符号だね)。ライト兄弟が飛行機で、そしてロベール兄弟やモンゴルフィエ兄弟が気球で空を飛ぼうとしたように、少年たちは彼らのやり方で、空に近づこうとした。凧や風船などといった、魅力的な小道具を使ってね。
 大空に対する、限りない憧れ。自由に空を飛びたい、という気持ち。それは人間の最も純粋で真摯な願いだとは思わないかい?
 そして、大気圏の彼方、遙か宇宙の果てに同胞を見出そうという気持ちもまた、そんな願いの遠い延長線上にあるんだろうと思う。
 我々が銀河系内で唯一絶対の存在であると自惚れて、安心していられる連中はいい。彼らには、見えない相手に向かって数限りないラブ・コールを送り続ける人間の気持ちなど、決して理解できないだろう。遠い宇宙に向けて、「ハロー」と通信を送ってみる。呆れるほどに長い時間をかけて、それが見知らぬ星の、まだ会ったことのない誰かの許へ届く。そしてその誰かから、ふたたび長い長い時間をかけて、彼らの言葉で「ハロー」という返事が返ってくる・・・・・・。
 それがどれほどに深い意味を持つことなのか、空を見ようとしない人たちには到底理解できないだろう。
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 彼女の思いは、作品のキーワードにもなった言葉、<魔法の飛行>に、最もよく表れている。どうもどこかで聞いた言葉だと思っていたら、マルク・シャガールのリトグラフの中に、同じタイトルの作品があるんだよ。知っているかな?実にロマンチックな絵だよ。愛する恋人の許へ、ピンクの花束を抱えた男が宙を飛んで会いにゆく。女性の目は驚いたように見開かれている。だが、彼女の手はすでに、男を迎え入れるように相手の方に伸ばされている・・・・・・。
 人から人へ向かう心というものは、魔法の飛行そのものだと思わないかい?二人の間に横たわる時間や空間、それに考え方や価値観の相違、様々な実際面での問題―そういった諸々のものを、ときに人はなんて軽々と飛び越えてしまうんだろう。
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Tuesday, May 01, 2007

[Book] いち・たす・いち 1+1


[本] 中田力. 2001. 『脳の方程式: いち・たす・いち』. 紀伊國屋書店.


明日の早朝にはスレッシュが成田に降り立ちます。

今頃出国審査かな。


さて、この本と姉妹本である『脳の方程式: ぷらす・あるふぁ』と一緒にBookOffで発見。何年か前に読んで面白かった本なので二冊まとめて購入しました。この分野と全く関係ない人にさらっと読めてしまうように書かれている好著。おススメです。


私が好きなのは「統一脳理論」という章の「意識の根源」という部分。LGS(lattice gas shell)の話。最近ニューラル・ネットワークを扱う人の多い部署に移動したこともあって改めて面白い話題です。『ぷらす・あるふぁ』の方の「禁断の果実」の章も好き。


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 脳の主食はブドウ糖である。

 どうしても仕方がないときはケトンと呼ばれるものも食べることはあるが、ほとんどの場合ブドウ糖しか食べない。そのくせ大変な大食漢である。

 草食動物は草というかなり効率の悪い食事をとる。(中略)肉食動物は動物を食べることによって、もう少し効率の良い食事法を手に入れた。それでも、脳が消費する恐ろしい量のブドウ糖を作り上げるには、よほどがんばって狩りをしなければならない。(中略)それでは、サル族はどうやって大きな脳を維持する食事法を見つけたのだろうか。

 何でも食べること(雑食)だけでは達成できない。

 実は、果実である。(中略)

 甘い果実を頬張ることで、サル族の先祖は大食漢の脳を大きくすることに成功する。エデンの園の記載は、あながち、うそではなかったのかもしれない。

(『ぷらす・あるふぁ』pp.106-107)

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[Book] Nakata, Tsutomu. 2001. 1+1. Tokyo: Kinokuniyashoten


Introductory book for brain science. Very easy to read through. :)