Wednesday, July 04, 2012

久しぶりに。【Vol.5】

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5.【倫理編③】咀嚼し評価する
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EUが女性科学者を増やそうと"Science: It's a Girl Thing"というビデオを作りましたが、視聴者から非難轟々、慌てて引っ込めたそうです。
http://rocketnews24.com/2012/06/27/224728/

このビデオをrather insultingと感じるかは「人による」かもしれませんが、少なくともEUの視聴者にはビデオのメッセージを咀嚼し評価した結果、かえって女性蔑視的であるという結論に至る人が一定数以上いて、しかも声をあげて堂々とそう表明しているということです。

どうしてこれがinsultingだと思われるのかというと、おそらくは、「女性が科学に有能であることは誇らしいことだし、ちゃんと科学者としての能力が評価されますよ」というメッセージを伝えたいにもかかわらず、実際には「女性は知性ではなく見た目が可愛いくてセクシーであることが重要ですよ。知性よりも異性をどれだけ惹きつけるかだけが女性の価値ですよ。科学者になっても科学をすることではなく同僚の男性にモテることが存在意義ですよ」と受け取られるメッセージになっているから。(特に男性の真面目そうな科学者がちっとも科学者には見えない派手でお色気強調型の恰好をした女性たちが歩いてくるのをみて手を止めメガネをかけ直してまでガン見するあたりが最低。。。どう見ても彼女らの科学に関する能力に注目しているのではない。)

こういうアホなPV作っちゃう人がいるのも、うっかり会議を通して採用しちゃう政府があるのも鈍感極まりない話ですが、少なくとも視聴者に咀嚼し評価する力があるので淘汰されるわけです。

さて、最近日本の英語即興ディベート界では女性向け大会新設という話がありまして。最初「素晴らしい!」と大感激したのですが、よくよく聞いてみると選手は女性のみで審査員は男性可。というか女性に選手になることをススメる結果審査員は殆ど男性になるとのことで。。。それってダメじゃない?ということで一気にトーンダウンした私です。

丁度日米交歓ツアーで米国代表チームが来日してきて、委員会に女性が増えたとか、あっちの有名大会で優秀な成績をおさめた選手に女性が多かった年にその年の女性参加者が団結した話とか聞きまして。。。その時丁度上の件も話したんですよ。選手での参加を主催者はススメてるみたいだし私自身審査するよりディベートする方が好きなんだけど、そういうわけで選手に回る気になれないんだよね。。。と。これがあっさり通じるんですな。大した説明してないのに。「それは確かにグロテスクだね。審査員も女性にならないなら選手参加はしないって言ったら?」というのが米国選手の反応でした。しかしどうも日本の当該コミュニティ自体ではそういう反応は薄い。というか私だけが一方的にしている。

いや、だってさ、ミスコンじゃあるまいし、女性選手がずらーっと並べられて男性の観客に品定めされてランキングつけられるってどうなのよ、マジで。そもそもの開催趣旨って何なんだろう???

まあ審査委員長の方に丁寧に状況をご説明頂いて、とりあえず贅沢言わずに第一回を開催したいんです、第一回で人が集まれば二回目以降は良くなるかと、ということのようなので、まあ不参加にはならないようにしようと思うようになりました(でも多分審査員として)。

ところがその矢先。今度はその大会のロゴがアップされたんですよ。それがAKB48のロゴそっくりで、ご丁寧に「そっくりなのは気のせいです―」みたいなコメントつき。。。ちなみにロゴを作ったのは主催者の一人で男性の方のようなんですね。

なんかもうがっくり肩から力が抜けました。

もうさ、多分何のために女性大会開くのかという根本の認識が違うんだと思うんですよ。だってあまりにそっくりでしょ、上のEUのScience: It's a Girl Thing!とかいうキモいPVと。そんなもん冗談半分に作るなよ、台無しジャン。。。。。。と私なら思う。

わざわざ解説するのも野暮な話ですけど、「女性が知的で理性的で批判的な大人な態度を示すことを応援しよう」というイベントなんだろうと思うんですよ。女性に気兼ねなくディベートする場を与えようっていうのはそういうことだろうと思うんです。そもそもは。そのイメージがAKBというおそらく「可愛くて若くて素直で素人っぽい。支持層は殆ど男性で、男性にとって可愛いかどうかで競争している」というディベートからはほど遠いものに置き換えたら結局「女たちは可愛くて若くて素直で素人っぽい態度を示すことで男性にファンになってもらいたいです。ディベートの中身なんて良いんです。AKB総選挙のように誰が可愛いか、誰を恋人にしたいかい、誰のファンかで男性が票入れて下さい。」っていう真逆のメッセージになっちゃうじゃん。ホントEUのScience: It's a Girl Thingそっくりじゃん。むしろメチャメチャ女性蔑視な大会なのでは。。。。。。

しかも、重要な点は、そのロゴに「いいね!」を押してる人は居ても文句言ってる人はいないんですよ。。。本当にさぁ。。。どういうことなの。。。もう一気に参加意欲が減退しました。

EUの件はね、まあ人間間違いってありますよね。それでも視聴者が抗議して取り下げられる(淘汰する)から良いですよ。でも日本の英語即興ディベートのコミュニティはそれがない。浄化機能が働いてないんですよね。。。

そんなに文句つけるのが怖いのかなぁ?
それともそもそも気が付いてないの?

どういうことなんでしょう。。。後者なら真剣にコミュニティの読解力(咀嚼し評価する力)の欠如を分析した方が良いと思うんですよね。。。

これって「グロテスクだと思う感性の人ばかりじゃない」ということに配慮しなきゃダメですか?

とりあえず米国の選手に「例の大会がロゴがAKBのパクリなんだよー」って言ってみよう。なんて言うかな(ってすぐ想像はつくけど。。。)

Monday, July 02, 2012

久しぶりに。【Vol.4】

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4. 【倫理編②】言葉によるリンチ
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昨日の決勝に限らず、耳を疑うような発言を聞いた時に、観客が逆に喜んでいたりすることがあって本当にゾッとする。そういう集団は言葉で他者をリンチしかねない。(この辺りの詳細は拙著「コミュニケーション摩擦と社会公正:国際ディベート大会での調査から」に。)恐ろしいディベータ―と聴衆の共犯関係だ。狭いコミュニティの内輪同士の熱狂は時に暴力的だ。

その暴走に大会の進行を中断してでも敢然と異議を唱える。

それができるのが2001年のIDEAスタッフ達であり、Alexandraさんはじめとする良識ある審査員諸氏だった。

あれには本当に感動した。

駄目ですね。私にはまだあれはできない。情けない。
審査員として座っている大会の決勝戦で、最終スピーチ終了直後票も集める前にスックと立ち上がったあの姿を私はきっと一生忘れない。
「こういうことを言うために我々はディベートしているのか。囃し立ててた観客の姿に私は心が凍りついた。」とそう毅然と彼女が言ったとき、私の隣に座っていたガキは彼女への憎悪をむき出しにしてグチグチと言い訳を隣の席に呟いていた。でもそのガキは立ち上がって反論しなかった。おそらく彼女の方が正しいと心の何処かでわかっているから。
それでもいい。今納得いかなくても、時間をかけてゆっくり理解できれば、分からないままよりはずっといい。いつか分かった時に、教えてくれた彼女に感謝できれば尚更いい。

コミュニティには彼女みたいな人が要る。
私はまだ全然彼女のようにはなれない。
でも彼女みたいな人が要る。
あの時のIDEAスタッフ達のような人々が要る。
本当は今すぐ要る。
でも、今が駄目でも、いつか日本にも現れると良い。
それで初めてAcademic Debate(学習・教育を目的としたディベート)が本来の姿になる。

丁度今、日本の高校生たちがメキシコで開かれている今年のIDEA YFに参加している。勝っても負けても良い。IDEAから学べることはそんなことよりずっと大きい(そして残念ながらWSDCではそれがイマイチ学べない)。是非その心を、「優しくなるためにディベートするんだ」って気持ちを掴んで帰ってきてほしい。

久しぶりに。【Vol.3】

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3. 【倫理編①】言ってることのグロテスクさに気づいてくれ
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この項はTwitterで書いたことのまとめ。大幅加筆あり。

最近(例えばGeminiGF)、学生さんのディベート見てると「この人、人間らしい心を失ってしまったのではないか」「ディベートマシーンを演じているのかしら」と不安になることが多々あります。

ただ、この点に不安が大きいのが、非常に残念ながら日本ディベート界のお家芸(?)。かつてJPDUの春セミで「離婚に課税しよう」という論題が出たことや、大会で「HIVキャリアーの入国を禁じよう」といった論題が出たことがあるほど。「アホかーーーー!!キモいわ!!!」と背筋が凍るような思いをしても周囲は平然としていたりする。(「離婚に課税」については講師としてきていたオーストラリア人講師たちが「何考えてこういう論題が出るんだと思う?」と愚痴っていました。全くだ。)

そういうこと煩く言うと、①嫌がられる、②海外の大会の論題を使い回すケースが増える、というイマイチな方向に向かってしまうようですが。。。

海外の論題が必ずしも全て良い論題とは限らないんだぞーーーーーーーー!!!!
(なんでそう権威に弱いの。。。)

ま、論題の件は置いておいて。。。

議論内容についても、冷徹な損得勘定だけじゃなくて、もっと人間の心の温かみのある善悪と向き合った議論(最近これが俗にprinciple argumentsと呼ばれている。。。)をしようよ、という動きがあり、猫も杓子もプリンシプルプリンシプルなわけですが、肝心の根っこが置き去りな印象を受けます。

昨日Pre-Australsの決勝の論題はThat the military targetting of any place of worship is a legitimate warfare tactic.というものでした。

まあ、debatableな論題だとは思います。私が肯定側だったらあまり積極的に選びたくはない論題だけど。

で、この論題を肯定側でひいちゃったらほぼ選択肢はないでしょう。necessary evilだと言うしかない。

そういう意味では、value judgement云々という話が余計&逆効果だったとはいえ、肯定側一人目のスピーチは、「まあ、こんな感じでしょうな」と納得のいくもの。「戦火の中の血みどろの総力戦に兵士も市民もあるか」「軍事戦略上利用されていれば軍事施設と見做す」的思い切りの良い、潔いと言えなくもない展開でした。話の深さは可も不可もなしといったところ。(でもこの話の展開で「マドラッサはテロリスト育成の温床になっている!」とか叫ばれると、まだ幼い児童たちが何十人も爆撃で吹っ飛ぶところを思い浮かべるよね。。。その程度の「軍事戦略上の利用」でも兵士なみに見做されるなら軍政下の日本や現在の北朝鮮のプロパガンダに影響されている国民は全員老若男女健康なのも病弱なのも皆十把一絡げに攻撃対象になるだろ。広島・長崎万歳状態かよ。。。と正直ヒキましたけど。)

"Fog of War"のマクナマラの「戦争を早く終わらせるため、そして味方兵士千人の命を救うために、何十万人もの市民を空襲で殺したり原爆を投下したりするのは本当にproportionateと言えたのか」という疑問と対極にあるスピーチだったと言えるでしょう。謂わばレメイ将軍の役どころですね。まあその役どころ引いちゃったんだからその役に徹するしかないよね。(その前に引き当てない方法もあった筈だが。。。)

ちなみに私は1AにMatter 30, Manner 31, Method 14の合計75点をつけました。Methodの減点は「value judgement debate」&「last resort」という逃げに走ってclashを避けているケースセッティングのため。

ここまでは見られたんですよ。問題はこの後。

  1. 「戦争で家族も友人も財産も、全てを失った人が魂の救済を求める時、最も神を必要とする人間から信仰の場を奪うのか」というOppに対する2A「アイデンティティは宗教以外でも構わない。家族を亡くしたなら学校にアイデンティティを守ってもらえば良い」意味不明。
  2. 同様のポイントに対する3A。「1)祈るのは教会でする必要ないだろ。自宅で祈ってろ。2)教会じゃなくて学校で十分。3)俺らがカウンセリング提供してやる。」
  3. 「人々の崇拝の対象を奪うことは、人々を怒りと復讐心で団結させ戦いを激化させ、平和を遠のかせるだけだ。だからこそマッカーサーは天皇を殺さなかった」というOppに2Aの台詞「天皇はmilitary targetじゃない」意味不明。
  4. 「祈りの場は人々の精神性の支柱であり記念碑であり心の平穏の場である」というOppに対し「記念碑だって何処だって良いだろ。病院でも記念してろ」という3A。

などなど、耳を疑う発言が出るわ出るわ目白押し。
(但し、3Aのスピーカからは「そういうことが言いたかったわけではない」と聞きました。本当は何と言いたかったのか聞いてみると実際に口にしていたのと随分違うことな印象を受けましたが。。。でも言ったことだけを見たら相当ヒトデナシだと思う。)

この「教会がダメなら○○でも代わりにしとけ」発言の連続に正直席を立ちたい気持ちでした。。。

家族の代りに学校、とか、
教会の代りに自宅、とか、
記念碑の代わりに病院、とか、

①意味が分からない
②凄くinsulting

これを大した説明なく、ただナンバリングしてドライに次から次と言うんだわ、また。共感する気持ちといったものが殆ど表現されない。

そうじゃないでしょ。
代替品をあてがえば良いっていう話じゃないでしょ。

こういうこと言える人は、一度韓国の歴史建築に行って何回破壊されて何回再建されてるか説明書きを読んでくるといい。清水寺は爆破するけど代わりに京都の駅ナカにコミュニティーセンター作ってあげるからと言われて納得すんのか考えたら良い。

もしくは、パレスチナ紛争は手を尽くしたけど解決しないから最後の手段として争いの原因になってる嘆きの壁や生誕教会、岩のドームなどを全部爆破しよう、代わりに各グループの領地にメモリアルセンター作るからさ、とか言ったら納得してもらえるか。

お宅の息子を牽き殺しちゃったけどこの子代わりに養子にさせてあげるからさ、と言われて納得する親がいるか?君のおじいちゃんの形見の腕時計を捨てちゃったけど代わりを買ってあげるよ、と言われて納得するか?

人が愛着を持っているものに代替品はない、代替品について口にすること事態が侮辱的だ。そんなこと小学生程度の社会性でもあれば容易に分かるはずのことでしょう。

ましてやお気に入りのバッグとかではなく、人生に絶望した人間にとっての魂の救済の場について話しているわけでしょう。何処でも誰でも代わりになれるわけでないことくらいわかりそうなもんだ。

私自身は無宗教ですし、神に魂の救済を求めたことはない不信心者ですけれど、戦火の中ですがれるのは神だけという状況にも無縁ですけど、お墓参りくらいはしたことありますし、あれだけ皆が目の色変えるのが宗教なんですから、少しは想像したことありますよ。もし私が愛する人がある日突然理不尽な死に方をしたら、辛くて辛くて、「でもあの人の身体は死んでも心も消えてなくなってしまったわけではない。きっとあの人は全知全能な誰かに善い人だったと認められて平和で幸せな天国で私を待っているんだ」と信じたくなるかもしれない。「どうかあの人に天国で幸せにならせてあげてください」って霊験あらたかな場所や先祖代々信心してきたご本尊に毎日祈りたくなるのかもしれない。美しい仏像やマリア像やキリスト像の横顔を見つめて「どうぞそのお慈悲であの人を安らかに」と祈るのかもしれない。そう信じるしか、今日や明日を生きながらえる術がない状況というのがあるかもしれない。

また、宗教施設というのはそのコミュニティにとって特別な場所であることも想像はつきます。ルーマニアの森深くに朽ち果てそうな、それでも貧しいコミュニティが必死にお金をかき集めて維持し続けている教会を沢山見ました。その辺りの村はどこも貧しくて、維持が容易でないことが分かりましたけれど、でも放棄しようとはしないんですね。。。中も外も極彩色の古いフレスコ画で、自ら死を選んだ聖人達の死にざまがビッシリと描かれていた。あの暗くて小さな建物の最奥のオルタ―に光が差し込むのを、どんな思いで住民がみつめるのか、全く想像がつかないとは言わない。うちの母も遠方にあった先祖代々の墓を近くに移す時、たまたま気に入って覗いた同じ宗派のお寺に曽祖父が寄進したという記録が残っていて「運命だわ!きっとここなら皆(先祖)も納得してくれるわ」と感激していました。ま、どこの寺でも構わないってわけにいかなくて、何かしらattachmentが感じられないとイヤなんだろうな、というくらいは分かる。

否定側が「戦争で家族も友人も財産も、全てを失った人が魂の救済を求める時、最も神を必要とする人間から信仰の場を奪うのか」と言った時、そういう話をしていたわけでしょう?その時、どの寺でもどの仏像でも良いってわけにいかないんでしょう?ましてや学校の教室で間に合わせて下さいとか言われた日には。。。常識で考えて、そういうもんじゃないでしょう。

「否定側はそこまで説明しなかった」という反論も聞くんですけど、「人が愛着を持っているものに代替品はない、代替品について口にすること事態が侮辱的だ。ましてや信仰の対象とまでなれば尚更だ。モハメットに破門されたから今日からシッダールダにしようってわけにはいかない。」という程度のことを説明されなければ分からないAverage Reasonable Personってどんなよ。赤ちゃん(ほぼTabla Rasa)なのかよ。ごく普通の人としての心はそこにないの?本気で学校や病院で事足りる可能性と五分五分だと思うわけ?いつもの深い信仰心とその人柄で長年を共にしてきた神父さん/お坊さんの代わりを占領国が派遣してくる見ず知らずのカウンセラーが務められる可能性が五分五分だと?本気で思うの?人間としての肌感覚はそこにはないの?

そうではないでしょう。
代替品をあてがうから良いだろってことじゃない。

私が肯定側からの返答として納得がいったかもしれない話としては、例えば以下のような返答があり得ると思います。

「どれだけ残酷なことかということはわかります。死人に鞭を打つような行為だということは承知している。それでも、敢えて、今それをしなければ、同じように家族も友人も財産も、全てを失って絶望に沈む思いを彼らの子供たちにもさせなければならなくなるんです。」

実際、肯定側もReplyはそういう路線でした。
だから私がグロテスクだと感じたのは要は2Aと3Aなんですよね。。。
ホント一体どういう感覚なのか、私には理解できません。

恩師の言葉に「人間は優しくなるために学ぶんだ。学問の目的は優しくなること。」というのがあるんですが、私は勝手に学問をディベートに置き換えています。人の心を失ったディベーターは正に凶悪なソフィスト。このブログでは再三出てきているテーマですが、ディベートをすることで人としての心を失うならディベートしない方が良いと思います。冷血漢な雄弁者になることが称賛されるコミュニティなら私は所属したくありません。

久しぶりに。【Vol.2】

早くも面倒くさくなってきた。。。
しかし、こういう機会に書かないと後で何回も面倒な思いするしな。。。
一回書けば何回も使えるんだから(Extra-Topicalなケースの問題点も一度ここに書いたらもう説明せずに済むようになったじゃん)。。。頑張れ、自分。

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2. 【技術編②】逃げとしての《This is a value judgement debate》
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この台詞の使用は2種類に分類されると思います。

(1) 「肯定側と否定側がGoalを共有しているタイプのディベートではありません。(つまり普通のディベートです。)だから、ProcessだけでなくValueの吟味もしっかり行ってください。」という意味。

前回の投稿に、PolicyなしのValueディベートなんてないし、ValueなしのPolicyディベートなんてない、と書きましたが、後者については、「Valueについては両サイドに全く意見の相違がない」という希なケースもあります。

例えば、炭素税導入のディベートで、肯定側も否定側もCO2削減が最優先課題だということで同意していて、あとはどの削減方法が最も有効に削減できるかについての意見の食い違いだけという場合。例えば、消費税増税で、肯定側も否定側も景気の回復が最優先課題だと同意していてあとはどうやって景気回復するのが早くて効果的かという点だけという場合。などです。

この希なケースでは、ディベートの焦点はValueから離れProcessに収束してきます。炭素税導入でCO2が増えるのか減るのか、消費税アップで景気は上向くのか下向くのか、そこのみを争うことになるわけです。(この手の論題はしばしば「悪い論題」とされますので、やっぱり聞き手はValueとProcessの両方を聞きたいと思っているんでしょうね)

で、あたかもこのような特殊な場合かのようにプロセスばっかり重箱の隅をつつくように吟味する審査員がいると普通のディベートの時困るので、もしくは最初からValueについて両サイドが大きく見解を異にする確率が高いと予測されディベートのメジャなclash pointがValueになるだろう時、「これは価値観が争点になるディベートですよ。(プロセスばかりじゃなくて背後にある価値観にもよく目を向けてね)」という意味で「This is a value judgement debate」と言う、ということが考えられます。

これは至極、至極、まっとうな使い方です。

さて、もう一種類。

(2) 「うちのチームの意見だけ考慮して、相手チームの議論は無視してください。」という意味。

これが昨日の決勝のタイプ。ダメダメなパターンです。

「もし全部できうることを手を尽くして、それでも他に戦争を終わらせる手がなくて、毎日大量の一般市民を含む死者が出ていて、そんでもって一般市民を殺せば戦争が早く終わるとしたら、そしたら一般市民を殺しても良いでしょ?」
「え?それって具体的には例えばどこ?いや、具体的にどこかは関係ないんだよ、これはvalue judgement debateだから。」

というのが昨日の肯定側。基本的に。

これはヘテロな女に「もし世界中に男が僕しかいなくなって、それでもどうしても結婚したくなったら、そしたら僕と結婚してくれるよね?」「え?どうして世界中の他の男がいなくなったのか?それはいいんだよ、もしもの話なんだから。で、どう?結婚してくれるよね?」と聞いているようなもんです。

うざい。

そもそもの仮定が非現実的で自分に都合よく極端に走っている。質問自体を「No」と答えられないように設定しておいてわざわざ聞いてくることにどんな意味があるというのか。

否定側チームが議論することができないように、ほぼtruismになるような架空の設定を捻くり出すことで勝利を確実にしようとする肯定側のセッティング。こういうのはチキンで姑息なチームのすることです。

で、自分たちのセッティングのあまりの架空性・非現実性を棚に上げるための言い訳として言われる「This is a value judgement debate」。こちらには全く正当性がありません。

(1)の使い方であれば、まあ良いんじゃないですか。まともなジャッジにはわざわざ言う必要もないようなことですが、心配なら言えば。

でも(2)は駄目です。屑です。


久しぶりに。【Vol.1】

最近ノータッチだったブログですが、久しぶりに書きます。
というのも、GeminiGFを見て色々思ったこととか書かないでいたら早くも忘れ始めたから。いかん。

昨日は久々に学生のディベート大会の審査をしましたけど。。。良いスピーチも幾つか見れて嬉しかった反面、机に突っ伏したくなるスピーチも幾つかありました。(どちらでもない惜しいくらいのスピーチもありました)

良かったスピーチとしては、R1のN君のスピーチ。あれは非常に感心した。あとは決勝のS君、U君。あれもなかなかできないスピーチだったと思う。良いスピーチを聞けると「明日月曜日なのに夜遅くまでやるなぁ」とかいう気持ちは吹っ飛んで「来て良かった。聞かせてもらってよかった。このスピーチだけだったら視聴料払える」とか思うわけで、彼らのスピーチは社会人が休みを削っていく動機づけ的には重要だなぁと思います。

まぁ、とりあえず久しぶりに決勝の感想文。長いので論点ごとに分けましょう。これはまず一点目。

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1. 【技術編①】Value Judgement Debateという幻想
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ホントValue Debateという幽霊がなかなか消えませんねー。
いまだに、現実の特定の状況背景(Context/Process)や実現可能性(Feasibility)とは関係なく、価値観/倫理上の原則論のみの是非を議論すること(Value Debate)ができる、と信じている人がいるようです。

古くはCEDAとかValue Debateを標榜していたわけですが、時を経てその路線は放棄。Policy Debateに戻りました。もう一つのウリだったCross-ExaminationはNDTも取り入れたので、結局CEDAとNDTにはもう違いがない、というのが私の理解です。

何故CEDAがValue Debateを放棄したのか。それは単純に純粋なValue Debateなんてものは存在しないからです。良いディベートではContext/ProcessとValueの両方がバランス良く語られます。片方だけなんてことはできない。

(「地球はいついつできた」とか「邪馬台国は九州にあった」といった事実関係の決着のみを争うディベートはこの限りではありませんが、ま、それはValue DebateやPolicy Debateとは関係ありませんね。事実関係を争うことを焦点にした競技ディベートは現存しませんし。)

例えば、「贅沢は良いことだ」というValueの正否を問うディベートをしたとして、審査員は何を基準に審査しますか?「贅沢は心を豊かにする」「贅沢は人を傲慢にする」とかいったフワフワした理由づけのみ提示されたところで、どちらの方がより重要な決定要因となるかこれだけで決められますか?

ここで言う贅沢というのが借金をしてまでご馳走を食べることなのか、サラリーマンがGWに家族旅行をすることなのか、ビジネスマネジャーが飛行機のファーストクラスに乗ることなのか、食後の一杯/一本のことなのか、とあるカップルが婚約指輪を買うことなのか、研究者が蔵書を沢山抱えることなのか、ギリシャが公務員の雇用を守ることなのか、バスタオルを毎日洗濯することなのか、はたまた注射は使い回ししないという話なのか、有給休暇を取るという話なのか、動物実験をバンバンやるという話なのか、画家が画材を惜しまず何度も試し描きすることなのか、所持金5000円の学生がギャンブルに一千万投じることなのか。。。

「贅沢」が何を具体的に意味しているのか、誰が何をすることの価値なのか、から離れて、ただ「贅沢が良いこと」かどうかを決められますか。

「人を殺すのは悪いことだ」という価値感の是非を、「殺人鬼に襲われてもみ合いの中で自衛しようとして殺してしまう殺人なのか、快楽殺人や利己的な欲望のための殺人なのか、わからなくて決められますか。

具体的な文脈なしに原則論の是非だけを議論/審査するなんてことは不可能なんですよ。

同時に、全てのPolicy判断にはValue Judgementが伴います。大学がプールを新設するべきか考えるにあたっては大学が「学生の福祉・健康」「学生の課外活動」「水泳競技を通じた大学の広報」「代わりに予算を充てられる筈だった図書館の増築の断念」「管理費用の増加」「安全面でのリスク」といった様々な要素が並んだ時、結論を出すには重みづけを行わなければならない。そこでは必ずその大学のvalue judgementが生じます。その大学にとって大切なことは何か、議論せざるを得ないんです。

PolicyなしのValueディベートなんてものは存在しないし、Value抜きのPolicyに関するディベートなんて成立しない。value judgement debateというのは(後述の特殊な文脈での使用を除けば)意味を持たない言葉なんです。

古い方の中には、「でも《パーラ》はValueなんでしょ?」とか思う方もいらっしゃるんでしょうね。

1980年代~2000年代初頭の日本の即興性ディベート(KUELや初期のJPDU)のイメージが残る方たちに「《パーラ》はディベートじゃない」と言う人たちがいるのは、この辺がまーーーったく分かっていない酷い論題が当時の《パーラ》の大会で続出していたからでしょう。「米よりパンの方が良い」だの、「恋人よりペットが良い」だの、屑な論題が大量にあったのです。

これをまともなディベートにするには、「米よりパンの方が良い」を「日本は農産物の輸入規制を撤廃するべき」に、「恋人よりペットが良い」を「市町村/国は独身者向けに集団お見合いの主催から保健所での遺棄された動物とのマッチング補助に予算を振り替えた方が良い」に、ディベータが勝手に置き換えてやらなければいけなかったのです。それを上手にしないとまともなディベートにならないということに気づけ、実行できるのは当時の最も優秀なグループのみだった。論題を曲解できることが《良い》ディベータの証というふざけた闇の時代だったわけです。Titech Cup前に少し話しましたが、この世代のディベータが最近の大会に来て論題の解釈に失敗しがちなのは、この時代の経験が染みついているからだと思います。

当たり前ですが、ディベータが屁理屈こねて論題を曲解しないとまともなディベートができない論題が頻出するというのは悲劇的なことです。全くもってばかげていた。結局Policyにしないとまともにディベートできないんなら最初からPolicyの分かる論題を出せば良い話なのです。

当時私が「こういうアホな論題はもうやめましょう」と何回言っても先輩も同輩も後輩も皆頑として聞かなかった。当時のKUELのテキストがご丁寧に、「論題には①事実論題、②価値論題、③政策論題の三つがあり、それぞれに話すべき内容が違います」と解説していて、皆さんそれで「価値論題と政策論題のディベートは別のもの」と思い込んでいるわけです。

最近の日本の学生はKUELのテキストの代りに国際大会での成功者の話を拠り所にするようです。昨日も「でも世界チャンプがvalue judgement debateって言ってた!」と私に言った学生さんもいましたが、世界チャンプの言うことなら何でも鵜呑みにするというのはダメだね。盲信して自分で考えてない点は全然変わっていない。

こう言っちゃなんですが即興性ディベートは継続的な理論構築を全く経ていないため、本当に胡散臭い定説が平気でまかり通っています。きちんと吟味されたことがないんですね。世界のトップクラスの選手や審査員でさえディベートの理論や審査方式についての論文を一件も読んだことがない状態で「我こそエキスパート」と自負しているのですから嘆かわしいことです。

実は世界大会も上記のKUEL/JPDUと同じ失敗をしてるんですね。単に日本の方が少し遅れているだけで。昔は「The glass is half full」だの「Machiavellism is the way to go」といった極端なオープン論題が出ていて、コミュニティの《トップ》のディベータは「Machiavellism is the way to go」を「政府はテロとの交渉に応じるべきだ」というPolicyに解釈し直してディベートしていた(WUDC1994GF)。そのアホさ加減に漸く気が付き、現在では最初から特定の政策を明確に示唆する論題ばかりが出ているわけです。

そういうわけで、CEDAを見ても、KUEL/JPDUを見ても、WUDCを見ても、要はValueのみを議論することなんてできない、というのがこの30年で学習されたことなわけです。そしてそれは理論的にもあちこちに書かれている(私よりずっと上手く説明している論文が幾つもあると思いますから興味のある人はそっちを読んでください)。

にもかかわらず、今でもvalue judgement debateというフレーズを使うケースには二種類あります。
片方は至極まとも(前出の特殊な文脈)で、もう片方は単なる屑です。
察するに前出の世界チャンプは前者の意味で使ったのでしょう(というかそう思いたい)。

ここから先は次の投稿へ。