Friday, September 15, 2023

ディベート邂逅30周年記念: ディベーター列伝1 嶽南亭 渡辺徹さん

 <ディベート邂逅30周年記念: ディベーター列伝1 嶽南亭 渡辺徹さん>


というわけでディベート始めて満30年を迎えました。


30年のディベート活動の中で邂逅した人、「なんだこの人、すごすぎる!」と思った思い出のディベーターを紹介するというのを企画したいと思うんですが、自分のことも書いていいこと悪いこと色々ある中、他の方のことを紹介するのはどこまで許されるのか、、、悩むところです。でも紹介したい素敵な方達がいっぱいいらっしゃるのも真実。。。ぼちぼち着地点を探っていくようにしたいと思います。


で、第一弾、お一人目は「渡辺徹さん」です。


これをお読みの方の中にご存知なかった方もいらっしゃるかもしれないと思うのですが、そして私もようやく実感し始めたところなのですが、二年前に亡くなりました。日本ディベート界は巨星を失いました。三周忌ということで不肖の後輩の目から見た渡辺徹さんをご紹介したいと思います。


実は二年前にも書こうとした(リビングにホワイトボードを導入したという投稿をした際に「本当は他のことを書こうかと思った」と言っていたのは徹さんの件でした)のですが、上手く言葉になりませんでした。今回こそは。


徹さんと言えばディベート甲子園という印象をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。実際は、私の知る限りでは徹さんは驚くほど幅広いフィールドをお持ちの方でした。日本語でも英語でも、事前リサーチするタイプでも即興でも、学生の集まりも社会人の集まりも、どこに行っても会えるという方は5人に満たなくて、そのお一人が徹さんでした。唯一徹さんが未踏破だったのが国際大会だと思います。お誘いしたことはありますが、本業でご多忙な中当然無理なことでした。でもそのくらい、徹さんは非常に懐の広く深い方でした。なんだかものすごくとりとめのない話になってしまったのですが、思い出話からそのお人柄の温かさが伝わると良いなぁと思います。


1.邂逅


私が初めて徹さんに会ったのは確か1995年、高校の先輩である林田さんの試合を見学しにNAFA系の大会にお邪魔した時だったと思います。中3でディベートに出会った私は高校でESS(英語会)に入ることでディベートを続けていました。ディベート歴3年目、既にディベート馬鹿化していた私に大学生の試合を見に来たらと声をかけて下さった先輩には感謝しきれません。当時のNAFA系の大会って割と会場がピリピリしていました。休み時間は正しく休み時間な即興系とは異なり更に準備ができてしまうだけにどの選手も準備に余念がありません。一年生大会であれば二年生達も必死にサポートしていたりしますし、三年生達はジャッジに行っていたりします。忙しそうな大学生たちの邪魔をしないように小さくなっていた友人(長濱さん)と私に声をかけて下さったのは確か更に上の先輩の岡安さんだったか黒川さんだったかどちらか(ひょっとしたら両方)であったと思います。「ちょっとおいで」と言われて連れられた先には、殺気立った会場で場違いに典雅な雰囲気でニコニコと扇子を扇いでいる方がいました。それが徹さんでした。当時すでに「KESSの大先輩」であった渡辺さんに対して自分を「新しい子です」と紹介されて目を白黒させながら「まだ大学生じゃないのでまだKESSに入らせてもらったわけではないんです!」と恐縮する私に、徹さんはすぐ後輩になるよ、塾内高校のディベーターならもう後輩みたいなもんだよって笑っていました。


2.ディベートとそれ以外と


その後の25年間に徹さんとご一緒したディベートの場は、初めてお会いした当時は想像もつかない程多様かつかなり頻繁でした。徹さんがいつから私のことを<スズマサ>って呼ぶようになったんだったか定かではありません。でもかなり早いタイミングから<スズマサ>呼びされていたような気がします。JDAの日本語大会でもお会いしました(対戦もしたかも)し、ESUJの大会でもお会いしました。明るい選挙委員会主催の若手政治家と大学生が一緒にチームを組んで試合した時は仕掛け人でいらしたんじゃないかと思います。その内JPDU系の大会にも来ていただくようになったし、逆に私が甲子園の方に顔を出すようにもなりましたし。高校生の英語の大会でも一緒に審査する機会があったし。やたらと特定のフォーマットやスタイルにこだわりの強い人や、すぐに優劣をつけたがる人が大半な中で、徹さんはそういう方ではなかった。<スズマサ>を誰かに紹介して下さるときは、いつも「KESSの後輩」って言葉が最初に出てきましたけれど、正直徹さんと<スズマサ>の接点はほぼKESSと関係ありませんでした。でもそんなことには頓着なさらない方でした。その後、それこそ徹さんに私を紹介して下さった先輩達がKESSから分離独立するからついてこいと言ったので私もKDSに移籍しましたが、徹さんには一切非難されませんでした。私にとって、「KESSの先輩」を大きく超えた「大先輩」でありながら、やはりどこかおおらかな良い意味で徹さんの言う通り「KESSの先輩」でした。


そんな徹さんが私の中で格別な先輩になったきっかけは主に二つじゃないかと思います。


1つは徹さんのディベート観があまりにも魅力的だったこと。普段の言葉や態度から分かってはいたものの、そのことを再認識したのはある年に徹さんがした甲子園決勝の審判講評でした。内輪では有名な「ディベートって」というフレーズの後に徹さんが言ったのは、「皆で力を合わせてより良い未来を選び取るためのもの」だったと記憶しています。ああこの人の信じるディベートが好きだ、と心から思いました。ぶっちゃけ、政治って究極的に長いディスカッションみたいに見えます。前にスピーチが足し算、ネゴシエーションが引き算、ディベートは掛け算でディスカッションは割り算、と書いたことがあります。ディスカッションはディベートの集合体だけどネゴシエーション要素が強い、と。長いディスカッションになると更にディベートよりネゴシエーションになる気がします。なので、政治の世界では平場(ディベート)の俎上に上がる言葉にどれだけ意味があるのかなぁとつい思ってしまいます。徹さんという政治のプロが、子供達がディベートを学ぶことに夢を見続けていたことを、ちょっと奇跡のように感じます。すごい強さだな、と。私が徹さんを思い出すとき、あの言葉、ディベートは皆で力を合わせてより良い未来を選び取るためのもの、がいつもあります。


2つ目は、実は徹さんがIDC(Intensive Debate Camp)立ち上げの時に応援してくれた数少ない人だったことです。私はディベートとなるとこだわりが強すぎてちょっと暴れん坊なので、立ち上げた謎企画もたくさんありましたし、その手の企画(KDSへの移籍も含めて色々...)は大体既存の団体や組織に拒否反応を示されるものが多かったように思います。大学生ディベート祭(NAFA、CODA、JPDUを一度に集めるというイベント)とか、もう参加して下さった当時のNAFA会長(明海の杉田さん)には足向けられません。あの頃はこの3者の中で最も老舗だったのがNAFAで、残り二つは誕生直後という状態でした。そんなわけで私のディベート人生、揉め事を起こしているのが平常運転という情けない面があります。中でもひどく叩かれたのがIDC(Intensive Debate Camp)でした。


私が初めて国際大会に参加した当時(1998年)、日本のチームが国際大会ではさっぱり勝てなくてですね。300チーム中下位30チームに全日本チームがいる、そういう状況でした。下位10%に全員って。。。下位10%は日本チームか途中欠場かって状態でしたから。海外のチームには「そもそも勝ちに来てるわけじゃないんでしょ」だの「世界大会を見れれば満足なんでしょ」だの言われるし、日本の参加者側の言葉にも負け犬根性があまりに色濃かったし。私本当に腹を立てまして(笑)。自分じゃなくても良い、とにかく日本から勝てるチームを輩出するんだって思いこんじゃったんですね。で、海外からコーチを招聘してきて2週間少人数グループで特訓してもらう缶詰合宿をしよう、参加したい日本の子は全員受け入れよう、その上で教員学生比率を保てる人数のコーチを呼ぼう、とそう思ったわけです。なんであれにあんなにJPDUが反発したのか今となっては笑い話みたいな話なんだけど、これがまあ激しい妨害工作を受けまして(おかしいな、曲がりなりにもJPDU初代代表だったんだけどな、私)。揉めに揉めて。絶対に参加するなってメンバーに厳命した大学サークルなんかもあったそうで。「なんでだよ、日本チームに勝たせたいって思わないのか?意味わかんねぇ。」っていうのが当時(2003年)も今も単細胞な私の感想だったんですけど。でまあとにかく開催するのが大変だった。JPDUだけでなく他のもっと大人な団体なんかにも、まあ私のやり方がまずかった面もあり相当そっぽむかれまして。その時に助けて下さったのが徹さんと海老原さん、そして井上奈良彦先生でした。あの方達がいなかったら今に至る日本勢の活躍なんてきっとなかった。そこからIDCを毎年開催して、日本チーム初のESLブレイク、審査員ブレイクにこぎつけた2006年、EFL決勝進出を果たした2007年、EFL優勝の2008年(この辺りの年号ちょっと記憶が精確じゃないかも、今度確認しておきます)、とどんどん日本チームが勢いをつけていったのだと勝手に自負しています。もし2003年に開けなかったらきっとその後も開かれなかったと思います。国内の些末な見栄や意地の張り合いが凄すぎて狭苦しくなっていたところに風穴を開けられたのは、ホント徹さんを始めとした少数の後押しして下さった大人たちのおかげでした。


同時に、「そもそも英語が母語じゃない者には勝てないルールになっている。公平なルールに変えてもらわなきゃいけない」と私は思ったんでした。でも単なるディベート馬鹿にはどうやってそんな政治活動をして良いのかさっぱり分からない。失敗を繰り返しながらああでもないこうでもないって言って評議会で何年も試行錯誤を頑張ってみて、うまくいったうまくいかなかったというのをいつも徹さんと海老原さんに相談していました。徹さんは「国際捕鯨委員会並みにドラマチックだ!これぞ政治!」ってめっちゃ楽しそうに相談に乗ってくれました。ルールや慣例の変更はIDC以上に大事でした。そのことを大半の仲間が分かってくれない中、徹さんがいなかったら、私はあそこまで頑張れなかったように思います。だってその部分を評価してくれる国内の人は、その恩恵で勝てたと思われる選手にすら当時本当に少なかったから。国際大会に一度も言ったことのなかった徹さんが実は日本勢の国際大会活躍の縁の下の力持ちだったんだなんて、きっと知る人は殆どいないんです。


その後、ひょんなことから日本語で即興のディベートをする社会人サークル(?)的なものを徹さんと塩崎さんが立ち上げる時に呼んでいただいて、徹さんのディベートする姿を直接見れる機会がそれまで以上に増えました。英語の大会だと参加チーム数が多すぎてたまにしか対戦はできなかったんですね。それが小さな集まりだとしょっちゅう見れる。楽しかったです。


徹さんのスピーチは、いつもユーモアに溢れていました。いつも笑顔でした。聞いてる方も笑顔になるようなスピーチが本当に多かった。勝手に自分と似てると思ったところがあって、それはタイムマネージメントがちょっと苦手なところ。エンタメ性を狙ってしまうせいでちょっと形が崩れやすいところ(笑)。あはは、徹さんごめんなさい。でも、私ほどノーコンじゃないけど、ちょっとリスク背負って限界を攻めることがあるスピーチも多かったですよね?大先輩が、うまくいったーとかあれはダメだった―とか、普通に平場で感想戦を交わしてくれるのが凄く凄く楽しかった。偉い人なのに、簡単に「一介のディベーター」に戻って見せてくれるところが本当に素敵な方でした。


一度、ちょっと変わったオープン戦に出たときは、私から不遜にもチーム組んでくれませんかってお願いして。丁度忙しいからその日程だと選手としては出れないけど、でもチーム名はつけてあげるし、準備も一緒にやってあげるからって言って下さって。あの時もらったチーム名は「Queen's Gambit」。徹さんといえば扇子とか落語とか俳句とかちょっと和なイメージなのにチェスっていう意外性にビックリした覚えがあります。


徹さんとするディベート談議は、ディベートの中身の話も、ルールや技術面についての話も、政治っぽい話も、ディベートにかける夢の話も、何でも本当に楽しかったです。その時間が大好きでした。いつも徹さんが質問をぶつけてくるのに、答える私がちゃんと徹さんとのやりとりから教わってて。徹さんはちょっとプラトンから見たソクラテスみたいでした。


2008年には私の結婚式/披露宴にもご出席いただいて。結婚して最初に住んだ遠い町田の狭いアパートまでわざわざ来て下さって、学生たちと混じってワイワイして下さったのが懐かしいです。私はキッチンの住人になりかけていたのですが、最後の品であるカキフライを揚げて持っていったら、「よし、これだけ食べて失礼する!」っておっしゃいました。あれは、ご多忙で本当は長くいらっしゃれない中(あとニコチン切れで苛っとする中)、私がキッチンから出てくるのをちゃんと待っていてくださったんだろうと思います。揚げたての熱いのを二つ、ひょいひょいって頬張って大急ぎで帰っていかれました。


そういう気づかいをサラっとする方でした。煙草も、飲み会とかの前後にフラって消えて戻ってらっしゃるんだけど、ある時「ここで吸っていただいて私は構わないですけど」って言ったら「え?スズマサはそうだったのか」って驚いていらして、ああ今まで一言も言わずに気遣って下さってたんだとようやく知ったこともありました。


ご家族の話をされる時の笑顔は格別で、すごく幸せそうでした。照れて愚痴のふりをするようなことがなくて。ご家族への愛情が率直で。ぶっちゃけ当時のディベート界では珍しかったんではないかしら。そんなところも含めて、ロールモデルな先輩でした。


3.お別れ


実は、今のところに引っ越す前、子供が生まれてからも私の自宅にお呼び立てしてディベートの会議をしたことがありました。かなり少人数のワーキンググループで集まって。これまた母一人子一人、しかも子は赤ん坊という状態だったからまたもや狭いアパートで。家も育児もディベートの計画も私の頭の中身も何もかもがとっちらかっていて。その会議の延長上で実は徹さんとケンカ、、、ではないんだけど、私が徹さんの助言を聞かなかったことがあって。徹さんは、「スズマサ、とにかく生まれたばかりの子との生活に今は合わせろ。いつもだったらできることができなくなってるぞ。」「スズマサ、おじさん達とはケンカするな、おじさん達の嫉妬や恨みを買うな」って一生懸命言って下さったけど、私はどうしても言うことをきかなくて。ここで曲げたら徹さんが可愛がってる<スズマサ>じゃないじゃん、みたいな気持ちもちょっとあったりして。私を助けるために巻き込まれてくれたのが徹さんだったのに、なんだか徹さんが大人の汚さを子供な私に分かれって言ったような気になってしまって。結果的に私が暴走してうまくいかなくて、きっとたくさん迷惑をかけました。私は徹さんは今回も味方してくれるはずって勝手に思い込んでいたところがあって、言うこと聞かなくてやらかしたのは私自身なのに、それ以降何だか妙に疎遠にしてしまいました。あの時徹さんは、「落ち着いたらすごくおいしいランチ食べさせるから」って言ってたな。


その後それでも何回かディベート会場でご一緒する機会はあったけど、四人の子供が全員生まれた頃だったかな。ディベート甲子園のジャッジルームで徹さんから話しかけて下さいました。決勝の審判講評の内容について徹さんから私に相談するっていう体で仲直りしようよってジェスチャーをして下さったんだと思います。あの時、強張った顔でそっけないコメントをしてしまった自分を、今となっては後悔しきれません。その次にお会いした時に、あれ?ちょっとお痩せになったかなって思ったのに、そのままで。そしたらコロナ禍がやってきて。大丈夫かなって心配だったのにおめにかかる機会がなくなって。大会は軒並みオンラインで。オンラインだけど審査員のメンバーにお名前があることに勝手にホッとして。そしてそのまま訃報を聞きました。バカでした、私。本当にバカでした。まさか50代の内に亡くなってしまうなんて思いもしなかった。完全に反抗期にひっこみがつかなくなって甘えたままでいる子供みたいな状態でいたせいで徹さんにお別れが言えなかった。後悔してもしきれません。徹さん、いつも通り「バカだなぁ、スズマサ」って笑うかなぁ。


今の家に引っ越してからはお招きする機会がありませんでした。

我が家の住処の変遷をご存じな徹さんはちょっとだけ「どうしたスズマサ」って驚かれたかもしれないな、と思ったりします。

子供達に挨拶させて、ちょっとだけ上達した料理を出して、徹さんがディベート界の未来を語るのを聞かせてもらう、、、そんな時間を頂戴しそこなってしまったんだ、とようやく思います。


授業の中で、学生さんの質問への答え方に迷った時、よく徹さんの言葉を思い出します。

徹さんに会いたいなぁ。「バカだなぁ、スズマサ。あなたは本当に変なところでバカになるよね」ってまた言ってもらいたいなぁ。そんな言い方はしなかったかなぁ。わかんなくなっちゃったから直接聞きたいなあ。

せめて、「皆で力を合わせてより良い未来を選び取るための」ディベートが伝わるような授業を、徹さんが大事にした若い人たちとし続けていきたいなと思います。


嶽南亭 渡辺徹さん、忘れられないすごいディベーターでした。