Saturday, July 28, 2007

千島の謎 QF: Mystery of Kurile Islands

(English version is following the Japanese one)

準々決勝. 論題がなんとロシア!(Yes!!Finally!)
That we should suspend Russia's G8 membership pending democratic reforms
和訳すると,「民主化が遅れているロシアのG8参加権を停止するべき」ですかね・・・?

そういうわけでロシアの政治について聞けるという活気的な試合でした.
皆普段あんまりロシアについて勉強してないから,
こういう機会に勉強する切欠を貰うのは良いと思います.

まあそれは良いのです.
審査結果に影響しないようなマイナーな例だったのですが,否定側がチョロっと言いました.

"Russia and Japan are disputing over Kurile Islands"

......???
なにぃ?

ロシアと日本はいつから千島列島をめぐって領土問題を抱えているのですか・・・?
(Kurile Islandsの和名は千島列島ですよね?)
いや,より正確には,ロシアと日本は「今でも」千島列島を取り合っているのですか?

・・・謎です.

私が小学生の時は,日本はサンフランシスコ条約で千島列島は放棄したが,
北方四島(国後島,択捉島,色丹島,歯舞諸島)は放棄していないはず.
よって今もロシアが占拠,返還を要求中,と習いました.

教科書の表記は流石に多少日本よりの解釈ではあるだろうと思いましたが,
うーん・・・・・北方四島は英語で何ていうんだ??

日本側の解釈はここで読めます.
(某スキャンダル以来このトピックは外務省よりウィキペディアを読むことにした私)

詳しい年表はこちら.(1956年に注目.びっくり)

ロシア側に近い解釈はこちらで読めます.

……結論.
1) とりあえずKurile Islandsと呼ぶのが絶対に間違いとは言えない.
2) が,ロシア側の主張をベースにした呼称になるので公平とは言い難い.
3) 現状のままだと,これについて英語でディベートするのはかなり困難.
4) 上のサイトにあるようなことを英訳した方がいい.(面倒臭い)

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Quarter Finals got very refreshing motions.
On Russia!!! (Yes, Finally!!)
Motions of the round I watched was...
That we should suspend Russia's G8 membership pending democratic reforms.

Because it seems debaters are not encouraged to learn about Russia much,
I was glad that at least Australasians took an action to do something about it.
So, I was fully enjoying the round hearing about Russian politics.

But there was a very mysterious statement by the negative team.
It was a merginal example in the round and didn't affect my decision much.
But they said "Russia and Japan are disputing over Kurile Islands"

......?? Really??

Since when Russia and Japan are disputing over Kurile/Chishima?
(Kurile in Russian and Chisima in Japanese)
Or more correctly are Russia and Japan "still" disputing over Kurile/Chishima?

While my primary school days, I was taught that Japan gave up Chisima(Kuril) Islands after WW2, but didn't abandon the Northern Territory (Kunashiri Island, Etorofu Island, Shikotan Island and Habomai Islands). And so, Japan is asking Russia to give them back.

I did assume that textbook is based on a biased point of view towards Japan.
But say, how do we call the islands of Northern territory in English to begin with?

So, I looked up.

You can read Japanese version of interpretation here.
(Hey, wikipedia's summary is better than MOFA's now... after that scandal...)

For further chronological table, look at an article here.
(And pay attention on year 1956!!! WOW??? Did you know that???)

And for Russian version interpretation, read here.

To conclude,
1) It is not absolutely incorrect to call them as a part of Kurile Islands.
2) But calling them Kurile already makes you take a biased position towards Russia. (a bit similar to Dokdo/Takeshima issue but this one is even more complicated because Kurile and Chisima may not mean same islands although there are overlaps)
3) So, at this moment, it is difficult to debate on the territorial issue between Russia and Japan in English, the third language.
4) Somebody gotta translate sites above into English. (What a bother...)

Friday, July 27, 2007

決勝を消化する Digesting the GF

遅くなりましたが,宣言どおり「じゃあ否定側は何て言えば良かったんだろう」コーナーへ.

うーん・・・難しいですけど・・・

1. 自閉症を治すのは非常に困難である
2. 治療がかえって患者の負担を増やす
3. 社会からの排斥につながる怖れがある
4. 同じ財源を自閉症のまま社会に受け入れることに使った方が良い

という構成でどうでしょう?
(3に例のフーコーチックな部分を採り入れてみました)

1-3を第1弁者,4のプランだけは第1弁者が軽く触れておいて,
何故自閉症との共存が可能であるかを第2弁者が詳しく述べるという分担でどうかしら.

As I promised, I thought over what kind of alternatives neg could run for.
How about the following?

1. It is extremely difficult to "cure/normalize" autism
2. Treatments rather burdens patients and families heavier
3. Normalization pressure may merginalize autism from society
4. It is better to utilize the same financial source for building social infrastructure to accept autistic ones as they are

What do you think?
(I put the Foucaultistic part into 3)

Perhaps, the first speaker would explain 1-3 and the counter-proposal for 4.
And the second speaker would elaborate how society can coexist with autism and accept autism warmer without normalization.

Thursday, July 26, 2007

[Book] 敗北を抱きしめて embracing defeat

[本] ダワー,ジョン. 2004. 『敗北を抱きしめて(増補版)』. 岩波書店.
[Book] Dower, John W. 1999. Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II. The New Press.

しばらく前の『スター☆スタジオ(Inside the Actors Studio)』のゲストがサルマ・ハエック(Salma Hayek)だった。知的な受け答えとチャーミングさに私はすっかりファンになってしまった。瞳の輝きも生き生きとした表情も気さくさも凄く素敵な女性だ。ラティーノであることが格好良いことになる前の米国で、彼女が女優として活動することがどう難しかったか、英語の訛りがどれだけハードルを上げたかについて聴衆から質問が飛んでも、あっけらかーんと笑いながら答えていく。知的で芯の強い女性だなぁと感心してしまった。

ただ一つ、私には頷けない返答が終盤にあった。それは、「正しければ、必ずそれがいつか「ついに(eventually)」認められて生き残る。」というもの。「正義は勝つ」ってわけだ。 私はそうは思わない。

世の中には正しかった者が死に絶えて忘れ去られたような戦いが沢山ある。
ICJをはじめ世界中が正義はニカラグアにあったと認めても、彼らの破壊された国も経済も人の心も見捨てられたままだ。何の償いもされずただ無視されている。正義の鉄槌だった筈のコソボ空爆が大して正義に適ってはいなかったとわかってセルビアの死者は蘇るのか。絶滅した原住アメリカ人の部族は正しくなかったのか。タリバンに破壊された仏像はいつか遠い将来「ついに」その姿を取り戻すのか。

馬鹿を言って貰っては困る。彼らは正義の下に消えたのではないし、彼らにはNemesisすら微笑んだとは思えない。実に「憎まれっ子世にはばか」っているではないか。正しい者が汚泥と屈辱の中で死に絶えることは確かにある。ざらにある。だからこそ人は今この一瞬の自分の判断を大切するのではないだろうか。

「正義はいつか勝つ(だから今を耐え忍べ)」なんて、
メロドラマティックに酔いしれるのも説教たれるのも無責任極まりないと思う。
村女を火あぶりにして、生きていられたら無実だと言う魔女裁判のようなものだ。
正義は約束されていないからこそ追い求める意味がある。

が、困ったことにディベート仲間にこの手の説教を喰らう頻度は非常に高い。
確かに私はイラチだと思うが15年で遅々としか進まなければ苛立って何が悪い。
一体なんだって未来は薔薇色だと信じられるのか。根拠は何なのだ。
(特にT、読んでるか,ちくしょー。)

大の大人が「正義は勝つ」と言う時のあの途方もない単純さは何なのだ。
Hope is not a strategyって誰の台詞でしたっけ?とにかくその通りだ!!

ことによると、何が正義なのか、を一義的に決めることはできないという良心(その良心は大変尊いと思う)が、母なる自然に任せて生き残ったのが正しいものなのだとか、歴史が裁くのだ、とか思わせるのかもしれない。もしそうならすっとこどっこいな話だ。いつから自然淘汰は倫理と関係があるのだ。(Tよ,君の大好きなクジラは倫理的に腐敗していて邪悪だから絶滅の危機にあるのか?)

ダワーのこの本は誠実な本だと思う。特にその冒頭の「日本の読者へ」の文章を読んで、私は上下2巻にわたるこの本を読む気になれたと思う。


ただ,日本の近代化(特に明治維新)の解釈については異論を唱えたい.明治維新が日本の伝統を捨て軍事に傾倒させた,と言われればまあそうかもしれないが,当時の日本を取り巻いていた状況を忘れているようにも思う.幕府が士農工商エタ・ヒミンの身分制度の基に統治していた時代のほうが「美しかった」とか言うのであれば,下らないの極地だ.ラスト・サムライの世界へ行って来いって感じ.(あの映画はそこら辺苛々しますよね.あれじゃモデルにされた西郷隆盛が可哀想)

ところで,近代日本にとって不平等条約の要は『関税自主権』と『治外法権』だった。私は最近、こういう単語が出てこない大学生と過ごしている。数学や国語力の低下が問題となっているが,できれば社会科教育も改善して欲しいと思う(英語力は急激に上がっていますけどね.凄いですよね).コソボ独立,スーダンやソマリアへの武力介入,南太平洋諸国の治安,日本の憲法論議,米イラン外交・・・国家の主権について語らなければならないディベートは広範にわたる.しかし治外法権という言葉に首を捻る人と国家の「主権」について議論するのは骨である。

Tuesday, July 24, 2007

バイバイ,エンジェル Bye-bye, Angel

笠井潔の同タイトルの小説を読んだ時,その青臭さに溜息をついた時,一体私はどんな貌をしていたのだろうと薄ぼんやりと思う.真面目に考えること自体不可避的に青臭いのさ,と言われればそんな気がしてくる.LBとかそういう風に考えているのかな.彼は読みにくいからな,何とも言えないけど.

今日の試合は投票義務化と階級別相撲.
「この道ーはー,いつか来たみーち」
の割りに意外に楽しかった.
とりとめのないくだらなさ7割,真面目3割くらいが丁度良い.
普段の私なら逆の配分好みかな.
そしてそれはまだまだ青臭いかも.

ルムンバの叫びを1/4くらい観た.
1/4で止めたのは作品が気に入らなかったからではない.
すっかりのめりこみ始めたところで外野に負けた.
外野の野次が私の気力をすっかり薙いだ頃,残ったのは
「コミュニケーションとは何か」という学部1年の授業のような問いだったように思う.

コミュニケーションとは何なのか...
教授が板書した『他者』と書かれた円を思い出す.
ああ,どうも抽象化されていけない.
半分酔っ払った頭ではあるけど,書いておきたいような気もする.
酔ってる時の常で他人様の目に触れることをイマイチ考慮しきらないで書いているので申し訳ない.純備忘録的.

何が問題なのかズバッと書くのは難しいけど,
つまりはコミュニケーションの価値とフェアネスの問題だと思う.

まず師弟関係.
Yちゃんの件に関しても思うのだが師弟のパートナーシップというのは
どこまで「パートナーシップ」と呼べるのか.
師弟関係で捉えること自体がBBの言うとおりinsulting!とも言える.
それは・・・・・・うん,私自身そう感じたものなぁ・・・・・・
これまでに具体例として引き合いに出たのはMNだったわけだが,
もっとコミュニティ全体に一般化して議論すべきか.
Yちゃんのような例はどこに位置づけられるのか.
ていうかTはいつになったらこの師弟関係で捉えること自体が本末転倒という話を分かってくれるのか.いい加減苛々するーっつーの.何年同じこと繰り返し議論してんのさ,あたしら.

次,ちくしょう,またか.言語の壁問題.
友情に国境はない・・・ような気がする.
しかし言語の境はあるような気がする.
恋愛に言語の壁はない・・・かどうかLと春先ラブ・アクチュアリィ観てて話になったけど,あたしゃもういっそないような気がします.・・・が,友情にはある気がする.
違いに価値があるとかいう正論ぶちかまされて腹が立つのは地に足がついてないように思うからか.

細かいことを言えば,誰かに代弁/代表してもらうんじゃない,
自分で自分を代表しろ,と言われた時のあの突き上げるような無常感.
何故いまもって共有できないのか理解に苦しむ.矛盾してないか,それ.
理解し合う日はないのだと一方で言い,もう片方で違いを理解することが価値だと言い.
何故それが強者の狡さだと分かって貰えないのだろうか・・・

負担の分配について.
愛は労働を無料で提供させる魔法の呪文だと言ったのはO教授.
あの授業面白かったなぁ.
友情を,大雑把に言って愛情の一種だと考えて,
友情の「ために」コミュニケートする,というのはアリだろうか.
あるいはコミュニケートすること自体が核となる友情というのはアリだろうか.
・・・アリかもしれないな.世間一般での友達関係はそういうものなような気がする.
しかしそれは愛情・友情においては構造的に強者が有利ということか.
フェアネスの議論とはほど遠いな・・・

結局,コミュニケートする・しないことによる損得は両者にあったり一方にあったりしても,
する・しないを選ぶスイッチはいつも弱者の側にある.
弱者は不公平な喧騒と静寂の死(あ,いえ,本当の死じゃなくて比喩的なね.言語の死滅とかね)を選ぶことができる.死は常に弱者にとって魅力的な復讐手段になる.歪んだ愛情でも唯一希望を持つ道になる.私がTに対してこれを切り札として使いたい誘惑に駆られるのはLBやLPにも当てはまるか.…当てはまらないな….何故当てはまらないのか.友情関係の種類と質量のどっちに起因するのか.あ,考えるとやな感じ….幼稚だなぁ,自分.

・・・今読み返して思ったけど,酔いが冷めてから読んだら自分でもわからんわ,おそらく.これ.
まいったな,言語化しにくいからって与太話になっちゃいかんな・・・具体的な話は明日にまわそうっと・・・おやすみなさい・・・

Saturday, July 21, 2007

選挙広報を読んで Reading Election Publicity

特定の支持政党を全く持たない私にとって悩ましい季節がやってきました.
あーーーー選挙まであと一週間くらいかぁ・・・
比例代表もあるということは政党の方も選ばないとですよねぇ.やれやれ.
とりあえず配布された選挙公報を読んで・・・と.

・・・・・・・・・・・・?

・・・いつから選挙公報は笑いをとるものになったのでしょうか?
可笑し過ぎるだろう,これはいくらなんでも.

■地区候補編■

- 鈴木信行(維新政党「新風」公認・41歳・男性)
・・・まず「維新政党」って何?江戸時代なの?これから明治なの,ねぇ.
それって民主主義は何処行っちゃうの,陛下にお出まし願うの,ねえ.
極めつけがデカデカと横書きされたスローガン.
「めざせ核武装!美しい国より強い国!」
・・・・・・・・・すみません,入れられません・・・.

- 和合秀典(新党フリーウェイクラブ・65歳・男性)
誰だろう・・・こんな党あったっけ・・・と思いながら本文へ.
「首都高の無料化の波を全国へ」
・・・あっ!!!あの高速料金を踏み倒す奇妙なテロの犯人!!!!
・・・ていうか法を破って反省の色なし・・・という人が法律作る側に回って良いの??
つうか高速料金をただにすれば皆が大移動を開始,通勤圏内が百キロになるって・・・
それが本当なら大渋滞では・・・?ていうか誰が百キロ毎朝運転したいの・・・?
ごめんなさい,とても入れられません・・・

- 神田敏晶(無所属・45歳・男性)
無所属か.気持ち的には楽だな.で,政策は・・・?
「インターネットによる選挙を今すぐにでも解禁!」
・・・・・・.え,あの,他のことは・・・?
参議院って選挙のやり方を考えるところだったの・・・・・・?
ここはバングラディッシュ?
税制・経済・福祉・教育・憲法など主要トピックをバッサリ切り捨てIT化に特化.
うーーーん・・・・・・
政府のIT化諮問委員会に入っていただくとかならまだしも参議院は違わないですか.
・・・ごめんなさい,やっぱり入れられません.

- 中村慶一郎(国民新党公認・73歳・男性)
私・・・国民新党には入れられません.いや,ホント.
まあでも一応読んでみるか・・・.
「5ない主義: ウソをつかない,威張らない,政治資金をごまかさない,
ポストを追わず求めない,贅沢をしない」
・・・・・・小学校の学級委員長選挙じゃないんですから・・・・・・
「私の好きなこと: 新聞・雑誌・本を読むこと,各地の仏像を拝むこと,テレビで大相撲を見ること」
・・・・・・あの・・・お年寄りのお見合い用自己紹介じゃないのですから・・・・・・
ごめんなさい.やっぱり入れられません.

- すずきかん(民主党・43歳・男性)
うーん・・・標語自体はどれも結構まともなんだけど・・・
・・・民主党かぁ・・・・・・.小沢さんじゃなければなぁ・・・・・・.
(憲法関連ですっかりフリップフロッパーのイメージが着いてしまったし)
あと政策の説明がやけに抽象的なので空約束にならないかと不安.
まあ,しかし今までの中では比較的まとも.
民主党なのがまだひっかかるので保留.

- マタヨシ光雄(世界経済共同体党・?歳・男性)
世界経済共同体党って何・・・?と思いつつ本文へ.
「神とは,宇宙万物そして人類を創造し,天国と地獄も創り・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?
ちょっと目が虚ろになってしまったので後半へ飛んでみる.
「真実・心理・正義の唯一神又吉イエスに,日本の政治を任せよ」
・・・・・・・・・・えっと,又吉さんってばイエスでかつ絶対神なんですか・・・?
あの・・・えっと・・・「父(神)と子(イエス)と精霊って別々では」とか
細かく突っ込むほど動揺しちゃいますよ?
・・・・・・無理です.ゴメンナサイ.ていうか心臓に悪いです.

- ドクター中松(無所属・?歳・男性)
あははははは.まだ出てるんだぁ.
小学生の頃選挙カーが塾の近く走ってたなぁ.
どれどれ・・・
「日本を救うには,改革ではダメで,抜本的にやり直す「政治の発明」が必須です.それは私にしかできません.現在筋トレで五十トン持ち上げる体力を持っています.」
・・・・・・・・・あの,五十トンって・・・・・・?
ていうか政治の発明とどう関係が・・・
ていうかそれ,人間じゃないですよね・・・?
「日本の良さを世界にPR.・・・ハリウッドの『ドクター・中松ストーリー』映画で日本の良さを世界中に知らせます」
・・・・・・・・・それ,日本の良さじゃなくて中松さんの良さですから.
ていうか参議院の審議と全然関係ないですから・・・
政策説明はどれもこれも抽象的過ぎて却下です.
ごめんなさい,入れられません.

- マック赤坂(日本スマイル党・58歳・男性)
・・・・・・スマイル党?なんだか嫌な予感がするなぁ・・・
「スマイルパワーにより美しい日本人を再生しましょう」
・・・・・・・・オノ・ヨーコさんの「念力で世界を平和にしましょう」の仲間?
「プロフィール: ネイルサロン・エステサロンを経営.美容研究家」
・・・・・・美しい日本人って容姿の美しさだったの・・・・・・?
えっと・・・参議院って国民の美容問題も審議すんの・・・?
あの,なんか色々混乱したんで無視してもいいですか・・・ごめんなさい.

・・・なんかそろそろ読むの疲れてきたなぁ.
普通の本を読むときにはないこの疲労感は一体何・・・・・・

- 沢田哲夫(無所属・76歳・男性)
「混迷時代に救世主出現!!
社会科学的頭脳の遺伝子を持った男・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・.
もう突っ込む気力すら残りません.

無理,ホント,無理.
どうしてこういうネタとしか思えない候補者が8割なの?

しっかし,男性の平均寿命が78歳とかの時に
平均寿命に近かったり過ぎてたりする候補って多いんですね.
健康面で大丈夫なのかなぁ.議員さんの仕事って本来凄く忙しいものでは?
あと女性もやっぱり少ないですね・・・18人中5人かぁ・・・

上に挙げていない候補者は他に11人いますが,
突っ込みどころは上ほど凄くないが
(東條さんの「教育:皇室を中心に愛と祈りの中に」は唖然ですが)
政策の具体性はイマイチだったり,
やたら個人の体験に偏っていたりというのも共通.

とりあえず上の「すずきかん」さんを含め保留者3名から選ぶしかなさそうです.
ああ,気が重いなぁ・・・
とりあえず8割の「問題外」候補者がいなければ
もっと実のある比較が出来るような気が・・・します.

Friday, July 20, 2007

임진강,臨津江,イムジン河, Imjin River

久しぶりにドキュメンタリー『38度線』を観ました.企画・製作は韓国国防部というこの作品,私は結構勉強になって好き.このDVDもかなりの回数観ています.SBSで放映された原題は『休戦線を語る』だったとか.ハングルでどう書くのか知りたいです.

観ている途中で母が突然唄を歌い始め,一体何ごとかと思ったら,イムジン河と聞いて同タイトルの昔流行った歌を思い出したのだそう.そのメロディがあまり綺麗なのでちょっと調べてみました.どうやらそもそもは北朝鮮の歌で,日本語版は放送禁止になったもののようです.

放送禁止になった経緯がWikiに割と詳しく載っていました.日本のフォークグループが朝鮮学校の友達から教わった曲を和訳して歌ってレコードまで出してしまったという話に当時の著作権への意識の低さを感じます.

そもそもの原詩と訳詩を対応させて載せているのは下のサイト.
http://protestsongs.michikusa.jp/korean/imjin-river.html

ハングルでの歌声が聴けるのは以下のサイトだが歌詞がどれなのかは私には分かりません.
http://blog.daum.net/jesong21/4161075

DVD『38度線』の中で,日本軍の降伏があと2ヶ月早かったら分断されなかった,あと2ヶ月遅かったら分断されたのは朝鮮ではなく日本だった,というシーンがあり考えさせられます.あちらから見るとそういう風に見えるんですね,なるほど・・・.そういうお互いの視点ってお互いに勉強できると良いですよね.教材ももっとあると良いのに.

同じくドキュメンタリー映画『送還日記』(原題:송환,英題:Repatriation)も凄く観たいのですがまだ観れていません.うぬぬ・・・
http://www.cine.co.jp/soukan/index.html

WSDCでは観光ツアーでDMZにも行ってきたそうで.私は遅れて着いたので行き損ないました.行きたかったなぁ.また折角韓国に友人を持つ機会が与えられているのですから,できるだけ話を聞いておきたいなぁと思いました.今回の豪亜大会では怠け者だった自分を反省です.

Thursday, July 19, 2007

believing in it?

豪亜大会も終盤,Tと「ディベートをまだ信じるか」という話をしました.
同病相哀れむというか,ディベート教に入信したのが正しかったのかという
かなり根本的な疑問を今更語り合ういい歳になった二人・・・良いのかそれで.
(そして気がついたら周りに日本人勢ぞろいしていてビックリしました.全員集合.
何か妙な哀しさの中の嬉しさを感じました.説明しにくいけど.
しっかし皆Tが好きなんだねぇ・・・(ほくそ笑み))

そもそもバンクーバ直後に
「信じていける自信なくなってきた.
だってsilver tongueな奴の殆どは外道だもの」
と涙をポロポロ零して弱音を吐いたのは私です.
その時Tは「そんなことない」と言いました.
(しかも「俺は?」とぬかしました.笑.あんたどんだけ自信家なのよ;笑)
けど今回は流石に少し違ったみたいでした.
「ずっと,『ディベートは知る努力と考える努力と,愛する努力をすることだ』と
思ってきたけど,Dみたいな人を見るとそんなの嘘っぱちだなぁって思い知らされるなぁ」
と言う私に深く頷くTでした.

今回むこうは丁度バンクーバの私みたいな状態なんだろうな.
裏切られた感も一入だったろうと思うと,何だか申し訳なくなりました.
Lに言った私の言葉は本心です.彼は正当な報いを受けていないと思う.
「あんなに彼方此方出向いて良かれと思って頑張って,
自分が皆の助けを必要とする時は誰もstand byしてくれないなんてなぁ」
という言葉が胸に沁みました.しかも良いことをしようとしたのにね・・・・・・
正しいことを雄弁に説いたところで,人の決定が違うことに支配されているなら,
一体何のためにディベートなんてするんですかねぇ・・・
でも今回の件は私は最初から悲観的だったので,あんなに忠告したのに
予見できなかったTのナイーブさも驚きでした.余計せつないですね.
(ところでSはTが政治家になりたいんじゃないかなんて言ってましたけど,
そうですかねぇ.ていうかもしそうなら私は止めます.絶対向いてないって!!)

「少なくとも『競技』としてのディベートからはmove onするべきかなぁ」
というのが今回の共通見解だったようです.
むこうは難民に無料のディベート教室を開講してあげたりする中に,
私は子供たちの思いやる心を育てるためのディベートを模索する中に,
あざといゲームと化した競技ディベートに疲れた心を逃がしているのかもしれません.
どちらの活動も競争が小さい分,議論の技巧が犠牲になります.
競技ディベートのまがりなりにも世界最高峰と呼ばれるものを目にしてしまった私たちが,
果たしてそれで満足できるのか,競争を取り除くことが本当に答なのか,まだわかりません.
高校の時から,「勝つことよりも大切なことがある」と言い続けてきた私には,
これは馴染みのジレンマです.けどTには違う.他人事ながら心配です.

そんなことを考えながら飛行機に乗って帰ってきたら,
masashiさんのブログとDr.Epitaphさんのコメントを目にしました.
相変わらずお二人とも良いこと書くなぁ・・・(メソメソ)
昨晩は友人Jと同じようなことが話題になりました.
あっちはまだ信じるバイタリティありそうだったな.
どちらもあまりにタイムリーでせつなくなりました.

さて,明日の私は何をどれだけ信じられるのかな・・・

Tuesday, July 17, 2007

決勝を咀嚼する More on GF

1.一線のありか

なんで否定側が「一線越えている」と感じたのかを考えてみました.
どこにその「一線」があるのかな...と.
それで,人間に優劣をつけているところがアウトだったのだと思いました.

「障害があろうと,何か別の挫折をしようと,才能があろうがあるまいが,
人間は人間.命の価値は測れないし変わらない.平等に尊ばれるべき」
という形での自己肯定なら「障害(優劣)ではなく個性」という否定側主題との整合します.

が,「自閉症児の方が天才で優れているんだ.彼らが進化の最先端なんだ.
我々は彼らを羨むべきなんだ」的な方向に行くと,本末転倒です.
結局「どちらがより正しいのか」「どちらがより優れているのか」という話になってしまいます.
じゃあ他の皆をより優れている自閉症児に近づける(矯正する)べきなのか,
ということになると,「障害(優劣)ではなく個性」という主題と大きく矛盾してくるわけです.

そういうわけで,あの否定側のスタンスは戦略的にも致命的だったと思います.

2.閑話休題(国際大会の審査について)

審査員同士の投票後の話し合いでは,言葉の壁もあり(最近masakoは英語に困ってないと言われる度に居心地が悪くなる私です.壁は明確にあるのです)上手く説明できなくて苛々しました.が,前回書いたようなことが言いたかったのです.でも言葉の壁があるからこそそれでは不十分だと思います.もう一歩踏み込んで,今回書いたような形で即座に伝えられるように自分の思考力(特にスピード)を磨かないといかんなぁ,と思いました.まだ解り難い,という話もあるかもしれませんが少なくとも自分の頭の整理は今回の方がついています.

ところで決勝リーグの審査員をするというのは別に大して楽しい仕事ではありません.漫然と観客席で聞くよりは真剣みを持って聞くので理解度はあがります.だから自分の勉強の機会としては費用対効果が上がり嬉しいわけですが,まあその程度のことです.あとは他人からの評価が高かったという嬉しさでしょうけど,ぶっちゃけ「俺を決勝に残せ」的圧力をかける人もいて,もうそこまで行くとただのエゴです.私の場合,EFL(English as a Foreign Language)の審査員が豪亜大会の決勝戦を任されたのはおそらく史上初,ということでそういう自分の中でのちょっとした達成感はありましたが,これも今となっては最重要項目ではないように思います.

ではEFLの審査員にとって,現在の最重要課題と言える事は何なのか.

もちろん予選通過者をコンスタンスに出していくことは,ディベート界の中では意味があります.
予選通過審査員は「EFLは知性に問題があるわけではないのだから,語学さえ努力すれば良質の審査とパネルの多様性確保でコミュニティに貢献できる」という顔役を果たします.

けれどもっと大切なのは,ディベートという特殊なセッティングだけでなく,交渉やディスカッション,はたまた社交におけるコミュニケーションでも知識人として伍していけるという自信と自負心の形成,EFLの知性に対する他者の信頼を勝ち取っていくことではないかと思います.これは目に見えない風評の形で作られるので,より難しい課題でもあります.

そういうわけで,緊張するのは予選の審査ですが,それも豪亜大会の予選ではありません.EFLな審査員が一番神経を使う審査は世界大会の予選の審査だと思います.

何故か.理由は複数に及びます.

なんと言っても合議制であること.4チーム対抗なので合議しなければならない内容がかなり多岐且つ詳細に渡り,しかもバイナリーではないこと.そして豪亜大会に比べ,より人種・文明・宗教間対立が厳しいこと.更にEFLへの風当たりが厳しいことなどが挙げられるでしょう.(ちなみに女性であることが不利に働く可能性が高いのも豪亜大会よりも世界大会だと思います)

そして予選中は特に,こうした審査団の議論の過程がつぶさに選手・同僚もしくは部下(パネル)・上司(チェア)に観察され,常に明晰さと妥当性を採点され続ける(実際にフィードバックの点数が審査員としての昇進・降格となって反映される)ことになります.予選通過「圏内」(当選確実者ではない)の審査員は特に,こうしたテストを何重にも受けることになります.EFLや非西欧人種,自分の審査経歴をよく知っている副審査員長(つまりコネ)がいない人などは更に厳しいチェックを受けることになり,同僚や上司が意図的に配置されることも多くなります.

この状態で英語ネイティブの審査員に自分を婉曲的に認めさせるのにはかなり技術を要します.人格的なバランスを保ったまま,全く関係ない事柄を和やかに議論しつつ,目立たぬよう且つ確かに話をリードし,結果として同僚・上司・部下に「こいつ頭良い!」という強い印象を与え・・・られなければボツ,ということ.(スタート地点が悪いので,ミスしなければ良いわけではなく,積極的にプラス点を稼がないとダメ)これはディベート自体の技術よりも相当社会で使える技術だろうと思います.母語でだって難しいのに,丁寧語や敬語,婉曲表現から端的な表現,ユーモアまで駆使して社会的コミュニケーションを英語でとらなければならないわけです.ホント,選手やってる方が何ぼも楽です.(外務省や企業の研修に使えば良いのに,と本気で思います)

まあ,そういうわけなので,豪亜大会の決勝戦ごときで「上手く説明できない」とか言ってる場合ではありません.より速くより鋭く思考し,より平易に時にはより華麗に英語で表現できなければならない.数ヵ月後に一度リハビリした方が良いような気がします.

さて,言葉の壁の話が出たところで次へ.

3.置き換え

今回の論題は自閉症児についてだったわけですが,
世の中には程度の差こそあれ「障害」がありふれているように思います.

例えば自分の身に置き換えると「言葉の壁」はディベータとしての私にとって障害です.
同時に,日本語文化・メディアから得たユニークな視点がある,という意味で個性でもあります.
しかもその個性はしばしば他人には単に妥当性を欠いているだけに見えがち・・・
そう考えると何だか今回の決勝戦の内容とダブってきます.

自閉症の経験も身体上の障害の経験もありませんが,
EFL(English as a Foreign Language)としての自分に置き換えて,
肯定側・否定側の両主張をフェアだと感じるかどうか考えてみたいと思います.
直接体験がない以上間接体験(読書やヒアリング調査)と想像力で補うしかありませんので.

*勿論これは実際の決勝戦の審査内容には全く関係しなかった部分です.

肯定側は,個人の負担がきつすぎる,公的助成を与えるべきだ,というスタンスでした.
EFLとしての参加者は,なるほど相当きつい負担を強いられています.
英語自体を学ぶのにかかる労力もさることながら,メディアの壁を越えるのが一苦労です.
そのための金銭的負担も時間的負担も相当のものです.
また,確かに大会側から色々助成を受けています.
論題をプロジェクターで出すようにされていますし,
電子機器の使用禁止の中で電子辞書だけは例外となりましたし,
論題に分からない表現があれば副審査委員長に尋ねて良い事になっている場合もあります.
更にEAL(English as an Alternative Language)の決勝戦も設けられています.

さて対する否定側は,公的助成を与えると個性を否定してしまう,というスタンスでした.
論題をプロジェクターで出してあげたり,不明な表現の問い合わせを許したり,EAL決勝を開くといった救済措置を与えると,EFLに「正常化」しなければというプレッシャーを与えてしまう.また,EFLであることの素晴らしさを否定してしまう...本当はEFLの方がENLよりも天才的で特別なのだ・・・

・・・・・・うーーーーん・・・・・・

どうですかねぇ・・・それは・・・

そもそもEAL救済措置がなかった頃も「英語力を上げなければならない」「訛りを取り除きたい」「自然で伝わりやすい表現にしたい」といった『正常化』圧力はめいいっぱいあったような気がします.確かにノーマライズという表現は不穏当ですが,自分の英語をノーマライズしたいという言い方はギリギリ受け入れられていると思いますし,現実だと思います.また,EAL救済措置ができる前にEALが大切に尊重されていたかと聞かれれば明確にノーだと思います.社会の理解は放っておけば上がるというものではありません.社会構造も変えずに救済措置も与えずに「EALを尊重すべき」と言っても,現実偏見に満ちた屑ジャッジにばかりあたれば「尊重」もへったくれもありません.何よりも3キロの辞書を持ち歩くのも,論題が書き落とせずに試合会場に行くのも悲惨の極致.「そんな助けはEFLの自尊心を傷つけるから要らない」とか言うEFLがいたら「いっぺん死んで来い」ってな気分です.

ではEALは特別だENLより優れていると思うか,と聞かれればイエスと答えたい誘惑があるのも確かです.外語で知的活動を全うできるようになるには大変な努力を要します.だからこそ犠牲に見合う「特別さ」があると思いたいものです.また,バイリンガルはモノリンガルより接する情報の幅が広い分視野も広い,というのは有得ると思います.ただそちらはマルチリンガリズムであってEALとENLの対比ではありません.(ENLにも他の言語ができる人はいるだろうし,EALがバイリンガルレベルの情報収集能力を英語で持つとは限りませんので)だから冷静に考えるとノーかな.

結局,
①EALの視点はENLのそれと平等に尊重されるべき,
②社会構造がそれを許さないならアファマティブ・アクションも時には必要,
という結論に.

つまり自分の身に置き換えても否定側の議論には納得できません.

じゃあ否定側はどういうスタンスをとるべきだったのか・・・
次回はそれを考えてみたいと思います.

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1. Where was the border?

I wondered why I felt the negative "stepped too far in to that nonsense" and thought over again where the line was. And then, found that the assumption of the negative was that there are superior people and inferior ones at the end of the day. I probably found that part contradictory with other arguments from the negative. "With or without disability, coming a different sort of cropper or not, being gifted & talented or not...regardless all of such, life is life. Value of life is not measurable and should be eaually respected. " If the negative was affirming the life style of autism in that approach, I probably felt consistent with their stance that "it's not a disability but a difference." However, when they said that autism is a frontier of evolution and they are more genius than we are, it sounded a bit oddly contradicting with their stance. It sounded as if there were, at the end of the day, superior persons and inferior ones. Then, the negative claim that we shouldn't reform people didn't sound real either. So, I think those sub-arguments from the negative was strategically damaging.

2. Intermission (adjudicating international tournaments)

When we had some chats among adjudicators after voting and stuff, it was difficult for me to fully explain the things I wrote in the last post. (I feel extremely uncomfortable whenever someone says masako doesn't have language barrier anymore. I DO. I DO. I DO. How do they know what I really want to say?? So, annoying...)

Anyway, because I have the language barrier, I think I need even more effort to sharpen my ideas. What I wanted to say right after the round was like the last post. But that's not enough. I should have stepped further and gotten ready to express the above in this post IMMEDIATELY. (You might think it's not still clear enough but for me, at least, clearer and structured comparing to the last one) I really need to improve my speed of my thought precisely because I'm suffering for the language barrier.

Okay, let's move to the language barrier thing.

3. Are the arguments applicable if we replace autism with EAL?

The topic we got this time was about autistic children. But there are many sorts of "barriers" in our life everywhere. For example in my case, the language barrier is clearly a "disability" as an international debater/adjudicator. At the same time, I probably have very unique and different perspectives that I gain from Japanese language, media and culture. So, yes, my diability can be a difference. Moreover, that difference is often seen as "irrelevance" at international tournaments and diminished. I'm strongly encouraged to "normalized" my ideas and language by the tournament structure.

Perhaps, it become to sound similar to the content discussed at the grand final?
I don't have an experience as an autistic or any other physical disability.
But hope to imagine how they would feel with applying the arguments to issues as an EFL(English as a Foreign Language). When I don't have a direct experience, I believe it is important to try indirect experience (reading, hearing) and utilizing imagination.

Obviously, this part did not affect my decision over the grand final in any way.

The affirmative said that the burden on individuals (autistic kids and their families) is away too heavy and they should be supported by public fund. Hmmm... EFL participants do suffer for the burden. Learning English itself is an enormous suffer. But overcoming the media difference (= "normalizing our ideas") is even more painful. Financial burden, time we have to spend, tears and toils are indeed huge. And yes, we do have some sort of "support" by tournaments. They are now showing the motions in written form on projectors, we are now allowed to use electronic dictionaries, in some cases, we are even allowed to approach DCAs to clarify terms in motions.
And yes, there are EAL(English as an Alternative Language) Finals. I don't think they are enough "support" but let's assume they are.

Then the negative's stance was that such supports rather deminish our difference that we should rather appreciate to begin with. If they show motions on projectors, clarify terms in motions or provide EAL finals, then the tournament rather pressure EAL debaters to "normalize" them further. And they also deny how EALs are wonderful while EALs are more special and genius than ENLs.

..............hmmmmmmmm.....i...don't know...

The problem is such a "normalization" pressure was heavy even before such remedies. 9 years ago, EFLs were feeling that they have to improve their English, to ease their accents, to gain more "natural" expressions in English as heavy as today. Sure, the word "normalize" sounds very offensive. But that was and is the reality, is it not?

Further more, if somebody ask me whether our own perspectives were respected when we did not have such remedies, I would definitely say NO. Social awareness does not rise only with leaving alone. Our ideas and perspectives were ignored or deminished when we did not have the remedies, too. And what should we do if we have to face linguicism or judges without cultural awareness? Who can make sure the things would go fair? And we bring 3kg dictionaries everywhere without knowing the motion we should debate on and no insentive like EAL award was given after such tears and toils. If somebody who says we should reject such remedies and go back to that time, I wish that person was dead.

Sure, even with remedies, things are not fair at all. Why the hell do we have to express ourselves in a language we don't feel familiar at all? Why do we have to spend enormous amount of time to become communicable to English speakers while they don't make any effort to communicate us? What sort of fairness is that? Shouldn't we be appreciated exactly because of our difference? Shouldn't they know that Japanese language has unique, beautiful and rich ideas? I agree. Sure they should.

But does that mean we shouldn't get any help in communicating in English because it makes us abandon our uniqueness and Anglonize us too much? So, should we prefer not having communication with non-Japanese speakers at all in order to preserve our uniqueness? Should we keep silence until English speakers eventually become to respect our insights? (Does such a day really come someday in future? They might realize after minor languages extinct.)

Now then, how would you answer if somebody asks you whether you think EALs are more special and superior to ENLs? It's very attempting question, isn't it? Yeah, I wanted to answer Yes, if I could. Becoming intellectual in a foreign language requires pains and toils. And such experience make us feel wanting to believe that we got something special in return. But it doesn't necessarily mean we do get something special. Sure, we probably gain wider perspectives than monolingual ones because we can access wider information. But it's more about multilingualism and nothing to do with comparison between ENL and EAL. Some ENL people do have decent second languages. Some EAL speakers are not fluent enough to gain quality information in English. So, if I was asked such a question, I would have to say NO.

So, at the end of the day, I think...
1) Opinions and ideas of EAL should be equally respected (=linguistic rights)
2) If the social structure doesn't respect their liguistic rights, some affirmative actions are needed.

This is how I feel when I apply the arguments of GF to my own personal experiences.
And still feel difficult to nod for negative's argument.

hmmmm...

Saturday, July 14, 2007

今年の決勝戦 On Grand Final This Year

台風4号にビビり外出を控えたものの,関東地方はあっさり通過.
明日からは安心して出かけられそうですね.
とりあえず重曹が欲しい.

今回の豪亜大会は,肩の力を抜いて楽しむことだけを重視しました.
バンクーバのような打撃を受けるのは御免蒙りたかったので,
審査委員長団には申し訳ないけど,何も期待しないことを第一信条としたのです.
何も期待すまい,たとえタブも論題も外語性も何もかもが,
これまで築いてきたと思っていた相互理解を裏切ろうとも,
大好きな友人の表情に私が見たくないものを見たとしても,
眉一つ動かすものか,軽蔑しても詰るものかと思って参りました.
そう思わなければならなかったことは残念だけど,漸く現実的になったとも言えます.
他人様より成長に5倍ほど時間がかかる私です.
(その分老けるのも5倍遅ければ良いのにな・・・)
でもお蔭様で久しぶりに伸び伸び楽しめました.
そんな覚悟をしたのが申し訳ないほど審査委員長団も頑張ってくれていました.
最後は自分でも期待していなかった決勝戦ジャッジに選出され華も持たせて貰ったし.

さて,その決勝戦について忘れない内に書こうかな.
論題は「政府は自閉症正常化のための治療費を負担すべきである」でした.
(That governments should pay for treatments that seek to 'normalise'autism.)
肯定側にオーストラリアのクイーンズランド大学,
否定側はニュージーランドのヴィクトリア大学でした.

結果から言うと,この決勝戦は6-3で肯定側の勝ちでした.(9人ジャッジ)
私はマジョリティの肯定側ボーターでした.
ま,それはどうでも良いのですが,この票の割れ方が興味深いものでした.
肯定側に入れた6人はアジア人(内一名はマレイシア在住のイギリス人),
否定側に入れた3人はオーストラリア人(全員白人)だったのでした.
で,人種で分かれた,という話になるわけです.

実はその前の準決勝では,「闘鶏廃止」の論題で5-2で肯定側が勝ったのですが,
この時も白人勢が全員肯定側投票で,マレイシア人1名と私も肯定側ボータ.
否定側にはアジア人2名が入れていました.
で,この時「人種で分かれなくて良かった」という副審査委員長の言葉に,
「masakoはかなり白っぽいぞ」という微妙なジョークまで飛び,
いまだ残るアジア対オセアニアの構図を思い出させたのでした.

その後でこの決勝戦でしょ?
微妙ですよね.ただの偶然だったとしても.
試合の内容を加味するともっと微妙なんだな,これが.

肯定側の主張は単純で,いかにコミュニケーション能力が生活の基盤となっているか,自閉症というコミュニケーション『障害』がいかに子供の才能を開花させる上で困難をもたらすかというのを中心に据えていました.また,その上で家族の負担の大きさも語り公的負担の必要性を訴えました.

対する否定側の主張は,自閉症は『障害』ではなく『個性』であるというものでした.いかに政府による「改善治療」が社会のはみ出し者を訴追・矯正する道具となるかという話もあり,ミシェル・フーコーを彷彿とさせる内容ではあるのですがちょっと荒削りな印象でした.更に間に挟まった「自閉症は人間の進化型である」とか「自閉症は天才になれて素晴らしい」とかいうひたすらビミョーな議論がかなりフーコー的な部分の現実味を台無しにしてしまってSF化していました.政府が金を出せば「正常化」しなければならないというプレッシャーを与える,という議論も第3弁者から提示されましたが遅すぎた上に粗さが残ったと感じました.

その後,主に『障害』と『個性』の線引きを巡り熱いバトルが交わされたわけですが,ケース・セッティングについての不合意や,自閉症患者に天才が多いかどうかといったサブな論点が妙に時間を喰ったこともあり,今ひとつ議論が収斂しきらなかった印象が残りました.

さて,投票後話を聞いてみると,結局否定側に投票した審査員はフーコー的な部分を高く買ったようなんですね.つまり『正常化』を強いる事は暴力的だという発想なわけです.彼らが頻繁に例として挙げるのは「聾唖者コミュニティには豊かな表現や文化が存在するにもかかわらず社会はそれを無視しがちである」という話です.それが,彼らは『障害』を負っているのではない,賞賛すべき豊かな『個性』を授けられたのだ,という話につながるわけなんですが・・・これが「『個性』を『病』として迫害するのは未熟で野蛮な社会である」という感覚と相まって,件の「アジア対オセアニア」の構図をやっかいにします.つまり「アジアはまだ充分に文明化されていないからこうした人権問題に理解が薄い」という見下す気持ちを否定側投票者が抱いているのではないか,という憶測が生まれるわけです.これが邪推なのかはたまた的を射た推測なのかは私には分かりませんが後味が悪いのは確かです.

さて,このブログでフーコーを検索して下されば分かると思いますが,私はフーコー大好きなんですよね.その著作は殆ど読みましたが,中でも『精神疾患と心理学』は好著だと思うんです.その私が,それでも首を傾げてしまう「単純さ」がこの否定側論者にはあったように思います.皆さん如何思われますでしょうか.

随分前のことになりますが,一時期『五体不満足』という本がベストセラーになったことは覚えてらっしゃる方が多いのではないでしょうか.読んで感動されたという方も多いでしょう.「障害は個性」と言い切る乙武さんのポジティブさには私も生命の力強さを感じましたし素直に凄いなぁと思いました.同時に,その後「障害があるからこそ僕はこんなに特別なことができる.僕は他の人より優れている」というような意味の発言をテレビで観た時は,かえって悲痛さを感じてしまったのを覚えています.

「『障害』者は自分をもっと肯定的に受け入れるべきだ.素晴らしい『個性』を授かったとむしろ感謝すべきなのだ」というような発言を耳にすると,ちょっと怖くなります.フーコーの言う社会による矯正と似た構図が見えるように思います.弱者に対して「助けが欲しいなどと甘えるな.それはお前の精神がたるんどるからだ」と更に鞭打っているように思えるのです.私には大変グロテスクで不健全な発言であるように思えます.心頭滅却すれば火もなんとやらの世界のナンセンスさを感じます.否定側の「自閉症は進化の最先端でクールだ」という話はその一線を越えてしまっていたように思いました.

そんな中,「聴覚弱者が補聴器をつけるのは何故だ.目が悪ければ眼鏡をかけないか.自閉症であることを誇りに思えるのならそれでいい.でも辛い,助けて欲しいと思う時は気兼ねなく助け(ここでは政府による金銭的助成)を求めて何が悪いのか.否定側こそ自閉症児を特別視して檻に入れている」という肯定側の意見が私には素直に受け取れました.

以上が私の感想なわけですが,こうした問題に十分な知識があるとは言えません.自分の受けた印象が果たして実際に『障害/個性』を持つ方たちにとってのものと合致するのか,ご本人たちの意見を聞ける日があったら,とつくづく思いました.

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Hope to write down about the Grand Final before I start forgetting things.
Motion was "That governments should pay for treatments that seek to 'normalise'autism."
The Affirmative was University of Queensland (Australia).
The Negative was Victoria University (New Zealand).

Result was 6-3 for the affirmative and myself voted for the affirmative.
The result itself was not very surprising but the way we splitted was a sort of interesting one.
All the Asian judges (a British person who lives in Malaysia inclusive) voted for the affirmative while all Australian judges voted for the negative.

Now, the claims from the affirmative was pretty straight. They mainly explained that autism is a sort of communication barrier and how much that barrier is damaging their life style and possibilities in the society. They also said that the burden(time, money and mental stress) that their family have to bear is heavy and public support is necessary.

The negative, on the other hand, said autism is not a "disability" but a "difference". They explained how "normalization" opresses and reforms anybody who is different from majority of the society. This part reminded me Michel Foucault a lot but sounded a bit rough. The major problem was lack of reality in middle reliever arguments saying "autism is a frontier of evolution", "autistic people are genius and wonderful" and so on. It sounded a bit off the point as well as SF taste and damaged the reality of the Foucaultistic part, I felt. The third speaker came back to the social oppression issue and developed how state funding on "normalization" pressure the autistic ones and their family even if they don't wish to normalize them. But it sounded a little late and also sounded rough yet.

Later, both teams argued over border between disability and difference. But some disagreements over case setting and sub issues like whether autistic people tend to be genius or not consumed unproportionately long time and I got an impression that major clash was not fully argued out.

In conversations after voting, it sounded to me that the adjudicators who voted for the negative bought the Foucaultistic arguments by the negative. In short, it sounded that they thought "normalizing" somebody is a violent method to oppress minorities. One of them sited an example of deaf community with rich literature and culture and being ignored by the wider society.

Now, if you search Foucault on this blog, you'll probably find that I'm actually fond of theories of Foucault. In fact, I read most of his works and my favorite is "Maladie Mentale Et Psychologie". But even I could not nod for the negative's arguments in that round. And I guess the reason was a sort of simplicity in negative's approach.

It's while ago when the book by Mr.Ototake, "Gotai Fumanzoku [Dis-able-bodied]" became a best seller. I'm sure many of you were moved by it. His positive attitude to assert that his disability is his identity made me feel strength of human being and impressed much. At the same time, when he said on TV that his disability made him so special and superior to others, I rather felt heart-rending. When somebody says that "disable" ones should rather appreciate their identity as a gift, it rather scares me. It sound exactly like an opposite side of coin of Foucault. It rather pressure the weaks that asking for help from the society shows their lack of strength to believe in themselves and it's their fault. To me, it sounds more like whipping the weaks and grotesque. The argument by the negative that autism is a frontier of evolution and super cool made me feel that the team stepped too far into that nonsense.

Then, when the affirmative came back and said, "What's wrong with guide dogs for blind? What's wrong with getting glasses when you have poor eye sights? If they are proud of their autism, that's fine. But if they need a help, why not?", it sounded a lot easier for me to swallow.

So, this is roughly what I found in the round but I don't think I have enough level of understanding of the issue. Wish if I could have chance to hear how people with disability/difference feel about this topic.

FYI, I wrote more comments and analogy with EAL issues in the next post!

Wednesday, July 04, 2007

From KL

Sorry, have to write in English. Can't find any computer that can read or write in Japanese.

I'm now attending Australasian Intervarsity Debating Championships in KL. The host institution is UiTM and its main campus is huge. I've been healthy and well so far. I'm going to drop by Korea for World Schools Debating Championships on the way back to Japan.

So far, Australs is going fine. This time, Japan has extremely small contingent and I'm free from any pressure at all. For the first time in the last 8 or 9 years (after Manila Worlds. I was a first timer and had no idea what i would be going to persue later back then), I'm purely enjoying the tournament and that's very good. :)

I'm eager to know how's WSDC going but found no update so far.

Will be back on 12th. :)

Sunday, July 01, 2007

夏到来 summer has come

どわーーー.
前回の書き込みから一ヶ月も開いてしまいました.
いつの間にか暑くなってるわ・・・

今日から高校生チームはソウル入り.
明日・明後日とスパーリングして本番を迎えるはずです.
準決勝からしか見れない私は遠い地で応援するばかりです.
がんばれよーーーー.

はてさて,豪亜大会のほうは明後日からです.
今回はマレイシアが会場です.
I大のチームはもう現地入りしたはずかな.
私は明後日です.
はあ・・・しっかし準備の出来具合ゼロ!ホントゼロ!!
だから明日は戦争です.えらいこっちゃ.

何より気になるのはパソコンの不調.
ちょっとSPSSのグラフを弄っていると突然の強制終了.
それが1度じゃないとちょっと気になります.
困ったなぁ・・・長時間労働で熱が上がりすぎるのかも?

それから読まなきゃと思ってる本が多いのにどれもこれも重い!
背筋が筋肉痛です.肩に痕が残るほどカバンの紐が食い込むし.
四次元ポケットが欲しい・・・

まあ,騒いでみても暑いものは暑いわけですから,
カリカリせずに健やかに過ごせますように・・・