Wednesday, October 17, 2007

When sophists were not sophistry...

日本語版がつけられませんでした・・・
この語感は出しにくいですよね・・・

先日,「ディベータは畢竟ソフィスト」と自虐ネタが会話に上りました.
最近このネタに過敏になっている私.ぐずぐず考えています.
で,田中美知太郎の『ソフィスト』を読み返しています.

スポーツとかだとよく「心・技・体」って言いますよね.
ディベートならさしずめ「心・舌・脳」ってとこでしょうか・・・
ソクラテス(プラトン)による舌と脳の分離よりも,
舌と心,脳と心の関係の方が長い葛藤の歴史を持っているようです.

そしてこれまで何度も何度もここにも書いてきたように,
頭良いヤツが良いヤツとは限らないし,
強いディベータが良い人とも全然限らないんですよね・・・
なんでこんなヤツがって思うような酷薄なヤツが勝ったりするんです.
「優しくなるためにディベートするんだ」がモットーの私ですが,
「学べば優しくなれるわけでない」のも
「トップ・ディベータが優しいやつとは限らない」ことも分かっているつもりです.

田中さんはGorgiasとProtagorasの違いについてかなり頁を割いて言及しているんですが,要はこの舌を鍛えれば脳や心も鍛えられると考えた節のあるProtagorasと舌だけ分離していた節のあるGorgiasって感じでしょうか.

ここら辺を読んでいると,自分自身がぐーらぐら揺らぐのを感じます.
所詮舌のみ,と割り切っていたGorgiasに潔さを感じたり,
Protagorasの夢見がちな想いに引きずられたり・・・

けどやっぱり私はProtagorasの方が近いのかなぁ・・・
つまりは地に足のつけず大風呂敷広げる詐欺師ってとこかぁ・・・
結局cleverな人がゲームに勝つのを黙って見てるしかないなんて情けないですね.

それでも私は大仰で技巧に凝ったGorgias的表現より,
シンプルさに徹しきったProtagorasの方が好きです.
そういうとこ,福沢諭吉の平易な言い回し志向に近いのかもしれません.
考える楽しさを知的挑戦の幸せを,一人でも多くの人と共有出来た方が良いに決まってる.

大学でディベート始めた時,たかが18や19なのに,
スーツ着込んで大学のバッジを胸につけて,
いかにも「背負ってます」って顔でディベートするコミュニティが本当に嫌だった.
大学毎に閥を作って帰属意識を煽る人たちの気持ちが全然分からなかった.
議論することにそんなにがちがちに構えてしまっていては,
本当の意味で議論を身近に大切にする文化が根付かないだろうと思いました.
今でもジーンズにTシャツで気取りなくディベートする方が気持ちよいと感じます.

そういうところ,ヒッピーなNDTのコーチ陣を思い出したりもします。
彼らの純真なリベラルさに心が洗われるような気がすることがあります.
先日某大会に学生さんたちがかかりきりだった時,
丁度全米ディベート協会の元会長が来日中で私ご案内役をしていました.
この先生がまたすっごく心根の綺麗なリベラルなんですよね・・・
ホントああいう方があの年齢でいるってことに救いを感じます.

今回読み返していて一番心に残ったのは,demagogos(デマゴーグ)とtheatrokratia(劇場政治)の部分です.シュラクサイへの遠征をアテナイがどういう経緯で決めたかというところです.この下りはファシズムや日本の戦前戦中を彷彿とさせます.思うに雄弁者を詭弁家と警戒する心が社会に蔓延するのは,過った戦争の後,というのが定番なのかもしれません.詭弁に踊らされないよう真の雄弁者を育てようと決意できなかった弱さの歴史でもあるように思います.デマゴーグとならない,心の洗濯をしてくれるような人達がマイノリティでい続けた歴史です.

"Man is the measure of all things"と言ったのはProtagoras.
自分の研究とあいまってちょっとジーン・・・と来てしまう言葉です.
この言葉が冒頭を飾る彼の著書の名は『真理』.
なんて美しい言葉の連環かと不思議に思うほどです.
まだProtagorasのように夢をみていたい・・・
「知らないで論ずるのではなく,できるだけ何でも知って,何でも論じよう」
とする心は,やはり美しいように,私はまだ思っています.

・・・というわけで勉強勉強!

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