Friday, August 29, 2008

Feminology (1.The Serious One) フェミノロジー(第一話:お堅いヤツ)

昨晩は焼肉をしたら途中でホットプレートが接触不良になり、
結局フライパンで焼いてしまうことに。
うーん、折角いただいたホットプレートなのになぁ……
そして前回とっても良く機能してくれただけに残念。
長期的にはホットプレートを買い直すことになるかも…

さて、先日の私の投稿が投げやり調になってしまい斬捨て御免だったことに対し、
大変誠実な個人メッセージを頂戴しました。感謝しています。
で、要は四の五の言わずキチンと説明を試みろ、と。

うーん……大変苦痛ではありますが、その方の誠実さを汲んで、何とか頑張ってみましょうか。
ただ経験的に面白いことにはならないので、好戦的な物言いに終始するのを防ぐため四方山調のダラダラした文になることをお許し頂きたく思います。
(だってさ、ジェンダー版『オリエンタリズム』を書けって言われたようなもんじゃないでしょうか。
あれ、凶器になりそうな分厚い文庫が更に上下巻あるのよ?)

長すぎるので連載、ということで。

1. 『思考』について議論すべきなのか

いみじくも昨晩の「大たっきー」さんのコメントにあるとおり、私は『思考』について問題にしています。
そして『思考』について問題にすべきだとも思っています。
ここに「大たっきー」さんが異論を唱えること自体私には大変な驚きです。
行動だけが問題だったのは100年前の話です。
英語でディベートする人ならtokenismという言葉を習っている筈ですね。

そして確かに、『思考』に踏み込んだ現代では、
被差別集団は非常に重い説明責任を負わされている。
重くて重くて多くの人が声を挙げるのを諦めるほどに重くするのが主流の『解決方法』のようです。

だからこそサイードはあれだけ分厚い本を書かねばならなかったし、
書けるだけで稀有な存在だったし、社会的重要性も非常に大きかったのだと思います。
(但し、彼が守ろうとしたイスラム圏では彼は著名ではないようです。映画『Out of Space』には興味深いインタビューが収録されていますし、確か「彼のアラビア語には強いエジプト訛りがあった」というエピソードもあったように思います(もちろん訛りがあったがどうした、というのが正論なわけですが、世の中ことほどさように単純ではない)。被差別集団というのは一枚岩になれない性質を持つようですね。)

でもね、声を挙げるのを辞めた人は暴力的になりがちです。
過激な報復措置を取られるテロルの社会がイヤならば、
「分かるように説明しろ」と延々と言い募ることで罪を擦り付け威嚇し抑圧するより、
分かる努力をすることの方が誠実でかつ長期的には楽な道だと思います。

もちろん、それが実行されている社会を私は残念ながら多くは知らないわけですが。
「権利は戦い獲られなければならない」(『権利のための闘争』を実家に忘れてきたらしくexactな引用ができない……)と友人Tが口にしたときは馬鹿馬鹿しさに溜息が出ました。あの本は言葉は美しくて人を鼓舞しがちだけど内容は屑議論だと思います。物理的にも精神的にも「闘い」を美化するのは倒錯的です。表現の自由を勝取るために多くの地で沢山のジャーナリストが命を奪われるのも望むところだってのか、って思いません?最初から所与であるに越したことない。犠牲の世代を求めるのはナンセンスだと思う。犠牲は必要だから仕方なく払うものであって、必要も無いのに前提条件にすべきものではない。そうでなければ「生まれながらの権利」なんざ言わねーのよ。

戦い獲られる前に与えるべきです。

とにかく、「分かんねーよ、分かんねーよ、分かんねーよ」と言ってれば、
被差別集団に責任を押し付けられると思っている人が私は大嫌いです。

長引くと斬捨て御免に走るのはそういうわけなので、コメント下さる際その点ご了承下さいね。

2. 女性の知性に『(反語的な)小』をつけて蔑視しがちなのは日本特有なのか

そんなことないみたいですね。

英語圏の人と話していると、男性が女性を『暗に』悪く言うとき、
「彼女はseriousだ」という表現が頻出するように感じます。
皆さんが良く知っているディベータたちの口からも頻繁に聞きます。
どうも日本語の「小賢しい女」に対応するのが「Seriousな女」のようです。

随分前『話を聞かない男、地図が読めない女』という本が有名になりましたが、
冗談が分からない(ユーモアを解さない)女、というのも連綿と続くdiscourseですね。
英語圏(に限らないかも)では、常に肩の力を適度に抜いているのが格好良いとされがちなようで、
シャカリキになるのは格好悪いとされるようですね。(最近ではグローバルに広がりつつあるものの、もともとは英語圏の特徴なのではないかと思う理由は、フランス映画やインド映画にあまり以下に挙げるようなキャラを見ないから。でも単に私の観る映画が偏っているのかも。サンプルが少ないので。)

Seriousと言えば思い出すのは映画『シャレード』。オードリーに「真面目(serious)に聞いて」と頼まれたケーリー・グラントが、「serious?俺くらいの歳の男には危険な言葉だなぁ…」とフザケた返答をするシーンがあります。大変象徴的なシーンだと思います。命の危険に晒されながら何処か人をくったようなユルさをギリギリまで保つのが魅力的なヒーローらしい(そして最高潮で一瞬だけ真面目/必死になる)。ダイ・ハードのブルース・ウィリスは延々と妙に悠長な独り言をぼやいているし、『カッコーの巣の上で』のマクマフィーはいつも軽口を叩いている。ユルキャラ萌えとでも言えそうな感じ。

で、映画でも小説でも、女性がこの『ユルキャラ』を担当していることって非常に少ない、というか観たことがない。

(ちなみにここで更にエッジーな発言をすると、モンゴロイドの男性が『ユルキャラ』を担当していることも非常に少ない。ジャッキー・チェンのハリウッド進出後の映画は全てジャッキーが真面目(Serious)な役、相方(例えば『ラッシュアワー(Rush Hour)』のクリス・タッカー)が『ユルキャラ』担当です。そういう意味ではね……、うふふ、モンゴロイドの男性は『女性的』に扱われている。魅惑的な同性愛者という役柄に極東男性が人気なのも偶然じゃないかもしれませんね……)

別カテゴリーとして『天然ボケキャラ』があるわけですが、こちらはちと頭の巡りが悪いタイプや常軌を逸したタイプ。彼らは常に『光る脇役』ではありますが、まず主役ではありません(ミスター・ビーンとか例外はあります)。たとえば『ノッティングヒルの恋人』のスパイク。あのボケっぷりは愛嬌はあるがスマートでは決してない。アルマゲドンには皆が隕石に穴掘ってる時にのんきに鉱物観察したり『博士の異常な愛情(Dr.Strangelove)』の真似をして遊んだりするロックハウンドが登場します。

こちらの「ちとオツムが弱いチーム」(ロックハウンドは自称天才だけど)には女性キャラもいます。『ノッティングヒルの恋人』からハニー、『アリー・マイラブ(Ally McBeal)』のエレイン、stupidに限りなく近いかstupidそのものなキャラたちです。しかし彼らは愛される。

不思議ですね。

そして、男性が「彼女はseriousだ」と言う時の独特の間合いは、明らかに否定的な意味です。例えば『サウスパーク』のウェンディ・テスティバーガーはステレオティピカルな「Seriousな女」として描かれています。更に酷いのは『A Few Goodmen』のジョアンナ(あれは酷い。しかも相方のキャフィーがこれまた典型的な『ユルキャラ』だし)。最近だと『フィクサー』のカレン。

では賢い女性はチャーミングなキャラクターとして出てこないのか。

この点においてモニュメンタルな作品と言えば……

『紳士は金髪がお好き(Gentlemen Prefer Blondes)』

あれは凄い。最後の最後で「私みんなが思うほどお馬鹿じゃないの」という台詞に圧倒されます。あれ観ると色々青臭い疑問が生じるわけですが、それでも一応考えてみることにすると、「なぜ『本当に賢い』女は馬鹿なふりをする」んでしょう。ああ、ローレライ、君は本当にそれで良いのか!?お馬鹿じゃないなら何故お馬鹿かのように振舞う必要があるの?そんでもって一体全体それは本当にお馬鹿じゃないの?

しかし映画館に足を運んだ当時の男性達の殆どはラッセルとモンローのどっちがセクシーかという争点に終始したらしい…。そして、そう、"Gentlemen Prefer Blondes(男性は『知的なブルネット』より『(一見)お馬鹿なブロンド』が好き)"。(いやー、こんなステレオティピカルな偏見表現を露骨に入れたタイトルで作品創って良いのか!?凄いなぁ……どんだけエッジーやねん。これを観ちゃうとLegally Blondeとかパンチが無さ過ぎて全くつまらない)。

まあこの映画によると、女の知性は「一見とんでもなく馬鹿だけど、実は馬鹿なだけじゃない」くらいが絶妙の配分ってわけですよね。そして真面目(serious)でセンシブルなドロシーよりもだらしなくてフラッパーなローレライが断然良い、ってわけ。いやー、ホント、現代にとっては何とシニカルな映画だ……

そして何が一番凄いかって、当時とあんまり状況が変わってないのが凄い。
いや、本当に凄い。

こうして見てくると、女性の知性がどう描かれ扱われているかは、あまり洋の東西を問わない問題なのでしょうね。但し、この手の話で男性と同じベースに立って安心して話ができる(男性の理解度を信頼できる)頻度、話が噛み合う頻度は圧倒的にアメリカ(特に西海岸)やオーストラリア(特にディベータ)でのことが多い。この点は日本の男性ディベータには気をつけて欲しいですね……とか言いつつかなり諦め気味な私。

ま、今回はこの位にしておきましょうか。

次回へ……(私の気力が持てば)つづく。

2 comments:

Anonymous said...

ども、丹羽です。

メインの論点に関してはちょっとまだ自分の中で考えがゆらいでいるので、とりあえずおくとして…。

サイードについて(ご存知かもしれませんが、一応)。イスラーム政治思想史、中東地域研究を専攻している池内恵によれば…

Q/ アラブ諸国ではごく一部の西洋化した知識人サークルの外には聴衆をほとんど得なかった。生まれ持ったアメリカ市民権の利益を享受し、西洋文化を身につけて地位を築き、アラブ系の地位向上も唱道して多文化時代の新しいアメリカン・ドリームを体現する存在だった。晩年はエジプトなどの官制・翼賛メディアにもときおり登場したが、「欧米社会で評価される権威」でありつつ「激越な欧米批判を繰り広げる民族主義者」というのが、許された役割だった。彼にはそれに抗うすべも意志も残っていないようだった。/UQ

とのことです。引用文は『書物の運命』から。もし未読でしたら、ぜひ。

go said...

丹羽君、

おお、いつの間にかコメントくれてたんだね!ありがとう。

うん、池内恵(凄い名前だね)氏の言うとおりだと思います。

ただ、少し手厳しすぎる、とも個人的には思う。

どんな場合でも、「声を奪われた」集団のために声を挙げるにはマジョリティと接点を持たなければならない。そのために本来の所属集団から「マジョリティに接しすぎている」と批判をされ部外者として切り離されるのは、マイノリティのために声を挙げる人の宿命みたいなものです。「サイードを悪く言う暇があったらお前がイスラム圏のために声を挙げろよ」というのが私の率直な感想ですね。池内さんがイスラム圏に帰属していると自他共に認める存在ではないのであれば、かなり無責任な非難だと思わないでもありません。もっと建設的なコメントをするべきだ。

そしてサイードが書いた内容は、サイード個人のアイデンティティと切り離しても、というか切り離してこそ意味があるのではないかと思う。フーコーの著作も、彼自身ゲイだったらしいということを切り離しても偉大ではないでしょうか。どちらもマイノリティ全般に当てはまる汎用性の高い指摘にあふれています。それを「enough Islam」ではなかったと、「本当の意味で我々の声ではない」と排他的になっても、コミュニティが延々と分裂を続けるだけではないかと思います。

卑近な例ですが、日本のディベータは外国人で日本でディベートした人達や、帰国子女、インター出身者を、「彼らは違う」と言いがちではないでしょうかね。そうやってmarginalizeすることがどう利益になっているのか、本当に『日本的』なディベータの活躍の幅を広げるために役に立っているのか疑問です。重要なのは、誰かが自分達の伝えたいと思うメッセージを共有してくれること、そして実際に声を挙げることだと思う。

私自身、英語が下手で、ディベートも国際基準に合っていなくて、知名度もなかった頃は純粋に『身内』として扱われていました。海外のディベータに言ってやりたいことは沢山あって、『内輪』でシェアしていた愚痴も沢山合った。それが、努力して実際に声を挙げられるようになると、途端に『masakoは僕らと違う』となる。部外者扱いされることが多くなる。困ったものです。

社会は個人を気まぐれに『身内』として扱ったり『部外者』として扱ったり好き勝手にするけど、それは個人自身の帰属意識と必ずしも連動していないんだと思う。

サイードも、本人はイスラム圏の人間だと強く認識していたんじゃないかな。ただ、イスラム圏から『部外者』として扱われてしまうことが哀しくても、自分にとって守る対象であり身内だるイスラム圏と闘う気にはなれなかったんじゃないかな。彼は敢えてその「逆差別」と戦わないことを選んだのかもしれない。その気持ちちょっと分かる。それを「抗うすべも意志も残っていないようだった」とは随分非情な言いざまではないかと思う。大体、サイードを部外者だと突き放すことでどんなメリットがイスラム圏にあると言うの?損してるだけじゃん。

なんにしても『書物の運命』、是非読んでみます。ありがとう(^v^)/

ところで元々のポストにミスがあります。サイードについての映画のタイトルは、「Out of Space」ではなく「Out of Place」です(笑)あはは、宙の彼方に言ってしまうところだった…失礼しました。