Friday, August 29, 2008

Feminology (2. The Naked One) フェミノロジー(第二話:素の女)

マイノリティの地位向上についてのディベートで否定側に回ってしまったら
「Society is not ready」と言い張るしかない、というのはTの教えでしたね。

先日の、(ふじま君のは問題外ですが、)大たっきー君のコメントを読めば、
いみじくも「Society is not ready」であることが如実に分かるわけです。

多くのマイノリティの地位向上に関するディベートで議論になるとおり、
Societyを、つまりは人々の『考え方』を、変えていく方法が本来は争点となる筈です。
私達は同性愛者がリンチにあったり就職拒否を受けることをなくしたいだけではない。
同性愛者を差別する心を、社会から取り除きたいのです。
私達は外国人が不当な労働環境におかれたり人種差別的な発言を受けることをなくしたいだけではない。
人々の外国人に対する差別心をなくしたいのです。
私達は、いかなるヒトも、正当な理由なしに蔑まれることなくありがままの姿で愛される社会を創りたい。
tokenismの議論は、glass ceilingだkicking it around in its backyardだと説明を講じたところで、とどのつまりは、心が変わらなければ何も変わらない、そういうことではなかったでしょうか?

翻って、現状に問題が存在するのかどうかを議論している私たち自身を顧みれば、
本当に「Society is not ready」というわけですね。
『思考』について問題にするのはおかしい……ですか。
本当に、Society is not readyですね……(溜息)

そして、Social Awarenessは放っておいても上がらない、
……だから、辛くても声を挙げなければならない、
と無理矢理自分を鼓舞してみる。

さて、前項は、

1.『思考』も、いやさ『思考』こそが問題である。
(フェミニストの女性には「分からない」と言えば済むと思ったら間違いである。)
2.『思考』の問題は洋の東西を問わない。
(多くの国の女性が処世術として「知性に欠けるフリ」をしがちである。)

という内容でした。

本項では、
3. あるべき状況とは何か
フェミノロジー一般について考察します。

次項、
4. 現実はどうか
5. 想定される反論と返答
と続けられればと思います。

その後、もう少しディベートに焦点を当てていけると……いいなぁ…、と。
長期戦ですが、まあお付き合いいただける方だけお付き合いくださいませ。

しかしねー、こうして長々と説明しなければ「自分勝手なヒステリー」ととられる。
こうして一々説明すれば、「小難しくて小賢しくて小うるさくて、お堅い(seriousな)女」と言われる。
全く救いのない話ですな。損しかない。だから賢い人ほど声を挙げられない。

もう一度言っておきましょうか。

これは大変よろしくない。

更にもう一度言っておきましょうか。

これは大変よろしくない。

私は頭悪い頑固者です。
そしてかつてかのコーチに言ったとおり。
「I'm proudly stubborn」

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3.あるべき状況とは何か-あるがままの存在として愛されること

被差別者の地位向上一般に言えることですが、
要は「あるがままの姿でいられること」を目指しているのだと思います。

同性愛者が軍隊に入るために性的嗜好を隠さなければならないのはおかしい。
有色人種が白人のように振舞わなければ(そして『オレオ』だの『バナナ』だのとからかわれなければ)社会的成功を得られないのはおかしい。
日本語を母語とする者が標準的な英語を話せないことを恥ずかしく思わなければならないのはおかしい。

同じことですね。

ヒトは自分が誰であるかを恥ずかしく思う必要はない。
ヒトは自分が誰であるかによって競争からmarginalizeされるべきでない。

女性が、知性を隠したりaspirationを抑えたりすることは、この原則に抵触しています。

(こんな単純なことを、こんなに長々とかつ卑近な表現で書いていることが、これを読む方の知性を過小評価していると受け取られないか大変危惧しています。もし気分を害されたらごめんなさい)

ローレライは女だから自分の知性を隠している。
これは不幸なことです。

女性がありのままの知性を素直に発揮できる世の中であって欲しいと思います。

小難しいんじゃない、難しい話をしてるんです。
小賢しいんじゃない、賢い人なんです。
小うるさいんじゃない、主張のある人なんです。

素のままの、あるがままの知識人でありたい。男でも、女でも。
でも前者の印象を持たれることが、女は特に多い?
それは不幸なことです。

"Hey, but we live in the real world"?
確かに。

次回、
4. 現実はどうか
を……お届けできるほど私の気力が持つと……いいなぁ…。

7 comments:

Anonymous said...

抑圧から解放されるための、
「認識、言説を変えることをめざしたプロジェクト」

と理解してよろしいですか?
(単純にまとめすぎかもしれませんが)

go said...
This comment has been removed by the author.
go said...

manoloさん、

素晴らしいまとめです。
ありがとうございます。

…プロジェクトと言うには原始的過ぎますけれどね。とにかく不満を声に出すことから始めよう、ってのは(苦笑)。しかも組織だってすらいないし。

Anonymous said...

非常に興味深くておもしろいです。

日本人のジェンダー意識が遅れていることは認めますし(女性に対するものに限らず)。

問題提起と啓蒙は実際問題としてすごく意義があることだと思います。

ただそれでも僕のスタンスは多様性を認めるべきであることに変わりませんが、目指すべき理想状態を読んでアプローチの違いなのかなと思いました。

面倒くさいかもしれませんが、続きも期待しています。

Anonymous said...

 コメントを拝見していて「多様性」という言葉が出てきたのが面白かったのですけれど、「多様性を認めない」のは「多様性」には含まれないでしょうね(ある程度現実的に飲み込む部分が最後の最後であるとしても、概念的にはそれを多様性として言い張ることには難があるでしょう)。
 正当な理解の上での認知や言説と、そもそもバイアスだったり、不要に作られ押し付けられた物語だったりということは区別をするべきなのでしょうし、恐らくこのあたりは単純な整理の問題なのだろうとは思いますが。

go said...

大たっきーさん、masashiさん、

コメントありがとうございます!

> 大たっきーさん、

まず、私の好戦的なコメントにも関らず参加し続けて下さって本当にありがとう。ディベート仲間ってこういう時良いな、と思う。どんなに明確に意見を異にしても、それだけでは簡単に信頼関係が崩れない。安心して自分の意見を曝け出せるのは、大たっきーさんのような人がいるからです。

さて、多様性については、以下に二つ前のポストのコメント欄に書いたことをもう一度載せます。

多様性、という言葉を大たっきーさんは具体的にはどういう意味で使っているの?

「outspokenな女性を嫌う人と嫌わない人の多様性?」

(ちなみに、私個人の性格に起因する好き嫌いは、私は別に問題ないと思います。けどさ、二つ前のポストに挙げたような例は明らかに「女がディベートすること」に関してのコメントです。そうでないなら「女だてらに」とか「ディベートする女性」という表現にはならない。それも分からないとか言わないでね。)

もしそうなら、私の返答は…

「そんなの多様性とは言わない。」

大たっきーさんの言っている多様性ってのは、「奴隷制を支持する人と支持しない人の多様性」とか「ゲイをリンチしたい人としたくない人の多様性」とか「ストーキングしたい人としたくない人の多様性」とか「人種差別発言をしたい人としない人の多様性」とか「部落出身者に就業の機会を与えたい人と与えたくない人の多様性」とかいうレベルのものでしょ。そんなの多様性とは呼ばないと思う。

ダメなものはダメなんですよ。人を傷つけることを望む多様性なんて要らない。悪いことをする自由なんて要らない。当たり前のことじゃないかしら。

分かりやすい例を挙げたいと思います。
同性を愛するのは決して恥ずべきことでも抑制されるべきことでもない。
けれど、幼児を愛するのは恥ずべきではないかもしれないが抑制されるべきことです。
(異性間の場合と同じように)お互いの了承がある限り、前者は誰も傷つけない、どころか人間の幸福を追求するものです。
けれど、幼児を性愛の対象とすることは、許されない。①幼児には大人と同じようには「了承」できない、②幼児の精神的・身体的脆弱さを不当に利用している、③殆どの幼児は性愛を感じないので一方的、④幼児(の心)を傷つける恐れが大きい、といったことがあるからです。

人を傷つける多様性なんて社会は追求していない。

大たっきーさんはこの点よく分かっている筈です。だって一体何度この手のディベートをしたというのか。

それなのに多様性なんていう言葉をこういう時に使って煙に巻くのは非常に狡猾で不誠実だ。大たっきーさんは頭の良い人だから、正直私は尚更憤りを感じます。

話の焦点をずらすのはやめよう。

Anonymous said...

論点をヅラしているつもりはないのですが、
実際問題としてヅレているのかも知れません。

それは前述の通り、僕自身は(おそらくはフェミニズムとは)別のアプローチをしているからでしょう。

社会的問題にたいする僕のスタンスは個人主義とリベラリズムです。

僕が使用している多様性という言葉は、スズマサさんがおっしゃっている例の全てを含みます。そしておそらくは(指摘されていますが)多様性を認めないというスタンスも含みます。

思想・良心の自由および表現の自由は最大限に尊重すべきことです。特定の議論または意見表明そのものを抑圧するのは危険なことだと思います。抑圧された瞬間にその問題に関して思考停止に陥り、例えそれが評価されるべき議論だとしも、それを正当に評価すること自体が難しくなるでしょう。

スズマサさんが指摘する、人を傷つけるうんぬんという議論は、危害原理、すなわち「個人の自由を制限する正当性は、他者加害を防止するためにより導かれる」という観点より僕は賛成します。

これは自己の権利を主張する前段階で守られるべきルールで、かつ対等なルールです。

だからどのような思想を持つのも自由ですが、だからといってその思想によって他者の権利を侵害する、差別的取り扱いに関して妥協する余地はありません。自己の自由のために他者を加害すべきではないのです。

簡単に言えば、
「お前の考えは間違っている、こう考えろ。」
というアプローチではなく
「お前の考えはどうあれ、とりあえずそれで人に迷惑かけんな」
というアプローチであるべきと考えています。
だから「具体的弊害」を語るべきだという結論になるわけです。

本題に入ります。
もちろん発言そのものを規制すべき場合もあります。名誉毀損など言論そのものが危害原理にひっかかっている典型でしょう。
では差別的発言(いわゆるヘイトスピーチ)はどうか。
僕はあからさま(例えば他者を傷つける目的で発せられたのが明らかな場合)でなければ表現は許容されるべきであると考えます。
言論には言論で対抗すべきです。
特にフェミニズムに関わる差別的発言は微妙なものが多いのでなおさらです。

実際にスズマサさんが(おそらくは狂ってる考え方として)挙げた多様性の例の考え方は、その言論を規制することでなく、対抗言論によって支持されなくなっています。

まとめです。
スズマサさんは最初のポストで具体的弊害をあまり挙げないまま、(今回のポストを引用するなら)「outspokenな女性を嫌う自由はない」と言い切りました。(少なくともそう感じました)
倫理的理由で個人の好き嫌いの自由まで制限しようというのはかなり挑戦的で排他的な考え方です。
(もちろん「あえて」だとは思いますが)

さらに挑戦的であるにも関わらず、個人的に理由が不明確であるように感じました。果たしてその段階で議論の余地がないようなスタンスが正しいのか僕には甚だ疑問です。
自由を守るため、差別を排除する目的で特定の思想を強制することは、自己撞着的に他の思想を差別し、その思想以外の考え方を持つ自由を制限することになります。
だから僕は排他的思想を持つイデオロギー全般に危険性を感じ、不信感を持っています。理由付けが明確でなければなおさらです。
さらに言えば、自己の自由のために他者の自由を制限することは危害原理にも反します。
これを肯定するには、やはり明確な理由づけが必要だと思います。

したがって現状ではスズマサさんが書かれた理想状態には、
特定の思想を持つことを制限することではなく、危害原理の徹底によってアプローチをすべきだと考えています。

もっとも、このへんは差別意識に日々さらされている女性と目線を異にしているからかもしれません。
(でも、個人的には腹立たしい男性差別もかなりありますよ)

正直「女は~」とか「男は~」みたいならレッテルとして、許容される・されるべきでないラインはどこか自分の中であまり考えが深まっていない部分もあるので、今回の展開は非常にうれしくもあります。
(ジェンダー論の本質を避けている点で、上記の危害原理的考え方は卑怯です。ええ。)

そんなわけで、やはり次のポスト期待していますというプレッシャーをかけて終わりたいと思います。

乱文になってしまいましたが、ちょうどテスト期間中ゆえにお許しを。