Sunday, August 27, 2006

[Book] 自由はどこまで可能か How far can liberty go?


[本]森村進.2001.『自由はどこまで可能か』.講談社.

この本を読んで,自分はリバタリアンというよりリベラルなんだな,と思った。

特にそう思ったのは,著者が書いてる相続禁止(相続税100%)の理由。贈与は個人の所有物に対する意志が明確だから自由を尊重しているが,相続は故人の意志という架空のものに依拠している,というのが主張のようです。

私は,人によってスタートラインが違いすぎるのがフェアではないという根拠を最初に思ってしまう。でも確かにそんなこと言ったら贈与はどうするんだよ,親に受けさせてもらった教育の違いはどうするんだよ,子供の食生活と健康だって親の収入に影響受けてるよ,スタートライン一緒なんて幻想なんだよ・・・と言われたらホントごもっともです。贈与もすんなっって言えるほどラディカルにもなれないしなぁ・・・(ていうか贈与を禁止したら経済取引として同じことをするだろうな。だからといって市場も否定したりしたら全くの共産主義に・・・そんなんやだ)・・・うーん・・・リバタリアンの方が一貫性が高いなぁ。(但し,リバタリアンの多くは故人の意志を想定して相続を正当だと考えているようです)

でもやっぱりこうして考えると私は,人格的(社会的)自由度は高ければ高いほど良いと思ってるけど,経済的自由度はあまり高いといやだ(ない方が良いと思っているのではなくて,高すぎるのは嫌だ)と思っているんだなぁ・・・。うん,やっぱり私はリバタリアンではなくリベラル・・・かな。

他に,「臓器移植くじ」のたとえ話(くじに当たった人の臓器を病気の人たちに移植すれば,一人の犠牲で沢山の人を救える。そうするべきか?という思考実験)も面白かったです。「殺すのと死んでしまうのとは倫理上違う(病人が死んでしまうことよりもくじに当たった健康的な人を殺すことの方が問題),というのには根拠がない」という部分がかなり。私もやっぱり殺すのと死んでしまうのは違うと感じるので,社会の持つ価値観の非論理性が確かめられて興味深く思いました。

頭の体操になる本です。リフレッシング!こういうの好きです。

3 comments:

Anonymous said...

はじめまして。mixiからやってきました。

>リバタリアンの方が一貫性が高い

そうでしょうか?僕にはリバタリアンは、まともに考えるべきところを考えていないように思えます。ご存知のように、森村氏のリバタリアニズムはジョン・ロックの「自分の身体は自分のものだから、自分の身体から生産したものは自分のもの」というロジックに依拠しますが、「自分の身体は自分のもの」を認めたとして、それが「自分で生産したものは自分のもの」とアプリオリにいえるのか、というところが問題になってくると思います(ちなみに僕は「言えない」と考えています)。自分のものであるという基礎づけができないからこそ、私たちには所有が可能になるのだと思っています。

森村氏の本にも挙がっていますが、立岩真也『私的所有論』は、そのあたりを考え抜いた本です。

go said...

コメントありがとうございます。

えーっと…,のざりんさんは財産所有権は認めない派,ということでしょうか?それはそれで一貫性があると思います。

私は財産所有権は認める派で,且つ純粋な資本主義(弱肉強食)もイヤ,かなり高いセーフティーネットが欲しい,という人なのでどうしても一貫性が低くなっている気がします。相対的に森村さんの方が私よりは一貫性があるのではないでしょうか。

Anonymous said...

レスありがとうございました。

>財産所有権は認めない派,ということでしょうか?

僕が言いたかったのは、財産所有を権利として認める云々ではなく、財産所有が自らの生産を根拠に正当化されるという論理は成り立たない、ということなんです。

森村氏は別の本(『財産権の理論』)でも身体の自己所有→自己の生産物は自己のもの、という論理がなぜ成り立つのか、詳しく説明していません。

僕は、まず「生きる」ということに定位させたとき、財産の所有は生きることを論理的に凌駕し得ない、すなわち、「十全な生を享受することではじめて、所有が可能になる」というところからスタートさせます。

そのとき、十全な生を享受するためにこそ、財を所有し、使う自由があることになるわけです。僕は「すべての人が十全に生を享受する」ということを無条件で認めるべきだと考えますが、そのためにこそ財産の所有が肯定される、そういう位置づけで考えています。

存在するということが根本的な私たちの自由であると考えるなら、セーフティネットという「強制力」がないことは、むしろ特定の人の生を十全に保障しないことになります。その結果、その人の自由が奪われることになる。

「たくさん働ける人がたくさん取って、少ししか働けない人が少ししか取れない社会」よりは、「だいたい暮らすために必要なものがすべての人にいきわたる社会」のほうが僕はいいなと思っています。そして、そのために言うべきことをちまちまと言っています。