Tuesday, September 26, 2006

命は誰のものか To be or not to be

楽しい集まりがひけて終電で帰りました。
鼻歌交じりのご機嫌で家路につき、玄関のドアを開けたら、

ビイイイイイイイイイ

夜のしじまにけたたましい音が!!!
ひいいいいい、とムンクの叫びな顔になりました。
私が帰ってくると思わなかった家族が防犯システムをオンにして寝ていたのでした。
「帰ってくるなら帰ってくると言え」と、ばっちり叱られました。えーーん。ごめんなちゃいいいい。
叱られるときは幾つになっても子供です。

さて、今日のディベートは、「積極的安楽死を合法化すべきか」でした。
私は否定側第一スピーチを担当しました。3-1で負けました(涙)
まあ、そもそもリベラルな人が多いディベート界では、
この論題で否定側が勝つのは稀です。国際大会なら尚更。
なので、まあ仕方ないかな、という気はします。
それを除いても私の出来は悪かったのですけど(涙)

肯定側の論点は、やはり患者自身の死に方を選ぶ権利、QOLについてなどでした。命は本人のもので死も含めて自己決定権がある、というものです。

私自身は、根っからPro-Choiceなので、堕胎についても安楽死についても肯定側です。だから肯定側の意見につい頷きたくなってしまいます。否定側の意見を組み立てるのは結構大変でした。

まあ、そんなこと言っても始まらないわけで。自分以外の人の考え方もシミュレートしてみれるところがアカデミック・ディベートの美点なわけで。そうやって他人の立場や意見を思い遣ったり尊重したりする術を学んでいくわけで。否定側になった以上は否定側の立場を掘り下げて考えなければなりません。

私たち否定側は、肯定側のQOLに対して、SOL(Sanctity of Life)を掲げ、「どんな状態でも、たとえ息をしているだけでも生きていることには意味がある。それが誰のものであっても、たとえ自分自身のものであっても、命を奪う権利は誰にもない。」というPro-Lifeの立場を打ち出しました。

この部分は、どうやらあまり観客ウケしなかったようです。もっとプラクティカルな話に焦点を絞ってもらいたかったみたい。国際大会では、こういう大上段に構えた倫理に関する議論がウケるので、ついついそちらに合わせた議論をしてしまいがちな私。日本の観客の方はディベート経験者でもそうでなくても一貫してプラクティカルな分析を好む傾向があることをすっかり忘れていました。失敗。

スピーチのリプロダクションもいつもどおりやってしまいたいところなのですが、とっても眠いので明日にすることにします。とにかく今日の教訓は、倫理と実利のバランスを取ろう!ってことでしょうか。また後日スピーチをアップします(^v^)

2 comments:

Anonymous said...

日本人は本当にプラクティカルな話が好きですよね。
「話が具体的である」「議論に優劣をつけやすい」「論理構成をしやすい」という点でわかりやすいのは認めつつ、それでも僕としては「それは技術的な問題だったっけな?」と疑問に思ってしまいます。
「技術的にダメ」なのと「本質的にダメ」なのは議論の次元が違うはずで。
「医師による殺人が起こるから安楽死はダメ」と言われると、殺人の可能性さえ技術的に克服できれば安楽死はOKなのかと問いたくなってしまいます。
北方領土や竹島にしたって、経済的『実利』のために闘ってるんじゃないはずですし。

「技術的に事故etcの確率はゼロにはできない(原発事故など)」を前提にしつつ、そこからリスクマネジメント的にどのような決断を下すべきかを論じてくれればまだ現実的だと思うのですが。
その決断の基準はやはり哲学が反映されるので、結局は技術的な克服可能性は議論の本筋から逸れるような気もします。

そうは言いつつ、マニアックでトリビアなプラクティカルアーギュメントを考えるのは好きなんですけど。
(捕鯨問題で、「鯨の内臓には産業廃棄物が溜まってるから食べると有害だよ!actually in US」という論点を出そうとしてパートナーに止められました(^_^;))

go said...

そうなんだよねーーーー。

とにかくbenefitial thing to doかどうかばかりが注目されている気がする。それが理性的だという思い込みがあるというか。

right thing to doかどうかを考えるのは感情的で間違ったアプローチだと思っているのかなぁ。

私には、物事の正邪や善悪を断定することへの恐怖がある気がする。日本の社会全体に。価値判断を排除しなきゃいけないっていう強迫観念があるっていうか。「それは主観だよね」が反駁になっちゃうのが凄いと思う。なんでそんなに善悪を議論するのを嫌うのかしら。やっぱり価値観をガラリと変えざるを得なかったこの国の歴史的な背景が、客観的事実至上主義を生んでいるのでしょうかね…。善悪なんて一夜にして変わる脆いものだと、何処か思っているのではないでしょうかね…。

ポリシー・ディベートのエビデンス至上主義や、統計や数字至上主義みたいな偏屈さも根っこは同じなのかもしれないなぁー、と思ったり。パーラのジャッジでも数字や実利的で目に見える結果に終始するバロット書く人いるしね。スタイルに関係なく、とにかく客観的に測れるものだけを重視するのが「理性的で格好良くて正しいことだ」「倫理に理屈を捏ねるのは感情的で胡散臭い」っていう思い込みがあるんじゃないかな。

ちなみに、うちの否定側が負けたのは別に審査員のせいじゃありません。単にパフォーマンスが低かったの(涙)しかもパートナーは上手だったからつまりは私のせい。シクシク。次はがんばります。