Thursday, July 26, 2007

[Book] 敗北を抱きしめて embracing defeat

[本] ダワー,ジョン. 2004. 『敗北を抱きしめて(増補版)』. 岩波書店.
[Book] Dower, John W. 1999. Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II. The New Press.

しばらく前の『スター☆スタジオ(Inside the Actors Studio)』のゲストがサルマ・ハエック(Salma Hayek)だった。知的な受け答えとチャーミングさに私はすっかりファンになってしまった。瞳の輝きも生き生きとした表情も気さくさも凄く素敵な女性だ。ラティーノであることが格好良いことになる前の米国で、彼女が女優として活動することがどう難しかったか、英語の訛りがどれだけハードルを上げたかについて聴衆から質問が飛んでも、あっけらかーんと笑いながら答えていく。知的で芯の強い女性だなぁと感心してしまった。

ただ一つ、私には頷けない返答が終盤にあった。それは、「正しければ、必ずそれがいつか「ついに(eventually)」認められて生き残る。」というもの。「正義は勝つ」ってわけだ。 私はそうは思わない。

世の中には正しかった者が死に絶えて忘れ去られたような戦いが沢山ある。
ICJをはじめ世界中が正義はニカラグアにあったと認めても、彼らの破壊された国も経済も人の心も見捨てられたままだ。何の償いもされずただ無視されている。正義の鉄槌だった筈のコソボ空爆が大して正義に適ってはいなかったとわかってセルビアの死者は蘇るのか。絶滅した原住アメリカ人の部族は正しくなかったのか。タリバンに破壊された仏像はいつか遠い将来「ついに」その姿を取り戻すのか。

馬鹿を言って貰っては困る。彼らは正義の下に消えたのではないし、彼らにはNemesisすら微笑んだとは思えない。実に「憎まれっ子世にはばか」っているではないか。正しい者が汚泥と屈辱の中で死に絶えることは確かにある。ざらにある。だからこそ人は今この一瞬の自分の判断を大切するのではないだろうか。

「正義はいつか勝つ(だから今を耐え忍べ)」なんて、
メロドラマティックに酔いしれるのも説教たれるのも無責任極まりないと思う。
村女を火あぶりにして、生きていられたら無実だと言う魔女裁判のようなものだ。
正義は約束されていないからこそ追い求める意味がある。

が、困ったことにディベート仲間にこの手の説教を喰らう頻度は非常に高い。
確かに私はイラチだと思うが15年で遅々としか進まなければ苛立って何が悪い。
一体なんだって未来は薔薇色だと信じられるのか。根拠は何なのだ。
(特にT、読んでるか,ちくしょー。)

大の大人が「正義は勝つ」と言う時のあの途方もない単純さは何なのだ。
Hope is not a strategyって誰の台詞でしたっけ?とにかくその通りだ!!

ことによると、何が正義なのか、を一義的に決めることはできないという良心(その良心は大変尊いと思う)が、母なる自然に任せて生き残ったのが正しいものなのだとか、歴史が裁くのだ、とか思わせるのかもしれない。もしそうならすっとこどっこいな話だ。いつから自然淘汰は倫理と関係があるのだ。(Tよ,君の大好きなクジラは倫理的に腐敗していて邪悪だから絶滅の危機にあるのか?)

ダワーのこの本は誠実な本だと思う。特にその冒頭の「日本の読者へ」の文章を読んで、私は上下2巻にわたるこの本を読む気になれたと思う。


ただ,日本の近代化(特に明治維新)の解釈については異論を唱えたい.明治維新が日本の伝統を捨て軍事に傾倒させた,と言われればまあそうかもしれないが,当時の日本を取り巻いていた状況を忘れているようにも思う.幕府が士農工商エタ・ヒミンの身分制度の基に統治していた時代のほうが「美しかった」とか言うのであれば,下らないの極地だ.ラスト・サムライの世界へ行って来いって感じ.(あの映画はそこら辺苛々しますよね.あれじゃモデルにされた西郷隆盛が可哀想)

ところで,近代日本にとって不平等条約の要は『関税自主権』と『治外法権』だった。私は最近、こういう単語が出てこない大学生と過ごしている。数学や国語力の低下が問題となっているが,できれば社会科教育も改善して欲しいと思う(英語力は急激に上がっていますけどね.凄いですよね).コソボ独立,スーダンやソマリアへの武力介入,南太平洋諸国の治安,日本の憲法論議,米イラン外交・・・国家の主権について語らなければならないディベートは広範にわたる.しかし治外法権という言葉に首を捻る人と国家の「主権」について議論するのは骨である。

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