Tuesday, February 13, 2007

ポプラとカエデ (第五夜: 遠い日のために)

暗くなる一方なので,その前に書くのをやめようかと思いかけていたのですが,
読んで下さっている方がいるそうなので,続きを掲載していくことにします。
ポプラとカエデシリーズもこれで第5夜です。

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12月19日,火曜日。レクチャー二日目に入りました。なんだか面子が昨日と随分違います。これは悪い傾向です。虫食いでレクチャーを受けるのはあまりおススメしません。それに加え,Tに生徒が慣れるのに通常以上に時間がかかってしまいます。一年生たちはまだまだ静かです。経験的に初IDCの子がコーチに慣れるのには3日間かかります。なので焦りは禁物……ですがやっぱりちょっと気になります。というのは質問が出ないとTの機嫌が悪くなるので,一年生が更に萎縮して悪循環だからです。10日間あるIDCの場合はそれでも放っておくのですが,今回は6日間しかないのです。悪循環にハマっている暇はありません。既にTの眉間に皺が入っています。もう来日4回目なのですからもう少し慣れて欲しいものです。

昼。この日はTと二人で出かけました。他の人も誘ったつもりなのですがなかなかね……。何処で食べたんだっけな。カフェテリア藤だったような気がします。Tはうどんを頼んでましたけど大丈夫だったのかな…まあローランドほどではありませんが,日本の麺類は得意ではないはず。ま,本人が良いって言うんだからいっか。

サラダバーにバナナが積んであり,それを貰っていると,オーストラリアではバナナが不作で価格高騰になり,バナナを食べている友人を金持ちとからかうのが流行っているとか,アホな話を聞きました。

午後もなかなか質問が出ません。

一年生が質問できない理由は複数あると思います。
(1) Tの言っていることが聞き取れないから質問が見つからない
(2) Tの言っていることが分からないから質問が見つからない
(3) 聞き取れるし分かるけど特にしたい質問がない
(4) したい質問はあるが的外れではないか心配
(5) 同じ部屋に先輩が多くて初歩的な質問をすることに躊躇いを感じる
(6) 自分の疑問を的確に説明するための英語力に自信がない
などなどなど・・・・・・壁は様々なところに存在します。

そもそも日本人講師に対してもろくすっぽ質問しない子も多いのです。質問をしないということは真剣に聞いていないことを意味するからかえって失礼なのだ,という意識が日本の学生にはあまりありません。良いクラスを作るために自分の貢献が必要だなどと考えること自体そうないようです。これは質問することが礼儀に近い社会からやってきたTにとっては相当のストレスです。だからこのリストの3から5は問題です。例えば5とか,先輩と対戦したらPOIできないのかぐらいの勢いでダメです。自分が勉強したい時に遠慮は禁物です。貪欲にならな。教えてください,とお願いして来て頂いている以上,必死に理解しようとして自分の頭で考えて,考えれば質問が出て来ないほうが不自然です(3は聞き流しているということだと思います)。その質問をぶつけるのは「あなたの言葉を真剣に理解しようとしています」というメッセージになります。

しかしですね,1や2や6の場合もあるわけですよ。この場合,分からないなりに分かった範囲から想像してでも質問しよう,と割り切れるようになるまでしばらくかかります。これは私にはかなり同情できる要因です。こちらに関しては,相当の知性を持った学生たちだからこそ,彼らが自分のプライドとの折り合いをつける時間を私は尊重したいと思います。問題は,Tにはそんなことが見えないのです。ただ,質問もせず,能面のような顔をして,非協力的な学生たちだと苛立つのです。いつか分かってくれる日が来ると良いのですけれど。

夕飯は桜に行きました。生徒が慣れてきたら少し割高な桜には行けませんから,今の内に行っておくのが良いだろうという計算でした。ピザとオードブルかなんかを適当に選んでおしゃべりをします。疲れもあって苛々気味のTに,売店が閉まる前に酒を買っておこう,などと言って少しリラックスしてもらいます。

折角1対1ですから,他の学生が一緒のときできない話をしておこうと思いました。別に他の子が一緒でも私が延々とTに話し続けてしまう事はできますが,勿論それでは意味がありません。他の子と一緒のときはできるだけ私は黙っているようにしています。

この日話すことにしたのは,「コモンセンス」のウソについてです。Tが繰り返し言う「ガッツレスポンス」とやらも,別に人類共通のものではない,ということを分かってもらった方が良いと思ったのです。

最初話していたのはイギリスの全顔面移植のことだったと思います。Tは臓器提供者(ドナー)登録は,「します」と登録(Opt-in)するのではなくて,「しません」と登録(Opt-out)するシステムにするべきだと言います。皆自分が死んだ場合のことなんて考えたくないから登録しないのさ,特に強く提供したくないという強い意思があるヤツ以外は全員ドナーにしてしまって何が悪いんだ,と。しかもドナー登録に家族の了承が必要なんだぜ,俺の体のパーツを俺の好きにするのに何だって家族の了承が必要なんだ,と。続けて,「大体火葬は環境に悪いから俺は冷凍粉砕を希望するね」と。全く変なヤツです。私は自分の体がそのままの形で凍った挙句粉砕されるというのはちょっと抵抗があります。なんでかは分からないけど燃やされる方が良いな。

まあそんなこんなの話をして一段楽したところで,「『あなたの命は誰のものか』と聞いたら誰だと答える?」と聞くと,目を白黒させています。「・・・僕・・・かな?」と漸く声を絞り出したTに,「『うん,それ以外の答があるの?』って思うでしょう?でも私が小学校に入って最初の日に先生から言われたのは,人は社会によって生かされているんだってことなんだよね」と言う私に,既にTの方は大混乱状態です。こう言っちゃなんだけど,頭が固いよな・・・。「インフォームド・コンセントって言ったら,普通オーストラリアでは患者にインフォームすることだよね。でも日本では患者の家族にインフォームすることなんだよ。」というと「そんな馬鹿な!!!」という顔をしています。続けて「安楽死だってね,日本で合法化されるとしたら家族の了承が凄く大きな意味を持つと思うよ。今だって延命装置の取り外しには家族の許可が必要だし,癌告知だってまず家族に話して,本人に病名を知らせるかどうか医者と家族が決めるんだよ」というと,Tの方はもうすんごい表情です。やれやれ。「もし万が一N(Tの彼女)が病気になって,凄く辛い病気で,もう楽になりたいわ,って彼女に言われたら,俺はすっごく辛いけど彼女の決定に異議を差し挟むなんてできないよ」と言うT。「うん,でも息していてくれるだけで良いから死なないで欲しいって思う可能性はないかな。どんな形でも生きていてくれ,あと一瞬で良い僕の傍にいてって彼女に懇願することなんてありえない?」と聞くと,「彼女の意思が優先するよ」と。「そうねぇ,私も相当個人主義で,私自身は自分に自分の病名が告知されない可能性があるなんて許せないけど,でも日本の多くの人の気持ちが全く分からないとも言わないな。私の命は私のものであると同時に,私を愛する人たちのものでもあると思う。彼らのおかげで私は生きているのだから,彼らが私を寝たきりの状態でも必要としているのなら,彼らにはその意見を反映する権利がありそうな気すらするよ」と言う私を.Tは長年来の友人が突然エイリアンに化けたかのようにマジマジと見つめていました。

その後,「人と人が支えあって人という字になる。人は一人では人間になれない」と6歳の時に学校で教わったことや,夜爪を切ると親の死に目に会えないという迷信や,『いただきます』『ごちそうさま』の意味など,日本での生活の細々としたところに『人は生きるのではない,生かされるのだ』という考え方がまだ生き残っているんだよね,と話してみました。どれも「シンジラレナーい」っといった反応のTでした。最後に私が「そんな社会で育った18歳の子供が国際大会で安楽死や臓器移植,堕胎についてディベートをしたら,どれだけ非常識で狂っていると決め付けられるか,どんなに冷たい対応を受けるか,想像できるでしょう?審査員も対戦者も,日本は何て知的後進国だろう,民主主義の皮をかぶっても結局文明の届いていない野蛮な地域なのだ,と思うでしょうね。でも本当に日本の子達が間違っているのかしら。そんな価値観に正しいも間違ってるもあるのかしら」と問いかけるとTは難しい顔をして黙り込んでしまいました。

こういうこと,なかなか18歳の子たちはすぐ説明できるようになりません。彼らは,彼らの普段生きている社会では当然とされていることをそのまま口にするだけで,知性のかけらもない狂人として扱われます。区別され,差別され,蔑まれます。でもその仕組みに気がつくのは数年後なのです。だから,私たちが少しでも彼女達が誤解されないで済むよう働きかけることができれば,と思います。

この日,Tは少しでも私の伝えようとすることが分かったでしょうか。コモンセンスという言葉で,どれだけ欧米の文化背景を一方的に押し付けることが正当化されているのか,気がついてくれたでしょうか。

正直,駄目だったのだろうと思うのです。Tは頭の良い人だけど,頭が固い面もあるのです。生命倫理という特殊な一点において,異星人のような考え方をしているらしい,程度にしか分からなかったでしょう。彼には日本のエキゾチックさが増して感じられるようになっただけでしょう。

いつか,分かってもらえる日が来るでしょうか。私にはわかりません。
その日が来るまで,いつまでも私は同じことを言い続ける気力を保てるでしょうか。
それも,わかりません。
そもそもその前に,Tが私を同じ人間として見なくなるのではないかと,思うのです。

寒空に星が綺麗です。
何万光年も前の光が今私に届くなら,
何十年も先に私の言葉が誰かに届くことも有得るでしょうか。

5 comments:

HILOKI said...

質問が出ない理由について。

(4) したい質問はあるが的外れではないか心配
(5) 同じ部屋に先輩が多くて初歩的な質問をすることに躊躇いを感じる

確かに問題ですが、最後まで残る理由だと思います。
正直なところ僕自身、「自分の質問には質問の価値があるか」を常に検証し、自信がないものは棄却していました。
思いついた質問自体は実際の1.4倍くらいあったのですが。

なので現在の研究室でもなかなか質問しにくいです。
むしろ、質問の価値の検証が不可能なくらい無知だった昔の方がたくさん質問してたかも・・・。

臆病者ですエェorz

ちなみに、アメリカでもエリート大学のディスカッションでは沈黙が続くらしいですよ。(上野千鶴子による)
「変な発言をして他の学生に笑われるのが怖い」らしく。

加えて、アメリカで出版された「研究者の卵のためのマニュアル」にも、「初歩的な質問をするのを怖がるな!」とありました。

案外あっちも同類かもしれませんよw



あとコモンセンスについて。

コモンセンスの多様性を認めない「あちら」も問題ですが、
自分の価値観の根拠を説明できないのは日本人側の責任だと思っています。
「なぜ安楽死に家族の同意が必要だと思うの?」という質問に「え、だって当たり前じゃん」などと答えようものなら、こちらが「コモンセンスの多様性を知らない狭窄視野の持ち主」と見られかねません。

masakoさんくらい綿密に説明しても蔑視されるなら向こうの問題になるでしょうが、通常の日本人はそこまで哲学とプレゼン能力を持っていないと考えられます。

go said...

そうね,確かに質問によって人の能力を測る事ができるから,「変な質問をして馬鹿だと思われたくない」という恐怖はあるよね。

ただね,ディベートでは散々その恐怖と闘っている子達でしょう。ディベートのスピーチは一方的で相当馬鹿に聞こえますよ。実際には事はずっと複雑なのに,敢て専門家でもない学生が立場を激しく単純化させて,相当当たり前なことも一から話すんですから。それすら満足にできないときは弁者は相当馬鹿に見えます。集団の理解を深めるために,あえて自分個人が馬鹿の役回りをとることを恐れない練習は充分積んでいる筈だと思います。

何より,自分の理解を深めるためなら「分からない」と言うことの恥ずかしさを乗り越えて欲しいです。聞くは一時の恥,とはよく言ったものだと思います。

日本の子に限ったことではない,というのはHILOKI氏の言うとおりだと思います。文化的な理由で度合いの差はあると思いますが,同じような心理はあるのでしょう。モナッシュではTの頭が良すぎて話すのが怖い,自分の馬鹿さを見透かされるようで話すのも嫌だと敬遠する子達がいるそうです。それこそ馬鹿かと思う。あんな才能が身近にいたら,私だったら生き血を吸い取るように張り付いて勉強させてもらうね。私が馬鹿に見えようと知ったことかって思いますけど。もしモナッシュの子達がTを敬遠し続けるような腰抜けなら,彼らが良い選手になるとは私にはとても思えませんね。だって,無知を晒してでも知に肉薄したいというのがディベータの本質(であるべき)だと思うから。

価値観の根拠は確かに説明できるに越した事はないと思います。でもね,HILOKI氏の対戦相手は,Bodily Autonomyの根拠を的確に説明できたかな?当然のこととAssumeして話したりしていなかったかな?ジャッジはそれに何とコメントしたかな?説明する必要さえなく容認されている人達と,同じように(「普通でしょ?」と)思い込んでいることを同じように口にして侮蔑される人達。

狭窄視野はお互い様です。どちらも良くない。ならどちらも学ぶべきでしょう。少なくとも現状がフェアだとは思えないな。

HILOKI said...

>ディベートでは散々その恐怖と闘っている子達でしょう。ディベートのスピーチは一方的で相当馬鹿に聞こえますよ。

いや、「ディベートのスピーチは馬鹿に聞こえる」からこそ、ディベートではその恐怖がないんだと思います。
「たかが7分のスピーチ、馬鹿で一方的に聞こえて当然」とう意識が働きます。
対してレクチャーは「洗練されていて妥当な」質問をする事が許されているがゆえ、余計に自分の言っている事が馬鹿に見えてしまう恐怖が存在します。

もう一点、「誰にとって馬鹿に見えるか」という問題が存在します。
ディベートのジャッジは大抵の場合、自分よりも立場が上。
「立場が上の先輩に馬鹿に思われても仕方ない」と思えます。
しかしレクチャーの場合、「同輩の目」が存在します。
この点もレクチャーの質問を恐怖たらしめている一因でしょう。
一般の学会でも、講演直後でなく講演終了後に一対一でなら質問できる人が多いのはこのためと考えられます。

以上は分析であって言い訳にはなってませんが。


価値観の根拠の話ですが、彼らの論拠が薄皮一枚という事はその通りだと思います。
ただ、Bodily Autonomyという視点を出せる点で一段違うと思うんですよ。
・「安楽死賛成!根拠はBodily Autonomy。その根拠はわからない」
vs
・「安楽資賛成!根拠はわからない」

こちらには「どのような切り口で論じたらいいのか」という視点自体が欠けているように見えます。

Bodily Autonomyの適訳がないこと自体がその象徴でしょう。
彼らになぜこの言葉があるかといったら、それは議論の対立軸が存在するからであるはずです。
<Bodily Autonomyが存在しない>状態を想定しているから存在可能な概念と考えられます。
(そうでなければ「死後の臓器移植強制執行の是非」のようなMotionを作れないはず)
彼らが既に対立概念を打ち出しているのに対して、こちらはない。

レスポンスとしては、
「Bodily Autonomyに対立する概念を出す」
「 “Bodily Autonomy or Group-Oriented stance”以外の対立軸を打ち出す」
「そもそも対立軸を出す必要などない、と言う」
のいずれかを選べますが、どれもできないのが通常の反応と思われます。

例えるなら、彼らが「狭窄視野」であるのに対し、こちらは「無視野」であるように感じています。

なんといいますか、アンフェアであることは認めつつ、しかし「アンフェアだ!」と声高に叫べるほどこちらのレベルも高くはない、というのが僕の認識です。

go said...

うーん……どうなのかなぁ……?
日本の皆はそんなにお馬鹿かしら?
安楽死の賛否を聞いてノーリーズンあっとおーるな程お馬鹿かしら??本当に??
ていうか我々が比べている対象のオーストラリア人はno way averageだよ?
平均的なオージーと平均的な日本人にそんなに差があるのかしら??
私には大して差がないのに扱われ方はエライ違う,って思えるのですけどなぁ・・・

もし仮に差があるとして,何が原因なのかな?

izumi said...

質問するってのはなかなか難しい問題ですね。てか、今読んではじめてTに授業の最後に「I(私)とM()は授業で質問をしてくれるのはよかった」といわれたのを思い出しました。個人的に、「もったいない精神」が働いただけだったので驚いたんですよね。

「もったいない精神」って大事だと思いますよ。目の前にすごいディベーターがいて、しかも何でもいいから質問しろって言ってるって時に、何か聞かないともったいない気がしてすかさず何でも質問してました。

おなじく成蹊のM君も質問してて、クラスで英語が流暢じゃない二人が基本的なことから質問してたので、他の人からの質問もちらほらでてました。誰か果敢に質問する人がいると、自分もって思えるのかもしれません。

質問する際に、わからないって言うのってものすごく勇気がいりますが、誰か一人はわからない人もいて私がおばかな質問することで救われる人はいるにちがいないという前提をもとに「わからーん」とTにきいていました。

他の何よりも「この機会を逃してなるものか」という精神と自分の正当化ができるかってのも重要かと思います。

お昼にご飯たべないってのも少しわかりますね。昼まで英語って疲れるってのもあるし。IDC3中はスタッフだからってのが大きく作用していつも一緒にご飯たべてましたね。今は平気でわーいと食べにいけますがw