Wednesday, May 09, 2007

最後の一人 the last one

IDC8終了後講師を成田に送る道すがら、言葉の話になりました。確か私が「もしあなたに子供がいたら何語で教育を受けさせたいか」と聞いたことから始まったような気がします。

日本で暮らしている限りはあまり考えることのないこの疑問ですが、今回のように民族的にはタミル語が母語だが中等教育まではマレー語で受け、高等教育以降は英語主体、というような多言語混合な人を見るといつも疑問に思うことです。どの言語が母語か、と訊いた場合とは別の返答があったりして興味深いです。

英語というのがスレッシュの回答で、私としては疑問が残りました。だってさ、そうやってタミル語やマレー語が死滅する可能性を加速させることに感傷はないのかしら、と思って。どうやらスレッシュはとってもプラグマティックなようでしたが、私にはそこまでさっぱり日本語を切り捨てることは到底できないなぁ、と思うのです。そんな風に駄々を捏ねたところで、いつか将来日本の子供たちも生存のために日本語を捨てる日が来るのでしょうか。

昨日何気なくテレビをつけたら岸恵子が出ていました。
娘が日仏ハーフで英国人と結婚したとか。
孫達は父親とは英語で、祖母とはフランス語で話すのだそうです。
で、日本語はこれからなのだとか。
・・・・・・まあ二の次でも勉強してくれるだけ有難いのかな?
しかしどうやら十歳過ぎているようなのでどの位流暢になるかは疑問な気もします。
なんか言葉の運命ってハードボイルドですねぇ(笑)

もし私が世界で最後の日本語話者になったら・・・・・・最後の一人だったら。
何を日本語で言っても解する人が世界中に誰もいなかったら・・・・・・
私よりも年下の人で日本語しかできない人が沢山いる以上、
ほぼあり得ない想像ではありますが、やっぱり哀しい気がします。
ネトルの言うことは正しい。言語は好き好んで自殺などしない、と私は思ってしまうのですが。

さて、今日はひょんな理由からシェイクスピアの『Julius Caesar』を読んでいます。
論文に引用されている箇所のチェックをしないといけないんです。
古英語は苦手なのでやれやれです。読んだのは当然、

Friends, Romans, countrymen, lend me your ears;

で始まるMarcus Antoniusの有名な演説です。

この演説を読むと、「日本の演劇でこんな風に大衆に語りかけるシーンってあんまりないよなぁ。西洋はスピーチを重んじる文化圏だなぁ」と思いそうになるのですが・・・・・・Antoniusは同じ演説の後半でこんなことも言っています。

I am no orator, as Brutus is;

は?

ていうかこれだけえらい演説かましておいてなんだそりゃ。なめとんのか。
挙句の果てに、

For I have neither wit, nor words, nor worth
Action, nor utterance, nor the power of speech,

ときたもんです。
で、直後に民衆が「うおー、ブルータスの家を焼き討ちだー」と叫ぶ。
えええええーーーー!???
・・・・・・ていうか、えええええーーー!???

で、思うのですが、何だかんだ言って、あっちでもsilver toungueは多少敬遠されるんじゃないですかね。下手するとsophistの汚名を受けかねない。それで、「あっしは語る言葉も持たない無骨物で・・・学のある言い回しの一つもありやせんけど・・・あっしの心が言ってるんでさ・・・あんかたぁ、良い方だったって・・・よよよ・・・」とやると実は日本と同じように結構ウケる。・・・・・・のかな????スーパー・パゴールの世界。・・・・・・ていうか本人極めて饒舌なだけにそれってかなり悪辣な煽動家ぶりに思えますが・・・・・・(汗)

正直読んで困惑気味な私です。
何これ?どう解釈すれば良いの?
うーーーん・・・・・・困ったなぁ・・・・・・(途方ーん)

私は例えば伊勢物語だの為朝物語だのを読めば、その心情分析にある程度自信を持つわけです。それは全く根拠のない自信で、当時の人の風俗に無知な私はとんでもない勘違いをしている可能性が高いわけですけれども、それでもJulius Caesarを読むときほどには惑わない。勧進帳で弁慶の飛び六方を見ればそこに必死に主君の後を追いかける家来の誠実さを見るし、那須与一と言われれば海上の船に掲げられた扇の絵面がサッと頭に浮かぶ。そういう傍若無人ぶりというのは、時に間抜けであっても、やはり芸術を楽しむ根底にある。しかもそこには自分で認めたくないほど、内と外の区別がある。

結局そういうことなのではないのかな、と思うのです。

私は特定の文化背景を5世紀頃のものから「これがあなたのよー」と刷り込み教育された。小学校の頃は鎌倉が近いですから源平の話とか静の舞とかよく聞かされました。そんでもって奈良・京都あたりには必ず修学旅行で行く。(うちは高校時代更に遡って出雲も行かされました。)それが私を言語について保守的にさせるのではないでしょうか。私にやたら感傷を抱かせる。

マレイシアの人は、どうやらマレー語の古い文学を学校で教わっていない様子です。タミル語ともなったら尚更でしょう。だからこうした言語の保護に執着が薄いのではないでしょうか。や、わかりませんけれども。

実は結構欧米の人にも言えるのかも。最近ラテン語を教える中等教育は少ないみたいですね。一番古いもので、シェイクスピアを1作品か2作品、高校で読むかどうかってところのようです。それ以前のものはなし。(それって私達が『忠臣蔵』より昔のは知らないわ、っていうのと同じような感じじゃありません??そう考えると凄いです。) ギリシア・ラテンの文学(日本での漢詩にあたる?)なんてぜーんぜんみたいですね。

以前山手線に乗っていて、『AIDA』の宣伝が中吊りされてたんですよね。それでその時いたコーチ達が、「一体全体Australasians Intervarsity Debate Association以外にAIDAって略称になる言葉があんのか」って笑い転げてたんですよ。

いや、あれはビビリました。
・・・・・・それ、略称じゃないだろ!!!

そう、オーストラリアから来ていたコーチたち、確かこの時は4人でしたが、誰もAIDAがギリシア悲劇を基にしたオペラだと知らなかったんです。
(・・・・・・私は最初にディベートの方のAIDAを聞いたとき、 「なんでよりにもよってそんな悲劇的な名前つけんだろう・・・」と思いましたが、つけた人達が劇のAIDAを知らなかっただけなのね・・・・・・)

言語(とそれに伴った歴史・エピソード・芸術など)によるアイデンティティというもの自体、ひょっとしたら彼らにはあまり馴染みないものなのかもしれません。それはそれで幸せなのかもしれません。

「地球上で自分がこの言葉の最後の話者になってしまったら」

そういう想像は、皆さんに恐怖感を抱かせますか?
後の世代にも漢文や古文を学んでもらいたいですか?
それが単なる感傷だとしたら、感傷を捨て実用的な教育をする方が建設的だと思いますか?

ちょっと考えてしまいます。

2 comments:

Masashi Yamanaka said...

 ふむむ。アントニウスの演説のところ、ちょっと笑ってしまいました。
 現代英語すら片言な僕にとって古典など読むべくもありませんが、大学の頃にシェイクスピアは割合熱心に読んでいた思い出があります(日本語で)。「西洋の演劇」という授業を取っていたから、なのですが。

 レポートの主題はハムレットだったので、ジュリアス・シーザーは少ししか印象に残っていませんが、確かここはブルータスがシーザー(カエサル)を刺殺して(ブルータス、お前もか! この手に聴け!)、ブルータスが長向上で論理的な演説で、audienceを完全に味方につけていた情勢から始まる演説ですよね。

 アントニウスはシーザーを理解していたから皆の所業に心痛めていたけれども、その場でシーザーを弁護したら、暴徒と化した群集に撲殺されかねなかった。そこでブルータスの味方であるかのような演説から入って聴衆の心を惹きつけ、いつの間にかシーザーを弁護する内容に変わっている・・・

 ああ、そこまでは覚えていて、引用されている部分も記憶があるのだけれど、当時の僕はそういう問題意識を持った事はありませんでした。たまたま意識の縁、のようなものによるのでしょうけれど。

 確かアントニウスは、聴衆に自ら誤りを悟らせるべく、自分を引いた演説をする。それがブルータスの演説(自分の正しさが主役)とも対比関係を為していて面白い、というような展開だったと思うのですが、こうして考えてみると、確かに日本的な義理人情の世界が色濃い内容だったような気もします。


 でも、思想は言葉に宿る、わけで、やはり日本のものとそれとは微妙な部分で異なるのでしょうね。
 僕はほとんど日本語しか話せませんが、しかしこの言葉が大好きなので、最後の一人になったら、この言葉に裏付けられた世界観の美しさを、なんとか残したいと思います。


 ところで、書きながら思ったのは、僕らもアイヌの人々の文学を知らない、ということです。あるいは沖縄の方言で書かれたものも、また。
 ここにはひょっとすると、物凄い宝が眠っているのでしょうし、同時に気付かないままでいた自分、無感動な自分に反省します。けれども今からアイヌの言葉、沖縄の言葉を学ぶという時間と労力を考えると二の足を踏んでしまうのもまた事実で。
 しかし、それらを翻訳で味わうのと、原語で読むのとは、全く別の次元に属するものであるはずなのですが。

 理想論としてはこれらの言葉を全て学ぶべきかも知れないけれども、しかし現実に、僕らは僕らの生活を組み立てなければならないというときに、何から手をつけるか。
 僕はやはり東京を中心とした日本の言葉(個人的には関西の言葉遣いが好きですが)を自分なりに磨きたいと思うし、そういうことで他の言葉に伍していくということが自分の縁なのだろうなという気がしています。

go said...

允さん、

コメントありがとうございます(*^v^*)

何年も前に受けた授業の内容をこうまで正確に覚えてらっしゃるものですね。流石ですねぇ。めっちゃ分かりやすい、しかも臨場感のある解説で読んでて楽しかったですo(^v^)o

私の場合、問題意識というか……ホント読んでて「そんなんありー?」と笑い転げてしまいました。おかしいな。これは悲劇のはずですよね……

ちなみに問題の論文には、
「シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を見ても、ブルータスとマーク・アントニーは人民の前で葬いのユーロジイという形の演説による一騎打ちを演じるが、誰の耳にもその勝敗は明らかである。アントニーの巧みなレトリックは、理性に訴えて正義を説くブルータスを完敗に追い込んだ。」
とあります。

うーん……そうなんだ……奥が深い…(?)私は二人の勝負以前に笑い転げて勝ち負けつける段階に入れなかったので修行が足りないようです。

思想は言葉に宿る…かぁ。名言ですね。本当その通りだと思います。言語には各自独自の世界観が伴っていると思います。一つの言語を失うことは、一つの世界の見方を失うことだと思うので、人類の損失であるように思います。

仰るとおり、近代日本語もまた沢山の言語を殺戮してきたわけですが、それもまた他の強者の言語に圧されつつあるということに因果を感じなくもありません。日本国内の「周辺言語」たちを守るのは今からではもう遅いのでしょうかね……。弱者に優しくして始めて、弱者としての自分達の権利も唱えられるのだとすれば、日本語はその機会を既に失ったのでしょうか。

悩ましいですね……

でも允さんは(関東圏の)日本語を美しく使われますものね。それ自体が大きな貢献だと思います。(^v^)/ お互い少しずつでも頑張りましょうね。