Monday, May 21, 2007

[Book] ジュリアス・シーザー Julius Caesar

[本] シェイクスピア.1599. 中野好夫訳.1951.『ジュリアス・シーザー』. 岩波書店.

こちらは行きの飛行機で読みました。
英語で読んだら何故か喜劇に思えてしまったので日本語で読んでみました。

ちゃんと悲劇でした。
よかった・・・。

まあ、とにかく例の演説ですが、やっぱりアントニウスはわざと自分を「口下手」と演出していますね。なかなか狡猾です。最初から相当自分の演説の技量に自信を覗かせているにも関わらず、聴衆の前ではまるで真逆かのように振舞う。大した悪人煽動家ぶりです。やっぱり西洋でも口下手は同情を引き易いってことなんでしょうかね。そして弁舌さわやかな方が胡散臭く思われやすい。でも現実は真逆でブルータスの方がよっぽど口下手だ・・・恐過ぎないですか、この話。

しかし誰だ、「ディベートは結局のところ西洋的だ」なんてのたまって私を涙させたのは・・・ホント思い込みって恐ろしい・・・口下手な振りした饒舌な悪人が世にはばかるのは何所も同じなんですなぁ・・・まともな言論教育を受ける必要があるのは日本人だけじゃないよねー・・・・・・日本の場合苦手意識が必要以上に壁を作っているとは思いますけれど。(ちょっと今日は色々と考えさせられるメールが数件届きました・・・ホント、どうやったら素直に人の言葉を疑わずに聞ける幸せを享受できるのかなぁ・・・)

結局このお話では明確な善人キャラはいないように見えます。シーザーでさえ、キャシアスを嫌った理由は彼が痩せているから、という理不尽ぶりです。ブルータスもアントニウスもキャシアスも、全員ある程度(ていうか、かなり)汚れている。が、全員純粋な悪人でもない。・・・・・・なんだか現実的過ぎてかえってグロテスク。お話の世界を楽しむのが難しいのは私だけでしょうか・・・?

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アントニー: 
これ、この傷口、物言わぬ口ででもあるかのように、
真赤な唇を開いて、私のこの舌に代って訴えてくれと叫んでいる
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アントニー:
では、大急ぎで帰って、この椿事を伝えてくれ。
いまやローマは哀悼の都、危険に溢れた巷なのだ。
オクティヴィアスどのにとり、まだ安全な広間ではない。
急いで行って、そう伝えるのだ。いや、ちょっと待て。
いまこの遺骸を広場へお移しするから、それまでは行ってはならぬ。
そうだ、それでは一番やってみるか、
果たして俺の演説で、この凶悪犯人どもの残虐行為を、
市民どもはどう考えるようになるかだ。
その結果次第では、お前往って事の次第を
オクティヴィアスどのに伝えてもらいたいのだ。
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アントニー:
ああ、理非分別の心よ!お前はあの獣の胸に逃れ走って、
人間はすべて理性を失ってしまったのか。許されよ、
いま私の心はすべてあの棺の中、シーザーの許へと飛んでしまったのだ。
戻ってくるまで、しばらく待っていただきたい。
市民一:
彼の言分にも、どうして道理はあるようだな
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アントニー:
諸君、私は諸君の心を盗もうとて来たわけでない、
私はブルータス君のような弁舌の徒でもないし
諸君もご承知のごとくただ一介の無骨の野人、
要するに友を愛するというにすぎん。(中略)
人々の血を湧かせるなど、私には才知もなければ言葉も知らぬ
さらに能力、行動力、弁舌、説得力、ともになに一つ持たぬ私に、
どうしてそんな芸当などできようか。ただ率直に語るだけのこと。(中略)
もし私がブルータス、そしてブルータスがアントニーならば、
あるいはこのアントニーが諸君の心を煽り立て、
シーザーのこの傷一つ一つに、ローマの石を暴動に決起させる、
そうした舌を与えることもできようが。
一同:
そうだ、暴動だ。
市民一:
ブルータスの家を焼き討ちしよう。
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召使:
ご主人のお話じゃ、ブルータスさま、キャシアスさまには、
まるで狂人のように馬で城門から立ち退かれたとか。
アントニー:
さては知らせを受けたと見えるな、どんなに俺が
市民どもを焚きつけたか。
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注から
ブルータスの演説が理智的で冷たく、群集の心理を少しも知らぬ学者的演説であることに注意。それに反して次のアントニーのそれが、どこまでも感情に訴え、卑近で、具体的で、巧みに群集の低い知性と天邪鬼心理をとらえていることに注意。シェイクスピアが前者を散文で書き、後者を無韻詩形で書き分けていることも、なんでもない工夫だが見のがせない。
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解説から
例の有名なブルータスとアントニーとの演説を挙げてみる。この二つの演説は、往々にして拙劣作者に見られるような、作者シェイクスピアみずからがやたらと顔をだして行う演説ではなく、両者それぞれがいわば事故の宿命的性格をどうしようもなく露呈させながら述べるという、ある意味ではシェイクスピアの劇詩人的才能を最もわかりやすく、また鮮明に示している有名な演説だが、それがなんと「プルターク」によると、わずか次のような簡単な記述にすぎないのだ。すなわち、ブルータスのそれは、「ブルータス伝」に、
 彼等(市民)に対してブルータスは、その好意をかちえ、同志の行為の正しかったことを言い、彼等に対してキャピトルから降りてくるようにと叫んだ。
とある、ただそれだけなのだ。他方またアントニーの方は、「ブルータス伝」と「アントニー伝」との双方に出るが、しかしそれとて前者では、
 その後シーザーの遺骸が市場へ運ばれて来たとき、アントニウスはローマ古来の慣習に従って、故人をたたえる葬送の演説をした。そして彼の言葉によって、市民の心が故人への哀悼に動くと見るや、彼は雄弁を揮って彼らの心情をいよいよかきたてた。そして鮮血に塗れたシーザーの外衣を手にし、これを市民らの面前に拡げて、そこにつくられた多くの刃の痕を指し示した。すると群集はたちまち激昂と暴動にかわり、もはや彼らの間に秩序を維持することは不可能となった。
 「アントニー伝」もまた大同小異だが、
 そこでシーザーの遺骸が埋葬の場所に運ばれてくると、彼は葬送の場において故人をたたえるというローマ古来の慣習にしたがって、シーザー賞揚の葬送演説をした、彼は市民達がシーザーのこと、とりわけ賞揚の言葉を聞きたがっているのを見てとると、その演説の中にいとも悲しみにみちた言辞を交え、種々の事実を加えることにより、彼らの感情をはなはだしく哀悼、憐憫の情へと動かした。しかも最後には結論として、全群集を前に徒党たちの刃によって至るところ刺し貫かれた故人の上衣を拡げて見せ、暗殺者たちを残忍、極悪な殺人者と罵倒した。これらの言葉によって、彼は市民たちを烈しい激昂にまきこんだために、彼らは直ちにシーザーの遺骸を運んで、市場においてこれを焼いた。
 後にも先にもこれだけである。この素材からしてシェイクスピアが、いかに鮮烈な対照的個性的な二つの演説を仕上げているかは、原作の同じ部分とゆっくり比較対照して読んでもらいたい。
 ただここで一つ問題は、上でもちょっと触れたアピアーヌスの『内乱史』である。これにはかなり長くアントニー演説の内容が述べられている。それによると(後略)
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