Tuesday, January 09, 2007

知性と言語 Intellect & Language

あと12時間でTは機上の人である。
(ちなみにTというのはこれまでの日記,特に「羊の道」シリーズで既出の「ソネレック氏」と同一人物です)

彼が北京での乗り換えで独り一晩過ごすことに一抹の不安を覚えた日本人選手団。彼らによって入念な注意事項のリストが作成され,Tに送られた。既に印刷して携行したとの返事が来ている。加えて,今日旅行社に彼のホテルが予約した通りのところになるよう確認を依頼してきた(のでizumi嬢よ,安心召されよ)。もうこればかりは大丈夫だろうと信じるしかない。今回のフライトをアレンジした人間としては身も細る気分であるが,今となってはどうしようもない。

この友人はその後成田で乗換えとなるので,今後のための打ち合わせと大切な物の受け渡しを兼ねて私も成田まで出向くことになっている。ついでに言えば,あまりに尻切れトンボな喧嘩をしたため不完全燃焼なのである。二日後の午後には成田で再戦を果たす予定である。

中でも私がもう一度話したいと思っているのは,representする権利についてである。

彼は例の口論の中で,「俺は白人だから君らの代弁者に向かない」と言った。
これが私の心には重くのしかかっている。

そんな馬鹿な話があるだろうか。

白人は有色人種の権利を訴えることができない?
(アパルトヘイトを非難したメディアは何人のものだった?
キング牧師の支持者には白人はいなかったか?)

英語圏の人間は非英語圏の人間が対等に扱われるべきだと主張できない?
(「消えゆく言語たち」の著者は何語であの本を書いた?
マクブライド委員会の委員長は何人だった?)

そんな馬鹿なことある筈ないと,私たちに教えてくれたのは他ならぬTではなかったか。

この愛すべきアラビアのロレンスから教わったことを,
今度はそっくりそのまま私が彼に教えてあげなければならない。

そんなことを逃げる口実に使わないでくれ,と。

もう一つは,知性と言語の関係についてである。
これに関しては,私の蔵書の中から3冊,プレゼントするつもりでいる。
実は研究に必要な本なので,新しく買って進呈しようと思ったのだが,
間に合わなかったので手垢のついた古いものを彼に渡し,私が新しいのを使うことになる。
それでも,読んで貰いたい3冊を選んだ。

その内の一冊,エドワード・W・サイードの『知識人とは何か』から引用したい。

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どのような知識人個人も,言語のなかにうまれおちるし,生涯のほとんどをその言語のなかですごす。生まれおちた言語が知的活動のための主要な媒体となる。(中略)知識人が民族言語を使うのを余儀なくされるのは,なにも,それが便利で慣れ親しんだものだからという理由だけではなく,知識人たる彼もしくは彼女は,その民族言語に,まさに自分ならではの独特な声音や,特別な語調や,さらには展望そのものを刻印しようと望むからである。
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サイードという人は,英語とアラビア語の両方が堪能だったと言われるが,昨年のシンポジウムでは彼のアラビア語が実は強いエジプト訛りのもので驚かされたというような話もあった。彼はきっと,自分の知識人としてのプライドがアラビア語で話す度に傷つくのを感じただろう。しかし彼にはアラビア語で発信しない,英語だけで活動する,というような贅沢は許されなかった。彼がアラビア語圏の人間に深い共感と同情と責任を感じていたからだ。

知識人としても複数言語話者としてもサイードの足元にも及ばない私ではあるが,英語で発言する時の痛みを通して,彼のアラビア語での知的活動が困難であったことを想像する。もしも私がべらんめえ調の日本語しか話せなかったならば,日本語で学会発表や講演をすることの精神的ハードルは凄まじいものになるだろう。私は英語で話す時丁度そういう気持ちに苛まれる。忌々しいがそういうものだ。

だからこそ,最後の部分,『まさに自分ならではの独特な声音や,特別な語調や,さらには展望そのものを刻印しようと望むからである』には強烈な共感を持たざるをえない。英語で話す私は壊れたコピー機のようで,粗悪な複製をばら撒くだけだと思うからだ。英語で話す私は知的な生産をしていないように思える。その前に体裁を整えるのに必死なのだ。

Tはそうではないと言う。Tは,『お前が俺を説得したんじゃないか。お前の言葉で俺は大きく世界観を変えたじゃないか』と言う。

そうなのだろうか。英語でする私の言論は,人を動かす力を持ちうるのだろうか。
そしてTのような人を動かせさえすれば,私は満足するべきなのだろうか。

私はそうは思わない。

言論は時に闘いではないか。
T自身,そう言ったではないか。
「masako, これは戦争なんだぞ。
ESL/EFLの話をする時は礼儀正しさなどかなぐり捨てろ。
俺に対してだって噛み付くように話せよ。」と。

私がTの意見を変えられたのは,Tに聞く準備があったからだ。
聞く耳を持たない相手と火花の散る競り合いをする時,私は無力だと思う。
評議会(カウンセル)で何年も口に砂を入れられた後味は,理屈でなくそう教えてくれる。
言葉の真剣勝負をする時(カウンセルではワールドチャンピオン3人と3対1で戦わなければならないときもある),あれほど自分の言語で話せたら,と噛み締めるのは,私は英語において本当の知識人ではないからだと思う。

それでも今年は,私の吠えるような発言に幾度も拍手をしてくれる人たちがいた。
小さな国々はいつも味方してくれた。
代表する権利を持たない声なき人たちの少しでも慰めになったなら,
サイードの言う知識人としての本分を果たしていると胸を張って良いのだろうか。

私はそうも思わない。

時には勝たなければならない言葉の闘いがある。
弱い事が許されない時もある。
小さい国や弱い国が黙らされるのを見るのはもう沢山だ。

私はいつかこの戦いに勝ちたい。

そのために私がどうすべきか,Tには友人として助言する義務がある。
成田でTと闘うことで,私はその答を探したい。

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