Friday, November 18, 2005

壁は何処に

これからはイデオロギーよりも宗教や言語が世界を区分する、と言ったのはサミュエル・ハンチントンの文明の衝突。

説の真偽はさておき宗教間の壁というのは目に見えやすいですね。昨日書いた南北アイルランド間の壁、イスラエル・パレスチナの壁、カシミール、スリランカ、ミンダナオ、ダルフール・・・。ベルリンの壁に象徴された東西の壁と同じくらい明白な壁が宗教間にはあるように見えます。

国際大会では、ハラルが振る舞われるテーブル、コーシャがが出るテーブル、それ以外、と宗教によって席が別れ、同じディナテーブルにつけないことがままあります。ある時友人達と夜食に出掛け、帰りぎわに握手して別れる場面がありました。内一人が他の四人とはにこやかに握手を交わしたのに、私が手を差し出すとサッと自分の手を引っ込めました。ハッと気付けばその席で女は私一人。手を引っ込めたほうは敬虔なムスリムだったのでした。相手にしてみれば何も私を拒絶したのではありません。よくわかりませんが、もしかしたらむしろ最大限の敬意を払ってくれたのかもしれません。実際握手の件以外に関しては私にも大変親切で、彼に悪意があったわけでないのはよくわかりました。けれど握手さえできない不自由さともどかしさは、差し出した手から手を引っ込められた驚きと共に長く私の心に残りました。

正直私には、宗教の違いのために人を殺さなければならないような信仰心というのは理解が及びません。それは私が若いからでしょうか、日本人だからでしょうか、それともCross Religiousな家庭に育ったからでしょうか(おそらくこれは全く関係ない)。ただ私にとってはディナを共にする相手を選ぶ際の不自由さや握手の手を引っ込めなければならない不自由さの方が身近です。自分の想像力の乏しさが残念です。

今年の春に亡くなったヨハネ・パウロ二世はそうした壁を越えて要人との対話の機会を持ったため空飛ぶ法王の異名をとったそうですね。(異性愛者と同性愛者の壁は越える前に三途の川を越えてしまったようですが)新しいベネディクト法王庁も同じ路線を受け継いだのでしょうか。カソリックではない私が口を出すことではないのでしょうが、空飛ぶ法王でいて欲しいと思います。

翻って言語の壁を見ると宗教程明確な対立も境界線も見えないような気がします。けれど私にはこちらの方がずっと身近で現実問題です。

小説などフィクション作品には独自の世界観がありますよね。ハリーポッターにはハリーポッターの、マトリクスにはマトリクスの世界があって両者が交わることはありません。

言語の壁が同じようにパラレルな世界を作り出していると感じることがあります。それは特に英語を母語としない者同士の時に感じます。同じ国際メディア(大抵英語メディア)を元ネタにした話題でも、A国のメディアとB国のメディアが異なる視点で仲介・編集して視聴者に届けます。結果お互いの理解がありえない程食い違うというケースがままあります。積み重なるとそれはもう世界観の違いと言っても全く大袈裟ではないような気がします。ギリシャやロシア、キルギスタンの選手達に判定理由を説明すると、英米豪の選手相手の時の数倍てこずったりするわけです。言葉の壁自体よりも、それによって生じるメディアの壁、ひいては情報の壁の方がよっぽど深刻であるように私には思えます。

それが多様性であり面白さなのではないかと考える人もいるかもしれませんがそれは違うと思います。フィクションの主人公はともかく現実の人間は視野が狭くては困ります。各人が複数認識できた上で選択できているのなら構いません。例えば日本人が宗教を選ぶとき、たとえ慣習に従っているだけでも他にも様々な宗教があることを知ってはいます。けれどメディアによって構築された世界観に関しては、単一言語ユーザにとって一つの言語メディアにしかアクセスがなく、結果多くの人が他の世界観からはどう見えるのか知りません。そもそも他の世界観があることすら知らなかったりすることさえあります。

以前英語圏以外の某国の人達に、日本は今でも天皇が全てをコントロールしているんだろうと言われ仰天したことがあります。皇室の社会影響というのは無論あるかと思いますが、全てをコントロールしていると考える人は日本では稀でしょう。小一時間も彼らと話しましたが、彼らにとっては私の言うことの方が青天の霹靂。結局国で見たドキュメンタリー番組とプロパガンダの毒牙にかかった(と彼らには見える)一学生の私では、前者の方が信をおけると判断されたようでした。これは極端な例ではありますが、似たようなことは沢山あります。ともすると、同じ瞬間にこの地球上にいるのに、世界を共有していると言いにくい関係というのがあるような気がします。それはとても残念なことです。パラレルな世界の住人同士が建設的でラショナルなコミュニケーションをとることは至難の業に思えるからです。

英語圏の人は、別にロシア語圏の人より偉いわけでも尊いわけでもありません。けれどそういう意味で明らかに得をしているように見えます。

メディアの境目は、宗教の境目ほど取り沙汰されません。言葉の壁の恐ろしさは、前線が何処なのか見えにくいことそのものにあるような気がします。今日私たちを隔てる壁は何処に築かれているのでしょう・・・

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