Sunday, June 04, 2006

[Book] 理性の復権 Differenz des Fichte'schen und Schelling'schen Systems der Philosophie in zu Anfang des neunzehnten Jahrhunderts

[本] ヘーゲル.ゲオルグ.山口祐弘・星野勉・山田忠彰訳.1985.『理性の復権: フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』.批評社.

ヘーゲルにリベンジです。

……けどやっぱり分かりにくい・・・。

で、ですね、なんで分かりにくいのかちょっと分かりました。「絶対者」が出てきすぎるんです。宗教的な意味でも文化的な意味でも一神教に馴染みがない私にはピンときにくい感覚なんだろうと思います。

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 しかし、常識は思弁を理解しえないだけでない。常識は、思弁について聞き知ると、嫌いもし、しかも、まったく無関心に安住していられなくなった時には、思弁を憎悪し迫害せざるをえない。というのも、常識にとっては、その言葉の本質と偶然的なものとの同一性が絶対的であり、常識は現象形態の諸々の制限を絶対者から分離しえないからである。同様に、常識がその意識のうちで分離するものもまったく対立しており、常識は、制限されたものとして認識するものを、制限されないものと意識の中で合一することができないからである。制限されたものとされないものとは、常識においても確かに同一ではある。しかし、この同一性は、内なるもの、感情、認識されないものであり、語られないものにとどまっている。
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 思弁的な知は反省と直感の同一性として把握されなければならない。それ故、理性的である限り二律背反的である反省の持分だけが措定され、しかもこの持ち分が直感と必然的に関係する場合には、直感について、それが反省によって要請されていると言いうる。しかし、理念を要請することは問題となりえない。というのも、理念は理性の所産、あるいはむしろ悟性によって所産とされた理性的なものであるからである。理性的なものはその規定された内容に従って演繹されなければならない。つまり、その綜合が理性的なものであるような規定された対立項の矛盾から演繹されなくてはならない。要請されうるのは、ただこの二律背反的なものを充填し保持する直感だけである。通常要請されている理念は無限累進であり、経験的なものと理性的なものの混淆である。
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[Book] Hegel, Georg Wilhelm Friedrich. 1801. Differenz des Fichte'schen und Schelling'schen Systems der Philosophie in Beziehung auf Reinhold's Beytrage zur leichtern Ubersicht des Zustands der Philosophie zu Anfang des neunzehnten Jahrhunderts, 1stes Heft.

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