Sunday, April 08, 2007

[Book] 討議倫理 Erlauterungen Zur Diskursethik

[本] ハーバマス,ユルゲン.1991. 清水多吉・朝倉輝一訳.2005. 『討議倫理』.法政大学出版局.

え?我慢するんじゃなかったのか?
ええ、まあ……その……。
本当は『コミュニケーション的行為の理論』を読みたいのですが、こちらで今は我慢(笑)。

ちなみに、討議倫理という言葉はドイツ語ではDiskursethik、英語だとDiscourse Ethics(もしくはArgumentation Ethics)となります。これはディベータの倫理/作法(ディベーターシップ)ではなく、ディベータがどうやって倫理を語るべきか(モラル・アーギュメントの立て方)を指すようです。

学部の頃、KDSの先輩方には「事実は価値を生まず、価値は事実を生まない」と繰り返し教わりました。ハーバマスの「道徳原則は、理性の示す事実性から導かれることはない」という言葉はそれに近い意味なのかもしれません。私自身は最近、価値が<事実>を生んでしまうことも、<事実>が価値を生んでしまうこともあるのではないかと思っています。それは、ポスト・モダンを既に前提とするようになった教育を受けた私には、価値と事実の境界線が見えずらいことにも起因しているような気がします。

Discourse EthicsについてのWikipediaの解説はこちらです。

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 結局、われわれは、このような(あるいは似たような)道徳原則が単にある特定の文化やある特定の時代の直感にあてはまるだけではなく、一般にもあてはまるということを主張する倫理を、普遍主義的倫理と名づける。道徳原則は、理性の示す事実性から導かれることはない。このように事実性に依存することのない道徳原則の根拠づけだが、自民族中心主義的な誤った判断という嫌疑を晴らすことができる。われわれの道徳原則は、今日の成人した白人の、男性の、市民層のよく教育された中央ヨーロッパの先入観だけを反映しているのではない、ということを証明することができなければならない。私がここで問題にしたいのは、討議倫理がこのような関連の中で提起するさまざまなテーゼを心に留めてもらいたいだけである。つまり、それらのテーゼとはこういうことである――論議に真面目に参加しようと試みる人ならだれでも、規範的な内容をもつ普遍的語用論の諸前提をまずもって暗々裡に承知してかかわらねばならないものだということ。その上で、論議上の行為規範を正当化するとはどういうことかが周知徹底されている場合にのみ、道徳原則は、そのような論議の諸前提の内容から導き出されるものだということが、これである。
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形式主義的倫理は、人があることを道徳的観点からどのように考察するかを明らかにする規則をあげる。周知の通り、ジョーン・ロールズは、すべての関与者が相互に、合理的に決意して平等な権利をもった契約のパートナーとして向き合うような原初的状態を紹介する。もちろん、ロールズの例は、事実上受け入れられている現実の社会状態を無視したものであり、「当初に目標とされた根本的一致がフェアになされることが保証されているようなスタートの状態」を想定したものであるのは、言うまでもない。これに対して、G・H・ミードは、理想的役割取得を提唱する。これは、道徳的に判断する主体が、問題ある行為が遂行されることによって、あるいは問題ある規範が発行されることによって被るかもしれないすべての人のその時々の情況に身を置いて考えてみることを、要求するものである。実践的討議の手続きは、この両者の考え方よりも優れている。論議においては、原則的にすべての関与者は自由であり、平等である者として、共同的に心理追求に参加する。その際、よりよき論争のための制約だけが通用するべきである。実践的討議は、論議に基づく意思形成のために要求するところの多い形式である。(中略)他方、われわれの実践的討議の方は、その形式について言えば、すべての関与者が同時に理想的役割取得を行いながらの了解のプロセスとして把握される。したがって、この実践的討議は、それぞれ個々の私的に行われる理想的役割取得(ミードの場合)から、公共的な役割取得、何よりも間主観的に共通に展開される役割取得へと形を変えて行われるものである。(p.9)
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言語能力と行為能力をもつ諸主体は、彼らがそのつど特殊な言語共同体の一員として、間主観的に共有された生活世界の中へと発展的に入りこむことによってのみ、むしろ、個体として構成されるものである。コミュニケーション的形成過程においては、個々人のアイデンティティと集団のアイデンティティとは等根源的に形成され、保持される。(p.10)
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[Book] Habermas, Jurgen. 1991. Erlauterungen Zur Diskursethik. Suhrkamp Verlag.

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