Thursday, April 05, 2007

[Book] 日本人の言霊思想 How Ancient Japanese Saw Sacred Spirits in Words


[本] 豊田国夫.1980.『日本人の言霊思想』.講談社.

うーん……。
なるほどなぁ、と素直に感心する部分もあれば、
ええええ、と思うくらい言葉に懐疑的な部分もあり。

しかし日本語はパトス的だ、と書いている人は多いわけですが、
その割りに現代日本のディベータのロゴス狂いは何なんでしょう。
もう少しパトスを利用したって文句は出ないのではあるまいか、と声をかけたくなる程、
禁欲的なディベートをする彼らをどう説明すれば良いのか困ります。

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彼ら古代人にとって、言葉は、現代のある種の人びとが主張するような、単なる媒介、符号物ではなく、もっと人間や事物と切実な関係をもった、生きたものとして感じていたのではなかったか。つまり、彼らにとって、言葉は事物と一体をなすものであった。(p.14)
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 四神出生の章で、イザナギ、イザナミが柱をめぐる時、「陰神先づ喜びの言を発ぐ(発言)」というが、イザナギが泉津平坂で、神聖な場所選定の時のコトアゲは、十二神出生の機縁となった。スサノヲが八岐大蛇を退治して、クシナダ姫と新居の地を決めた時、「吾心清清之」といった歓声のコトアゲ、日神と誓約したスサノヲが、男子を生んだ時の大言壮語のコトアゲ、同じく新羅に下った時「此の地は吾居らまく欲せじ」という意思表明のコトアゲ、大国主命が出雲に国造りする時のコトアゲなど。また『続日本紀』にも「興言して此れを、念ひ」とか、興言して何々と用いられているが(巻三三)、すべて発言に特別の意味を持たせている。ヤマトタケルが伊吹山を征服した時、山中で大きな白猪と出会い、「還りに殺そう」とコトアゲしたため、帰途その猪に大変なやまされた話がある。西郷信綱氏は、このコトアゲについて、『新撰字鏡』に「誇」の字義が「挙言也。伊比保己留、又云太介留。」とあるので、ヤマトタケルという名そのものが、挙言すなわちコトアゲすることをすでに内有していたものといえるわけで、この行為が彼を破局へと導く。(「ヤマトタケルの物語」)といって、タケルの破局の原因としてとらえている。身のほどを忘れた、神(白猪、書紀では大蛇)への挑戦的な放言の災厄というわけである。自己の意志をいい立て、タブーを侵したコトアゲである。ヤマトタケルの東征で、上総に渡海する時の、渡り神の神聖を侵したコトアゲでは、「これ小海のみ、立ち跳にも渡りつべし。」というが、これは暴風を招いてしまった。(p.62)
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の反動ではなかったかと思われる。さきの神功皇后の「コトアゲの阜」の制禁の由来も、やはりそうしなければならない大事件があってのことであったらしい。
 為政者は、批判とか反論のコトアゲを制禁し、服従を要請した。これを封じて「神ながらの道」に服従する人びとを迎えたのである。ところが、言語感覚のひろい視野にあった人麿らによって、遣唐使らの行く文字の国を意識に入れた「言霊の幸はふ国」とか、「神ながら言挙せぬ国」などの語句のある餞詞があらわれている。
 言霊の発揚には、まず何といってもコトアゲが必要であるが、そのコトアゲが制禁を受けるという、このような矛盾と緊張を秘めつつ、ミコトノリやノリトは社会に儀礼化され固定していったのである。(p.65)
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コトムケ
 これは現代風にいえば「説得」のことである。つまり言霊の霊威をもってする積極的な行為で、たとえば『古事記』には全体で一七回もの用例がある。なかに、ヤハスという言葉との連用が六回あって、「言向平和、言向和也、言向和平、言向和而」などと表記している。ここでのヤハスとは、もっぱら言葉をもって融和する、平和にする、帰順させるという意味である。すなわち、コトアゲして説得するという上代的方法である。(pp.68-69)
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 日本語の言語環境は、全く隔絶した閉鎖社会に育まれ、言語体系としての思想や文化への拘束的自覚に乏しく、したがってその言語意識はすこぶるパトス的であった。ここに言霊思想などの特有な言語観も醸成されたとみられる。この環境的特徴についての十分な検討もなかったが、最近この閉鎖性の問題も識者によって大きくとりあげられるようになった。(p.217)
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言葉は厳密に論理的な意味で用いられることは少ない。話し手、受け手、遣い方、構え方などにより、ずいぶん変化が多い。この自在な作用がもつ「論理性の不完全さ」というものも、たとえれば、言葉の魔力のカクレガといえよう。(p. 219)
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 相手を意のままに支配する、言葉の悪用面もあるが、カウンセラーが、言語技術を高度に利用して、クライエント(来談者)を好ましい方向に導くことや、造語とかスローガンによる世論操作も、人びとの心を動かす言葉の魔力の善用であり利用であろう。(p.219)
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太平洋戦争中「言挙げせず」とか「海ゆかば」の歌意の利用、「欲しがりません勝つまでは」、鬼畜米英、一億総決起、八紘一宇、天佑神助などの語句のはんらんは、戦意をあおるひとつの世論の洗脳操作であった。これは、日本人の慣習的な、言葉に呪縛され易い民族性、すなわち汎言語主義的慣習の利用であった。言葉と事実との関係以外のところにおける、一定の方向の力が期待されたものである。(p. 220)
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 民主主義の組織には会議が多いが、その言葉のやりとりは、多分に言語魔術の雰囲気があり、格好の実践の場である。比喩の拡大、焦点のズラシとかボカシ、用語の工夫、情緒に訴えたり、不利益なことはいわないなどのゴマカシ論法は、まったく言葉の論理の不完全性に宿る、魔力の悪用である。(p.220)
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[Book] Toyoda, Kunio. 1980. Nihonjin no Kotodama Shiso [How Ancient Japanese Saw Sacred Spirits in Words]. Tokyo: Kodansha.

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