Friday, May 12, 2006

【Book】美的感性と社会的感性 Artistic Sensibility and Social Sensibility

【本】水野邦彦.1996.『美的感性と社会的感性』.晃洋書房.

Average Reasonable PersonのCommon Senseに基づいた判断ってヤツ。それは何にも決めてないのと同じだと思う。あまりにもその個人のバックグラウンドによってしまうから。そう言うと、欧米のコーチたちは、「バイアスがかかるのはCommon KnowledgeであってCommon Senseじゃない」と言う。そうだろうか?

残念ながら、Common Senseだって共同体と切り離すことはできないはずだと思う。
イーフー・トゥアンのトポフィリアなんてその典型ではないかしら。
もっと残酷に、サイード風に言うなら、「あなたが同等の人間として扱っていない人々は、あなたにとってのCommonではない。だからあなたのCommon Senseに彼らの価値観は入らない」

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こうして<共同体感覚>=《sensus communis》は、人間の包括的な感覚(センス)だと考えられる。「共同体」感覚というからには、共同体が視野に入れられた感覚でなければならない。カントの場合「共同体」ということで考えていたのは<世界市民社会>であり、一種のコスモポリスである。そのような共同体ないし社会を指向する感覚という意味あいが<共同感覚>にはこめられていると考えられる。
《sensus communis》は、こういう<共同体感覚>として理解するべきだろう。《Gemeinsinn》があくまで趣味判断だけに限られていたのに対して、《sensus communis》には<共同体判断力>や<社会的判断力>という意味あいがあり、あるいはそういった判断力を形成してゆく可能性がふくまれている。(p95)

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 超越論的感性論が感性のア・プリオリな形式を分析するのに対し、経験的感性論は感性のア・ポステリオリな実質を課題とする。(中略)さて美は、主観の認識能力によって判定される。すなわち感性によって判定される。逆に、感性によって判定された結果、美が美として成立する。美がはじめから客観的に存在するのではなく、主観の感性にあったものが美と見なされるのである。したがって美学の根本問題は感性に帰せられる。
 そこで感性の由来、形成過程がつぎなる問題となる。果たして感性はア・プリオリなものであろうか。万人に等しくそなわっている能力なのだろうか。だが民族や時代によって、生活環境や習慣によって美観が異なることは、周知の事実である。とすると、無前提に感性が万人に普遍的なものであるとはいえないことになる。したがって私たちの感性がどのように形成されるかを問わなければならない。
 感性は生まれつき出来あがっているものではなく、成長の過程で、生活の過程で形成されるものである。時代、民族、風土、地域、家族といった環境によって、感性は大きな影響を受ける。したがって、人が属する共同体によって感性の形成は大きく左右されるのである。これは感性がまったく個人的なものではありえないことを意味する。ある人のもつ感性は、その人独自のものではなく、なんらかの共同体ないし社会に共有されているものである。ただこのことは、つねに自覚されているわけではなく、むしろ感化されていることの方が多い。感性論の困難はここにも原因がある。
 このように感性はもともと共同体のなかで形成され、本質的に社会的性格を帯びている。しかもそれにとどまらず、形成された感性は共同体に反照し、共同体を再生産する。そこで共同体に固有の感性も再生産されるのである。とすると感性は、社会を反映すると同時に社会を指向するということができる。感性が社会的感覚、共同体感覚と呼ばれるゆえんである。(p146)

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【Book】Mizuno, Kunihiko. 1996. Artistic sensibility and Social Sensibility. Kyoto: Koyosha

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