Sunday, May 28, 2006

【Music】ライヴ・エイド Live Aid


土曜の夜だというのにデータの打ち込みばかりしなきゃで学校にステイ。というわけで気分だけでもライヴへ。つーか、学生生活も最後になろうってこの年のこの時期に土日もないですけど・・・(涙)

20年も前のイベントですが聴いたことある曲が多いです。この盛大なお祭りの目的を考えるとちょっと複雑な気もします。こういうのって一過性で参加することは簡単でも、かかわり続けるのには根性が要るだろうと思います。応援に駆けつけるのは沢山の歌手にできることだけど、実際に援助の段取りをして現場で頑張り、それを20年も続けた人はどれだけいるのか。そう考えるとボブ・ゲルドフって凄いなぁ・・・って改めて思わされます。批判に晒され、叩かれてもかかわり続けているわけですから・・・。

昨年はホワイト・バンドとかも流行りました。一昨年はライヴ・エイトもありました。でも今の世論はずっとずっと斜に構えていると思います。音楽の下皆が集まって、皆から集めたお金で地球の仲間達を救おう!政府ができないなら俺らでやっちゃおうぜ!っていうのはピュアで幼稚に見える。現実はそう簡単にはヒトを救えないって20年後の私たちは知っている。マージンとってるんじゃないの?とか、どんだけ現地に届くの?とか、今日のミルクをあげても搾取は続くんじゃないの?とか、軽い気持ちで助けたつもりがもっと酷い惨状を招いたんじゃないの?とか、安全圏から懐が痛まない程度のお金出して傲慢じゃないの?とか・・・疑いが次から次へと湧いてしまう。他人の不幸を理由にお祭り騒ぎにすることへの抵抗感も覚えてしまった。良心を偽善と区別できないから迷ってしまう。歌手もそれを聴きに来るファンも怯んでいる。怯むから大したことできない。

オーストラリアのコーチと一度議論したことがあります。

フィリピンは貧しい国です。というより貧富の差が大きすぎる国です。ちょっと良い格好をして外を歩くとあっという間にストリート・チルドレン達が集まります。その時に手持ちの小銭をやるべきかやらないべきかで議論になったんです。

私は、物乞いとして生きていけるように、同情をかいやすいようにと、親が子供の手足を切断すると聞いてしまってからあげられません。実際に脚や腕のない子供たちは本当に多いのです。私がそうやって小銭を渡すことで子供に物乞いをさせようとする親が増えてしまうのだと思うととてもできなくなりました。善意のつもりが、彼らの不幸を拡大再生産させているのだと思って。

コーチはそれでも自分はあげる、と言っていました。「一年後のことなんか知ったことか。今日この子たちが何か食べられるならポケットの中身全てばら撒くさ。そういう理屈を捏ねるやつに限って単に金を惜しんでるのさ」って。

そうなのかなぁ。私にはよくわからない。着飾った人間が、裸足の貧しい子供たちに小銭を撒くところは私にはとてもグロテスクに思えて、後で悪い夢を見そうだと思うのです。貧しい国でキリスト教に改宗する子供が多いのは、協会に行けば食べ物が貰えるからだとか。小銭をばら撒く自分はまるで彼らを蔑み支配しようとしているかのように感じます。力や金でヒトの心を捻じ曲げられる時はやっぱりあると思う。私の短慮が彼らをより不幸にしている気がする。でもそれは私が怯んでいるだけなのかもしれない。先日の戦場のフォトグラファーでも思いましたが、自分の良心を信じることが一番難しくて大きなハードルなのかもしれません。その困難に常に立ち向かっていられる人たちは本当に凄いと思う。

ボブ・ゲルドフが悩みながらも今まだ怯まないでいるのだとしたら、本当に凄いなぁと思うのです。その強さを分けて欲しい・・・

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