Monday, May 22, 2006

【Book】論文のレトリック Rhetoric in thesis

【本】澤田昭夫.『論文のレトリック』.1983.講談社.

どわー!と叫びたくなるような大胆な「日本人とレトリック」論。単なる「日本人なら以心伝心、沈黙は金。」型の意見ではないところは好感を持てるのですが・・・同じくらい大胆な論理展開。こんな大雑把にこんなん言ってよいんかいな・・・。うーん・・・。鋭いようないい加減なような・・・。

ちなみに「ESSのディベート」と「議会討論(パーリアメンタリー・ディベート)」について言及している部分もありビックリ。しかしうーん・・・この部分もやっぱり内容は激しく大胆です・・・(汗)。ちなみに著者は1928年生まれです。現在80歳近いってことですか・・・。いつの時点でESSや何処でパーリアメンタリー・ディベートに触れたのでしょうか・・・。書かれたのが1983年ということは、NAFA以前のESSや、特大プロポ(モーション)時代のイギリスのパーラを想定しているんだろうなぁ・・・現状を議論するにはアウトですよね。一般の読者にはそんなこと解らないだろうしなぁ・・・。学術文庫恐るべし。

ちなみに、「日本人は根まわししたがるからディベートが下手」というのは嘘だと思いますね。イギリス人だって根まわしは大好きだと思いますよ。World Councilでの決定の陰にはパブで飲みながらボショボショ話しているアングロサクソンの男性陣がつきものです。最近はアングロサクソンに限りませんけれども。伝統的にはアングロドミナント・メールドミナントな根まわし文化が歴然とあります。日本のパーラ・ディベート界のように男女比に偏りがない集団がその根まわしに食い込んでいくにはかなり継続的な努力が必要です。代表者に女を立てるなら、まず彼女が平均的な男以上に飲めることが重要です。アホかと思うでしょうし、実際アホな話ですが、飲み会で勇姿をご披露した後の男性キーパーソンズの態度は明らかに変化するのです(汗)。そう、まずはボス格に飲み勝負を挑んで酔い潰しましょう。その後ダメ押しに介抱してあげれば力関係の変化はより確実なものになります(笑)。

議会討論が論理的?はっ!論理性(ロゴス)が聞いて呆れます。
(別にNDT方式だともっと論理的だという意味ではありません。正直変わらないと思います。)

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 このように、レトリック、論争、問答は日本にもあったのですが、それは感情(パトス)、倫理(エトス)中心のレトリックでした。感情、倫理中心のレトリックがありすぎたために論理(ロゴス)中心のレトリックがうまく育たなかったといえましょう。
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 大学のESS(イングリッシュ・スピーキング・ソサエティー)のディベートも大同小異です。これは英語のレトリックのまねごとですから、議会答弁よりも論理的弁証において優れているように見えますが、よく聴いていると、天正時代の安土宗論を思い出させる場面が少なくないことに驚かされます。英語でもって「汝は甲を知っているか」、「知らない」、「それ見よ、負けじゃ」とか、「汝の議論は、誰でも知っているはずの乙について深い無知を示した。よって汝は負けじゃ」という調子の、論証ならざる力ずくの舌戦が展開されることが多いのです。
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 日本で論理的レトリックが育たないもうひとつの理由は、論証的レトリックの最大の推進機関であるべき議会討論(パーリアメンタリー・ディベート)がないがしろにされているということ、議会討論、会議での討議によって重要な決定を行なうという伝統が確立されていないということです。会議での審議は重要視されず、重要な決定は、「根まわし、かきまわし、あとまわし」で、会議の場ではなく、舞台裏の適当な談合の場でなされますから、会議場での論証的レトリックは発達しません。
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 論理的レトリックのルールを皆が体得していなければ、合理的な選択と決定の積み重ねとしての会議の運営はできません。会議は単なる意見の羅列に終ってしまいます。多くの日本人学者の論文が事実の羅列に終って論文の形をなさないのと対応する特徴です。参加者が論証レトリックの進め方を知らないので会議はうまく機能しない。機能しないから議会や会議は軽んぜられる。したがって論証レトリックは発達しない。こういう悪循環が起こっています。
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 日本文化というのはこういうものなのだからしかたがないといってしまえばそれまでですが、日本人が、もうそこにやってきている地球時代に孤立したくなければ、国際的競争と協力の有力なパートナーとなりたければ、どこかで論理的レトリックの〔下手―軽視―下手〕という悪循環を断ち切って論理的弁証レトリックをマスターせねばなりません。
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 「日本人学者が書く論文は何をいおうとしているのか解らないものが大部分である。なぜか」。こういう質問をサレー大学のP教授から受けたことについては本書の第一章で述べました。(中略)
 私の答は「日本人学者が英語の論文をうまく書けない理由は、しゃべること、オーラル・コミュニケーション(OC)、レトリックへの嫌悪、軽蔑にあります」というものでした。
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 まずOCに対する嫌悪、軽蔑の理由です。第一は心理的理由です。必ずしも自分の責任ではないのですが、外国語では話せないというのが日本の学者、皮肉なことにとくに外国語教師、外国語文学教師の大部分です。しかしそういう人々も内心では話したい、話せたら便利だと考えています。
 自分が所有したいが所有できぬもの、それを軽蔑するというのは解る心理です。政治制度や社会のインフラストラクチャーで西欧諸国に遅れをとっていた十九世紀のドイツやロシアのインテリは、文化と文明、クルトゥーアとチヴィリザチオーンとを区別して、自分たちには西欧諸国にはない高級な内的精神文化があると主張し、文明は外的なもの、低級なものとして軽蔑しました。それと同じように、外国語を話せぬ日本の外国語外国文学教師は、「自分はより上等な文化と教養の担い手である。ペラペラしゃべる人間は軽佻浮薄な低級人間だ」ときめつけます。
 第二の理由は、ほんとうの理由である第一の理由をカモフラージュするためにでっち上げられた文化的理由です。それは「日本は単一農耕民族社会なので、日本人は互に話をしなくても以心伝心で意思が通じてしまうし、それだから口下手でことばもあいまいになるのに対し、西洋は多民族で言語的アナーキーの社会だからどんなにつまらない問題でも論争なしには解決できないので自然に西洋人は能弁になる」というのです。
 この理由は、本来反論の価値もない荒唐無稽な理由ですが、あまりにもしばしばもち出されるものですから、ひとこと論駁しておかねばなりません。多民族社会はスイスのようにマルチリンガリズム(多言語併用)現象を生むかも知れませんが、能弁を生むとはかぎりません。キケロは異民族との意思疎通をはかるために能弁になったのではありません。西欧人といっても、北スウェーデン人はふつうの日本人よりはるかにだんまり屋だし、北ドイツ、デイットマルシュの住民ほど寡黙な人間は日本では見当たらないでしょう。ちなみに日本人、とくに庶民はむしろ饒舌だし、日本は語りもの、説教、落語など、考えてみればきわめて豊かなOCと口頭文化oral cultureの伝統をもっています。もちろん能弁と饒舌が直ちに論理的レトリックを生むとはかぎりませんが、少なくとも日本文化が沈黙の文化だといえないことは明らかです。稲作文化の中国には「寧鳴而死、不黙而生」(黙って生きるより、しゃべって死ぬがまし)という格言もあります。
 逆に西欧には弁舌、レトリックの伝統もありますが、それと並んで沈黙を徳とする伝統も厳存しています。旧約聖書はTempus tacendi, tempus loquendi「黙すべき時あり、語るべき時あり」(『伝道の書』三の七)と説き、西欧文化の一大源泉であり形成力である修道制も沈黙を尊んでいます(『ベネディクトの戒則』第六章)。Audite multa, loquere pauca (Bion)「多聴寡説」、Qui nescit tacere, nescit et loqui「黙れぬ者は語り得ず」とかWer viel redet lugt viel「饒舌家は嘘つき」などという言いまわしや格言もあります。また日本の腹芸に似たjudicium tacitum「沈黙のとりきめ」とかtacite loquitur「沈黙で語る」という風習もあるし、cor ad cor loquiturという一種の以心伝心の要素も西洋文化にあります。ことばのあいまいさambiguityといえば、外国語にはその例は無数にあるし、英語やドイツ語はあいまいだから、ラテン語かフランス語でないと哲学はできないという議論もあります。
 日本の学者がOCや口頭文化を軽蔑する第三の理由は、哲学的理由つまり文化とか学問は何よりも文字文化literary cultureとかかわるものだという信念です。文字や印刷術の崇拝に基くこの信念は、必ずしも事実に即しているとはいえない盲信ですが、西欧でも信奉者がなくはない、かなり普及した盲信なので、その反論はやや長くならざるを得ません。(中略)
 ルネサンス・ヒューマニストがギリシャやローマの文学テキストを再発見し、編纂し印刷するに熱心だったのは紛れもない事実ですが、もし彼ら、たとえばエラスムスが、ラテン語の語り、ラテン語による「しゃべり」を無視してラテン文字文化だけの復興に専心したと思ったら大間違いです。エラスムスは、ラテン語を生きたOCの手段、意志伝達の手段として活用しようとしました。
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【Book】SAWADA, Akio. Rhetoric in thesis. 1983. Tokyo: Kodansha.

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