Saturday, May 27, 2006

【Book】レトリック感覚 Sense of Rhetoric

【本】佐藤信夫.1986.『レトリック感覚: ことばは新しい視点をひらく』.講談社.

私の手元にある版は古いのか、この写真とは違う表紙です。

うーん・・・ちょっとこの「レトリック」論は誤解を招くような気がします。あんまり好きじゃないナ。この本の言う「レトリック」は、論理性を度外視しているので・・・。詭弁術に近いものだとしてしまっているような・・・。

ちなみにこの本では夏目漱石を「近代日本の数少ないレトリックの達人のひとり」と表現しているのですが・・・。漱石の講演を読む限りでは彼はあまり上手な弁者ではなかったように思います。話が抽象的になったまま具現化しないという悪癖があったように思えるからです。雲を掴むような話が多い。良いディベータは抽象論と具体的な事例の両方を上手く一つのスピーチに入れ込むものだと思います。やはり、この本の中ではレトリックはあくまでも人目を惹く比喩とか言葉のあやという意味で使われているのでしょう・・・。

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 レトリックということばは、すでに日本語であり、そのへんにざらにある小型の国語辞典にも、たいていのっている。もっとも、その見出しの下には説明がなくて、「修辞」の項目を見ること、という指示でそちらへ回想されるかもしれないが、ともかく、《ことばをたくみにもちい、効果的に表現すること、そしてその技術》というような意味で、私たちはこの用語を使っている。

 話を聞いたり文章を読んだりするとき、そこに組み込まれている、独特な、ちょっと変わったことばづかいによって、興味をそそられたり、一種の挑発を受けるような場合、そこにレトリックがあると言う。私たちは、ふだん、「レトリック」ということばを、そういうかなり漠然とした意味あいで使用している。それは良し悪しは別として、言語表現に特異な効力を発揮させる技巧とでも呼べば呼べそうなもののことである。
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いや、じつを言えばレトリックとは、はじめは文学的効果などを目的としたものではなく、ひたすら討論に勝つための技術であった。
 私たちは、論争で言い負かされるのがあまり好きではない。たくみな論法で、返すことばもないほど説得されながら、腹の底では納得できず、何だかまるめこまれたような気のすることがある。・・・・・・・私たちはときどきレトリック効果に腹を立てる。
 じっさい「レトリック」ということばを耳にするとき、私たちの念頭にはしばしば《あげ足取り、言いつくろい、巧妙な言いのがれ》というような、あまりかんばしくない連想がただよう。
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 ソクラテスを主役にした対談や座談会形式の書物をずいぶん書いたプラトンは、あちらこちらでレトリック批判をしているが、その一さつ『ゴルギアス』のなかでは、あらまし次のような意見を述べている(自分では本を書かなかった師匠のソクラテスに、発言させているのだ)、すなわち―レトリックは聴衆の《善》意識にうったえるのではなく、むしろ《快》感にうったえ彼らに媚びる迎合でしかない、そして真の裁判術に対するレトリックの関係は、体育術に対する化粧法、医術に対する料理法のようなものだ―というたとえを持ち出したのであった。
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 発生期には説得術というあくまでも実用的な機能を担当するつもりでいたレトリックは、やがて自分にそなわるもうひとつの可能性に目ざめることとなった。それが、おおまかに言えば、芸術的あるいは文学的表現の技術という、第二の役割である。
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【Book】Sato, Nobuo. 1986. Sense of Rhetoric. Tokyo: Kodansha.

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