Thursday, May 11, 2006

【Book】創造する構想力 Creative Imagination

【本】大峯顕編.2001.『京都哲学撰書第18巻 三木清「創造する構想力」』.燈影舎.

わかりやすい。
「なんだ、こんなに解かりやすく書けるんじゃん、哲学って」と思わせてくれる一冊。 三木清って凄いんだなぁ・・・。

ところで、「論理 Logik」という言葉は「ロゴス Logos」から来ているわけだから、「ロゴス的でない論理」(ここでいう「感情の論理」とか「構想力の論理」とか)というのは意味不明ではないだろうか。つまりパトスについて話しているなら何か別の語を当てて欲しいものだと思う。「論理(ロゴス)の法則」と「感情(パトス)の法則」とでもいう具合に、法則とでもしてくれていたらもっと解かりやすかったのではないかと思う。想像の論理とか心情の論理とか同類が沢山出てくるが、いたずらに話をややこしくしているように感じるのは私だけだろうか・・・

もちろんそれを差し引いてもヘーゲルよりずっと読みやすい。

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 「構想力の論理」Logik der Einbildungskraftという語はバウムガルテンに由来している。それは「想像の論理」Logik der Phantasieとも呼ばれた。カッシーラーに従えば、想像の論理という概念はバウムガルテンの弟子マイエル(Georg Fr. Meier)及びテーテンス(Tetens)によってドイツの心理学のうちに根をおろし、カントにおける「判断力の批判」Kritik der Urteilskraftもこれと関連を有している。すでにパスカルは理性の知らない「心情の論理」logique du coeurを見出した。現代においてもリボーの「感情の論理」logique des sentiments或いはハインリヒ・マイエルの「感情的思惟の心理学」Psychologie des emotionalen Denkensの説の如き、いずれも抽象的視の論理とは区別される論理について述べている。
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 さらに一層重要な問題は、普通に弁証法といわれるものと我々のいう構想力の論理の関係を明らかにすることである。弁証法こそ一般に形式論理と異なる論理であると認められている。
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ロゴス或いはヌースはアリストテレスにおいて物から質料を置き去りにして形相のみを受け容れる能力と考えられた。形式論理はいわば単純にロゴス的な論理である。しかるに我々が物そのものに、その物質性における物に突き当たるのは身体によってである。我々は物として物に突き当たる。いまその主体性における身体をパトスと名付けるならば、物の論理は単純にロゴス的な論理でなくて同時にパトス的なものに関わらねばならぬであろう。従来の論理学においては思惟の基礎もしくは前階に知覚が置かれ、我々がそれによって物そのものに触れる感覚はほとんど顧みられなかった。感覚が問題にされることがあったにしても、感覚も知覚や思惟と同様ただ知的な意味において捉えられ、感覚が同時にパトス的な意味を含むことは問題ではなかった。ひとが「身をもって考える」場合、身体を有する人間として行為的に思考する場合、形式論理は抽象的であると言われるであろう。そこに主知主義のギリシア的論理に対して感情の論理の如きものがなければならぬように思われる。(pp.7-8)
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 形式論理は知識の論理であるとしても、行為の論理ではあり得ないであろう。行為するというとき、我々は身体をもって物そのものに突き当たるのである。行為には身体が必要であり、また行為の対象は抽象的一般的なものではなく、個々の具体的なものである。しかしそれは構想力の論理の如きものであり得るであろうか。感情の論理といい、構想力の論理というとき、普通に考えられるのは美或いは芸術の領域である。
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 形式論理は主体の論理ではなくて対象の論理である。言い換えると、それは既にそこにあるものについての論理である。弁証法もヘーゲルにおいてはなお対象或いは客観的であったということができる。主体的立場或いは行為の立場における論理は、形式論理はもとよりヘーゲル的な弁証法をも超えたものでなければならぬ。行為するとは広い意味において物を作ることであり、新しいものが作られることであるとすれば、行為の論理は創造の論理として構想力の論理の如きものでなければならぬであろう。それは悟性の立場のみでなくヘーゲルのいう理性の立場とも異なり、構想力の立場に立たねばならぬ。
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 構想力の論理はかようにしてロゴスとパトスとの統一の上に立っているのである。
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 第二の法則はフレーザーと同じく類似の法則(loi de similarite)と呼ばれ、類似のものは類似のものによって喚び起こされるsimilia similibus curanturということは、その二つのよく知られた定式である。
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 類似の抽象的観念は反対の抽象的観念から分離されることができぬ。そこでまた共感 συμπαθεια は反感 αντιπαθεια と等価になる。
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 ヘーゲルのいう具体的普遍の中には構想力が含まれていなければならぬ。弁証法の根源と結果には構想力がなければならぬといい得るであろう。
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付記、本稿は長期にわたって断続的に書かれたためはなはだ不完全になった。特に最後の節〔弁証法の根源としての構想力〕で述べたことは詳細な論究を要するが、今カントの解釈を一応終わったので、取り敢えず筆を擱くことにする。カント解釈としてもなお不十分な点があるであろう。すべては機会を得て補修したいと思う。構想力の論理そのものは次に「言語」の問題を捉えて追求してゆくはずである。
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【Book】Omine, Akira ed. 2001. Kyoto Philosophical Sampler Vol.18 Miki Kiyoshi's "Creative Imagination". Kyoto: Toeisha.

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