Tuesday, May 23, 2006

【Book】あえて英語公用語論 Daring Support for English as an Official Language

【本】船橋洋一.2000.『あえて英語公用語論』.文藝春秋

解りやすい本。比較的現代的な感覚が安心させてくれる。

でも公用語にはまだちょっと抵抗感がある・・・かな。他に手があるかって言われればその通りなんだけど・・・けどけど、英語が公用語化された他の国では現地語がどんどん死滅していってるじゃないですか・・・。

いつか国語の授業もきっと漢文なんかから真っ先に切り捨てられて、漢詩が読めないどころか、中島敦の山月記なんか読んでも私らとは全然受け止め方違う子供たちばかりになるんだ。そんで次は古文が割愛されるようになって、文部省唱歌の意味も解らなくなって、ちょっと古風な言い回しや表現の肌触りがドンドンしなくなって・・・やっぱりちょっと淋しいです。言葉の肌触りって無形文化財みたいですね。でもこの将来は英語が公用語にされようとされまいと変わらないのかナ。セツナイですね・・・。

関係ないけど今日のBGMはFirst Loveだったりします。なんで今更って気もするけど何かそういう気分です。こういう音楽聴きながら作業してると頭カラッポになってる気持ち。ひたすら機械的な作業する時には向いてるなぁと思います。ビートとメロディさえあれば歌詞は二の次。まるで本能のようにビートに合わせてExcel作業とか。ただ、妙にメロメロしてくる音楽は、それで良いのか自分、って気も・・・。ま、いっか。音楽とか絵画とかダンスとか、あと恋愛とかは頭使わないでただ振り回された方が楽しい時もありますよね。むしろ振り回して欲しいというか。ヴォーカルの声が伸びた時に自分の心まで伸びてる気分がすれば単純に心地良いさ。良いさ良いさ。けど宇多田ヒカルってあんまりノビとかタメとかないですよね。もっと思いっきりノビたいナって部分が結構ある・・・。

文章とかでもこういうノビを感じさせてくれるものってあるじゃないですか。グーって心のどこかが伸びてるのを感じるの。大きな声で伸びやかに朗読したいような文章。自分の子供にその部分を朗読してやりたいって思うお母さん達って多いんだろうなって思います。童謡唄ってあげるのとか、童話読んであげるのとか、相手に意味がわからないかもって思っても詩の読み聞かせしちゃうとか、同じじゃないですかね。このノビを子供と共有したいっていうお母さん。絶対いると思う。「声に出して読みたい日本語」とかだから売れるんじゃないかと。私自身母が甘い声で諳んじてくれた詩歌ってその声と一緒に覚えてたりしますもんねぇ。小さい頃は意味も解らず覚えてしまったその詩を大きくなってしみじみ感じ入るようになってたり。母親の子供に対する支配欲かな(笑)「あたしのこの声、この響き大きくなっても覚えててね。ふとした時に思い出してね」って。だからこそできるだけ美しい作品を選ぶ。結構グッとくる気持ちな気がする。子供たちが英語をメインに生活するようになったらそういうのできなくなりそうですよね。何か可哀想・・・。消えゆく言語たちかぁ・・・。

・・・ほらね・・・。
音楽聴いてると文章まで頭使わないで書いた感じになっちゃうんですよ。
日常化したら良くないよね。

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 ここで、英語の問題が重要になってきます。それを遂行するには、国際語である英語のリテラシー(識字能力)とそれを使いこなすコミュニケーションの能力なしには、実際問題としてできないからです。
 そうした能力を飛躍的に向上させないことには、日本は、二一世紀もまた二〇世紀と同じ失敗を繰り返すのではないか、との不安を抱くのです。
 東洋の一角にあって、列強の圧迫の下、独立を維持し、近代化を成し遂げ、戦後、再び立ち上がった日本の二〇世紀の歴史をすべて「失敗」で片づけるつもりはありません。
 しかし、日本の失敗と過ちをも冷静に振り返っておくことが大切です。
 その中で、ひとつ、日本と日本人が、十分に意識せず、準備をしてこなかったための「失敗」があったという気がしてならないのです。
 それは、一言で言うと「対話」の失敗です。
 日本人の多くは、世界の国々、人々とともに共通する問題に取り組み、秩序の青写真を持ち寄り、相互理解と相互信頼を築き、平和と繁栄の仕組みを作り上げていきたい、と望んでいると思います。
 それは、恐らく戦前の多くの日本人も望んでいたことでしょう。
 にもかかわらず、そうした気持ちをどのように表すのか、どのような概念を練り上げるのか、それをどのように具体的な形に示すのか、それを隣国との間で、地域の中で、世界の中で、相手の利害や立場とも折り合わせながら、どのように成り立たせるのか、そもそもどういう相手とそれを進めるのか。
 そうした「対話」の精神と形を、日本は戦前、十分に作り出すことができないのではにか、そして戦後もまた、この点に関してはそれほど変わっていないのではないか、と思うのです。
 軍事力でも経済力でもなくソフト・パワー、それも言葉の力がますます重要になってくる世界の中で、日本には厳しい時代がやってきたとの自覚が必要です。
 日常生活の中で言葉の力を貫徹させるのをためらうこと、言葉による「対話」のための真摯な努力が不十分なこと、政治と外交において演説や表現が軽視されがちなことなど、すべて大きな課題となってくるでしょう。
 たとえば、過去の歴史問題を突きつけられた時、日本がなぜ、ああまでぎこちなかったかは、さまざまな背景があるでしょうが(もちろん、どの国の社会もこうした問題に直面した時はぎこちなくなるものです)、その一つ(あくまでも一つです)は、言葉の力への感度不足、認識不足と「対話」への参画不足に問題があるという気がしてなりません。
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英語に限らず、言語のパワーの要素に直面することを日本人はことさらに回避してきたきらいがある。(中略)言語がパワーであり、自からのメッセージを表現しようとすると、その磁場に力強く侵入していかなければならないこと、相手のメッセージを評価、分析し、それを打ち返さなければならないこと、そういう言葉のエンゲージメント(関与・交戦)は避けられないことを日本の言語教育(英語教育も含む)は、まるで考慮に入れていない。(中略)要は、コミュニケーションの訓練が足りない。(中略)それは論理と条理と情理と言葉の共有作業である。それには訓練が要る。
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【Book】Funabashi, Yoichi. 2000. Daring Support for English as an Official Language. Tokyo: Bungeishunju.

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