Monday, May 08, 2006

【Book】言語帝国主義とは何か Les imperialismes linguistiques / Linguistic Imperialism

【本】三浦信孝・糟屋啓介編.2000.『言語帝国主義とは何か』.藤原書店.

言語帝国主義というと「英語が悪い」という短絡的な話になりがちですが、この本はもっと多角的に分析しようとしています。例えば、一つの標準化された国家言語が地方言語を淘汰していくことや、英語以外の言語(フランス語や戦前戦中の日本語など)の帝国主義的側面についても扱っています。

以下、引用。
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 故小渕首相の私的諮問機関「二十一世紀日本の構想」懇談会が最終報告書を出し、英語の第二公用語化を提案したのは二〇〇〇年一月である。(中略)
 アジアの共通語はすでに英語であり、アジアの首脳で英語で議論できないのは日本だけだとして、日本外交の語学上のハンディキャップを指摘したのは、国際金融で辣腕をふるった「ミスター円」こと榊原英資である。朝日新聞のアメリカ総務局を務めた国際派記者・船橋洋一は、グローバル化する世界で日本が生きていくには、英語を外国語として学ぶのではもはや追いつかず、英語を公用語にすべきだという主張を朝日系の媒体で展開していた。
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「シビリアン・パワー」日本(船橋)の発言力を増すためには「武器としてのことば」(鈴木)の習得に国防費を計上すべきだ。英語が世界後である以上、語学力で割を食わないよう子供のときから英語で教育し、やがては英語を第二公用語にしようというのである。
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 しかし新しいバイリンガル日本の構想は、内では日本語オンリー、外とは英語オンリーという二重のモノリンガリズム思考の帰結という印象が拭えない。船橋は「英語公用語化論の思想」(月刊『言語』二〇〇〇年八月号)で、「積極的、組織的な移民政策の推進」によって「日本を多民族社会に育てていく」必要を説き、英語の第二公用語化は「多言語主義に基づく言語政策」の第一歩だとしているが、移民や定住外国人は英語話者だけではないことに気がついていないか無視している。モノリンガリズム(単一言語支配)を二つ合わせてもマルチリンガリズム(多言語主義)にはならないのである。
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「言語帝国主義」ということばが日本語の中に現れたのは、一九七〇年代であったかと思われる。それをはっきりと自覚的に記憶の中に残していないのは、このことばを進んで認め、受け入れることに同意しかねる気持が私の中に働いていたからである。というのも、このことばには、特定有力言語の独占的普及を快く思わなかった結果、おのずと口をついて出た「ののしりことば」の色あいを感じたからである。
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そのときまだ、辞典の編集者が、「言語帝国主義」を項目に持ち出さないことは幸運だと思った。言語の問題に対して感情的にならず、できるだけアカデミックな節度をもってのぞむことは、こうした一連の問題を扱う学問領域の建設のために不可欠だと思ったからである。そうでなくとも、今では「社会言語学」の名のもとに保護され得るこのような研究領域は、政党言語学からのさげすみをまじえた批判の目にさらされていたからである。
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 このコンテキストでぜひ述べておかねばならないのは、しばしば少数言語が生きのびるための作戦を論じる際に提出される、言語の使用領域による使い分けという問題である。それはバイリンガリズムの実際として述べられる。すなわち公的な場面では帝国語を、民族語は家庭内の言語として、領域を分けあって用いるという、いわば分野を分けた平和共存のバランスという図式である。しかし、これほど欺瞞的な提案はない。家庭の中にだけ局限された言語にどんな未来があるだろうか。それは現実には、その言語の活動分野を限定することによって事実上の死を迫るものであるにもかかわらず、国際会議などで、言語学の専門家からしばしば聞かされる提案である。
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【Book】MIURA, Nobutaka and KASUYA, Keisuke ed. 2000. Les imperialismes linguistiques / Linguistic Imperialism. Tokyo: Fujiwarashoten.

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