Thursday, April 27, 2006

【Article】21世紀のアカデミック・ディベート Academic Debate Toward Next Millennium

【雑誌記事】並木周.1997.「21世紀に向けアカデミック・ディベートはどうあるべきか」.『ディベート・フォーラム』.全日本英語討論協会出版会.p20

リベラル・アーツがリベラルな理由は、「奴隷ではない」という意味の自由人を由来とするのが一般的なようです。なので、「精神的な自由」よりも「物理的な理由」が先にたった感じがします。(同じことかも知れませんが。物理的に不自由だけども精神的には自由な状態って想像しにくいので)

それでも。

この言葉が胸に響くのは・・・・・・何故でしょうね・・・・・・。
それは多分、美術について学んだ者は、セザンヌの見方が「知識に縛られる」のではなく「より感動する自由を持つ」という話にどこか惹かれるからじゃないでしょうか。ヘーゲルが人間が弁証法を通じて最終ゴールである完全な自由に近づいていく、と考えたのを思い出す。それが本当か分からないなら、信じてみたい夢だと思う。「優しくなるために、自由になるために学ぶんだ」と。無知と戦うことは、天国への道程だと。

以下、引用。
-------------------------------------------------------
 ディベートの目的は、今でも「アーギュメンテーションの教育」と認識されているであろう。アーギュメンテーションとは,「議論をする過程」という意味である。従って,論理と修辞(レトリック)の両面を持っている。論理とは,自然のあり方を記述する方法論ないし構造そのものである。たとえば,自然法則は全て論理に従うし,論理は自然法則と同じくらい客観的である。つまり,論理は自然の有り様である。人の考えも,論理で記述しない限り他人に伝えることは不可能である。なぜなら,他人は自己から見れば自然現象だからだ。一方、論理で記述されたことを乗せる「もの」が言葉・すなわちレトリックである。多彩な表現や抑揚を加えることでより効率的に他人へ考えを伝えることが出来る。これもレトリックの重要な要素だ。
 このように,アーギュメンテーションには他人を理解するという過程が含まれる。他人を理解することができなければ議論になり得ないからである。また,他人を説得するには,自分の考えを正確に理解される必要がある。他人の考えをある方法論に従って理解する過程を学ぶ学問を総じて教養学という。日本語ではピンと来ないかも知れないが,アメリカではこれをLiberal Artsという。何故「自由」かというと,ある物事を理解する方法論を身につけた人は,そうでない人より精神的に自由であると言えるからだ。この自由を,「想像力」ともいう。例えば,セザンヌの絵画を見てみよう。色彩の使い方が如何に画期的であるか,その構図の取り方が如何に絵画そのものの概念を覆したかということは,絵画の歴史・手法を知っていれば,純粋に感動できる。知らなければ,セザンヌの絵を楽しむ「自由」がその分少ない。絵画という方法論を通じて,時空を越え,セザンヌの考え・思想を垣間みることができる。ディベートにも,アーギュメンテーションという方法論を通じて他人の考え・思想をよりよく理解する「自由」がある。アーギュメンテーションは人間の社会活動の中で最も重要な役割を担っているので,アカデミック・ディベートは極めて重要な教養学である。考えを論理的にまとめ言語にて伝える過程は,全ての人類の活動に共通した「要素」であるから,むしろそれは「教養学の教養学」と言う方が適切である。


【Article】NAMIKI, Shu. 1997. Academic Debate toward Next Millennium. Debate Forum. Volume XII Number 4. Tokyo: NAFA Press p20

1 comment:

Anonymous said...

97年に並木さんがまだ投稿をしていたことが驚きではある。