Thursday, April 27, 2006

【Book】議論のレッスン Lesson for Argumentation

【本】福澤一吉.2002.『議論のレッスン』.日本放送出版協会.

トゥールミン・モデルを基本とした議論テキスト。
新書なのに(失礼)まともな内容なので、初心者には良いかもしれない。

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日本社会において「議論技術を身につけるべきです」などと提案すると、「そうするに越したことはないよね。ことの決定は徹底的な議論の末にするべきだよ」などと、いったんはたてまえとしてその提案に同意し、受け入れるような姿勢を見せる人でも、本音では「甘いね。君は。いつまでそんな青臭いことを言ってんの。現実の世のなか、よーく見てごらんなさいよ。すべてその場の空気とか、雰囲気とか、感情とか、場合によっては恫喝とかで決まるんじゃないの」と思っているのではないでしょうか。実際問題として日本の社会では、場所を問わずわけの分からない議論(それを議論と呼ぶならば)の論理でことが決定されている場合が多いようです。この本はそのような風潮を是認しつつも、時と場合によってはより分かりやすいフォーマルな議論(フォーマルな議論の定義は後でしますが)をするべきである、ということを提案するものです。
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それでは議論(口頭での議論、および読み書きの議論を含む)について学ぶとどんなよいことがあるのでしょうか。たくさんあると思いますが、そのうちの3点をあげてみます。
ひとつ目は、議論のあり方を考え、知ることにより、刺激的な知的興奮を得られることです。ちょっと大げさに言えば、議論について考える前と後では、世のなかのすべての出来事に対する味方が大きく変わるはずです。いままで漠然と読んでいた新聞記事、学術的論文、エッセイ、聞き流していた国会中継、テレビ討論、ニュース番組、友人との知的会話などが、より分析的に把握できるようになるのです。もし読者がジャーナリストなら、必ずや「一流の政治家」(仮にそんな人がいるとして)を相手に意義ある議論を展開できるようになること間違いなしです。
2つ目は、議論を通して”自分を知るチャンス”が得られることです。これについてはちょっと解説が必要でしょう。議論とは常に相手を必要とするものと考えがちですが、それは狭義の議論です。意思決定する場合、そのプロセスにおいてはまさに自分自身が議論の相手となる場合が多いのです。この本では「論拠」(根拠の一部)と呼ばれている議論の要素を重視します。詳細は本文をご覧いただきたいのですが、私はこの「論拠」が、議論の最も中心にありながら伏せられ、隠されている場合が多いと考えています。論拠を探り、ひもといていくことは、単に「議論とはなにか」を考える上で重要なだけでなく、自分自身すら気がついていなかった自分のものの見方、考え方を発見し、それに直面することにつながります。これはある種の自己発見です。
3つ目の効用としては、日常的議論からよりフォーマルな議論までの幅広いさまざまな議論のうちから、時と場合、内容と程度に合わせて適切な「議論レベル」を選択できるようになります。日常の議論(単なるやりとり)に堅苦しいルールを持ち出してもはじまりませんが、知的でよりフォーマルな議論のときに日常的議論をするのも問題です。議論の内容によっては、ルールを適度に提案することでより建設的な議論になると思います。

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【Book】FUKUZAWA, Kazuyoshi. 2002. Lesson for Argumentation. Tokyo: Nihonhososhuppankyokai.

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