Wednesday, April 19, 2006

【Book】歴史をかえた誤訳 Mistranslations that turned the history


【本】鳥飼玖美子.1998.『歴史をかえた誤訳』.新潮社.

以下、引用。
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「断る」とか「反論する」ということは、どの文化でもむずかしい。とくに外国語を使って上手に断る、相手の気持ちを損ねないように反論する、というのは高度な異文化コミュニケーション技術である。文化によっては、議論をすることが一種のゲームのようになっているのではないかと思えるほど、何かと相手のいうことに反駁してやり合う光景を見ることがあるが、それでも断り方や反論にはかならずその文化独自の社会的ルールがあり相手を傷つけないような表現が存在する。
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言語に頼る度合いの大きい文化からきた人が、「沈黙」という形態の非言語メッセージに接したとき、その真意を理解することはむずかしい。
文化人類学者エドワード・ホールは英語文化のように言語に頼り言葉を駆使する文化を「低コンテキスト文化」“low context”、日本のように言葉を使わず「あうんの呼吸」でコミュニケーションが成立する文化を「高コンテキスト文化」“high context”と呼んだ。同じアジア人同士といっても、強度の高コンテキスト文化の日本人が「以心伝心」とばかり思いを沈黙という形で表現した場合、理解し合うことは望めない。
 岡部朗一氏はアメリカの「語る文化」と対比させ、日本は語らないことを基盤にした「沈黙の美学」である、と定義した。「ことばの介在を排除した沈黙こそが自己達成と自己成就への究極の道」であるとする「独特なレトリック観」は、「政治のみならず日常生活のいろいろな面で語ることに無限の意義を見出すアメリカの文化とは好対照」をなすとする(『異文化を読む』南雲堂)。
 西郷隆盛があれほど人気があるのは、薩摩隼人の黙して語らぬ美学を持っているからだ、と司馬遼太郎はいう(『翔ぶが如く』)。たしかに日本人としては、西郷隆盛が米大統領さながらに自分の考えについて雄弁に語る姿は想像できない。
 最近でこそ、日本の腹芸や根回しなど外国人にわかりにくいコミュニケーションを改めようと自己表現の大切さを訴える動きが出てきているが(1997年9月3日社団法人「パフォーマンス教育協会」設立記念大会)、あらためて訴えなければならないほどに、黙する文化の本質は変わっていない。大人物ほど寡黙で、おしゃべりな輩は軽佻浮薄、とう感覚もどことなく残っている。現代でも、日本社会において沈黙というコミュニケーションは日本語の重要な部分を占めているといってよい。
しかし外国人を相手に沈黙という日本語を用いたときは、たとえどのように優秀な通訳者が付き添い、どれだけ異文化理解の橋をかけようとしても、手も足も出ない。
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【Book】TORIKAI, Kumiko. 1998. Mistranslations that turned the history. Tokyo: Shinchosha.

The following is citation from this book.
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Rejecting or rebutting is difficult in any culture. Especially it is a high level skill of cross-cultural communication to reject politely or rebutting without offending a counterpart in a foreign language. In some culture, it seems as if arguing is a kind of game to play and we see many scenes to rebutt each other there. Still, there are always social norms and expression to avoid offending others' feeling that are unique to the specific culture.

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