Tuesday, April 25, 2006

【Book】考える道具 Zeno and The Tourtoise

【本】ファーン,ニコラス.中山元訳.2003.『考える道具』.角川書店.

哲学史を平易な言葉と直近の例でザザーッとお浚いしている本。ただ著者自身のカラーがかなり出ている。全体としてはあまり読み易くない作品。原本を読んだ方がかえって分かりやすいかも。

アナロジー、アレゴリー、比喩については卑近で分かりやすい説明だが、プラトンとはあまり関係ないような気がする。
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優雅な類比に魅惑されると、あるものと他のものが、必ずしも真理とは限らない。だからこそ、裁判の世界はもちろんのこと、西洋の哲学の伝統ではアナロジーより、論理的な推論が重要であると強調してきたのである。そしてアナロジーには主に、説明の役割をゆだねてきた。(中略)アメリカの哲学者のヒラリー・パトナム(一九二六―)は、パソコンが、コンピュータ・プログラムを動作させるハードウェアであるのと同じように、脳は意識という「ソフトウェア」を動作させる「ハードウェア」と考えてはどうかと提案している。このアナロジーはそれだけではなにも証明していない。脳がほんとうにコンピュータのように動作しているかどうかは、まだ証明の必要があるからだ。それでもこのアナロジーで考えると、本来は理解しにくいプロセスがどのように動作するのか、少し理解しやすくなるだろう。類比は理解の助けになる。だが、それだけのことだ。
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アリストテレスは人間の特性の中で、人間だけに固有なものが、人間の機能だと定義した。(中略)人間だけに固有で、ほかの生物にはないもの、それは理性の能力である。切るという機能を知らずには、ナイフを理解できないし、シイの樹に成長するという目的を知らずには、ドングリを理解できない。同じように、人間だけに固有の機能と、それによって人間が実現できる目的を調べなければ、人間を理解することはできない。この目的、すなわち人間の他のすべての目的がこれを実現する手段にすぎないような最終的な目的を、アリストテレスはエウダイモニアと呼んだ。このギリシア語は、幸福と訳せるだろう。アリストテレスにとってはエウダイモニアとは、理性に従って行動することである
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 世界を知覚すること、それは世界を変えることだ。これがドイツの哲学者イマヌエル・カントの洞察の要だ。(中略)
 カントは、一八世紀の哲学の二つの流れの間に新しい道を拓くことを望んでいた。一方の合理論者たちは、理性は感覚の助けなしに、世界を理解できると主張していた。他方の経験論者たちは、すべての経験は経験のうちにしっかりと根差したものでなければならないと考えていた。(中略)ヒュームは、知覚できる世界の知識は、感覚以外の手段では獲得できないことを指摘した。(中略)
 カントはこのような考え方は「神秘的」なもので、新しい形而上学をもちこむことになると批判した。人間が感官を通じて対象を知覚するのは事実だが、人間の目や耳が、対象の真のありかたを伝えていると考えるのは間違いだと、カントは指摘する。人間が感官で知覚するすべてのもの、そして人間が理性で理解するすべてのものは、感官でうけとった際に、知覚が処理を加えているのである。この処理において、ぼくたちの経験には、人間が知覚する対象の生のデータではなく、対象には含まれていないある要素がつけ加えられる。(中略)
 知覚においては、人間の器官の機能が媒介する。だからぼくたちは、知覚される以前の物自体、物そのものを認識することはできない。人間にふさわしい形で作り直された印象を、うけとっているにすぎないのである。人間には、知覚したものを処理する能力があるので、知識というものが可能になる。しかしすべての機能には制約がつきものだ。(中略)すべての知識には、媒介作用のために、ある<色>がついているというだけだ。ほかのどんな知覚システムにも、同じような限界がある。(中略)
 カントは人間の知覚には生まれつき、バイアスがかかっていると指摘したが、これは人間の知覚に、とても厳しい基準をつきつけたことになる。
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 ぼくたちは、二つの対立する見方が衝突すると、片方が完全に正しく、もう片方はまったく誤っていると考えがちだ。ところが議論というものは、正しい要素も、正しくない要素もどちらも少しずつ含んでいるものだ。(中略)それまで認められていた信念、システム、生き方に異議が提起され、争いのうちから、両方の最善の要素を含む新しいものが誕生する。しかし<綜合>というこのプロセスによって生まれた新しい信念、システム、生き方にも、遅かれ早かれ、ふたたび異議が提起され、文化的な衝突の歴史において、新しい一里塚となる。人間の歴史はこのようなサイクルによって発展すると、ヘーゲルは考えた。ヘーゲルはこのプロセスを弁証法と名づけている。そしてこのプロセスの最終的な目的は、完全な自由を実現することにあると考えた。
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 弁証法は、人間の生活のすべての領域にみられる内的な矛盾や対立を手掛かりにして、考察を進める。ヘーゲルは、すべての進歩は対立する矛盾を通じて実現されると考える。そして人間は、矛盾を次々と解決しながら、完全な統一体である絶対精神の実現に向けて進歩するというのである。
 弁証法は定立(テーゼ)、反定立(アンチテーゼ)、綜合(ジンテーゼ)という三つの段階で進む。定立というのは、ある観念や態度や文明や、歴史のうちの運動などである。この定立はそれだけでは不完全なものであり、遅かれ早かれ、これに対立した反定立が登場する。定立と反定立のどちらにも部分的な真理が含まれているので、この対立の結果、もっと高次の段階に、両方の真理を含む綜合が形成される。
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【Book】Fearn, Nicholas. 2001. Zeno and the tourtoise: How to think like a philosopher.

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