Thursday, April 27, 2006

【Book】英語と運命 English and destiny

【本】中津燎子.2005.『英語と運命』.東京:三五館.

面白かったです。
肩のこらない内容なのでざくざくざくーっと手早く読みました。
方法論に関してはあまりに経験的すぎて同意しかねる部分もありますが、体験談としては学ぶところもありました。

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「歌・舞・音・曲」はいかん!人間に必要ない!というのが父の信念の第一であった。第二は、男は女より数段まさっているから全権力を握り、その全責任をとる。女はそれに従うのが人の道だ。第三は、人間は軽々しく言葉を発するな。だまってやることをやる。第四は、人間はだまっていても全神経を働かせ気を利かせて、人の意図を察しろ!第五は、とくに女は、言われなくとも男の意図を察し、男を支え、尽くすことが女の道であることを忘れるな!(p27)
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父は私たち子供が幼年期や自動機を経て、中等教育を受ける時期になると同時に、母との会話を用件以外認めなくなったのである。理由は一つ。「女はバカだから、話をするとバカが子供に伝染する」これを読んでる皆さん!笑っちゃいけないヨ。実際何十年経っても、「女はバカだから母親と話すとバカが伝染る」と言われた時の気持ちを忘れることはできない。(p35)
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私の癖は、常に突然しゃべりだすことだったから、「婉曲話法」のかたまりになるようにしつけられていた戦前の日本人たちの私への評価はますます悪化するばかりだった。(p88)

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アツカマシすぎる、と言われて私は大いに不満だった。ふつうに道を歩いている、見ず知らずのアメリカ人らしき人間をつかまえて、英語のテキスト本などを突きつけて「発音を教えてくれ」と言うのが、まさにアツカマシイ例だと思うが、私に向かって直接用件を述べる人間に、質問して確認するのは当然なことではないか。しかし、戦後間もない当時の日本には、戦時中はもちろん、昔からの人間関係の上下感覚が色濃く残っていた。女が、用件を述べている相手に向かって何かの確認をするのは、あまりいいこととはされなかった。相手が男性でしかも占領軍所属の軍人であった時は、トラブルを恐れてだれも何も言わなかったのである。(p.145)

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日本の文化風土そのものが「質問」や「疑問」を、「生意気」「不遜」「傲慢」というところに位置づけていたから、「質問」をする発想そのものがなかった。とくに戦争中は「疑問」を口にすることなど許されていなかった。男性がそんな扱いを受けている時に、女が何かを問いただすなんてことは万が一にもあってはならないことだった。(p.146)
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ボーゼンとしている私にカーターは、
「文章を作る以前に、タイトルを見て、まず必要な情報を集めることを忘れちゃいけない」
と説教し、ついでに、
「日本人を見ていると口を開いてからゆっくり考えはじめるようだねえ。それじゃ遅いよ」
と感想をのべた。

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かねてから気になっていたのだが、
「日本人全般に見られるこれほど強い『英語学習熱』にくらべて、英語力の程度が貧弱なのはなぜだろうか?」
という率直な好奇心であった。
世界の中でも「英語学習に関して、その熱心度・真剣度・努力度はハンパではないが、「英語下手」の度合いもまたハンパでないところが、非常に神秘的な感じがするのである。(中略)私の感じでは、従来の「英語学習時代」はもう二十世紀の遺物としてとっくに終了していて、これからの二十一世紀ははっきりした目的を持った一般大衆(特別エリートではない)の「英語利用」または、「英語活用」時代となっているように思うのである。二十一世紀の「英語」はこれまで以上に「世界共通語」となり、本家の英国をさしおいて、独自の文化スタイルで独自に拡大してゆくにちがいない。

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それ以来、私はあらゆる場で、あらゆる機会をとらえて「なぜ?」という質問をアメリカ人にぶっつけることに専念しはじめた。
そしてその質問を百パーセント以上助けたのは、ジェイムスが訓練してくれた発音の明快さであった。人間はだれだって、たずねたいこと、聞き正したいことが山ほどあるが、相手が答えてくれるとは限らないのはどこだって同じである。アメリカ人、否、西洋人は平均して「質問」に答えるような訓練を子供の頃に受けているらしく、答えてくれるほうだが、ただ一つ発音が悪いとふり向かない。わざわざ聞き直すことなんてせずに無視するのがふつうである。(p140)
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「日本人の英語はよくわからない」というアメリカ人が多かったが、その八十パーセントは日本人の声が小さくて聞こえないという単純な理由からだった。(中略)観察をつづけているうちに、「声を大きくする」ことは日本語の世界では「はしたない」、または「みっともない」と思われていて、ある種のタブーとなっているのではないかと気が付いた。つまり人間の心の奥にある「美意識のモンダイなのだ。こうなるともう、どうしようもない。美意識の違いほど、異文化摩擦のすさまじさを露にしているものはない。
相手に届かない声や、不透明な言葉による意思伝達はほとんど一顧だにされない英語の世界と、相手にある種の雰囲気が伝わればそれでいいのであって、言葉が耳に入ろうが入るまいがさほど大したことはないという日本語の世界とのちがいは、単なるコミュニケーション・スタイルの問題にとどまらない。
およそ「知的世界」のすべてにおいて、大小、深浅、さまざまの谷間が連なっていると言ってもおおげさではないのである。(p316)
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【Book】Nakatsu, Ryoko.2005. English and destiny.Tokyo: Sangokan.

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